シャマルが用意した綱吉のスーツは、普段シャマルが愛用しているブランドのものだった。女癖がわるくてもファッションセンスだけはとびぬけて良いシャマルが選んだ組み合わせは、とてもよく綱吉に似合っていたし、測ってもいないのに綱吉の身体にぴったりだった。

夕方になり、帰宅する獄寺と山本を見送るために、リボーンと綱吉はマンションの外まで見送りに出た。去っていく彼らの背中が見えなくなるまで綱吉はその場から動かなかった。

 黙ったままで部屋に戻った綱吉は、ソファに座って煙草をくわえ、テーブルの上にのっている資料を手にとって斜め読みしていたシャマルを見つけると、「オレ、家に帰ってもいいよね?」と言った。シャマルはちらりとリボーンの顔を伺うように見た。綱吉の好きにすればいいと思ったので、リボーンはシャマルの顔を見つめ返すだけで何もしなかった。どうせリボーンも一緒に沢田家に行くのだ。綱吉から片時もリボーンが離れずにいれば、どこにいても変わりはない。

 シャマルが「どーぞ、ご自由に」と言うと、綱吉は嬉しそうに笑ってリボーンを見た。幼いころから見てきた綱吉の嬉しそうな顔だ。綱吉の笑顔を見ると、リボーンは彼のことをこづいて、何か皮肉のひとつでも言ってしまいたい気持ちになる。それがどういった気持ちからくる行動なのか。リボーンは知っているが長いこと目をそらしていた。そうすべきだと思いこんで、ずっと見ないようにしていた。

 綱吉は部屋の電話を借りて自宅へ電話をかけた。奈々だけでなく、ランボやイーピン、フゥ太達が受話器で代わる代わる話しているのか、綱吉は楽しそうに会話をしていた。

 最後の検診だと言って、ベッドのある奥の部屋へシャマルと綱吉が姿を消した。それから三十分経った頃に二人は部屋から出てきた。
 綱吉は相変わらず、嬉しそうな顔をしている。リボーンのところへ近づいてきた彼はにっこりとして、「さあ、オレ達の家に帰ろうよ、リボーン」と言った。リボーンは頷き、座っていたソファから立ち上がった。

 綱吉の突然の提案だったので、リボーンは集めた書類やノートパソコンをシャマルの別宅に放置したまま、ほとんど手ぶらでマンションをあとにした。

 シャマルは玄関を出たリボーンに身体をよせて「ボンゴレが少しでもおかしい様子だったら必ずオレに連絡をいれろよ?」と念を押すように言い、開いたドアに背中でもたれて、リボーンと綱吉を片手を振って見送った。

 通路を歩く綱吉のたどたどしい足取りが不安で、リボーンは自ら彼に手をさしのべた。綱吉は照れたようにはにかんで、リボーンの手を握った。大きい手のひらだと思った。綱吉の大人の手のひらに比べ、リボーンの手はかなり小さい。五歳児なのだから当たり前なのだが、リボーンは己が苛立ちのようなものを感じていることに気がついて少し驚いた。

 マンションの前から大通りへ出て、タクシーを拾って乗り込み、運転手に並盛町までと綱吉が告げた。そのあとで小声で「お金、平気だった?」と遅すぎる問いかけを綱吉がしたのをリボーンは一笑する。リボーンが持ち歩いている財布には数種類のクレジットカードが入っていたし、現金もそこらの大人よりも所持している。

 並盛町に入り、綱吉が通う学校の付近を通り抱えると、突然に綱吉が「ここでいいです」と言ってタクシーを止めた。辺りを確認して、まだ沢田家まで歩いて二十分ほどはかかるだろうにとリボーンが思っていると、綱吉に肘で身体をつつかれた。とっさにリボーンは持ち上げた足で綱吉の足を蹴った。「痛い」とうらめしそうに言った綱吉の顔と、代金をもらおうと振り返っている運転手の顔を見て、リボーンはようやく、肘でつつかれたのが支払いをしてくれ、という意思表示だったらしいということに気がついた。

