腹部を負傷した獄寺が運転する車は、ロージの指示通りに道を走った。彼女が指示した道を行った先にあったのは、海外の旅行客も利用するような知名度の高いホテルだった。ホテルの地下駐車場へ車を入れる際、有人のゲートを通る。綱吉は慌てて手錠で繋がっているロージの手を掴んで、外套のなかへと隠した。嫌な汗をかいたが、ゲートの脇に立っていた人間に手錠の存在も獄寺の負傷も気がつかれることなく、車は地下駐車場の中へ入っていった。

 適当に空いていた場所へ停車し、綱吉達は外へ出た。すぐ前の運転席のドアも開いて、獄寺も外へ出る。
 綱吉はロージの手を掴んだまま、外套のなかに隠した。端から見ても手を繋いでいるようにしか見えないはずだ。手錠を見られて騒ぎにでもなったら、相手がどう出るか分からない以上、ヘタなことはしないに限る。
 車から降りた獄寺が、片手を車の屋根にのせ、じっと動かないでいる。綱吉からは彼の背中しか見えない。深くないとはいえ、腹部を刺されているのだ。いくら薬で誤魔化そうにも体の不調はつよいだろう。

「獄寺くん」

「大丈夫です」

 きっぱりと言い切った獄寺は振り向いて、にっこりと笑う。無理をしているのが透けてみえるような青い顔で笑う彼に、なんと声をかけたらいいか分からず、綱吉は獄寺の腕に掴んで頷いた。どうして頷いたのかは分からなかったが、獄寺も綱吉と同じように頷いて、綱吉の肩に触れる。

「行きましょう」

「うん。――ロージさん。ここからは、どうしたらいいんですか?」

「部屋へ、ご案内します」

 消え入りそうな小さな声で言い、ロージが歩き出す。手を繋いでいるので綱吉も続くように歩き出し、すぐ側に獄寺がぴったりと寄りそうように歩き出した。

 地下駐車場からエレベーターで一階へ上がる。そこでホテルロビーの中央に位置するメインエレベーターに乗り込んだ。チェックアウトの時間帯なのか、ロビーは様々な人種の人間がそれぞれの目的のために動いている。誰も綱吉達の様子など気にしているような人間などいなかった。

 エレベーターに綱吉達が乗り込むと、アジア人の老夫婦が一緒にエレベーターへ乗り込んでくる。夫婦は九階のボタンを押し、ロージは何も言わずに二十一階のボタンを押した。

 老夫婦は綱吉達をちらりと見て何かを囁きあっているようだったが、日本語ではない言語なので何を言っているかは分からなかった。あらためて見てみれば、綱吉と獄寺は二十代後半で、世間的にはまだ若い部類に入る。そんな男が二人、メイドの格好をした女性を連れて歩いているのは本来ならば目立つことなのかもしれなかった。

 老夫婦は九階でエレベーターを降りた。
 ほどなくして、エレベーターは二十一階へ到着する。ロージはまるで操り人形のように「こちらです」と事務的に言葉を発し、綱吉と獄寺を案内する。

「ロージさん。一人じゃないからね。オレ達が一緒ですからね。しっかり、気をもっていてくださいね……」

 綱吉が呼びかけると、彼女はまた泣き出しそうになるのをこらえるように唇を噛み、かすかに首を振った。冷たいロージの手を握りながら、綱吉は先ほどロージに言った言葉を己自身に向けて繰り返す。

 一人じゃない。
 獄寺くんが一緒だ。
 しっかり、気をもて――。


「ここです」


 ロージの声で感電したかのように綱吉は肩を揺らしてしまった。浅く息を吐き出し、ロージが片手で指し示したドアを睨む。獄寺が「失礼」と言ってから綱吉とドアの間へ入り、ドアをノックした。現在の状況から考えると、場違いな礼儀正しさだったが、いきなりドアを開けた途端に発砲されてしまうかもしれないのだから、仕方ないのかもしれなかった。

「開いていますよ」

 部屋の中から返事が返ってくる。

 獄寺と綱吉は視線を交わしあう。
 綱吉が頷くと、獄寺が扉をゆっくりと開けた。

 ドアを開けた途端に発砲――されることはなかった。何の変哲もないホテルの部屋の内装だ。綱吉が今まで見たこともないような高級感がある部屋だと分かるくらい、調度品や室内の装飾が凝っている。細い通路を歩き、奥へ行くと広いリビングルームに行き着く。

