二十七歳の沢田綱吉が過去へ来て、三日が経過していた。

 二日目は、沢田奈々と沢田家に居候している子ども達がお昼頃にやってきた。奈々の手作りの夕飯を食べ終えて子ども達が帰ったのは九時過ぎで、リボーンはその際、彼女たちを送って沢田家へ帰っていった。
 一人きりになった綱吉を心配してなのか、それとも一人寝が寂しかったのか。
 二日目の夜は綱吉が過ごす部屋のほうへシャマルが来て、二人でワインを飲んだ。彼が用意したのは、ロマネ・コンティの赤だった。未来の彼もロマネ・コンティの赤が好きで――というよりも、彼はアルコールに関しては嗜好の幅が広かった――、彼に仕事を頼んだ際には綱吉から贈ることが多かった。
 シャマルも綱吉もあまり喋らなかった。
 グラスに注がれた赤ワインを飲みながら話したことと言えば、綱吉が知っているなかでシャマルに話しても無害なこと――将来のイタリアではどんなファッションが流行っているとか、美味しいレストランの情報など――他愛のない世間話ばかりだ。
 病状を心配するシャマルの問いを、のらりくらりと交わしながら綱吉は微笑んだ。
 どんなに女たらしで仕方のない男でも、彼は医者だった。そんな彼の医者としての視線を受けながら、綱吉は心配しないようにと何度も何度も繰り返した。シャマルは怪訝そうな顔をしてはいたものの、綱吉の外面の装いを剥ぎ取るまでの話術はなかった。

 午前三時くらいにグラスを片づけてシャマルと別れた。
 起きたのは次の日のお昼近くで、寝ぼけたままでリビングへ行くと――、

「おはようございます十代目ェ!」
「……ぐうたらしてるんじゃねぇ」

 少し長めの髪を頭の後ろでまとめて眼鏡をかけた獄寺と、ボルサリーノを被ったままソファでふんぞり返っているリボーンに声をかけられる。

 綱吉が寝癖のついた頭のままでソファセットに近づいていくと、ネットに接続されたパソコンが二台置かれたテーブルのうえには書類が所狭しと重ねられていた。携帯電話も三台ほどのっている。

 彼等は綱吉をどうにか未来に戻す術はないかと様々な情報を収集し、対策を練っているのだというのを、前日に奈々が作り置きしてくれたおかずをを口にしながら綱吉は聞いた。
 何か手伝おうかと綱吉が口にすると、彼等は口々に「大人しく部屋のなかにいろ」というばかりで何も手伝わせてはくれなかった。

 仕方がないので、綱吉は獄寺からノートパソコンを一台借り受けて、寝室へ戻った。すでに昨日のうちにボヴィーノのボスへの質問状はメールで送ってある。
 さて。
 何をしようか。
 パソコンを起動させてその前に座り、綱吉はすこしだけ考えてから、キーボードの上に両手をのせた。
 ベッドのうえに上半身を起こした綱吉は、引き寄せたサイドテーブルのうえにノートパソコンをのせてキーボードのうえで両手の指を素早く動かしていた。画面とキスするくらいに近づければ規則正しく並べられたイタリア語の文脈が読みとることが出来たが、ブラインドタッチが充分に染みついた己の指先を信じて、綱吉はよどみなくキーをタッチし続け、頭のなかの文章を言葉にしていく。

 綱吉がいま作っている書類は、過去の『綱吉』がイタリアへ渡り、多くの人間達へお披露目されるパーティで彼が話すべき演説の原稿だった。

 綱吉のときは、頑張って一人で考えてみたのだが、そのほとんどをリボーンによって手直しされたものを覚えてスピーチをした。あがってしまって、お世辞にもしっかりとスピーチ出来なかったことを綱吉は今でも苦い気持ちで思い出す。

