いつまで経っても姿を現さない綱吉を心配した獄寺が、沢田家へ連絡を入れたのは夕方の五時半を過ぎたあたりだった。
 パーティの開始は五時からだったのだが、人が集まりきったのが五時半ごろで、人数もそろったことだし始めようかとなったときに、綱吉がいないことを獄寺が主張した。綱吉がいないのにパーティを始めることなど獄寺は許せそうになかった。
 そんな獄寺の電話を沢田家で受けたのがビアンキだった。姉が苦手な獄寺は、すぐさま山本に電話を押しつけようとしたのだが、ビアンキの口から綱吉の名前が出たので、手放しかけた受話器を耳に押し当てた。

 そこでようやく、獄寺は綱吉の身にふりかかった災難を知ったのだった。

 彼等は旧友達が集まっていた竹寿司を理由も説明せぬままに飛び出して――また後日、日を改めてお祝いパーティをしようという約束は叩きつけるようにしたのは山本だった――、シャマルが所有するいくつかのマンションのうちのひとつへタクシーに乗って向かった。
 普段は呑気な顔をしている山本が黙り込み、沈痛したように唇を引き結んでいるので、隣に座っていた獄寺も否応なしに緊張し、そして湧きあがる不安感で気分が悪くなってきそうだった。

 ビアンキによれば、未来の綱吉があちら側の十年バズーカによって過去へ飛ばされてしまったとのことだった。しかも、いくら時間が経過しても戻ることはなかった――、となると、今現在の綱吉はいったい何処へ行ってしまったのか。

 タクシーが緩やかに歩道へ車を寄せ、ウィンカーを出す。獄寺は五千円札を運転手におしつけ「つりはいらねえ」と叩きつけるように言って、先に車を降りた山本に続いて転げ落ちるように車を降りた。背後から運転手が「兄ちゃん、これはもらいすぎだ!」と叫ぶ声が聞こえたが、聞こえないふりをして獄寺はマンションの自動ドアをくぐりぬける。

 先に行っていた山本は、オートロックを解除する術を知らないので、数字キーが並んでいる電子ボードの前に立っていた。無表情な彼の顔をなど見慣れていない獄寺は、胃の辺りがせり上がってくるような――極度の緊張を感じながら、覚えている数字キーを押す。

 かるい電子音がして――、電子ボードにはめこまれているスピーカーが部屋と繋がる。

「『隼人か?』」

 幾分、疲れたようなシャマルの声がスピーカから漏れる。
 獄寺は電子ボードのスイッチを押しながら、ボードに埋め込まれているマイクに向かって叫んだ。

「早く開けろッ」

「『そんなに焦るな。もう治療は終わった。命に別状はねえよ』」

「いいから、早くあけやがれ!」

 まったく。どいつもこいつも急かしやがって。
 などと、ぶつぶつシャマルが言っているうちに、電子ボード横の自動ドアがスライドした。山本と獄寺はまるで競いあうようにドアをくぐり抜け、マンションの内部に作られた中庭に面した細い廊下を歩き――、その先にあるエレベーターホールへ向かう。一階で待機していたエレベータのボタンを押す。開いたエレベータに飛び乗って、十七階のボタンを押す。一瞬の間をあけて、エレベータが動き出す。上方への加速により、身体に重力の加圧がかかる。先の気分の悪さから、獄寺は小さく唸り声を上げてしまった。

「大丈夫か?」

 竹寿司を飛び出してから、ようやく山本が口をきいた。
 獄寺は心配そうに眉尻を下げた山本に対して、首を左右に振る。
 彼は何か言いたげに口を開きかけたが、息を吸い込んだだけで、――何も言わずに口を閉じた。

 エレベータが十七階に到達する。ドアが開いたエレベータを出て、獄寺は左右に伸びている廊下の左へ向かう。ワンフロアには二つの住居スペースしかない。左側のフロアすべてがシャマルの住居だった。右側は獄寺が知っている限り――それは中学時代から今までに限ってだが――、右側の住居に誰かが住んでいる時期はなかった。もしかしたら、右側のスペースもシャマルが所有している可能性もある。

 黒塗りのドアの横に備え付けられた、カメラ付きのインターフォンのボタンを手のひらで叩きつけるように押す。扉の内側でインターフォンの甲高い音が鳴るのが聞こえた。すぐに反応はない。苛立った獄寺が何度もボタンを連続して押していると、しばらくしてドアがはじけるように開いた。対応が遅いシャマルの態度を怒鳴りつけようとして息を吸い込んだ獄寺は、ドアを開けた先にいた黒ずくめの子供を見て、動きを止めるしかなかった。


「うるせえぞ」


 文句など言う気をいっさい起こさせないような、絶対的な威圧が込められた声音に、獄寺は思わず後ろへよろけそうになってしまう。背後に立っていた山本の身体に背中が触れそうになり、獄寺は己が無意識に後退しようとしていたことを知った。

