|
「言っておくが、こいつの仲間はここへ来たりしない。このフロアにいる人間達はすべて買収済みだ」
拳銃を構えたまま、男は逆の手で縁なしの眼鏡を外して、それをソファの上へ放り投げた。鼻筋を指先で何度か揉むようにしながら、彼はソファを乗り越え、背もたれに腰を落ち着けて座る。
男の銃口は今はやや下方へ向けられていたが、綱吉が動けばすぐに照準をあわせてくる気配があった。綱吉は獄寺の身体のうえへ両手をおき、絨毯のうえに座り込んで、男を見あげていた。獄寺の身体は呼吸している。ならば、この場から彼を助け出し、すぐに救急車を呼べば生命が助かる確率が上がるはずだ。綱吉は冷静に行動しなくてはならない。
男は――、ディンツオは、嘲るように濃い青色の目を細め、うすい唇の口角を持ち上げる。
「死ぬのが怖いか?」
「……死ぬのが怖くない人間なんていない」
「そうかな? 少なくとも、親父は『怖い』なんて言ったりしなかっただろう。あの人は最期まで己の信念を貫いた。だから、俺もそうしたいと思ってね」
「あなたが、黒幕なのか?」
ディンツオは片目を細め、腕を持ち上げる。拳銃を構え直したディンツオは、綱吉の顔に緊張がはしるのを観察すると、楽しそうに口笛を吹いた。
「黒幕というのは正しくはないな。だけど、今回の事件を一番理解しているという点から考えると、そういうことになるのかもしれない。ほとんどの脚本は各グループが描いたようだったけれど、全ての演出を手がけたのは俺だからね」
「演出?」
「ああ……。この日が、どんなに長かったか。努力がこうして報われる日がくると幸せなものだ」
ディンツオはソファの背もたれから立ち上がり、靴底でソファを踏み、絨毯のうえへ降りた。そして、ゆっくりと、綱吉が怯えるのを確認しながら、近づいてくる。
「おまえが親父を殺してからすぐ、俺はファミリィの奴らと話し合いをして、親父の仇討ちを決めた。親父は最低最悪の極悪人だったが、ファミリィにとってはたった一人のドンだったんだ。そして、俺の、たった一人の親父で、悪党になりたい俺の憧れそのものだった」
黙っている綱吉の目の前まで来たディンツオは、サイレンサーを装着させた銃口を綱吉の額にかざす。銃口と額との距離は数センチ。いくら素早く動くことが出来る綱吉だとしても、避けるタイミングを間違えば、確実に死んでしまうだろう。
ゆっくりと呼吸をしながら綱吉はタイミングを見つけようとしていた。獄寺をかばいつつ、ディンツオの武器を無効にする一瞬の機会を見逃すわけにはいかない。
「幸いなことに、腕力に恵まれなかった俺は弟妹達よりも頭だけはよくてね。親父が死んでから一睡もせずに今回の計画を練ったよ。そのときが一番、楽しかった。どうやったら、おまえをどれだけ苦しめることができるのか、そればかりを考えていたからね。おまえのことならばどんなことも調べたよ」
刹那、視界の左下側から何かが迫り、綱吉は後方へ身体を傾けた。鼻先すれすれをディンツオの革靴の先がかすめていく、舌打ち、そしてすぐに身体をななめへ倒していた綱吉の耳の辺りへディンツオの右足がぶち当たる。獄寺の足下に倒れ込みながらも、綱吉は両手を絨毯のうえについて倒れ伏すことは避けた。体勢を崩した綱吉の顔面へディンツオのつま先が迫る。とっさに顔を背けたものの、靴の横側が鼻骨に当たり激しい痛みが脳天へ突き抜ける。のけぞった綱吉は、倒れそうになった身体を片手を絨毯のうえについて支え、痛みを紛らわすために低く呻いた。じんとした痛みをかき消すような熱が顔の中央に生まれ、急に鼻が詰まって呼吸がしづらくなった。握り込んだ拳で鼻下をこすると、真っ赤な血が付着する。