 綱吉が過去の『綱吉』に残せるのは、パーティ会場で気をつけるべきマナーと注意点、そしてリボーンによって手直しされたあとの『演説原稿』くらいしかない。

 文脈の最後のピリオドをうち、綱吉は背中に添えていた大きな枕に身体をうずめて目を閉じる。ひっそりと息を吐くと背中のあたりの打撲のあとが痛んだ。

「――終わっちゃった……」

 綱吉が経験してきた辛いことや悲しいことを教えることはたやすい。
 しかし、過去が変わり、未来が変わることは決してあってはいけないことだ。
 綱吉は己がいる未来に満足している。
 辛いことも嫌なこともたくさんある毎日だ。
 だが、それ以上に良いことも楽しいこともある。
 多くを望むばかりに、多くを失う人間を幾人も見てきた。
 だから、いまがいかに大切であるかを、綱吉は嫌というほどに知っている。


 ふいに、扉一枚を隔てたリビングが騒がしくなる気配がして、綱吉は目を開いて枕から背中を離す。すると、明朗なノックの音がして――、

「ツナー、入ってもいいかー?」

 という、山本武の声が聞こえてきた。

 綱吉はノートパソコンをシャットダウンさせながら、


「いいよー、入って」

 扉に向かって声を掛けた。

 開いた扉から顔を出した山本は、ベッドのうえであぐらをかいた綱吉のところへ大股で近づいてくる。よく見えない視界の先で、彼が笑っている顔が綱吉にはしっかりと想像できた。

「おーっす、ツナ」
「山本。よく来てくれたね」

 ベッドの足下辺りに立った山本の大柄な身体の背中から、小柄な人間が姿を現す。ふんわりとしたシルエットのワンピースドレスの裾をゆらしながら、音もなくベッドに近づいてきた少女は綱吉と顔を合わせると、深々と一礼をした。


「こんにちは。ボス」


 まだ短い髪のままのクローム・髑髏が顔をあげる。
 綱吉は微笑んで、クロームのことを手招いた。

「こんにちは。クローム」

 クロームは綱吉のベッドのすぐ近くに立った。綱吉はベッドの端へより、彼女に向かって手を差し伸べる。空中に持ち上げられた綱吉の手を、クロームは少しだけ戸惑ったように眺めたあとで、両手を差し出して綱吉の手をとった。彼女の手は小さく、そしてやわらかかった。

「驚かないの?」

 綱吉に手を引かれるまま、クロームが綱吉の方へ体を寄せる。綱吉の顔のすぐ近くにクロームの顔がある。両手で包み込めてしまいそうなほど小さな作りの顔、眼帯に隠されていない彼女の綺麗な瞳が瞬きをする。長いまつげがふわりふわりと上下に動いた。

「驚いてるわ。でも、山本武から事情はきいていたから」

「そう。――懐かしいな。クローム。まだ髪が短いんだね」

「未来の私は、髪を伸ばしているの?」

「うん。とても綺麗な黒髪だよ」

 クロームが照れくさそうにはにかみ、双眸を細める。綱吉は彼女の手に包まれていない手でクロームの髪を撫でた。彼女は大人しい猫のようにじっとしている。視線を動かして山本を見ると、彼はベッドの足下辺りに立っていた。表情はよく分からないが、きっと微笑んでいるに違いないだろう。

「クロームは? いまはどうしているんだっけ?」

「千種と犬と一緒に、ボンゴレの門外顧問のひとが用意してくれたホテルにいるわ。そこで、ちょっとした勉強会」

「勉強会? あれかな、ボンゴレの歴史とかそういう?」

「そう」

「……あれか。あれはなー。オレもリボーンにみっちり教え込まれたけどさ、とりあえず、イタリア語だけ出来れば、最初は大丈夫だからさ。歴史うんぬんより、まずは周囲とのコミュニケーションがね、大事だったかな。経験者は語るってやつ」

「分かったわ。犬たちにも伝えて――」


 クロームの表情がこわばったかと思うと、彼女は顔を伏せて身体をびくりと震わせた。綱吉が見ている前で白い霧が霧散して彼女の姿を一瞬包み込む。驚いた山本が近寄ってくる気配がしたが、綱吉は片手を持ち上げて彼の行動を阻止した。冷たい霧が頬を撫でてゆくのを感じながら綱吉は目を伏せ――、すこしだけ微笑みながら瞼を持ち上げる。