 リボーンはドアを開けるだけ開けると、さっさと室内へ戻ってしまう。彼の登場にすっかり勢いをそがれてしまった獄寺と山本は玄関に入ってドアを閉める。靴を脱いだ獄寺は、何度か訪れたことのあったので、勝手にメタルラックに用意されているスリッパを二つ――獄寺と山本の分を――取り出して床に起き、つま先を差し入れた。

 廊下を歩いていくとだだっ広いリビングに出る。誰もいないリビングの照明は少し明度が落ちていて、薄暗いような有様だった。玄関に面したリビングの壁部分はすべて硝子張りになっていて、夜ともなると並盛の市街の風景が見渡せるのだが、ワインレッドの重たそうなカーテンによって窓は覆い隠されていた。
 リビングには他の部屋に繋がるドアが三つ点在し、右側の廊下を行くとバスルームとトイレ、左側の廊下を進んでいくと書斎と寝室があったはずだった。三つのドアのうち、彼が診療をするために使用しているのはリビングの右奥のドアの部屋だ。

 獄寺は豪華な応接セットが並べられ、まるで極上のホテルのスィートルームと見間違えそうなほどのインテリアが並べられたリビングを横切って、目的のドアへ向かった。山本は黙って獄寺のあとをついてくる。獄寺は片手で腹部の辺りを押さえた。ひどく気分が悪い。緊張のせいか胃が萎縮してしまっているようだった。


 短く息を吐いて、獄寺は腹部をおさえていた手で、ドアをノックした。

「おー。入れ入れ」

 間延びしたようなシャマルの声音が応答する。
 獄寺はもう一度、ゆっくりと呼吸をして、――ドアを開いた。

 薄暗かったリビングとはうってかわって、室内の照明は明るかった。部屋の真ん中には大きなベッドがどかりと鎮座し、その周囲には銀のカートのうえに様々な医療器具や治療道具が雑然と並べられていた。ベッドの近くにはおそらく手術などの際に使用するであろう、照明器具のようなものが折り畳まれた状態で存在していた。
 部屋の四方の壁のうち、ドア側と右側の壁のすべてが棚で埋め尽くされ、その棚の中も様々な薬や医療器具が並べられている。強い消毒薬の匂いに鼻孔刺激され、獄寺は思わずむせてしまいそうになった。

 獄寺の側からはベッドの足下あたりしか見えない。左手の、窓側のベッドサイドには椅子に座ったリボーンがいた。その向かい側、ベッドの右側にはシャマルがいつもの白衣姿で立っていた。その袖口が赤く汚れているのが目に入り、獄寺は胸が痛んだ。

 静かに息を吐き出したあと、獄寺はリボーンがいるベッドの左側へ向かう。右側――、シャマルの立っている側は、医療器具などが雑然と並んでいるのでそちら側に立つスペースは限られているように見えた。

 ゆっくりと、ベッドに近づいていった獄寺の目に映ったのは、今よりも大人びていてふんわりとした癖毛の髪も伸びてはいたものの、――沢田綱吉に間違いがなかった。分厚く巻かれた頭と額を覆う白い包帯が目に痛々しく、黒いパジャマの襟元からのぞく鎖骨のあたりにもガーゼの白い端が見える。やわらかそうな布団に隠れているので、彼の身体がどの程度無事かどうかは獄寺には分からなかった。ベッドに横たわっている彼が静かに呼吸をしているだけで、獄寺は涙が出そうになった。


「十代目……」


 呟いた言葉は空気にすぐに溶けてしまって声にならなかった。
 獄寺の横に並んだ山本は、安堵したように短く息をついただけで、微笑むことはしなかった。苦い表情のまま、彼は何かを考え込むかのように俯いてしまう。

 シャマルが咳払いをし、あごにまばらに生えているヒゲを指先でかきながら、うっそりと喋りだした。

「一応、こっちに運ぶ前に病院でレントゲンとか撮ってみたが、早急に対応しなきゃならねえような脳の損傷はなかった。いちばん酷かったのは額の傷で、あとはかすり傷だけだ。ひとまずは安静にしてれば問題はねえ」

「そっか。……よかった」

 山本の呟きに、シャマルが低く唸った。
 部屋の空気がそれぞれの緊張を伝達するかのように冷たく張りつめる。

 ふいに、リボーンが椅子から立ち上がった動作で静寂の均衡が崩れる。彼は小さな体躯に少しの無理をして、綱吉が寝ているベッドに座った。きしり、と軽い音をたててベッドが軋む。リボーンの表情は相変わらず無表情で、いつものようなシニカルな表情などかけらも浮かんでいない。綱吉の頭の傍らに座り、左手を彼の顔のすぐ近くにおく。それでも綱吉は微動だにせずに目を閉じている。

「ひとまず、は――だ」

「なんだよ。小僧。もったいぶってないで教えてくれよ」

「こいつは、目が見えてねえんだ」

「は?」

 口をひらいたまま、動かなくなった山本同様に、獄寺も絶句する。

 獄寺と山本の動揺を推し量るかのように、シャマルの双眸がそっと細められる。彼の普段の言動と行動からは想像もできないような、しっかりとした医者の目が獄寺達に向けられる。ふ、と短く息をついてシャマルは、ベッドに寝ている綱吉のことを眺めながら獄寺達を動揺させないようになのか、ゆっくりと話し始める。