「お綺麗さをひけらかすおまえにとっては、親父は極悪人だったろうな。だが、俺達からしてみれば、偽善的な分、お前の方がよほど最悪な人間に見えるね。マフィアの社会で表社会の理想論をいくら並べたところでそんなものゴミくずと変わりないことが、まだ分からないってんだからな」
口の中に溜まった血混じりの唾液を絨毯のうえに吐き捨て、綱吉は反射的にこみ上げてきた涙をこらえる。痛みからも熱からも意識を切り離す。相手は敵、敵には弱みは見せない――、綱吉の強い意志の宿った瞳を見て、ディンツオは片目を細めて鼻から息をついた。
「自分の立場が分かっちゃいないみたいだな」
「それで? オレのことを調べて、どうし――」
ディンツオは拳銃を持った腕を振りかぶり、綱吉の左頬を拳銃のグリップの底で殴りつけた。とっさに殴りつけられる勢いをころすために身体を引いたのと歯を食いしばっていたおかげか、最初に蹴られたときほどの痛みはなかった。が、口の中が切れたのか血の味がじわじわと口内に広がり出す。
「黙ってろよ。せっかく、おまえの間抜けさを説明してやってるんだからな」
ずず、と鼻血をすすり、綱吉は絨毯の上に座り直す。両手首を拘束しているプラスティック製の手錠を焼ききり、ディンツオが発砲するより早く動くことが出来る可能性を痛みで朦朧とする意識で考える。負傷した獄寺さえおらず、綱吉とディンツオの対峙であったのなら、怪我を負った綱吉だとしても生き残ることはできたかもしれない。だが、現実では獄寺がいる。綱吉が素早く行動したとしても、一瞬の隙をつかれて獄寺にとどめをさされてしまう可能性は消せない。ゆえに、綱吉は反撃の機会を判断できずにいた。
綱吉が大人しく口を閉じると、ディンツオは「よろしい」と言いながら綱吉の横を迂回して背後に立った。振り向こうとした頭に、ごつりと硬いものが押し当てられたので、綱吉はそこで停止した。わずかに振り返っただけだったが、ディンツオが握っている拳銃の銃口が綱吉の側頭部に押し当てられていることだけははっきりと分かった。
「俺達は情報をあちこちから操った。身分や名義を偽称して、ボンゴレやボンゴレの周囲の人間に近づいていって、愛人騒動をきっかけに造反を計画している人間がいることを情報として流し、その情報にあぶり出された人間達を偶然を装いつつ引き合わせ、十数人から数十人のグループを作らせた。そして、俺達はあらかじめピックアップしていたボンゴレの造反に関わろうとしていたボンゴレ側の人間を殺し、顔を整形して、死んだ人間と入れ替わった」
「……どうして入れ替わる必要が……?」
「あくまでも、今回のことをボンゴレの内部犯だと思わせることが重要だったからな。俺達、ディンツオファミリィの姿は徹底的に隠さなくちゃならなかった。骨格と年齢が同じくらいの人間を選び出すのは大変だったが、入れ替わったあとは簡単だったよ。誰も彼も、目の前の大義や戦いへの高揚で他人の素性なんて探っているような暇はなかったしな」
「…………………………」
「俺がいくつかの名義を偽称して各グループに資金を提供した。あとは各自、好きなようにボンゴレを叩いてくれればいいからな。だが、あまりにも奔放に動かれても困るから、すべての造反グループに数人、うちのファミリィの人間が潜み、それとなくグループ全体の動きを誘導していたんだよ。俺が考えているシナリオ通りに事が運ぶようにね。デッセロは資金を提供している人間が実は部下である俺だなんて思いもつかないみたいだった。結局は資金提供している人間が何を目的にしているのかなんて気にするような奴じゃなかったって訳さ。今回の計画では、デッセロが一番に有能な駒だったね。あいつの前には札束を置いておけばいい。口では、名誉だの歴史だのとのたまうくせに、結局は金に一番の魅力を感じてる現代人だったわけだ。そう考えると、俺のほうが余程旧時代的だと思わないか? ――仇討ちのために俺達は必死になっているわけだからな」