 大きな薄型液晶テレビと対面するようにコの字型に置かれたソファに仮面の男が一人座っていた。のっぺりとした白い仮面で顔を覆った男は、短い銀髪をオールバックにしている。銀髪の男の背後には背の高い男女が立っていた。こちらは仮面をつけておらず、男女はどちらもスーツ姿で、まるで存在を誇示するように拳銃を手にしていた。男は短い金髪に縁なしのメガネをかけ、女は長い茶色の髪を首のうしろでまとめている。

 綱吉達はリビングの中央まで歩いていき、仮面の男の前に立った。獄寺、綱吉、ロージという順番で並ぶ。男は緩慢な動作で両手を持ち上げ、やる気のない態度で拍手を数回した。

「――時間厳守。さすが、ドンであらせらるお方ですね。遅刻せずにいらっしゃるとは思っておりませんでしたよ」

「時間を守ったんだ。爆弾のスイッチは押したりしないな?」

「ええ。もちろん、押しませんよ。そういうお約束でしたからね。……なんだか、少々、見てくれが変わりましたか? 髪をお切りになった?」

「うるせえ。そんなことは今は関係ねぇだろうが」


 低く吠えるように獄寺が言うと、男はおどけるように両の手のひらを上向かせて肩をすくませた。ふいに、男が右手をあげ、ロージを指さす。すると男の背後に立っていた女がソファの後ろから移動して綱吉達に近づいてくる。

「ミセス、ご苦労さまでした。ご退場なさってけっこうですよ」

 びくっと震えたロージの身体の振動が綱吉にも振動として伝わってくる。近づいてきた背の高い女は、手にしていた拳銃を胸元のホルスターへ差し込んでから、スーツのポケットから小さな鍵を取り出し、ロージと綱吉の手首を繋いでいた手錠の鍵を開けた。
 女はスーツのポケットからプラスティックで出来た細い紐状の拘束具を二つ取り出すと、綱吉と獄寺の腕を身体の前でひとつに拘束した。女は両手で獄寺の身体を探り、胸元とウェストに装備していた小型ダイナマイトを携帯しているホルスターを手早く取り外し、ローテーブルの上へホルスターを放った。獄寺は舌打ちをしたが、ロージのことを思ってから抵抗しなかった。続いて、女は綱吉の身体も武器の有無を確認するように頭から足先までを検査し、じろりと無機質な目で綱吉をことを眺めてから身を離した。

「完了しました」

「連れて行け」

「はい」

 女がロージの腕を掴んだ。

「ボンゴレ……」

 ロージの潤んだ目が綱吉をすがるように見る。綱吉がとっさに手を伸ばしてロージの腕をとろうとしたが、スーツの女に腕を掴まれたロージは引きずられるような強引さで部屋の外へ連れ出されてしまった。


「ロージさんに何をするつもりだ!?」

「彼女は人質ですが、物騒なものを身につけてますからね。少々遠いところへ移動していただくだけです」

「危ないものをロージさんに与えたのはあなただろ!」

 仮面の下で男が笑う。

「顔色がお悪いですね。ミスター・獄寺」

「うるせえ。……顔なんて隠してたって意味なんてねえぞ。デッセロ」

 己の身の辛さなど表情に浮かべていない獄寺だったが、その顔色は誰が見ても悪く、血の気が薄いように見えた。綱吉は半歩ほど後退し、獄寺と肩を並べるようにして立った。ちらりと獄寺が綱吉を見て、すぐに目の前の仮面の男へ視線を戻す。

 仮面の男は少しだけ黙り込んでから、ソファに座ったまま組んでいた足を組み替えた。

「なんの証拠があって?」

「馬鹿にするんじゃねぇぞ。言っておくが、俺は記憶力がいいんだ。ボンゴレに関わる人間のデータくらい、頭にいれておかねーで、何が右腕だ」

「髪の色と体格だけで判断するんですか?」

「声と喋り方、手の形――。他にも聞きてーか?」

 挑戦的に言って、獄寺があごをひいて男を睨む。

 男は再び、緩慢な動作で拍手をして、右手を顔の後ろへ回し、左手で仮面を支えた。


「仕方がありませんね。この仮面も窮屈ですし、外すとしますか……」


 留め具を外すような音がして、外れた白い仮面が男の左の手のひらにのる。仮面の下から現れたのは、綱吉が考えていたよりも紳士的で優しげな風貌だった。もちろん、綱吉は見たことがない。もしかしたら、二十七歳の綱吉ならば知っていたのかもしれないと思った。デッセロはボンゴレの諜報部隊にいた人間だと報告書のひとつに書かれていた。裏切り、内部からの反乱――。ボンゴレは大きな組織だ。それを和平的に維持していくにはどれだけの労力と手間が必要なのか、十八の綱吉にはまだ分からないことだ。だから、デッセロがどうして綱吉達へ牙をむいたのか、綱吉には分からなかった。