 幼いリボーンが財布から一万円札をだして支払いをしたので、運転手が物珍しげに二人をじろじろと見ていたが、関わり合いにならないほうがいいと判断したのか、特に何を言うでもなく、下車した二人にかるく頭を下げて後部座席のドアを閉めた。そして、ウィンカーを出して、通りの車の流れに合流する。すぐに何台もの車にまぎれてタクシーは見えなくなっていった。

 綱吉が微笑んで、リボーンに向かって片手を差し出す。最初に綱吉に手を貸したのはリボーンだった。今更、手をつないで導いてやらないとなると、綱吉から何と言われるか分からなかったので、リボーンは仕方なく差し出された綱吉の手を片手で握りしめた。


「なんで、こんなところで降りたんだ? 未来から来てボケてんのか? まだおまえの家じゃねーの分かってるか?」

「え。なんか、懐かしいから散歩してこーかと思って」

「それに、オレは強制的につき合わされるわけか?」

「うん」


 悪びれた様子もなく、こっくりと綱吉はうなずいた。もう一度、すねを蹴ってやろうとリボーンが片足をあげると、動きの気配で察したのか、綱吉はひょいと身軽に立ち位置を変えて颯爽と歩きだす。体格が違うので綱吉が一歩を歩くうちに、リボーンは二歩ちかく必要だった。無意識のうちに早足になってしまうことに不満を抱えながらも、リボーンは無表情のまま綱吉の隣を歩いた。綱吉は繋いでいるリボーンの手をぶらりぶらりと揺らしながら、嬉しそうな顔をしている。

 夕方の時間帯と商店街が近いせいか、通りを歩く人間達は買い物袋を下げた主婦や学校帰りの学生達が多かった。すれ違う人達の視線が一度、綱吉の姿へと吸い寄せられるように惹きつけられていく。そして、数秒間、物珍しそうに見つめ、ハッとしたように息を呑んで目を瞬かせる。

 リボーンは改めて綱吉のことを見つめた。

 色素の薄い長めの髪と大きな瞳は日本人離れしていたし、彼が長年、マフィアの世界でつちかってきた他人を魅了する能力は抑えられていようとも、彼の全身から見えない波紋となって周囲に影響を与えるようだった。

 向かい側から歩いてきた女子高生のグループが、互いの身体をつつき合いながら、綱吉のことを見てはしゃぐように声をたてる。彼女たちに気がついた綱吉は、とびきりの笑顔を浮かべて、わずかに首を傾げた。

 途端、女子高生達は身体をぶつけあうようにしながらひときわ甲高い歓声を上げて、綱吉達とすれ違った。リボーンが呆れるように「馬鹿やろう」と呟くと、綱吉は「可愛いねえ、いまどきの女子高生は」と笑いながら言った。リボーンを見下ろしてきた綱吉の顔を見つめる。綺麗とか美しいというよりは、老若男女誰からも好かれる愛らしい容貌をしている。大きな琥珀色の瞳にじぃっと見つめられると、惹きつけられてしまう強力な魔力があるようだった。


「リボーン?」


 ふと、綱吉の手がリボーンの手をつよく握りしめた。ぞわりとしたよく分からない感覚がリボーンの背中を下から上へ駆け上ってくる。かすかに身体を揺らしたリボーンを不思議そうに綱吉が見ている。

「へんなやつ……」

 綱吉は反応をしめさないリボーンから目をそらし、歩きながら視線を上向かせて空を見上げた。つられてリボーンも空を見上げる。茜色から紺碧へと変わりつつあるグラデーションの空は刻一刻と色を変えていく。あと一時間もしないうちに陽が落ちて辺りは暗くなり、人々は暖かな家庭へと帰っていくのだ。


「きれい」


 囁くように言って綱吉は双眸を優しげに細め、隣を歩くリボーンへ顔を向ける。


「夕焼けは、どこでも見てもきれいだよね」

「センチメンタル」

「そう。センチメンタル。感傷的になるよね、日暮れって。夜になるからかな。別に夜が、闇が怖いなんてもう感じなくなったなあ。もっと怖いものがたくさんあるって、分かったからかな」