「ぜんぶ、あなたが仕組んだと?」
「机上の空論みたいなことだと思うだろうけど、わりと理想的なラストに運べたんじゃないかな。グループ同士は個人として活動している、自分たちにはボスがいないと自覚していただろうけど、糸をひいて操っていた神様は存在したってことさ。俺はね、計画的に並べたドミノの一番最初を倒しただけ。あとは勝手にドミノ同士でぶつかりあって、ばたばた無様に倒れていくだけだ。――すべては、ボンゴレを内部からずたずたにして引っかき回して、おまえをこうして俺の前に跪かせるためにね……。準備している間もいつ計画がばれるかと緊張の連続だったが、天は俺に味方したようだ」
「オレを、殺すんですか?」
拳銃を押し当てられている頭を動かす訳にはいかなかったので、綱吉はディンツオがどんな顔をしているのは分からなかった――が、彼が笑ったことだけは気配で分かった。
「おまえを殺すためにどれだけの金とどれだけの時間とどれだけの苦労を費やしたと思ってる? ただ、おまえのことを殺しても面白くなかったんだ。おまえが大事にしているもの、すべてめちゃめちゃにしてやりたかったんだよ。わかるか? この気持ちが?」
自分自身の言葉に酔うように言いながら、ディンツオは銃口を綱吉の頭へ押しつけてくる。無意識のうちに早まりそうになる呼吸をゆっくりと保ちながら、綱吉は頭のなかでどうすれば最小限のダメージで相手を倒すことが出来るかと考える。死ぬわけにはいかない。怖くてたまらなかったが、ここで死ぬわけにはいかなかった。
逃げるな。
立ち向かえ。
――生き残れ!
心の内側から響くようにリボーンの声が聞こえたような気がした。
それだけで、綱吉は震えそうになる体が落ち着いてくるのを感じる。
綱吉は生きている。
ならば、まだ勝機はある。
「オレがあなたの親父さんを殺したから、あなたはオレの大事なものを傷つけたと?」
「ははは。そんな言い方をすると俺がとんだ親孝行者みたいだな。――そういったセンチメンタルな感情がなかったとは言い切れないが、理由なんて数え切れないほどあるさ。たった一つの理由のために動く人間なんていやしないだろ? 誰だって、いくつもの理由を抱えて生きてる、そんなものさ。……まあ、おまえはもうすぐ、死んじまうがな。どうせ、あのアルコバレーノのガキも、デッセロのグループの奴らが丸焼きにするだろうから、地獄でせいぜい仲良くすりゃいいさ」
「リボーンに何をするつもりだ!?」
「丸焼きだって言ったろ? 焼き殺すんだよ。――そしておまえは俺に銃殺される」
銃口が頭部に押し当てていられることなど承知で、綱吉は体の向きを変え、真っ向からディンツオを睨み上げた。
ディンツオは蔑むような目で綱吉を睨み付け、口元だけで笑った。
「ああ。言い面構えだな」
綱吉の額の中央へ銃口を押し当て、
ディンツオは舌先で上唇を舐めた。
「――さようなら。ドン・ボンゴレ」
綱吉は目を閉じなかった。
「絶望して、死ね!」
引き金にかけられたディンツオの指先が動きかけた刹那、勢いよく音をたてて部屋の扉が開いた。
ドアの開閉音に驚いたディンツオは腕を揺らして、引き金を引くのをやめる。視線は綱吉から外れ、素早い動きで室内へ飛び込んできた青年へ向けられる。綱吉も駆け込んできた青年へ視線を向け――、思わず泣きそうになってしまった。
「雲雀さん!!」
「やあ。綱吉。噛み殺しに来たよ」
両手でトンファーを構え、雲雀が艶笑する。
「ヒバリキョーヤか! 畜生!」