 霧が拡散してみるみるうちに消えていく。

 綱吉の手を握っていた両手は、もはや少女の手ではなく、どんなにすべらかな手であっても骨のういた男の手になっていた。予感が確信となり、綱吉はうすい霧のなかから姿を現し出した『彼』の名を呼ぶために息を吸った。

「む――」

 綱吉が言葉を紡ぐ前に、彼女――ではなく、『彼』は綱吉の手を強く振り払った。

 六道骸の顔に表情はない。

 綱吉の手をとっていた両手を己の身体のほうへ引き寄せ、しなやかな身のこなしでベッドサイドから立ち上がった。怪我をした獣のように全身から警戒心と憎しみを発した骸は綱吉を見た。綺麗な宝石のような双眸は冷酷なまでに感情を宿していない。

 綱吉はよく見えない目を細めながら、感慨深く六道骸を眺めた。

 そうだった。
 彼は、
 もう遠い昔になるが彼は、
 綱吉のことを見るときには決まって、
 今のような酷く歪んだものを瞳に浮かべていた。

 侮蔑。軽蔑。憎悪。皮肉。醜悪なものを見るような目つき。
 この世の中すべてを拒絶して、
 己をとりまく世界も現実も何もかもが塵芥にすぎないと理解した者の目。
 
 ふいに、骸が微笑を浮かべる。
 その微笑がまったくの偽物だとは思えないほど、きれいな微笑みだった。

「こんにちは。ボンゴレ」

「こんにちは。骸」

「驚きませんね?」

「驚いて欲しかった?」

 骸は舞台役者のようにおおげさな態度で、驚いた表情を作った。そんなおどけた態度をしていても、骸の目に浮かんでいるのは歪な感情だ。ゆらりゆらりと見えない憤怒の青白い炎が彼の身体にまとわりついているかのようだった。綱吉の全身に緊張が行き渡るまで五秒もかからない。
 六道骸の女性的な美しい顔には演技めいた微笑、
 冷たく硬い硝子玉のような赤と藍が綱吉を見た。

 十九歳。
 六道骸。
 
 綱吉の記憶に残る十九歳の彼と、目の前にいる彼がオーバーラップする。
 骸が発している殺気にすら、つよい懐かしさを感じて、綱吉は小さく声をたてて笑ってしまった。

 骸の顔から表情が消える。

「何を、笑っているんですか?」

「……あ、いや。なんでもないよ」

 綱吉が笑うのをやめて表情を消すと、骸はしばらく無感情な様子で綱吉のことを見ていたが、再び嘲るような笑い声をたてて、ベッドに座る綱吉を見下ろした。

「無様ですね。敵の手にかかって醜態をさらすなんて。よくもまあ、死ななかったですね」

「うん。そうだね。反省はしてる。……骸は、いま、まだ、あのなかにいるんだよな?」

「ええ。そうですよ。あなたが生きる時代でも、そうなんじゃないんですか?」

「あー……。それは、言えない。過去を変えたら、オレが戻るべき未来も、変わってしまうかもしれないだろ? もしかして、骸、オレのことを心配して出てきてくれたの?」

「くはは、相変わらず脳天気な人ですね。誰が誰の心配をするというのです、ドン・ボンゴレ! 未来のあなたのほうが、身体的にも精神的にも熟しているのならば、その身体を乗っ取ったほうが楽ですからね」

「あ、そう。でも、オレ、おまえに黙ってやられるつもりなんてないよ?」

 瞳だけはまったく笑っていないまま、骸は破壊の衝動に酔うように唇で笑む。

「ふん。まぁ、いいでしょう。この茶番はすぐに終わりそうもありませんしね。うっかりと気をぬかないことをおすすめしますよ。僕はいつだって、あなたのことを見ているんですからねえ」