「詳しい検査は、こいつが起きてからじゃねえと意味はねえ。『こっち』に来た時に少し話をしただけで、あとは気を失っちまったようだからな。俺も目が見ぇねえとだけ言われても、何が原因かは調べようがねえよ。網膜がやられてんのか、脳神経のほうがやられてんのか、一時的なのか、一生もんなのか――分かりようがねえ。とりあえず、目を覚ましたときに、ある程度精神的に安定してたら、もう一度詳しい精密検査をしてみねーとな」

「十代目の、目が、見えてない?」

 口に出して、言葉にした途端、獄寺は頭の中で激しく火花が散った気がした。

「クソッ! なんだって、十代目がこんな目におあいになっていらっしゃるんだ!! いったい、俺は、俺達は、何をしてたって言うんだ!? 十代目をお守りしてるはずじゃ――」

 突然、腹部に激痛が走る。気がついてみれば、ベッドから飛び降りたリボーンが獄寺の腹部に向かって右の拳を突き出しているところだった。痛みと衝撃で獄寺は息をつまらせ、むせるように咳き込みながら、部屋の床に膝をつく。

「うるせえ、と、言ったはずだが」

 冷酷に言い放つリボーンを、膝をついたままで獄寺は見上げた。その時、獄寺はよく分からないものをリボーンから感じた。彼が理不尽な行いをすることは昔からよくあったことだ。しかも、今は獄寺に非があったのは明らかだ。殴られたことへ憤りも感じていないし、文句などない。獄寺がひっかかったのは、リボーンの顔にうかんでいる表情だった。彼は怒っているというよりは、後悔や悔しさ苛立ちなどに怒りを上乗せしているかのような、ひどく不安定そうな顔をしていた。


「小僧。そんなに獄寺のこと責めねーでくれよ。獄寺だって、……俺だって、混乱してんだ。――獄寺、平気か?」

 山本の声に頷きだけを返して、獄寺は腹部をおさえながら立ち上がる。リボーンの表情をちらりと伺ってみると、すでに先ほど浮かんでいた悔恨の様子はなく、また人形のような無表情に戻っていた。

「――、う、……うぅ……」

 ベッドのうえで小さな声がもれる。過敏なほどに反応したリボーンが、ベッドに両手をついて眠る綱吉の顔を見下ろした。

「ツナ?」

 音もなく、綱吉の瞼が持ち上がる。琥珀色のきれいな瞳は動かず、視線は真上を向いたままだ。布団から片手を出した綱吉は、白いシーツのうえに手を這わせ、囁くように唇を動かす。


「リボーン、……リボーン? いるの、どこに、いるの?」

「ツナ」

 リボーンが綱吉の手を握ると、彼は心から安堵したかのように、ほうっと息を吐いて表情をゆるめた。

「リボーン?」

「なんだ?」

「あ、聞こえる……、耳は聞こえるようになったよ」

「そうか」

 獄寺からはリボーンの背中しか見ることが出来ない。リボーンがいったいどんな顔をして、聞いたこともないような優しい響きの相づちを打っているのか。獄寺には分からない。そっとリボーンの表情を見ることが出来るであろう、ベッドの向かい側にいるシャマルを見てみれば、彼は呆れたようでいて少しだけ苦笑したような顔をしていた。獄寺の視線に気がついたシャマルは、いつものようにだらしなく笑い、唇の片側だけを持ち上げて獄寺の視線をかわした。


「よーう。ボンゴレ。少しは落ち着いたか?」

 突然にかけられたシャマルの声音に、綱吉は驚いたように身体を震わせたが、すぐさま緊張をといた。

「えっと、その声は、――シャマル!? あ、そっか。シャマルがオレの怪我、看てくれたんだ? ありがとうね」

 シャマルの声がするほうへ顔を向けてはいるものの、綱吉の視線はどこかずれた位置を眺めている。

「あとでたっぷりボンゴレに請求するさ」

「ああ、うん。そうして――、って、こっちのオレが自由に出来るお金って、あったんだっけ?」

「だいぶ、落ち着いたな。リボーンから聞いた話だと、おまえ、けっこう錯乱してたって話だったがな」

「あー、……だって、経験した修羅場の数が違うもの。――入れ替わってしまったのなら、うん、オレに出来るのは、冷静に現実を受け止めることしかないでしょう? あ、ねえ、ちょっとオレ、起きたいけどいい? 目が見えないだけだから、いいよね?」

「あー、ゆっくり、気をつけて起きろよ」

 リボーンの手を離した綱吉は、両手で身体を支えながらベッドの上に上半身を起こした。一仕事終えたかのように息を吐いた綱吉は、片手で枕の位置を腰の辺りへ直してにっこりと笑う。