叫んだディンツオが引き金を引き直す前に綱吉は動いていた。片手で拳銃を持っているディンツオの腕を薙ぎ払い、その手で彼の腕を掴んで強く引く。体勢を崩したディンツオの脇腹へ拳を沈め、片足を高く上げて倒れ込んでいくディンツオの後頭部へかかとを叩き降ろした。がつん、と音を立ててディンツオの顔面が絨毯にぶつかり――、彼は動かなくなった。綱吉の動きから少し遅れ、ばさりと外套の裾が綱吉の身体にまとわりつく。低く体勢を保ちながらディンツオが動かないのを確認し、綱吉は息を吐いて身体の緊張を解いて戦闘の構えをといてその場で直立した。
「僕にやらせてくれればよかったのに」
面白くなさそうに言って、雲雀はトンファーをたたむと、ウェストに装着しているホルスターへしまった。その背後へ、静かに誰かが近づいてくる。
「恭さん」
近づいてきたのは草壁哲だった。きっちりとスーツを着ていても、過去と余り変化のない顔立ちとトレードマークのリーゼントのおかげで間違えようがない。彼は綱吉が見慣れたバズーカを雲雀へ差し出す。雲雀はバズーカを受け取り、草壁と目を合わせて頷く。
「外の処理は任せたよ。哲」
「はい。恭さん」
ちらりと草壁が綱吉を見て頭を下げる。同じように綱吉も頭を下げた。彼はニコッと人が善さそうな顔で笑うと、部屋を出ていく。
「このホテル、ボンゴレが買い取ったから。あとの処理は簡単だから心配しなくていいよ」
「はあ……、そうですか」
極度の緊張状態から緩和したせいで、綱吉の思考は停止してしまっていた。雲雀の視線が綱吉ではなく、綱吉の足下辺りを眺めているので、つられて綱吉も下を向き――、息をつまらせた。絨毯のうえで獄寺がうつぶせに倒れている。一瞬で現実に引き戻された綱吉は、倒れている獄寺の身体に飛びついた。
「獄寺くん!! 獄寺くん!? ――雲雀さん、獄寺くんがっ、撃たれてッ、救急車呼んでください!」
雲雀はじぃっと倒れている獄寺を観察するばかりで、一向に救急車を手配してくれるような素振りはない。
「雲雀さん、救急車ッ! あ、それと、リボーンが! リボーンが大変なんです、あいつ、たぶんどこかに呼び出されて、それで、焼き殺されそうになってるみたいんですよっ、だから、早くあいつの居場所を――」
「ちょっと落ち着いてくれない? リボーンの居場所はすでに把握してるよ。ランボとスカルがボンゴレの人間を率いて援護についてるようだから、まかり間違っても彼が死ぬことはないから安心しなよ」
呆れ果てるように言った雲雀は、狼狽している綱吉の側まで来ると、スーツのポケットから折り畳みのナイフを取りだして、手首を拘束していたプラスティック製の手錠を切ってくれた。彼は無言で綱吉の手にナイフを渡すと、次にスーツの内ポケットから手のひらくらいの大きさのパウチを幾つか取り出し、違うポケットから小さなピルケースを取り出した。
「これ。止血剤と痛み止め。その馬鹿に使うといい」
「え、そんなので、どうにかなるような怪我じゃ……!」
「落ち着きなって言ってるでしょう? 銃で撃たれたにしては出血が少なすぎるとか思わないの? 君、ちゃんと状況確認してる?」
「え、え? 出血? 状況、確認?」
訳が分からぬままに綱吉は両手で止血剤だと思われるパウチとピルケースを受け取る。
「じゅ、だ、…め」
かすかな声をあげながら、獄寺が身体を動かす。
「獄寺くん!」
咳き込みながら、獄寺は一人で身体を起こした。綱吉は獄寺の傷を確認しようと彼の身体の前面を眺めた。
銃によってスーツが破れている箇所が四カ所ほどあったが――、大量に出血している場所は見あたらなかった。出血した跡が残っているのは、ミス・ロージに刺された場所だ。左の上腕部からの出血があったが、酷いものではなく、肩口をきつく縛れば応急処置がすむような傷口のようだった。