 独り言を呟くように言って、綱吉は肩をすくめる。

「夜といえば真っ暗、黒、だけどさ。リボーンはなんで、黒い服ばっかりなの?」

「それは――」

「「黒い服は喪服になるから」」


 リボーンと全く同じ速度で同じ言葉を言った綱吉は、声を立てて笑い、繋いでいるリボーンの手をぶらぶらと揺らした。


「うん、うん。そう言うんだよ、おまえはさ」

「からかうんじゃねえ」

「すみません」

 苦笑いのままに謝罪をした綱吉は、まっすぐに前を向いた。やはり、横顔のシルエットは十八歳の綱吉に比べて、幾分か大人びているように見える。容姿があまり変わっていないように見えても、浮かべる表情や口にする言葉が劇的なほどに変化していた。

 十八歳の綱吉は、まだ完全に心を閉じることが出来ない。だがしかし、いま、リボーンの前にいる綱吉は完全に心を閉じている。読心術など付け入る隙間など存在しないほどの完璧さだ。冷たく遮断されたような気がしたのか、リボーンは自分が落ち込んでいることに気がついてひそやかに嘆息した。

「オレの目だけどさ」

 リボーンと手を繋いだまま、綱吉は穏やかに言葉を続ける。

「まだ、いつも通りにはっきりとは見えないけど、最初よりは随分と見えるようになったよ。――なつかしいな、並盛の町並み、連なる住宅の屋根の色、草のはえた空き地、無尽蔵に空を横切る電線……。ねえ、イーピンが好きなケーキ屋さんに寄っていこうよ。お土産にしたいな」

「おまえ、金持ってんのか?」

「え。持ってないよ。もちろん、リボーンが出してくれるでしょう?」

 にっこりと綱吉が笑う。
 リボーンは呆れた気持ちを隠さずに顔にのせ、思い切りため息をついた。

「いい顔だな」

「だって仕方ないじゃないか。オレ、カードしか持ってないし、そのカードこっちじゃあ使えないだろうしさ」

「ああ、分かった。オレが払ってやるから、ぐずぐず言うんじゃねー。――というか、いま、気が付いたんだが――、じゃあ、こうして手を繋がなくてもいいんじゃねーか?」

「あ。気が付いた?」

「……おまえなあ……」

「いいじゃない、いいじゃない。スキンシップ、スキンシップ」

「言葉を二回繰り返すな」


 綱吉の手を振りほどくことはとても簡単なことだったが、リボーンにはそれが出来なかった。何故だろう。と思ったこともすぐに考えるのをやめた。綱吉と手を繋いで歩くことなど今まで生きてきて初めてだったかもしれないから、すぐに放してしまってはもったいないと思ったんだろう。という妙に言い訳くさい考えで己を納得させた。

 ゆっくりと歩道を歩いていくうちに、左側の壁がブロック塀から高さのある緑の垣根に変わっていった。そちらへ視線を向けた綱吉は少し考えるように低く唸ったあと、片手で垣根を指し示した。

「ここ――、この公園を通り抜けてけば、商店街の方に行けるよね?」

「ああ」

「じゃあ。ここを通り抜けてこうよ」

「ああ、そうだな」


 十数メートルくらい歩いていくと、垣根が途切れて、ポールが互い違いに設置された公園の出入り口作られていた。綱吉はポールに足をとられないようにゆっくりと歩き、リボーンに手を引かれながら公園に入っていく。
 すでに公園に設置されている常夜灯が点灯していた。薄暗くなった公園の遊具で遊ぶ子供達はいない。公園には必ずある遊具のどれもが、微動だにせずに沈黙していた。
 人がいない公園が、まるで悪い夢のなかの箱庭のように不気味な印象がするのは、昼間と夜とで感じる印象が違いすぎるからだろう。太陽の降り注ぐ公園では子供達がはしゃぎまわり、母親達がやかましくうわさ話をし、年寄りがペットの散歩に来たりする。夕暮れと夜との、ほんの一時ほどの時間、ここの時間は停止するのかもしれない。