「あなたはいったい、何が望みなんだ?」


 仮面をソファにおいたデッセロは、ゆったりとソファに座ったまま、かるくあごを引いて、上目遣いに綱吉を見た。


「私の望み? ご聡明なドン・ボンゴレにはもうお分かりいただけたと思っていたのですがね――。我々の望みはひとつです。あの忌々しいアルコバレーノ、リボーンと別れていただきたいんですよ」

「そんなことを、あなたに言われて、オレがイエスと答えると思ってるんですか?」

「ノーとおっしゃると?」


 綱吉は頷く。
 デッセロは、聞き分けのない子供に対するように、首を左右に振ってから、眉尻を下げた。


「ドン・ボンゴレ。あなたはあなた自身の存在の価値をご存じでない。無論、あの忌々しいガキも同じです。子供のような我が儘を仰らないでいただきたいものです。理性を取り戻してくださいよ、ドン・ボンゴレ。――あなたは組織のトップでしょう? 多くの人間の思いを踏みにじり、自己の感情を優先させるべきだと、そうお思いなのですか?」

「子供の我が儘だって? いったいオレとリボーンが何をしたって言うんだ!」

「何をした? とぼけているんですか? それとも私が何も分からない馬鹿だとでもお思いなんですか? ――あなたとリボーンが何をしたかなんて、分かり切ったことでしょう」

「デッセロ、よせ――」

 何故か獄寺が焦ったように声をあげる。だがしかし、デッセロは黙らなかった。

「あなたが血迷って、あんなガキを愛人にしたことは、もはや裏社会でも有名なことじゃあありませんか!」


 何かを言おうとした綱吉の唇は制止して動かなくなる。

 あんなガキを愛人にしたことは――。

 リボーンを、愛人にしたことは――。

 愛人?

 呼吸が止まり、思考だけが急速に回転率をあげていく。


「アルコバレーノだったというだけで、あんなガキ、しかも男を愛人にするなんて――。歴代のボンゴレのボスだって、そんな愚かな行いなどしなかったというのに……」


 デッセロの言葉はほとんど綱吉の耳に入ってこない。綱吉は隣に立っている獄寺を見上げた。彼は綱吉の視線を避けるように一度だけ視線を逸らし、舌打ちした。そのあとで綱吉に向けられた獄寺の瞳を見て、綱吉は知ってしまった。

 デッセロが言った言葉が事実だと、察知した。

「獄寺くん、オレとリボーンって……」

「十代目」

「本当のことなんだね? オレとリボーンが愛人関係だっていうのは」

「何を今さら!」

 叩き付けるように言って、デッセロがソファから立ち上がった。紳士的とさえ思えたデッセロの顔が、苛立たしげにゆがみ、綱吉のことを挑戦的に睨み付ける。彼の視線だけでよろけそうになってしまい、綱吉は歯を噛みしめてその場にどうにかとどまった。背筋を伸ばし、外套の内側で両手を強く握り込む。負けるな。揺らぐな。弱さを見せるな。前にリボーンに言われた言葉を思い出す。

『決して相手に弱みを見せるな。負けたりしねーって顔をしとけ』

 綱吉は動揺をねじ伏せて、デッセロの瞳を睨み返す。
 愛人だからどうした?
 こちらの綱吉とこちらのリボーンの問題だ。
 十八の綱吉が知らない事情が二人の間にはあるのだろう。
 二十七歳の綱吉が不在のいま、『彼等』のために『綱吉』は負ける訳にはいかない。