「骸」

「なんですか?」

「ありがとう」

「……は?」

 息を吸い込むようにして、ぴたりと骸の動きが止まる。

 世界を憎んで恨んで蔑んで、徹底的に絶望しているくせに、六道骸は生きている。
 彼に自覚はないだろう。
 どんなに憎んで恨んで蔑んで絶望しても、骸は自害することなく生きている。
 生きているかぎり、人間は変わる事が出来る。
 それを綱吉に分からせてくれたのは、他でもない六道骸という存在だった。

 彼がいるから、綱吉は人は変われるのだと信じることができるようになった。

 綱吉は目を細め、骸の表情を読みとろうと頑張ってみたが、まだぼんやりとした視界では細やかな骸の表情までは読みとれそうになかった。もう少し、骸が近くへ寄ってくれれば見ることが出来そうだったが、今の彼に近づいてくれと言っても無駄だったろうし、綱吉が近づいていけば、彼はもっと遠ざかっていくだろう。

 骸は気を取り直したように、とりすました態度で息を吐く。

「何に対しての礼ですか?」

「おまえが生きているから。ありがとう」

「日本語がおかしいですよ。……というか、あなた、頭、大丈夫ですか? 悠長なことを言っているとその首を切り落としてさしあげますよ?」

「おい、骸――」

 事の成り行きを黙って見守っていた山本がたまらずに声を上げる。

「なれなれしく呼ぶな」

 叩きつけるように言い、骸は山本のほうへ顔を向けた。

「貴様はこの男の犬なんだろ? 大人しくそこで見ていろ」

 山本が骸へ近づいてこようとするのを綱吉は片手を持ち上げて制した。

「山本。平気だから、ね? ちょっと、部屋から出ていってもらえる?」

「だけど、ツナ」

「お願い。山本」

 山本は少しだけためらうように立ちつくしていたが、「なにかあったらすぐに呼んでくれよな?」と力無く言って部屋から出ていった。

 山本が退室するのを見届けてから、骸はドアのほうへ向けていた顔を綱吉のほうへ戻した。

「人払いなどして――、いったい何を考えてるんですか?」

「おまえがいったい、何を考えているのかなと思ってね」

 意地悪そうに笑い、骸は胸の前で両腕を組んだ。

「あなたがいかに愚かな人間なのかを思い知っていたところです」

「オレの身体を手に入れたら世界を壊すの?」

「ええ。こんな世界になんの意味が?」

「オレとおまえが生きている世界を壊すの?」

「はあ?」

「オレはおまえに生きていて欲しいよ。死んで欲しいとか、苦しんで欲しいなんて、思ってないんだ。――ねえ、骸」

 組んでいた腕をといて、骸は綱吉を見下ろしている。彼が不可解そうな顔をしているのが空気で伝わってくる。それでも綱吉は、出来るだけの気持ちを込めて、骸のことを見つめた。

「生きよう」

 吐息で笑って、骸は大げさな身振りをして呆れたように肩をすくめた。

「何を馬鹿なことを。あなたの目の前にいる僕は生きてないとでも?」

「――生きているって、そう思って、生きている?」

「生きていると思って生きているのか? 随分と、哲学的というか……、抽象的なものの言い方をしますね。こちらのあなたとは大違いだ。あなたの年齢は?」

「二十七歳」

「二十七歳! たかだか三十年くらい生きたぐらいで、僕に説教をするなんておこがましいですよ。ドン・ボンゴレ。それとも、何ですか? あなたと、マフィアのドンであるあなたと共に生きろと?」