 ふいに綱吉がリボーンの手を放した。するりと、リボーンの手から綱吉の手が抜ける。


「ブランコ!」


 はしゃぐように言って、綱吉はブランコを目指して走っていく。彼が転ぶのではないかと思ってぎょっとしてリボーンだったが、綱吉はよろめくこともせずにまっすぐにブランコへ駆け寄って行った。
 いくら体格が細身であろうとも、綱吉は大人だ。子供用の遊具はやはり小さい。飛び乗ったブランコを立ったまま漕ぎだした彼は、楽しそうな声をあげて「リボーンもやろーよ」などと呑気な声をかけてくる。

「ガキか、おまえは」

 小声でうめきつつ、リボーンはブランコを立ち漕ぎしている綱吉へと近づいていく。膝を使って、彼はどんどん速度を速めていく。スピードが増すにつれてブランコの鎖がぎしぎしと音を立て始める。リボーンはブランコの遊具を囲うように設置されたポールのひとつに腰掛けて、子供のようにブランコのスピードに夢中になっている綱吉の姿を内心は冷や冷やとしながら眺めていた。


「あぶねーぞ」

「へへへ、だいじょーぶ、だいじょーぶ」


 呑気そうに言った綱吉がひときわ膝を曲げて体勢を低くしたかと思うと――、

「いっせーぇの!」

 という、妙なかけ声とともに一番振り上がった瞬間、綱吉はブランコの鎖を手放して空中へ飛んだ。ぶわっとリボーンの全身があわだったことなど知るよしもなく、綱吉は器用に空中で宙返りを一回転してから、地面をすこし滑っただけで着地に成功した。彼の着地と同時に、何か物音がしたが、リボーンはその物音よりも、突拍子もないことをした綱吉のことで精一杯だった。早鐘のように脈打つ心臓を落ち着かせるようにリボーンはゆっくりと長く息を吸い込んで吐く。


「なんていうんだっけ? このワザ」


 数メートル先で、あっけらかんと笑いながら言う綱吉の顔を見ているうちに、リボーンは苛々が増してきた。

「知るか。ぼけ」

 冷たく言い放つと、綱吉は唇をつきだして「ちえ」とすねるような仕草をする。とても三十路がちかい男性とは思えない仕草は、己の容姿がどんなものか知っているからこそ出来る所行のように見てとれた。

 リボーンは嘆息を一度してから、綱吉に向かって近づいていく。ふと、彼へ向かう道の途中に銀色の平たいケースが落ちているのが目に入る。それは、先ほどまではなかったものだった。

「何か、落としたんじゃねーのか?」

「え!」

 驚いたように綱吉がスーツの内ポケットに手を入れ、「ないっ!」と叫んで駆けだした。だがしかし、リボーンが銀色のケースを拾い上げるほうが、綱吉が駆けてくるよりも早かった。

 手のひらに乗るほどの大きさのケースで、厚みは二センチあるかないかくらいだった。中身もそれほど重いものが入っていないのか軽い。

 綱吉が「あーぁ」と間延びした声をあげて何故か落ち込んだように肩を落とすのを視界にいれつつも、リボーンはケースを開いた。ケースの内側は黒いベルベットのはめ込みの装飾が施されていて、指輪が二つはめこまれていた。特徴的な流線型の彫り物が施された指輪を一瞥するだけで、有名なイタリアブランドのものだとすぐに分かる。しかも、それなりに高価な代物だ。

「大丈夫? こわれてない?」

 リボーンの手元をのぞき込むようにして綱吉が言う。

「ケースは傷ついてもいいんだけどさ……」

「指輪?」

「うーん……、うん、指輪だよ」

 何故か歯切れが悪い感じで綱吉が頷く。

「ペアリングだな」

「……うん、ペアリング。初めて買ったんだけどね……」

 ケースを閉じて、リボーンはそれを綱吉へ差し出した。彼はケースの裏と表を確認するように見て、中を開けて確認してから、息を吐き出しながらスーツの内側のポケットへケースをしまい込んだ。