「ボンゴレのみならず、他の由緒あるファミリィの隠居した方々までドン・キャバッローネまで使って陥落させ、あなた達は自分たちのエゴだけを押し通そうとしたじゃありませんか! しかも、あなたはリボーン以外に愛人は作らなかった。それ以前も、女の気配はありませんでしたし、同盟ファミリィの娘さん達にせまられても逃げ出していたようですしね。ああ、……もしかして、ドン・ボンゴレ。あなたは男しか愛せない人間だとでも言うつもりですか? そんなことを仰っても、我々には関係がない。あなたがジョットの末裔だというのなら、なおさらです。血筋を絶やすことは罪です。ボンゴレの血族は素晴らしい能力を秘めている。途切れさせてしまう訳にはいかないんですよ。――ミスター・獄寺、あなたならご理解いただけるんじゃあありませんか? ボンゴレを存続させるために、ドン・ボンゴレはリボーンと決別すべきだと、そう思いませんか?」


「俺は十代目のご意志を尊重するだけだ」


 一瞬の躊躇もなく獄寺が言った。
 思わず綱吉は獄寺を見た。
 彼は綱吉と視線を交わすと、深く頷いた。
 嬉しくて、涙が出そうだった。

 デッセロは大袈裟な態度で溜息をついて、首を振った。

「飼い犬はご主人様のおっしゃるとおり、ですか。無様ですね」

「うるせえ。俺達を拉致したのは、お前の演説を聞かせるためなのか?」

「いいえ。私ごときの演説のために、わざわざお越し頂くなんてことはありえません」

「じゃあ、オレ達を殺すの?」

「いいえ、まさか! あなたを殺してしまったら、私達の行動に意味はない。でも、あなたを殺して新しいボスを迎えるつもりでいる派閥もあるんですよ」

「派閥……? てめぇらをまとめている人間はいねぇってのか?」

「結婚式を襲撃してきたのは、おそらく、リボーン共々ドン・ボンゴレも抹殺してしまおうと考えているグループだったのでしょう。我々はあれほどの強硬派ではありませんからね」

「昨日の夜、囮に引っかかったのはてめぇらじゃねぇのか?」

「昨日の夜? それも、我々が関与しているグループではありませんよ。私が指揮しているのは、今朝、ボンゴレの本邸に車を突撃させてからの一連の件だけです。他にも動いているグループがあるとは思いますが……、それらすべてを私は把握していません。我々はひとつではないのです。よって、明確な統率者が必要ではない。必要とされているのは結果だけです。この白い仮面は結束の証として、それぞれの部隊で同じものを作り、使用しているんです。より良いボンゴレを!という目的だけで行動する人間がたくさんいるという証なのです……。我々は増えもすれば減りもする――だがしかし、決して消えることがないものなんですよ。誰しもが理想を抱えている以上、不満は消しようがない」

 役者のように両腕を広げ演説していたデッセロは、ローテーブルの横を通り過ぎ、綱吉の前まで近づいてくる。獄寺よりも背が高く、近くで見るとスーツに包まれている体格が格闘技でもしているかのようにしっかりとしているのが伺えた。綱吉は外套の下で、そうっと霧の指輪を外して、スーツのポケットにしまった。もしも、拳で戦うことになったら、霧の指輪は邪魔になる。手首を拘束しているプラスティックの拘束具は見た目はもろそうでも、強度はかなりある。部屋には二人しかない。どうにか両手が拘束されたままでも倒せる可能性は充分にある。
 高まってくる緊張と心音。落ち着けと自分自身に繰り返しながら、綱吉はデッセロから一度たりとも視線を外さないように気をつけた。


「あなたが諦めないというのならば、邪魔なものは排除してしまわねばなりません」

 頭の後ろあたりに熱い火花が散ったかのように綱吉のなかで何かがはじけた。

「リボーンに何かするつもりか!?」

「死んでもらいます」

「そんなことさせるものか!」

 綱吉は左足を引いて身体を沈ませ、外套をはためかせながら身構える。両腕は拘束されたままだったが、綱吉は数歩先にいるデッセロめがけて突進しようとした――が、

「無駄な抵抗はしないほうが良いですよ」

 デッセロが身体の前に携帯電話を掲げる。綱吉は、がくんと身体を揺らすようにして停止する。低い姿勢を保ったまま、綱吉はデッセロの手元へ注目した。


「私が短縮ボタンを押すだけで自動的に設置した爆弾を監視している人間へ連絡が入るようになっています。もちろん、ロージ夫人とその家族の爆弾も自動的に爆発します」

「……クソッ……」


 携帯電話を持つ手を左右に揺らしながら、デッセロは紳士的な風貌に落ち着いた笑みをのせ、優雅に頷いた。


「まあ、ゆっくりとお待ち下さい。無事に彼等の仕事が終われば、私のところに連絡が入るはずですからね」


 拘束された両手をきつく握りしめて、綱吉はうつむいて目を閉じる。
 リボーンがみすみす殺されるようなことはない――、とは言えない。
 普段のリボーンならば、マフィアといえど束になっても敵いはしないだろう。
 だがしかし、いまの彼は満身創痍だ。
 万が一にも、リボーンが死んでしまう可能性は否定しきれない。