「おまえがそうしてくれるのなら、オレは嬉しいよ。おまえが側にいてくれれば、退屈しないですみそうだもの」

 綱吉の語尾にかかるように骸が鋭く舌打ちをした。

「あなたの退屈を紛らわせるために僕は生きている訳じゃない。不愉快だ」

「ごめん」

 綱吉は慌てて頭を下げ、視線を持ち上げて骸を見た。

「そんなつもりはなかったんだ。――ただ、オレはおまえのことを、いつだって気にかけていることを知って欲しいだけなんだよ」

「傲慢な台詞ですね。反吐が出る」

「骸――」

「まだ、何か言い足りませんか? 偽善者さん」

 冷酷な言葉を吐いたことなど微塵も感じさせないような、優しい微笑を浮かべて骸は首をかしげる。妖しく笑う口元にさらりと毛先がこぼれおちる。

 六道骸が綱吉に対する態度を変えた経緯があるはずだったが、綱吉自身からはそれがどこだったのか思い出せなかった。いつの間にか、骸は綱吉に対して気持ちが悪いくらいに優しくなり、態度は溶けたバターのように軟化してしまった。目の前にいる骸の憎悪と皮肉と悪意に触れ、綱吉はまざまざと思いだした。六道骸は『こういう生き物』だったのだと、そして『いまの彼』がどんなに『人間』に近づいているのかを、はっきりと感じとった。

「おまえは人間なんだよ、骸」

 綱吉の言葉を聞いた骸は、くはっ、と息を吐き出すようにして笑い、片手で口元を覆って笑い続けた。彼が小さな声で「愚かなことを」と囁いたのが綱吉の耳にかろうじて届く。

 声を立てて愉快そうに笑いつつも、オッドアイには冷酷な彩りをのせ、骸は蔑みを込めた視線を綱吉に向ける。

「君の身体はいずれ僕のものになる。それまでせいぜい大切に扱うがいい」


 命じるように言い放った骸の身体の周囲に真っ白な霧がどこからともなくまとわりついてくる。霧は数秒で彼の身体をすべて包み込んだ次の間、映像を巻き戻すかのように霧がみるみるうちに消失していく。

 薄くなった霧の中から現れたのは華奢で今にも折れてしまいそうなほど小柄な身体をした、クローム・髑髏だった。彼女は眼帯に隠されていない片目の瞼をゆっくりと持ち上げる。綺麗な紫色の瞳がぴたりと綱吉を見た。


「……ボス、骸様に、なにか、された?」


 おそるおそるとクロームが綱吉へと手を差し伸べてくる。綱吉は片手を持ち上げてクロームの手をとって、優しく包み込んだ。


「だいじょうぶだよ。なんにも。クロームが心配するようなことはなかったよ。ありがとうね。心配してくれて。こうしてね、クロームが来てくれただけで、オレはとっても嬉しいよ」

「……ボスと会えて、私も嬉しい」

「会いに来てくれてありがとう。クロームに会えてよかった」

「未来のボスの側に、私はいることが分かったから……とても嬉しい」


 クロームの指先が綱吉の頬に触れる。
 彼女の指先は冷たかった。


「はやく、目がよくなるといいわね」

「うん。そうだね」


 自然な動作で、クロームは綱吉の頬へ唇を寄せた。綱吉も慣れた動作でクロームの頬へキスを落とす。彼女はすこし驚いたように片目を瞬かせたが、ほんのりと照れくさそうに微笑んで「それじゃあ。ボス。さようなら」と囁いて、綱吉から離れた。

 部屋を出ていくクロームを手を振って見送り、綱吉は閉まっていったドアを眺めた。
 隣室で会話がやりとりされている気配がしているのを、綱吉はぼんやりと聞いていた。何を話しているかは分からないが、クロームが部屋を出ていくのを見送っているような気配がした。

 しばらくして、扉がノックされる。返事をすると山本の声がした。綱吉が了承すると、部屋の扉を開けて山本が姿を見せる。彼の手には白いビニールの手提げ袋がぶらさげられていた。


「疲れてねーの?」

 ベッドの方へ大股で近づいてくる山本に視線をあわせながら、綱吉は首を振る。

「それほどは。本当は外出とかしてみたいんだけど、リボーンと獄寺くんがリビングにいるでしょう? 出してくれないんだよね。危ないとかけが人は大人しくしてろとか言われたさあ」

「退屈?」

「退屈」

 綱吉が眉尻をさげてわざとらしく唇をへの字にすると、山本は明るく笑ってベッド横のスツールを足でベッドサイドへ近づけて座った。ノートパソコンがのっているベッドに備え付けられているキャスター付きのテーブルを動かして、綱吉の方へ引き寄せ、そのうえへビニール袋をのせ、にぃっと笑う。