「ずいぶんと、ごつい感じのデザインだな。なんでもっとシンプルつーか、良いデザインのやつを選ばねーんだ? そんな指輪が趣味な女なんて、あんまりいねーと思うぞ」

「え、そんなに駄目? これ……?」

 ひどく落ち込んだように綱吉が言うので、リボーンはとっさにフォローの言葉を口にした。

「いや、別に駄目とは言いきれねーが……。まあ、オレは好きだぞ、そのブランドのデザインは良いからな」

「ほんと?」

「オレが気に入っても、おまえが渡したい相手が気に入るかどーかはわからねーぞ?」

「……いいんだ。オレが勝手に用意したやつだし、受け取ってくれるかどうか、まだ分かんないし――」

「ドン・ボンゴレともあろう男に『ノン!』という女がいるとは思わねーがな」

 わざとらしく、リボーンがにやりと笑って見せても、綱吉は表情を曇らせたままだった。 片手で胸元をおさえるようにして、彼はリボーンを見た。
 リボーンがよく知っている沢田綱吉よりも背が高く、髪の長い『彼』は、リボーンの姿を眺めながらも、何か違うものを眺めているかのようにゆっくりと双眸を細めた。


「ドン・ボンゴレだから、受け取ってもらえるかどうか分からないってこともあるんだよ。リボーン」


 リボーンが何かを言う前に、綱吉は「あーあ」と声をあげながら両腕を頭上へ持ち上げて背筋を伸ばした。ぶらりと両腕を垂らした彼は、ほとんど紺碧になりかけている空を見上げる。


「今日で何日目だっけ? オレがこっちにきて」

「三日目だ」

「三日か。じゃあ、今日は三月の八日? 時間が経つのが早いなあ……。これじゃああれだよね、オレがイタリアに高校を卒業した沢田綱吉として行かなきゃならなくなるかな?」

「それまでには何とかするしかないだろ」

 ふいに、綱吉が空からリボーンへ視線を移した。

「何とかならなかったら?」

 するりと人格のスイッチが切り替わったかのように綱吉の顔つきが変わっていた。大きな瞳も愛らしい顔立ちにも変わりはないというのに、彼の内側から発せられる輝きの色が劇的に変化したように思えた。先ほどまでが暖かみのある橙色だとすれば、いま目の前にいる綱吉の色合いは――間違いなく寒色系の色合いだった。

 リボーンは急に表情が少なくなった綱吉のことを睨み付けるように見つめた。

「くだらねーことを言うんじゃねーぞ」

「だって、結局、なにかあったのは未来な訳だからさ。未来で事が解決しないかぎり、オレ達ってなんにも出来ないんじゃないの? オレが、『オレ』の変わりにイタリアに行くのは、リボーンは嫌なの?」

「嫌? なんでそんなこと言うんだ?」

「顔が、そういう顔してる」

「悪いが、そんな顔はしてねーぞ」

「あ、そう……」

 曖昧に笑いながら綱吉はリボーンの脇を通り過ぎ、ブランコの方へ歩いていく。
 リボーンは立ち位置を変え、遠ざかっていく綱吉の背中を見つめることしかできない。

「オレはマフィアとしてこれまで生きてきたんだ。もしも、この入れ替わりが正されることなく時期が来てしまって、イタリアへ渡って、『また』ボンゴレとして生きることになっても、とくにオレの人生には支障はないよね、って話。十年近く前のことになると、もうほとんど覚えてないようなものだけどさ……。断片的な記憶があるよ。あのときは嫌だったな、とか、あのときは本当に驚いたな、とか、あのときはほんとうに――、ほんとうに、嬉しかったなあとか、ね。だから、もう一度同じ道を歩むってのも、いいもんじゃないかなーって思ったりするんだ。そりゃあ、良い事ばっかりじゃないし、……むしろ、ちょっとうんざりするような事とかたくさんあるけど――」

 遊具の周囲に巡らされたポールのひとつに腰を預けた綱吉は、立ちつくしているリボーンをまっすぐに見た。
 眺める人物によって、笑っているとも泣いているともとれるような境界線が曖昧な表情をうかべて、綱吉はリボーンを見つめた。