「ドン・ボンゴレ。あなたが一言、リボーンと別れると言えば、リボーンを殺害することをやめさせることもできますよ?」

 優しい気遣いが含まれたようなデッセロの言葉が、奇蹟のような響きで綱吉の心を揺らした。目を開き、顔をあげた綱吉はデッセロへ潤みかけていた視線を向ける。

「本当!?」
「十代目!」
「生涯二度と彼に会わないと誓ってくれるのなら、我々はそれを信じてもいいと思っていますよ。ドン・ボンゴレ。我々は、あなたの血に等しくひれ伏す者なのですから」
「リボーンと決別する約束をしたら、あいつを殺さないでくれるってこと?」
「そうです」
「十代目、駄目です! そんな取り引き、厳守されるとは思えない!」
「おやおや。あなたの右腕は取り引きという言葉の意味を間違えているんじゃないですか? これは取り引きですよ、ドン・ボンゴレ。あなたはあのガキと別れ、女性を愛し、そして子孫を残すんです。ジョットの血をひく、子供をね。そうすれば、ボンゴレは安泰となる。ええ、それはそれは素晴らしいことになります」

 携帯電話を握りしめたまま、デッセロは嬉々とした様子で何度も頷いた。綱吉にはどうしてそこまでデッセロがボンゴレという組織に執着しているのか分からなかった。そのせいか、デッセロが妄執のように繰り返す「ボンゴレ」という単語が、綱吉が知っているボンゴレとは違うような期がしてならなかった。同じものを見ていても、違うものを見ているような違和感がつよく、どうしてもぬぐい去る事が出来ない。


「デッセロ……。どうして、あなたはそんなにもボンゴレに執着しているんだ?」


 デッセロは、携帯電話を持っている手を胸元にそえ、少しだけ首を傾げた。


「ドン・ボンゴレ。私の父も祖父も、祖父の父も――代々ボンゴレという組織にかかわって生きてきたんです。ボンゴレの歴史も深いが、私の血族の歴史もまた、深いものなんです。私は子供のころからずっと憧れていたボンゴレに勤めることができて幸せだった……、あなたがガキに血迷うまではね。ボンゴレは由緒ある、歴史ある、素晴らしいマフィアなんですよ? あなたの時代でそれを破壊するおつもりなんですか? まさか男しか愛せない訳じゃないでしょう?」

「……そうですね。オレは、別に、男が好きな訳じゃない」

「それを聞いて安心しました。……で、どうしますか? 取り引き、していただけますか? していただけるのならば、今すぐ、仲間に連絡をして、計画を中止することも可能ですよ?」

「……十代目……」

 獄寺が背後から近づいてきた気配がした。

「あんな男の言う事に耳を貸してはいけません。約束を守る保証はありません」

 声にもならないような微かな獄寺の声が、かろうじて綱吉の耳に届いた。が、綱吉は彼の言葉は聞いていなかった。綱吉はデッセロから視線を外さなかったし、デッセロも綱吉の目を真っ直ぐに見ていた。



「答えは?」



「取り引きは出来ない」



 デッセロが目を閉じ、舌打ちした。そしてすぐさま引きつったように笑みを浮かべる。


「よく、お考えください。ドン・ボンゴレ」


 奇妙なくらい優しい声音でデッセロが言うのを、綱吉は右手の中指にはめた大空のリングに左手の指先で触れながら聞いていた。
 大空の指輪。
 銀色の鈍く光る指輪。
 目に見える物質よりも、より確かなものが綱吉の胸の中にある。
 それは決して目に見えるようなものではなかったが、月日を重ねることによって少しずつ降り積もっていったものだった。

 それは、綱吉とリボーンの間にしかないもので、
 他の誰にも分かりはしないだろう――確かな絆だった。

 部屋には綱吉と獄寺、デッセロとその部下が一人だけだ。

 だがしかし、綱吉はもう一人の存在を感じていた。
 黒いボルサリーノをかぶった、皮肉屋な少年が隣で微笑む気配を、綱吉は確かに感じた。だから綱吉のなかにためらいはなかった。