 綱吉はまじまじと白いビニール袋を見つめた。達筆な毛筆で描かれて印字されている文字がぼんやりと見える。三文字の漢字が『竹寿司』と読めた瞬間、綱吉はとっさに背筋を伸ばしてベッドの上で正座になって座り直してしまった。

「え。これ、もしかしてさ――」

「そう。うちの親父の寿司」

「わああ! ほんとに!? 山本のお父さんのお寿司、何年ぶりだろう!」

「喜んでくれてよかったよ。親父、ツナが卒業パーティのときに来られなかったの残念がっててさ、怪我してて休んでんだって言ったら、持ってってやれ!って言ってさ」

「食べていいの?」

「いいよ。ツナのための寿司だもん」

 スツールから腰を浮かせて、山本は白いビニール袋からテイクアウト用のプラスティック容器に入れられた寿司を取り出し、付属の割り箸を割ってから綱吉の方へ差し出してくれた。綱吉は割り箸を手に取り、山本が封を開けてくれ、醤油をたらしてくれた握り寿司を眺め、感嘆の息を吐く。その様子を見て、スツールに座り直した山本が吹き出して、小さく笑った気配がしたが、綱吉の視線は目の前の寿司に注がれていた。

「あぁ……、親父さんのお寿司……! いただきますっ」

 割り箸を親指にはさんで両手をあわせて一礼してから、綱吉はマグロを一貫割り箸ではさんで口に運ぶ。絶妙なわさび加減としゃりのやわらかさ、マグロの食感――、ひさしぶりの本格的な握り寿司の味わいが口の中にひろがっていく幸福感に、綱吉は思わず目が潤みそうになる。海外ではオーソドックスな海鮮寿司よりも変わり種の寿司のほうが人気で、不味いことはないのだが、本来の寿司とはやはりかけ離れた料理になっていることが多い。

「――美味い?」

 綱吉が美味しさに肩を震わせていると山本が心底面白がるように笑いながら首を傾げる。綱吉は何度も頷きながら、二貫目いくらの軍艦巻きを口の中にいれる。ぷちぷちとしたいくらの食感と、ぱりっとした海苔の風味、そえられた小葱の風味がじんわりと口の中にひろがる。

「あぁあ、美味しい。……あー、寿司だよ、これが寿司だよ、カリフォルニアロールとかじゃないんだよ、これがね、お寿司だよねえ」

「なんだよ、ツナ。ろくなもの食べてねーの?」

「いや。美味しいものは食べてはいると思うんだけどね、本当の和食って口にする機会少なくてね……。日本にも年に数回、都心部にしか行かないしね。それに、山本の親父さんのお寿司は特別だよ。オレの青春の味って言ったって、おかしくないもの」

「寿司が青春の味って、ツナってば、なんか年寄り臭いのなー」

「えぇ? そうかな。だって、お祝い事っていえば、山本んとこのお寿司だったし、山本ん家に遊びにいったら、親父さん、よくご馳走してやるから!って言って、遠慮してるオレとか獄寺くんにどんどんネタ握ってくれたじゃない? ……あれってさ、お店的に大丈夫なの?」

「さあ? オレには分かんないけど。でも、親父がしたくてしてるんだし、いいんじゃねぇのかな」

 ほがらかに笑って、山本は片目を細める。

「オレと獄寺くんだけでも、けっこうごちそうしてもらったものなあ。――あとで、お礼になにか贈っておこうかな」

「未来で?」

「うん。未来で。お酒とかでもいいかな?」

「親父。焼酎派だから、変わり種のやつとか贈ってやって。喜ぶと思うから」

「うん。分かった」

「とりあえず、食いなよ。ツナ」

「うん。ありがと」

 綱吉は一貫一貫、味わいながら寿司を口に運んだ。どれもこれも美味しかった。とても、とても、懐かしい味がして、綱吉は今にも泣いてしまいそうだった。

 あたたかくて、やさしくて、気持ちがこもった竹寿司の寿司は過去の象徴そのものだった。まだ本当の害悪も知らず、本当の絶望も、本当の希望も、本当の愛も、本当の嘘も、嘘の本当も知らず、――生きていた十八歳のころの、時間。
 もう戻らない。
 もう戻れないと思っていた時間へ、場所へ綱吉はいるのだと、今さらながらに綱吉は思い知った。