雲雀から受け取った止血剤とピルケースを持った手を座り込んだ膝のうえにのせ、綱吉は力が抜けるような息を吐いた。
スーツが破れ、被弾しているにもかかわらずに出血がないということは――、防弾ベストを着ている以外に、現状を説明することはできない。
ずびり、と鼻水なのか、鼻血なのかわからないものをすすりあげ、綱吉は半分泣いた顔のままで獄寺を上目遣いに見る。彼は申し訳なさそうに眉尻をさげ、しょんぼりと背中を丸めた。
「すいません、俺、実は、防弾ベスト、着てたんです。だから、死ぬような怪我は、してませんので、ご心配なく……。よかった。十代目をお守りする事が出来て……」
己の役目を完遂したとでもいうように、獄寺が誇らしげに頷く。綱吉はすこし呆れつつも、彼の手首を拘束していたプラスティック製の手錠を、雲雀に手渡されたナイフで切った。そして、使用したナイフを折り畳み、礼を言いながら雲雀へ手渡した。彼は綱吉から受け取ったナイフをまたスーツのポケットへしまう。
「ベスト、いつの間に着たの?」
「執務室の奥にある仮眠室んところに、もしもの時用に用意してあったのがあったんです。ロージに刺されたあとでしたしね、何か危険なことがあるかもしれねぇと思ったんで。もしもの場合、俺が盾になればいいと思って、着てきたんですけど、正解でしたね」
「あのさ、ちょっといい?」
雲雀がバズーカを持っていない片手を持ち上げ、獄寺を半眼で見つめる。
「なんだよ?」
「普通、綱吉にも着せるんじゃないの? 防弾ベスト。なんで、君だけ着る必要が?」
実は綱吉もすでに考えていたことだった。
獄寺が装着する時間があったのなら、綱吉にも装着する時間があったのではないか?とか、普通は自分が着るのならば綱吉にも着せるべきだろうとか――、そういった疑問を口にしようとして綱吉が言わなかったのには理由がある。というか、綱吉には予測がついたのだ。
獄寺はわざと綱吉に着せなかったのではなく、そういった選択肢をいっさい思いつかなかったのだ。綱吉の身に何かあった場合は、獄寺が身を挺してかばう。その図式ばかりにとらわれていたがために、『綱吉に防弾ベストを着用させる』なんてことは考えつかなかったのだ。
実際、雲雀に言われた言葉を怪訝そうに聞いていた獄寺は、
「……っあ、ああっ!」
と、大きな声を上げて目を見開いた。そしてぽかんと口をあけたまま、綱吉を見る。綱吉はへらりと笑っておいた。悪気も悪意もない彼の行動は、もうすでに中学時代から慣れてしまっている。綱吉のため――と言いつつ、獄寺は綱吉のために何かをする自分自身のことに精一杯すぎて客観的視点を失いがちになる。十年近く経っても、獄寺があまりにも獄寺らしい行動をするので、綱吉は脱力して、そのまま絨毯のうえに倒れたいような気持ちになった。
「馬鹿じゃないの、君」
雲雀の侮蔑するような声音にも、獄寺は怒鳴り返さずに、叱られた子供のように頭をうなだれさせた。
「……すみません。俺、何の役にも立てなくて」
顔を伏せた獄寺の、銀灰色の毛先がふわりを揺れる。彼が呼吸をして、喋って、動いて、生きているのをあらためて眺めていると、綱吉は嬉しくてたまらなくなった。もしかしたら死んでしまったのかとさえ思っていた獄寺が生きているのなら、防弾ベストのことなどどうだっていいような事に過ぎない。死ななかった。それだけで充分な結果だ。
「いいよっ、獄寺君が無事だったんなら、もうなんでもいい!」
がばりと両腕を広げて獄寺の頭を抱えて引き寄せる。死んでしまうと思っていた生命が腕の中でもがくように動き、くぐもった声が「十代目ェ」と戸惑ったように訴えてきた。
「よかった、よかったよっ、ああ、よかった!」