「ここでオレが別れを決めても意味はない。これはオレとあいつの問題だ。――だから、オレが一人で決意して『イエス』と答えることに意味なんて、ない」


 それまで紳士的な様子だったデッセロが、片足を振り上げ、近くのローテーブルを靴底で蹴った。大きな音を立ててテーブルが動き、うえにのっていた獄寺のダイナマイトのホルスターがばさりと絨毯のうえに落ちる。

 長々と息を吐き出したデッセロは、右手で顔を覆った。獣が身体を震わせるように一度だけ身震いをした彼は、電話を握っている手を主張するように綱吉達の前へ突き出した。


「そうですか。それは残念です。では、あなたの前に、小さな棺をご用意させていただきましょう。何もないところですが、おくつろぎください。私も暇な身ではないので、この辺で失礼させていただきます。おい、見張りをしてお――」


 びしゃっと顔面に何かが降りかかって、綱吉はとっさに目を閉じた。暗闇のなかで重たいものがどさりと倒れる音がして――、

「危ないッ、十代目!」
「えっ」

 後ろから突き飛ばされ、綱吉は絨毯のうえに前のめりに倒れ込んだ。途端、背中側から何かが覆い被さってきて押しつぶされそうになる。息をしながら目を見開いた先に、頭の半分を吹き飛ばしたデッセロの死体があった。拘束されたままの指先で顔に触れる。血液が付着して指先が赤くなる。どろりどろりと皮膚のうえをおぞましい赤い液体が流れ落ちていくのを感じて、綱吉は口の中で声にならない悲鳴を上げた。身動きをしようとしてから何かが身体の上に乗っているのだと気が付いた。何か温かい液体が綱吉の背中側の服から内側へ染みこんでくる。慌てて背中を振り返ると、力の抜けた獄寺の身体が綱吉の身体の上に覆い被さっていた。

「獄寺くん!?」

 どうにか獄寺の身体の下からはい出した綱吉は、絨毯のうえに座って、俯せに倒れている獄寺の背中を両手で揺すった。だがしかし、彼は何の反応も示さなかった。ナイフの傷で出来た傷痕ではない場所から、血が溢れてくる。


 綱吉は両手を獄寺の身体の上にかざしたまま、動けなくなってしまった。
 なんだこれは。
 どうしたんだ。
 デッセロが死んだ。
 獄寺が撃たれた。
 デッセロと、
 獄寺と、
 綱吉の他に、
 部屋にいた人間は一人しかいない。


「……どうして……」


 デッセロが座っていたソファの向こう側に立ったまま、男は硝煙の立ち上る拳銃を構えていた。消音器があらかじめ装着されていた拳銃は無慈悲な黒い輝きを放ち、その銃口は綱吉の方を向いている。

 男の濃い青色の瞳が縁なしのメガネのレンズごしに射抜くように綱吉を見ている。とっさに綱吉は攻撃の態勢をとろうとして身体を揺らしたが、男が引き金を引こうと指先を動かすのを見て――、動くのをやめた。

 視線だけを動かして獄寺を見下ろす。
 背中側から観察してもどこを撃たれたのかよく分からなかった。
 おそるおそる手のひらで触れると呼吸をしているのが伝わってくる。少なくとも彼が死んでいないことで、綱吉は脱力してそのまま意識を失いそうになってしまった。


「ディンツオ」


「え?」


 閉じかけた目を開き、綱吉は男を見た。


「ロナウド・ディンツオを覚えているか?」


 男の言葉は静かだ。
 ロナウド・ディンツオ。
 聞いた事がない名前だ。


 二十七歳の綱吉ならば分かることが出来るかもしれなかったが、今の綱吉には分かりようがない。答えに窮した綱吉が唇を震わせただけで何も言わないと知った彼は拳銃の引き金を引いた。微かな音をたてて発射された弾丸は綱吉の耳元を過ぎて後方へ被弾する。ちりっとした灼けるような痛みが耳にはしり、すぐに生暖かい血が肌を伝って首筋へ流れ始める。耳の傷口の強い痛みで涙がこみ上げてくるのを必死に我慢しながら、綱吉は男の行動から一切目を離さないよう、瞬きすらせずに彼を凝視した。男は綱吉を殺害しようとしている。それだけは確かだった。



「ロナウド・ディンツオ」



 拳銃を照準をあわせるように片目を細め、男は平坦な調子で言った。



「おまえが殺した俺の親父の名だ」