 最後のえんがわの一貫を口にいれ、綱吉は味わうようにゆっくりと噛んで飲み込む。
 美味しかった。
 とても、美味しかった。
 そしてとても、懐かしかった。

 ふいに、目が潤んで視界が水に滲む。
 しまった。と思う頃には遅い。
 ぱたり、と右目の縁から涙が落ちてしまった。
 慌てて片手で目元を押さえると、そこでようやく緩みかけた涙腺が引き締まった。

「ツナ」

 昔から発言が天然であろうとも、様々な気配に敏感な山本は、綱吉の涙を見逃してくれるわけはなかった。

 山本が何かを言う前に、綱吉は目元をおさえた手をはずして、にっこりと笑った。視界の先には、スツールから立ち上がった山本が立っていて、心配そうな顔をしているのがぼんやりながら見えた。

「ごめん。ちょっと、わさびがきつかったのかも」

 山本は開きかけた唇をとじて、微苦笑を浮かべて綱吉の頭へ手を乗せる。バッドを握り、刀の柄を握る、彼の武骨でありながらも勇猛な手のひらが、何度も綱吉の髪を撫でるように動いた。

「……よしよし」

「え。なにしてんの、山本」

 優しげに笑いながら、山本はかるくあごをひいた。

「わさびで泣いちまうようなお子様なツナを、お子様あつかいしてんの」

「ひどっ。なにそれ!」

 じゃれあうように二人で声をあげていると、途端に扉がノックもなく開いた。驚いた二人が互いに手を伸ばしあったままで扉へ視線を向けると、髪を結び、眼鏡をかけたままの獄寺がボールペンを右手握りしめたまま、扉口でわなわなと肩を震わせていた。

「じゅ、十代目!」

「あ、はい。え? どうかしたの、獄寺くん」

 半分泣いているような、半分苦痛を感じているような、曖昧な表情で獄寺は口を開く。

「山本の野郎とばっかお話にならないで、俺ともお話していただけないでしょうか?」

「え。でも獄寺くん、仕事してたんじゃ――?」

「十代目の楽しそうなお声を聞いていたら、もう俺は己の欲望をこらえきれませんでし――うわっ」

 獄寺が後ろから突き飛ばされるようにして室内側へつんのめった。危うくベッドへダイブしかけた獄寺は、身体をひねって倒れるのを回避して後ろを振り返る。片足を上げていたリボーンは――おそらく獄寺の腰をリボーンが蹴りつけたのだろう――、しなやかな動きで片足を地面へ降ろし、呆れるようにうつむいて息を吐いた。