「よし。やっぱり、人と話すときは起きてなきゃね」

 獄寺は泣きたいような気持ちになった。何年後かは分からないが、未来の沢田綱吉が今、目の前にいるという事実に歓喜しているのか、もしくは現在の綱吉の不在を絶望しているのか、よく分からなかった。感極まってしまっていることだけは確かだったが、それが前向きな感情なのか後ろ向きな感情なのかは曖昧だった。

「ツナ。大丈夫なのか?」

「あ、――もしかして、山本? ってことは、獄寺くんもいたりする?」

 未来の綱吉の唇が獄寺の名を呼んだ。
 獄寺はベッドの足下に飛びつくようにして、目が見えない彼に分かるようにはっきりと声をあげた。

「はいっ、――はい、十代目、獄寺隼人、ここにいます」

「二人とも、来てくれたんだね。――心配かけちゃったね、ごめんね」

 山本の声に、さして綱吉が驚かなかったのは、目が見えないなりに、室内にいる人の気配を察したのだろうと、遅れて獄寺は気がついた。山本は獄寺から離れ、シャマルが立っているベッドの左側へと移動する。雑然と並んでいる医療器具の合間を横切って、ベッドの端に立った山本は、綱吉のことを心配そうに静かに見つめた。
 綱吉は、誰も立っていない真っ正面を向いたまま、微笑みながら唇を開く。


「二人とも、元気? ……あ、そうだ。いま、――今って、あれだよね? 卒業式だったけ? リボーンが三月って言ってたような気がするんだけど」

「ああ、そうだ。今日が卒業式だったんだ。式が終わったあと、俺の家でみんなでお祝いパーティするはずだったんだ」

「あー、そうそう。そうだったよね。楽しかったな……、って、あー……」

 微笑んでいた綱吉の表情が次第に苦いものへと変わってゆく。

「こっちの『綱吉』は、あっちに行ったから、パーティはなかったことになってるのか……、じゃあ――……」


 一人で考え込むかのように、うつむいてしまった綱吉の様子に、室内の誰もが声を掛けられなかった。かるく目を伏せた綱吉は、口のなかで何かを呟きながら、必死に思考しているようだった。たった一人の世界に沈み、思慮深く何かを決断しようとしてる綱吉の横顔が、獄寺が知っている綱吉の顔ではないような気がした。


「十代目?」

 獄寺の声に、綱吉は伏せていた目を開き、それ以上獄寺が言葉を重ねる前に口を開いた。

「あ、うん。大丈夫。あっちにはね、リボーンと骸と了平さんがいるから、ちゃんとこっちのオレのこと、守ってくれるはずだから」

 獄寺と山本を安心させるように綱吉は笑う。それは確かに、獄寺達が知っている綱吉の顔をしていたが、やはり少しずれているような、ぬぐえない違和感があった。

「えー、えっと。じゃあ、状況を整理してみよっか」

「なんか、おまえ、よく喋るねえ、ボンゴレ」

 呆れたようにシャマルが言うと、綱吉はシャマルの立っている位置をぴたりと見据えた。段々と目が見えないなりに人の気配と声が聞こえてくる位置で立っている位置が把握できるようになったのだろう。そうして綱吉は不敵ぽく双眸を細める。

「これでもオレ、ボンゴレでドンしてるんだよ? いつまでも動揺してられないでしょう? あんまりオレのこと、甘くみないでね? ドクター」

 クスッと笑って、綱吉が顔の片側だけで笑む。獄寺が見たこともないような、皮肉ぽい綱吉の笑い方に、彼が重ねてきた年月が感じられた。
 ベッドのうえに上半身を起こして、ベッドの白い掛け布団の中央辺りを眺めながら、綱吉は実に落ち着いた態度で話を続けた。


「ねえ、シャマル。オレの身体、目が見えないとこ以外は異常なしだった?」

「ああ。急なことだったからレントゲンしか撮ってねーんだが、目のこともあるしな――、おまえがそれだけ落ち着いてんなら、知り合いんとこの病院でCTで検査しようぜ。脳神経が原因だとしたら早期に発見しておきてーからな。頭痛はあるか?」

「うーん。強い痛みはないけど、鈍痛、ってかんじかな。でも、たぶんこれは、頭をつよくぶつけたせいで痛んでる気もするけどなあ」

「まあ、いい。とりあえず看てみねーとな。ちょっと、知り合いんとこに機械使わしてもらえるように連絡入れてくるわ」

 腕時計で時間をかくにんしながらシャマルが部屋を退室していった。おそらくはリビングにある電話で連絡をとりに行ったのだろう。
 彼が退室したことを物音で察知した綱吉は、ふいに獄寺とリボーンがいる窓側へと視線を向けてきた。成人男性にしてはぱっちりとした大きめな琥珀色の目は、やはりどこか焦点があっていないような感じだった。