嬉しさに任せて、ぐいぐいと獄寺の頭を抱きしめていると、ふいに獄寺の手が綱吉の肩の辺りを数回叩いた。
「うぐう、くるしいです、十代目」
「――はっ、うわっ、ごめんっ」
綱吉は腕を放し、獄寺の顔を伺った。彼は泣き笑いのような顔で綱吉を見て、照れたようにはにかむ。綱吉よりも十歳近く年上の獄寺だったが、綱吉がよく知っている十八歳の獄寺そっくりの、見慣れた笑顔だった。
絨毯のうえに転がってしまった止血剤とピルケースを手に取り、綱吉は獄寺へ差し出した。
「これ、雲雀さんが――」
止血剤とピルケースを見た獄寺は、雲雀を見上げ、小さな声で「わりぃな」と言った。雲雀は獄寺の声が聞こえなかったのか、もしくは完全にスルーしたのか、何の反応もみせなかった。一瞬、気まずい空気が流れたような気配がして、綱吉が何か言おうと息を吸った途端、雲雀はズボンのポケットを片手でさぐり、
「綱吉。鼻血、これで拭ったら?」
絨毯のうえに座り込んでいる綱吉へ、真っ白なハンカチを差し出した。綱吉は、ハンカチと雲雀の顔を交互に見てから、首をかしげた。
「え、……汚れちゃいますよ?」
「あげる」
雲雀はハンカチを差し出したまま、抑揚なく言う。優しい表情など浮かべていないが、雲雀の好意がこめられたハンカチを綱吉は素直に受け取った。半分は乾ききっていた鼻血をハンカチでおさえて拭い取る。行儀が悪いかな――と思いつつも、綱吉は鼻に詰まっていた血とも鼻水ともわからないものをハンカチでかんだ。幾分か鼻通りがよくなり、呼吸がしやすくなる。ハンカチの汚れた部分を内側にしておりたたみ、綱吉はスーツのズボンのポケットへハンカチをしまった。
「てめえ、どうして俺達の居場所が分かったんだよ? 発信器とか、意味がなかったはずだぞ?」
絨毯のうえに座り込んだまま、獄寺がぶっきらぼうに雲雀へ問いかける。
「アナログに頼っただけだよ」
「アナログ?」
「哲に綱吉を監視させていただけ。機械はたまに、融通がきかなくて困るからね。信頼できる人間のほうがよほど役に立つ」
形のよい唇にうすい笑みをのせ、雲雀が双眸を細める。
「ああ、そうかよ……、ちっ」
表情を引きつらせた獄寺は、ピルケースから痛み止めの錠剤を口の中に入れて、雲雀へ向かって言いたかったであろう皮肉ごと薬を飲み込んだ。そして止血剤のパウチを開けて、己の怪我の手当を始める。
浅く息を吐いてから綱吉は立ち上がり、雲雀と視線を交わす。彼は綱吉の視線を受け止め、少しだけ顔を右へ傾けた。
「雲雀さん、それ、バズーカですよね? ってことは、オレ、過去に戻れるんですね?」
「そうだよ。綱吉。僕は素敵なカーテンフォールのためにここに来たんだ。もう二度と、来るんじゃないよ」
何故か楽しそうに笑った雲雀が両手でバズーカを構える。
「うわああ、ちょっと、待ってください!」
とっさに綱吉は両手を付きだして雲雀の行動の制止を求めた。瞬間、己の中指で光る大空の指輪が目に入り、次に胸ポケットにしまった霧の指輪の存在を思いだし、背筋がぶるりと震えた。霧の指輪は未来の六道骸のものである。過去の人間である綱吉が持ったまま過去へ戻ってしまえば、未来の霧の指輪が消失してしまう。
「オレ、指輪ッ、骸の指輪持ってて、あのっ、これ、骸に返してあげてくださいッ」
胸ポケットから霧の指輪を取り出して、手を突き出す。
「っていうか、骸、死んでませんよね? ね?」
「……あれが簡単に死ぬなんてこと、ありえないこと、君がいちばん知っているはずだけど?」
「……でも、怪我、すごいひどかったんですよ……?」
「君は死んでいて欲しいの?」
「嫌ですよ! 死んでいて欲しくなんてないです! 生きてて欲しいです!」
「君がそう言うなら、あれは生きてるよ。あれはね、君が望むのならば、両手両足もぎとられても、生きてるんじゃないのかな?」