「欲望とか言うな。下心でもあんのか、おまえ」

「シッ、シタゴコロなんて! あ、あ、ありまっ、せん! ありませんからね! 十代目!」

「わかった、わかったよ、獄寺くん」

 あまりにも真剣な様子の獄寺の物言いに、綱吉は苦笑いを浮かべて獄寺のことを手招いた。

「獄寺くんもこっち来て話そう」

「あ、ありがとうございますっ、十代目! 俺、すっげー嬉しいです!」

 飼い主に呼ばれた子犬のように獄寺はすぐに綱吉のベッドの傍らへ近づいてきたが、リボーンは扉の横に突っ立ったままだった。

「リボーンもおいでよ」

「オレは――」

「いいでしょう? ね? そっちの仕事も休憩ってことにしてさ」

 遠すぎて、綱吉のぼんやりとした視界ではリボーンの表情はうかがえない。どきりとした不安が綱吉の脳裏をすぎる。

 綱吉が愛を交わしたのは十四歳のリボーンとだ。五歳のリボーンは綱吉のことを教え子として見ているに違いない。が、未来のリボーンの発言から察するに、綱吉が高校を卒業する間際から、綱吉同様、リボーンも綱吉への感情の変化を感じていたようだった。
 綱吉がリボーンの感情を誘導する事は簡単だ。
 だが、それが必ずしも成功するとは限らない。
 もしかしたら、正反対に作用する確率すらあるのだ。そもそも、リボーンは己が離れれば綱吉の可能性や未来を守ることが出来ると考えて行動したことがある。いまのリボーンがそれに気がつけば、イタリアへ渡るきっかけがいい機会だといって、綱吉から離れていくかもしれない。
 そうして、十八歳の綱吉と五歳のリボーンとの運命がそこで別離すれば――、
 たとえ綱吉が未来へ戻ったとしても、そこにリボーンの姿がない可能性もあるのだ。

「小僧、そんなところに突っ立ってないで、こっち来いよ」

 山本の明るい声で綱吉は物思いから現実に戻ってくることができた。ぼんやりとしていた顔に微笑を浮かべ、綱吉はリボーンを手招いた。

「おいでって」

「――わかった。ブレイク・タイムにするぞ。コーヒーを入れてくる」

「あ。リボーンさん、俺も手伝います!」

「そんじゃあ、俺はちょっとトイレでも行って来るわ」

「はいはい。いってらっしゃい」

 ばたばたと騒がしく部屋を出ていったメンバーを笑顔で見送って、綱吉は静かになった室内に一人になる。それほど広くもない室内だったが、一人きりになるととても広く感じられた。
 開け放たれたままの扉の先から、人が動く物音と気配が感じられ、不安になるようなことはなかった。綱吉はゆっくりと深呼吸をしてから、ベッドのうえで膝を抱えるように座り直す。


 山本の優しさは過去も未来も変わらない。
 獄寺の綱吉に対する態度も、過去と未来とで変化はない。

 ただ、リボーンのこと眺めるたびに、綱吉のなかで強い波紋が生み出されていく。

 彼は五歳だ。
 しかし、五歳でもリボーンはリボーンだ。
 彼の言葉、彼の仕草、彼の瞳、彼の唇、彼の指先――。
 彼が綱吉の側にいるだけで、綱吉はいつもいつも緊張していた。
 五歳の彼は、十四歳の彼ではない。
 五歳の彼に求められるものは、師弟としての関係性だけだ。
 いつもいつも細心の注意を払って、綱吉はリボーンと対峙していた。
 聡い彼は、綱吉がすこしばかりの隙を見せ、情愛の片鱗でものぞかせてしまえば、未来のすべてを知ってしまうだろう。
 そして、彼は言うのだ。
『おまえを駄目にするくらいなら、オレはおまえの側を離れたい』と。
 そう言って、未練など感じていないかのように颯爽と姿を消す、小さな黒い背中が瞬きをする瞼のうらに幻のように浮かんで消えていく。

「……だめだ、だめだ……、悪い方にばっかり考えちゃあ、だめだ……」

 独り言を呟いて、綱吉は下唇を噛む。
 そうしたあとで、両腕で抱えた膝頭へあごをのせ、綱吉はほんの小さな声で誰にでもなく囁いた。




「……会いたいなぁ……」




 思いを馳せて閉じた瞼のうらに浮かぶのは、シニカルに笑う十四歳の恋人の姿。

 爆発の衝撃と火薬の匂いが綱吉の脳裏でよみがえりかけ、綱吉は目を開いて現実を取り戻した。


 彼は、無事でいるのか。
 それすら綱吉に知る術はない。
 膝を抱えていた腕をといて、組み合わせた両手を額に寄せ、綱吉は祈るように目を閉じる。




「――神様。お願いです。どうか彼をお守りください」




 短く息を吸って、声に出さずに綱吉は囁いた。


















帰りたい。帰りたいよ、いますぐにでも……。おまえに逢いたいよ……リボーン