「いまの年号と日付はいつなの?」

「20××年、三月五日」

 ベッドの左側にいた山本が答えると、綱吉は山本のほうへ顔を向ける。ふわりと少し長めの綱吉の髪が揺れて、黒いパジャマのうえに落ちる。

「そっちはいつなんだ?」

「20●△年の、十月二日だよ。十年じゃないね、九年と半、って感じかな?」

「九年ってことは、ツナ、二十七歳ってことか?」

「そう。もうすぐ三十路だよ? おっさんだよね、もうさ。山本達はまだ十八歳だよね? そっか、まだ二十歳にもなってないんだよね……。なんだか、すっごく、昔のことみたいで、なつかしいなぁ」

 ふふ、と吐息で笑って、綱吉は少しだけ首を右へかたむける。ふわりと癖毛がゆれた。

「時代の誤差は九年と半分か。ってことは、あっちで使用されたバズーカは、正規のものじゃあないね。こうして、過去というか現在というか、ともかく此処に存在としてることが異常なオレがいつまでたっても、未来に戻れないのも……、正規のバズーカじゃあないからだろう。まさか、ボヴィーノが裏切るはずはないし、ましてランボが、なんてことは天地がひっくり返ってもありえないしな。だとすると――」

 早口でぶつぶつと呟いていた綱吉は、ハッとなったあとで、照れくさそうに笑った。

「あ、ごめん。ふつうに独り言になってた。――ねえ、リボーン」

 突然に名前を呼ばれたリボーンは、ぼうっとしていたのか、肩を揺らして反応した。

「――なんだ?」

「ドン・ボヴィーノと連絡が取れる?」

「ああ」

「とりあえず、オレの事情を九代目に話して理解してもらって、それからドン・ボヴィーノと話しができるように取りはからってもらえないかな?」

「ボヴィーノのボスと、おまえが話すっていうのか?」

「え、おかしい?」

 怪訝そうに眉を寄せた綱吉が、ハッとしたように目を見開き、「しまった」と呟きながら片手で額をおおった。

「あ、そっか。オレ、まだこっちだと、ドン・ボヴィーノと親しくなってないのか、あ、そうか……、うーん、こりゃ、やりづらいな、いろいろ――」

 渋い顔をして綱吉が呻く。
 リボーンは表情を変えることなく、静かにその様子を眺めたあとで、口をひらいた。

「オレから九代目に事情を説明して、九代目からボヴィーノに連絡をとってもらうようにしてもらう。質問事項はおまえが考えたものを電子メールで送付すりゃいいだろ?」

「あ、うん。そうしてもらえると助かる。――ねえ、獄寺くん」

「はい!」

「君、たしかノートパソコン持ってたよね? 貸してもらえないかな? いまのオレって、たぶん、自宅にデスクトップが一台あるだけだったような気がするからさ……」

「もちろんお貸ししますが――、十代目、目が見えないのでしたら、オレがキーを打ちますよ?」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。パソコンのキーボードはね、たとえ見えなくても打てるから。それにオレ、考えながら文章を打ってくタイプだからさ、口頭で筆記してもらうと、筆記役の人がいっつも苛々しちゃうんだよ。だから、パソコンを貸してくれるだけでいいよ」

「分かりました。すぐに持ってきます」

「ありがとう。でも持ってくるのは明日以降でいいからね。どうせ、すぐに元の時代に帰れそうにないし、ゆっくり作業するからさ」


 綱吉が寂しげに言うので、獄寺は彼の両手を握って「絶対に元の時代に帰れますよ!」と元気づけたいと思ったのだが、彼の一番ちかくにいるリボーンがまるで血の通わないマネキンのように動かないでいるので、獄寺は今以上に綱吉に近づくことが出来そうになかった。

 リボーンはほとんど黙り込んだまま、綱吉を眺めているだけだった。いつもならば、てきぱきと周囲へいろいろな指示を出したり、言うなれば未来で怪我をするような「へま」をした綱吉のことを冷酷に罵ったりしてもおかしくないだろう。しかし、リボーンは終始大人しく静かに、綱吉のことを見つめるばかりだ。

 ふいに、獄寺の視線に気がついて視線を動かしたリボーンと目があう。

 感情を遮断したかのような、研ぎ澄まされた黒い瞳は無言のままに物語っていた。


 詮索するな。
 余計なことは口にするな。


 何も答えずに獄寺は静かにリボーンから目線を逸らす。


「ツナ」


 山本がベッドに片手をついて、綱吉に声を掛ける。綱吉は声がした方向へ顔を向けて首を傾げた。


「うん?」

「俺に出来ることって何かねーの?」

「山本に? そうだなあー、いろいろ話をしたいなぁ」

「はなし? それだけ?」

「うん。獄寺くんとか、リボーンともだけど。話がしたい。今を生きる、君たちの話をオレは聞いてみたい。ランボとか、イーピンとか、フゥ太とか……、京子ちゃんとかハルとか、みんなと話がしてみたい」

「なに、呑気なこと言ってやがる」


 冷淡なほどに硬質な声音でリボーンが言う。


「てめえは現状を把握してねーのか?」


 思わず獄寺でさえひるむように息を呑んだリボーンの態度を受けても、綱吉は動揺する素振りすら見せずに――見えないのだから、リボーンがどんな顔をしているのか分からなかったにせよ――、短く息を吐いて首を振った。