「……雲雀さんって、骸が生きてるって信じてるんですね……」
「信じてるっていうより、あれはさ――」
言いかけた雲雀は、続きの言葉を嘆息でかき消して、首を振った。
「あれの話をするの、僕、好きじゃないんだ。気持ち悪くなるから」
「気持ち悪く?」
「存在が理解不能すぎて気持ちが悪くなる」
「はあ……、そうですか」
「で? 指輪、あれに渡せばいいの?」
「あ、はい!! お願いします!」
「僕があれに届けものなんてね。君の頼みじゃなきゃ、絶対にしたくない仕事だ……」
雲雀は綱吉の手を見て、小さく「僕があれに届け物か……」と繰り返すように言って、片目を細めた。
「お、お願いします!」
頭を下げて綱吉が頼むと、雲雀は嘆息をひとつ落として、綱吉の手から霧の指輪を浮けとった。
「仕方がないな。頼まれてあげる。そのかわり、僕と握手をして。綱吉」
霧の指輪をスーツのジャケットのポケットへ入れ、雲雀は右手を差し出した。
「――握手ですか?」
「キスでもいいけど」
「雲雀!!」
怒気まじりな獄寺の呼びかけをきれいに無視して雲雀は微笑む。
「握手でお願いします……」
若干の微苦笑をうかべて綱吉は片手を差し出し、雲雀の手を握りしめた。綱吉の手よりも一回りほど大きな雲雀の手が力強く綱吉の手を握り、そして離れていった。数秒間、懐かしむように綱吉のことを眺めた雲雀が、くすりとおかしそうに笑みをうかべて口角を持ち上げる。
「未来を見た君が、この世界を嫌うんじゃないかと思っていたけれど、僕の取り越し苦労だったみたいだ」
「嫌うだなんて……。雲雀さんや獄寺くんや……、リボーンがいる世界を、どうしてオレが嫌いになるって言うんですか?」
「十代目……」
獄寺の声に導かれるように、綱吉は彼と視線を交わす。
「俺は十代目と一緒に生きることが出来て、本当に幸せです」
「うん。オレもね、獄寺くんたちと一緒に生きることができて、幸せだよ」
「いい答えだ。花丸」
「はなまる?」
綱吉が笑いながら聞き返すと、雲雀は穏やかそうに微笑んで頷く。十年前では想像もつかないほど自然な笑い方だった。十八歳の綱吉が知ることのない年月を生きてきた雲雀の身の上にどんなことがあったのかは分からない。それでも、雲雀の人生は悪いものではなかったことは分かることができる。彼の微笑を見た綱吉は思った。この世界は、そんなに悪いものではないと――。
雲雀が両手でバズーカを構える。手当を終えた獄寺が立ち上がり、綱吉から離れ、雲雀側の方へ立った。綱吉は深呼吸をして、獄寺と雲雀を見た。
「さようなら。十八歳の綱吉」
「さよなら。二十八歳の雲雀さん。二十七歳の獄寺くん」
「どうか、お元気で。十代目」
「五歳の赤ん坊によろしく」
「二十七歳のオレに伝言を。リボーンと仲良く暮らしてねって」
雲雀が少し驚いて獄寺を見た。獄寺は雲雀の視線を受け、曖昧に笑った。それだけで何かを察した雲雀は呆れたような顔をして、一度だけ視線を斜め上へ向け、すぐに綱吉を見た。
「――笑って。綱吉」
言いながら、雲雀が楽しげに笑う。
「はい。雲雀さん」
綱吉は、満面の笑みを浮かべて雲雀の言葉に応える。
「どうか、末永く、お幸せに!」
きっちりと一礼して、獄寺が笑顔で言う。
「うん! 獄寺くんも、雲雀さんも、元気でいてね!」
二人に向かって綱吉は精一杯に片手を振った。
悲しいのか嬉しいのかよく分からない涙がこみ上げてきて、綱吉の視界を潤ませていく。
「――さあ、カーテンフォールを迎えよう」
雲雀が綱吉へ照準をあわせ、バズーカの引き金を引く。
綱吉は目を閉じて、ありったけの感謝と愛情を込めて――、叫んだ。
「さようなら! ありがとう!」
|