「おまえがずっと隣にいてくれたから……、オレは『あの場所』に立っていられたんだよ」


 立っていられた。
 過去形の言い方。
 リボーンは表には出さずに動揺する。
 綱吉の言い方では、まるで――。
 まるで未来のリボーンはすでに死んでしまっているかのような――。

 ポールに腰掛けたまま、綱吉はリボーンのことを眺めている。
 乾いていた唇を一度噛んでから、リボーンは言った。


「――未来のお前の隣に、オレはいるのか?」


「いるよ。ちゃんと生きて、いるよ」


 首肯しながら言った綱吉は意地悪そうにくすくすと笑った。ただのはったりに恐れを感じたことへの怒りでリボーンはうなじの辺りがかあっと熱くなった気がした。


「さっきのものの言い方じゃあ、未来のオレはおまえの側にいないみたいじゃねーか」

「ああ、そうかもね」

「わざとか」

「さあ、どうだろう」

「――嫌味な性格しやがって」

「良い手本が側にいましたからねえ」


 嘲るような綱吉の言い回しにさすがに苛立ちがこみあげてきて、リボーンは舌打ちして綱吉をきつく睨み付けた。


「さっきから、意味深な言葉ばっかり並べやがって。オレを怒らせたいのか?」


 怒気をおさえずにリボーンが低い声で言うと、綱吉の顔から笑みが消えた。


「……あー……、ごめん」


 両手で顔を覆った彼はうつむいてしまう。


「……怒らせたい訳じゃないんだ……、ちょっと、いろいろ……」


 柔らかそうな髪が細い肩からこぼれおちて、綱吉の頬へさらりとおちていく。彼が呼吸をするたびに丸められた背中と肩がゆっくりと上下する。泣き出したのかと思い、リボーンは綱吉に近づいていった。その気配に気がついたのか、ぴくりと綱吉の肩が揺れる。それでも彼は両手で顔を覆ったまま俯いていた。


「ツナ……?」


「たぶん、八つ当たりみたいなものだから……。ごめんね」


「……いや、もういい。そんなに怒っちゃいない」


「そう? ……なら、よかった」


 吐息のような声でそう言い終えると綱吉は何も言わなくなる。ポールに腰掛け、俯いたきりだ。背の低いリボーンが見上げても、綱吉の表情は両手に覆われていてうかがい知ることはできない。綱吉の横に立ったリボーンは彼の腕に片手で触れる。びくりと綱吉の体がおおげさなくらいに震えたので、リボーンも驚いてしまった。訝しみながらも、リボーンは背伸びをして、綱吉の顔へ顔を近づける。


「どうした? 気分でも悪いのか?」

「ごめん。ちょっと待って……」


 追いつめられたような声をたてて、綱吉は身を寄せたリボーンから遠ざかるようにポールから急に立ち上がった。よろめくように数歩後退した綱吉は、顔から片手を外して、近づこうとするリボーンに向かって手のひらをつきだした。

 彼に拒絶されることはこれまでも何度もあったことだが――。
 リボーンは何故か、無性に悲しくなって息がつまりそうになった。

 触れようとして持ち上げた手を下ろしたリボーンは、彼が立ち上がったせいで身長差の分だけ遠のいてしまった綱吉の顔を見上げた。

 彼はゆっくりと肩を上下させるように深呼吸をして、顔から手を放した。目を閉じた彼は、両手を身体の横へ下ろして、もう一度深呼吸をした。ふわりと重力を感じさせない軽さで、綱吉は瞼を持ち上げる。琥珀色の瞳がリボーンの姿をとらえ、優しげに細められる。