「怒らないでよ。焦っても仕方ないじゃないか。バズーカが使用されたのは未来であって、こちら側じゃない以上、何もかもの原因は未来にある。過去にいるオレに出来ることは、静かに未来で何かが起こるのを待つ以外にないはずだ。違う?」


 リボーンは答えずに小さな唇を引き結んでつよく綱吉を睨んだ。瞳に浮かんでいるのは怒りと苛立ちに違いはないようだったが、果たしてその感情が綱吉自身に向けられているのかは定かではない。

 もしも獄寺がリボーンの立場であったら、負傷した綱吉を責める前に、未来の己のことを激しく憎むだろう。どうして綱吉をこんな目にあわせたのか。どうして守ってやれなかったのか。未来の己はいったい何をしていたのか。そして、未来からやってきた綱吉に、過去の獄寺達が出来る事と言えば怪我の治療――、もしくは彼の言うとおり、話し相手をすることくらいしか出来ないのだ。そして過去の綱吉が連れてゆかれた未来には、未来の綱吉に負傷をさせたような愚かな己達がいる。彼等が過去の綱吉を守りきれるかどうか――、それは過去にいる獄寺達には推し量りようがなかった。

 獄寺だけでなく、山本も同じような感情を抱えているのか、困ったような顔をして黙り込んでいる。室内の空気が妙な具合に張りつめていた矢先、ノックもなしに扉が開いて、停止していた場の空気が動いた。
 シャマルは一瞬だけ、静まりかえっていた室内に驚いたように目を瞬かせたが、部屋のなかの雰囲気については何も言わなかった。

「機械、使わしてもらえるってよ」

「そう。じゃあ、病院に行こうか」

 明るく言った綱吉は、布団をめくってベッドから降りようとする。

「ばか。目が見えねーってのに、どう用意するってんだよ、ボンゴレ」

「ほら、オレ、超直感あるからさ、けっこーうまいこと出来そうじゃない?」

「馬鹿言うな」

「そう? なら、シャマルがいろいろやってくれるんだ? あ、そう。じゃあ、おねがいしまーす」

「……なんなのよ、おまえのその態度は。……おっさん、疲れそうだわ、ほんと――」

 道化のようのににやにや笑いながら綱吉はベッドのうえであぐらをかいた。シャマルは嘆息すると、獄寺達をぐるりと見渡すように視線を動かした。

「おまえらはもう帰っとけ。どうせ検査のせいで今日はこっちに戻ってこねーかもしれねーからな。こいつの身に何かあったら俺の方からおまえらに連絡いれっから」

「十代目!」

 思わず獄寺は声をあげてしまった。
 獄寺の声をきいた綱吉は、声のした方向へ顔を向けて首をかしげる。焦点のあっていない琥珀色の瞳を見つめながら、獄寺は両手を握り込んだ。


「十代目。俺は十代目のおそばにいたいです」

 ふふ。
 と、吐息で笑った綱吉は、懐かしそうに双眸を細めた。

「――獄寺くんはいつの時代でも、獄寺くんだなぁ……」

「十代目……」

「ありがとう。でも、オレは平気だから、今日はみんな帰って」

「オレはいるぞ」

 きっぱりと言い切ったリボーンの方へ顔を向けた綱吉は、まるで聞き分けのない子供に言い聞かせる母親のような、優しく穏やかな顔をした。

「そう言うだろうとは思ってたけど……、リボーンも帰っていいよ。別にもう、オレ、取り乱してないだろ? 帰ってさ、オレのこと、母さんにきちんと説明してあげて。じゃないと、きっとすごく心配するだろう? ああ、でも、未来が危険だってことは内緒にしててね? あんまり母さんに心配かけたくないからさ。――お願いだよ、リボーン。こういうのって、おまえに頼んだ方が確実でしょう? ね?」


 綱吉がリボーンに向かって右手をさしのべる。その指先をじぃっと見つめてから、リボーンは片手を持ち上げて綱吉の手を握った。ぎゅ、と綱吉の指先がリボーンの小さな手を握る。少しだけ、綱吉の目元が、泣きそうなのをこらえるかのように震えたように見えた。

「分かった」

 リボーンの返事をきいた綱吉は、握っていたリボーンの手を放した。そして、シャマルが立っている方向に顔を向けて――相変わらず、微妙に視線の先はずれていたが――、片目を細めて、唇を笑みのかたちにする。


「検査が終わって、ここに戻ってきたらシャマルにみんなに連絡してもらうから」

「あ? それは、あれか。もう俺がするのは決まってんのか? 俺はおまえの執事でもなんでもないんだけど?」

「えー。だってオレ、目ぇみえないし。こっちのみんなの携帯番号とか、もう覚えてないから分からないし。いいじゃない。お願い、シャマル。オレ、いま頼れるの、シャマルしかいないんだよー、ね? ね?」

 まるで地蔵でも拝むかのように、綱吉が顔の前で両手を合わせるのを、シャマルは半分は面白そうな、もう半分は呆れたような顔をして眺めた。シャマルに対して、ある意味、こんなにも強気な態度をとっている綱吉を獄寺は知らない。

 九年と半年ほどの年月がどんなふうに綱吉の身に折り重なっていったのか、獄寺はとても気になって仕方がなかった。どんなふうに綱吉が成長し、変化していったのか。それをきっと九年と半年後の獄寺はずっと側で見ていたに違いない。それはどんな喜びだろうか。まだ経験していない喜びを思って、獄寺は胸が熱くなるのを感じた。

 シャマルを拝みながら、綱吉はおどけるように片目を閉じて首をかしげる。

「お願いしていいよね? ドクター・シャマル」

「はー……。なんか、おまえ、変わったな」

 感心するように言うシャマルに、綱吉は拝んでいた手をはずして、面白そうな顔で問いかける。

「どんなふうに?」

「自分の扱い方が分かるようになっただろう?」

 シャマルが笑いながら言うと、綱吉は指先であごのあたりをかきながら頷いた。

「うん。――ようやくね、最近、自分の価値が分かってきたところかな」

「分かったよ。仕方ねーから連絡いれてやらー。感謝しろ」

「ありがとう!」

 にっこりと愛嬌たっぷりに笑った綱吉の顔につられるようにシャマルが笑む。獄寺と山本も思わず笑ってしまった。――ただ、リボーンだけが笑うことなく、仮面をかぶったように無表情のままで綱吉を眺めていた。

 物静かなリボーンの態度に言いしれぬ不安感のようなものが、獄寺の胸にひっかかった。彼はおかしい。それは獄寺だけが感じているものではないだろう。きっとシャマルも山本も気がついているはずだ。
 一瞬、獄寺のなかで、先ほどのリボーンの無言の重圧がよみがえる。

 詮索するな。
 余計なことは口にするな。

 リボーンも、獄寺達と同じく突然の事態に動揺しているから様子がおかしいのだろう。

 今のところは、そういうことにしておいた方がよさそうだと考えて、獄寺は沈黙しようと心に決めた。リボーンに限って、綱吉に対して害になるようなことをするわけはないだろうと獄寺は確信していた。リボーンが綱吉に、本当の意味で害を与えたことなど――今まで一度たりともなかったのだから。

 何も言わず、リボーンは部屋から一人で先に出ていってしまう。一言、綱吉に声をかけて出ていけばいいのにと獄寺は思って、ベッドのうえの綱吉の表情を横目で見て――、驚いた。
 リボーンが一言も話さず、物音ひとつたてずに出ていったというのに、綱吉は見えていないはずの目を部屋の出入り口へ向け、微苦笑を浮かべていた。
 目が見えるようになったんですか?
 と、獄寺が思わず言葉にする前に、シャマルは両手を胸の前のあたりで打ち鳴らした。
 ぱちん。という音にかるく驚いたように綱吉は瞬きをして、音のしたシャマルの方へ顔を向けた。――やはり目は見えていないようだった。


「そら。ちゃんと連絡してやっから、おまえらは帰れ」


 まるでハエでも追いやるような仕草をしたシャマルを獄寺は睨み付けた。彼は悪びれた様子もなく、「さっさとでてけ」といわんばかりに目線でドアを指し示した。素直にシャマルの言うことに従った山本が一番最初にドアに向かって歩き出そうとし、足を止めてベッドを振り返った。


「なぁ、ツナ。――じゃあ、連絡もらったら、もう一回、会いに来てもいいか?」

「もちろん! 待ってるよ」

「十代目、次にくるときはパソコン持ってきますね」

「うん。待ってるよ。獄寺くんとも話したいことたくさんあるしね。――他のみんなも、よかったら連れてきて欲しいな。オレと関わりのあった人なら誰でもいいから」

「分かりました」

「それじゃあね、バイバイ」


 ベッドにあぐらをかいたまま、綱吉が片手を振った。
 獄寺は頭を下げ、山本も片手を顔のあたりまで持ち上げてひらひらと左右に振った。


「さようなら。十代目」
「バイバイ、ツナ。またな」


 綱吉が寝ている奥の部屋を出てだだっ広いリビングを横切り、シャマルの自宅を出る。玄関を出て廊下を歩いていきエレベータの前に来るまで、獄寺も山本も一言も喋らなかった。
 山本がエレベータの下向きのボタンを押す。他の階にあるのか、エレベータはなかなかやってこない。
 獄寺は少し顔を伏せて、自分が履いているスニーカーのつま先を眺めていた。泥に汚れたスニーカーのことを考えている訳ではなく、頭の中は沢田綱吉のことでいっぱいだった。
 目が見えない綱吉のこと。
 未来へ飛ばされてしまった綱吉のこと。
 どちらのこともとても心配だった。