「具合が悪い訳じゃないんだ……。あんまり優しくしないでよ、リボーン」

「オレは優しくなんてしてないぞ」

「リボーンは、いつだって優しかったじゃないか」


 綱吉は微笑んで、一人で納得したかのように一度だけ頷く。


「おまえはいつだって……」


 小さな声で何かを言いかけて、綱吉は唇を引き結んだ。

 まるで、リボーンの姿に『誰か』を重ねるかのような、遠い目をして綱吉はリボーンを見つめる。
 数分前の綱吉の表情や言葉を思い返す。
 彼が垣間見せたのは、彼が今まで上手く隠そうとしていた『もの』なのではないかとリボーンは思った。笑って、他愛のない会話をして、誰の前でも普通でいた彼が初めて見せた『動揺』の兆しだったのではないかと。
 いま、彼はまた、うまく仮面をかぶり直そうとしている。
 リボーンは綱吉のことを見つめた。
 彼は笑っていたが、ほんとうに笑ってはいないような気がした。それがリボーンには分かる。分かるだけの年月を綱吉と過ごしてきたリボーンだからこそ、虚勢の笑顔だと見破ることができる。そんなリボーンの内心を感じ取ったのか、綱吉は顔を横へ向け、眉をひそめて短く息を吐いた。


「なにか、言いたいことがあるだろ」


 ちらりと横目でリボーンのことを見て、綱吉は片側の口角を持ち上げて片目を細める。


「リボーンはオレに何か言いたいことないの?」

「質問に質問で返すんじゃねーぞ」

「何を言うか言わないかは、オレ次第じゃないの?」

「――おまえは何を隠してんだ?」

「……おまえが知らないこと、ぜんぶ。ねえ、こんな会話意味がないよ。やめよう」


 疲れたように言って、綱吉は息を吐き出しながら肩をすくめた。


「オレはおまえが知らない未来から来たんだ。だから、おまえが知らないことをオレはたくさん知ってるのは当たり前だろ? オレはそれを言うつもりはないし、不用意なことは何も言いたくないんだからさ……。おまえも、何も、聞かないでよ」

 中途半端に泣き出しそうな表情を作って綱吉が呟く。どうしてだか、そんな彼の表情ですら計算されたような仕草のような気がして、リボーンの心の表面が乾いていくようだった。


「聞いて欲しいような態度だったからな」


 とっさに口から出た皮肉が、いかに稚拙なものか思い知ってももう遅い。
 綱吉が聞いて欲しいような態度をとったというよりは、張りつめていた糸が途切れそうになって、隠し通そうとしていた動揺が溢れてしまったといったほうが正しいだろう。せっかく、本当の綱吉の気持ちに触れることが出来た機会をリボーンは自らの言葉でぶちこわしてしまった。

 リボーンの言葉を聞いた綱吉は、かるく目を見開いて、表情を停止させた。――が、ショックからすぐに回復して傷ついた心を隠すように笑みを浮かべた。


「さ! ケーキ屋さんに寄って帰らなくっちゃ! 母さん達が待ってるよ!」

「ツナ」

「ケーキ屋、あっちだったよね? ほら、行こう」


 何かを言いかけるリボーンの言葉に言葉を重ね、綱吉は歩き出す。彼の目がまだ見えないと思ってリボーンはとっさに手を伸ばした。が、綱吉は一人でしっかりと歩いていく。
 彼の言うとおり、本当はほとんど視界が回復しているような足取りだった。ならば、マンションを出たときに危うい足取りをした綱吉はどういった思惑でそんな真似をしたのだろうか――。と、リボーンが動きを止めて数秒間思案していると、歩き出していた綱吉が立ち止まって肩越しにリボーンを振り返った。

「なにしてるんだよ? オレは無一文なんだから、おまえがいないと困るんだよ、リボーン」

 突っ立ったままのリボーンを肩越しに振り返り、綱吉はにっこりと笑った。
 そこには、先ほどの弱さのかけらなどどこにもなかった。
 きれいに隠された『もの』は、もうリボーンの前には現れないだろう。

 リボーンは短く舌打ちして、綱吉と手を繋ぐために持ち上げかけた手を下ろして、わだかまる様々な思いを握りつぶすようにかたく握り込んだ。


「オレはおまえの財布じゃねーぞ」


 低くぼやいてから、リボーンは遠く離れてしまった綱吉に追いつくために早足になった。