「なあ、獄寺」

 間延びしたような、いつも通りの呑気な山本の声音に、獄寺の感情は逆撫で等れたように波だった。普段から獄寺は山本の話し方や態度が苦手だった。彼はあまりにも獄寺とは違う世界を生きてきた人間で、時々理解不能のことを言ったりしては、獄寺の苛々を募らせてくる。彼に悪気はないと分かっていても、どうしても獄寺は彼に対してつっけんどんな話し方をしてしまいがちだった。

「なんだよ」

 眉を寄せた顔のまま、山本は低く「うん」と呟いただけで、言葉の先を続けなかった。

「なんだよ、言いたいことがあるなら言いやがれ」

「未来のツナがあんな怪我してるようなとこに、こっちのツナが行っちまったってことだよな?」

「そうだろ」

「今の俺達に出来ることって何もねーのかな」

「はあ!? 出来ることはあるだろ! 十代目とお話することが、俺らに出来る唯一のことだ!」

 不機嫌さを隠さずに獄寺は山本を睨み付ける。
 彼は面食らったかのようにかるく目を見開いて、しげしげと怒鳴りつけた獄寺の顔を眺めていた。

「未来の世界が危ねぇんだったら、絶対に俺とかお前とか、他の奴らが必死になって十代目のことをお守りするに決まってんだろ? だったら、未来の俺達を信じて任せるしかねえだろ」

 獄寺が言い終えた途端、ははっ、と山本はいきなり笑い出した。くすくすと笑いながら、「うん、うん」と一人で頷いて、片手で口元を覆う。
 じわりじわりと、己が恥ずかしいことを口にしたという自覚がわいてきた獄寺の頬が赤く熱くなっていく。

「笑うんじゃねえ!」

「うん。わりぃ。――そうだよな、今の俺達に出来ることを、精一杯やればいいよな。ツナのために出来ることを、精一杯」

 へらへらと笑い続ける山本を蹴りつけてやろうと獄寺が身構えた瞬間、甲高い音をたててエレベータのドアが左右に開いた。くすっ、と小さく笑った山本が身軽な様子でエレベータに乗り込む。短く唸り声のようなものをあげてから獄寺もエレベータに乗り込んだ。一階のボタンを押して、ドアを閉じるボタンを押す。静かにエレベータは降下を始める。

 エレベータの壁に背中を預けて、にやにやと笑い続けている山本の態度が気に入らなくて、獄寺はおおげさなほどに舌打ちをして両目を細めた。


「いつまでも笑ってんじゃねえよ」

「なぁー、獄寺」

「なんだよっ」

「俺達で『ツナ』を守ろうな」


 はっ、と威勢よく吐息を吐いて、獄寺は細めていた両目を開いて、不敵に笑った。


「そんなの当たり前だろ。――今さら言うことじゃねえ」

「そうだな。当たり前のことだったよな」

 獄寺の言葉を聞いた山本が短く息を吐き出して、少しだけあごをひいて目を伏せた。

「今までも、――これからも、『ずっと』……」

 エレベータの降下する音にかき消されそうなほど小さな声で山本は言う。

「俺達は『ツナ』の――」

 たーん。

 エレベータが一階に告げる音声が山本の囁きをかき消した。
 それでも獄寺には彼が言わんとしていたことが理解できた。

 開いたエレベータのドアからマンションのエレベータホールへ出る。隣を歩く山本の方を見ずにぶっきらぼうに獄寺は言った。

「いられるだろ」

「うん?」

「いられるに、決まってっだろ、って言ってんだよ。馬鹿」

 山本の独り言のような囁きに対して獄寺が答えると、彼は複雑そうな顔で「うん」と頷いた。そんな山本の顔を視界の隅に映しながら、獄寺はオートロックの自動ドアをくぐり抜け、マンションを出る。見上げた空はすでに紺碧となり、吸い込む夜気は冷たかった。

「タクシー、つかまえっか?」
「ああ。行って来い」
「おー」

 マンション前の垣根の脇に立って、獄寺は大通りへと走っていく山本の背中を見送った。ジャンパーのポケットから煙草を取り出して、愛用のジッポーで火を点ける。一瞬だけ、獄寺の視界が炎の色に染まる。目にやきついた炎の影が瞼にちらつく。


 今までも、これからも、ずっと――。

 山本の言葉がよみがえってくる。

 俺達はツナの――。


 ――ツナの側にいられんかな?


「……いるに決まってんだろ。十代目の側以外に、俺らが行けるとこなんて、もうねぇだろうが――、馬鹿やろう」


 吸い込んだ紫煙を呆れるように吐き出して、獄寺は垣根が植えられているブロック塀の上に腰を下ろした。煙草を唇にひっかけたまま、獄寺は山本が姿を消した大通りの方へ顔を向ける。まだ山本は戻ってきそうにない。獄寺は煙草の苦みを舌で味わいながら、ぼんやりと通りを眺める。

「……ばーか、……あぁ、ちくしょう……、なんだってんだよ、……くそっ……」

 なんとはなしに悪態をついて、煙草のフィルターを少し強めに噛む。
 まだ自分がひどく混乱していることを自覚しながら、獄寺は片手で額を抑えて溜息をついた。