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綱吉がシャマルに案内されたのは、廊下の突き当たりにある手術室の、すぐ隣にある病室だった。彼は綱吉を病室の前まで案内すると、「俺ァ、寝るわぁ、おつかれさん」とあくびをしながら背を向け、片手をひらひらと舞わせた。シャマルの背中に礼を言って、綱吉はスライドドアと向き直る。
扉を一枚隔てた先に、リボーンがいる。
外套の立て襟にあご先をうずめ、綱吉は息を吐いた。
未来へ来て、リボーンから浴びせられた言葉を思い出すと、扉を開けて入室する気力がみるみるうちにしぼんでいく。未来のリボーンが必要としているのは、未来の綱吉だということは理解はしている。未来のボンゴレファミリィに必要なのは未来の綱吉なのだ。そのことを思うと心も身体も重たくなっていく。
ボンゴレリングを指にはめ、スーツを着て、外套をまとい、しゃべり方と仕草を映像から未来の沢田綱吉の姿をそっくり写し取っても――、綱吉のなかの空虚は埋まりきらなかった。
表面的には混乱から脱し、落ち着いていると見せかけることができても、内側の綱吉はいまだに混乱のなかにあった。自分に何が出来るのか。自分がするべきことは何なのか。必死に考えて考えて考えて、どれが最良の道なのかを考え続けていた。資料を読んで、写真を見て、書類に目を通しても、それらは情報でしかない。未来を生きていた綱吉が経験してきた年月がないぶん、綱吉は自分の判断に自信がもてなかった。そのたびに、しょせん、この場所は過去の綱吉が立つ場所ではないのだ――、という足下の不安定さが露呈して、綱吉を息苦しくさせる。
「……しっかり、しろ、ダメツナ」
口のなかでつぶやきながら、綱吉はスライドドアの取っ手を右手で握る。ひんやりとした取っ手を掴み、綱吉は目を閉じる。リボーンの容態については、廊下を歩きながらシャマルから聞いていた。右手の骨折。顔面の損傷。打撲によって腫れあがったあちこちの傷。リボーンが今まで聞くに耐えがたいほどの怪我をしたことなど、綱吉は遭遇したことはない。彼はいつでも余裕で、いつでもかすり傷一つ負わずに戦場と呼べる場所に立っていた。そんな彼の姿を綱吉はずっと眺めてきた。
憧れと、
羨望と、
嫉妬と、
誇りを感じながら、彼の背中をずっと眺めてきた。
そして、これからもずっと眺めたいと思っている。
ゆっくりと深呼吸をしてから、綱吉は瞼を持ち上げ、――スライドドアを静かに引いた。かすかな音をたててドアが横へ滑っていく。室内の証明はあらかじめ明度が下げられていて、ほんのりと淡いオレンジ色の照明がぼんやりと病室のなかを照らし出していた。
心電図をはかる機器の連続した電子音が静まりかえっている室内に無機質に響いていた。断続的な電子音はリボーンの心臓が動いている音だ。彼が生きている、死んでいないという事実に綱吉は涙腺が潤んでいくのを感じた。するすると、音もなく綱吉の背後でスライドドアが閉まっていく。
薄暗い、淡いオレンジ色の照明に照らし出され、密閉された室内には綱吉とベッドに眠るリボーンしかいない。そうっと、足音をたてないように――リボーンに教えられた通りに――気配を消した綱吉は、いろいろな機械がベッドの傍らに配置されているリボーンのベッドへ近づいていった。連続する電子音と鼻に匂う薬品の匂いが、綱吉の心の表面を冷たく流れていく。綱吉が訪れる場所が病室ではなく、遺体安置所であってもおかしくなかったのだという、現実感がじわりじわりと綱吉の心を締め付けていった。指先はつよい緊張のせいか冷たく凍ってしまったかのように動かない。
リボーンは、かるくてやわらかそうな真っ白な布団にくるまれ、大きな枕に頭を預けて目を閉じていた。口元には酸素マスクがとりつけられていて、半透明のマスクの内側は彼が呼吸をするたびに白く曇った。顔の左半分すべてと鼻筋が包帯で隠れ、右側も目を挟み込むように額と頬に分厚いガーゼで覆われて包帯があてがわれていた。包帯と包帯の隙間からのぞく彼の右目のあたりと口元からあごにかけての、彼の顔色はひどく青白く、血の気がうすかった。
綱吉は息を殺すように呼吸をしながらベッドを見下ろした。
右手を持ち上げて、額の包帯にかかっているリボーンの黒い前髪に指先で触れる。血が付着しているのか、彼の髪はざらりとした感触がした。そうっと、壊れものに触れるように綱吉は手のひらをリボーンの額にのせた。温かい、というよりは熱いような彼の肌に包帯ごしに触れる。呼吸するたびに上下する掛け布団を眺めながら、綱吉は歯を噛みしめた。
こみ上げてきた激情に揺さぶられるように身体をふるわせて綱吉は顔を伏せる。こらえようと思った涙が目尻に溢れ、頬を伝っていった。感傷的になって流れ出した涙は、十数秒ほどでひいていった。
大きく深呼吸をすると、流れていた涙がとまった。
少しでも力を入れたら壊れてしまうものに触れるように、綱吉はリボーンの額にかかる髪を指先ですいた。
彼が生きていてよかった。
彼が、死んだりしたら、どうしたらいいのか。
綱吉には分からない。
今までも、これからも、綱吉の指針として、リボーンがいつも側にいるのだと、綱吉は何の約束もないというのに思いこんでいた。たとえ約束をしても、契約をしても、彼が死んでしまえば、言葉も書類も何もかも無意味なものとなる。
ふいに、リボーンが苦しげに顔をしかめ、かすかに首を振った。布団の下でもがくように彼の身体がわずかに動き、――ゆっくりと右の瞼が持ち上がっていった。その様子を息を殺すように見守っていた綱吉は、ぼんやりと開かれて天井を見上げているリボーンの顔へ顔を近づけ、彼の片目を覗き込んだ。
「リボーン」
ぱちり、ぱちり、と瞬きはするが、リボーンに反応はない。
綱吉は左手でリボーンの左頬を包み込むようにして、彼の鼻先に鼻先を近づけるようにして、顔を寄せる。するとリボーンは、睫毛を震わせるように目を見開いた。そして綱吉の顔をじっと見つめたあとで、何かを言おうと唇を開いたが、口元を酸素マスクが覆っていることに気が付いたらしく、眉間に深いしわを刻んだ。首を振り、マスクが邪魔だと
言わんばかりに顔をしかめる彼の様子を察して、綱吉はそっと酸素マスクをあごの下へとずらした。もぞりと布団の下から、無事な左手を出したリボーンは、綱吉がマスクをさっさと外してしまったので、手持ちぶさたになり、ぱたりと枕もとに左手を出したまま長々と息を吐き出した。
「これ、外して苦しくないのか? どっか痛かったりする? 何かおかしいのなら、シャマルを――」
「つ、な」
ぼんやりとした様子でリボーンが綱吉の顔を見つめる。普段の彼から想像も付かない、優しくて頼りなげで、今にも崩れ去ってしまいそうなくらいに儚い微笑がリボーンの顔に浮かんでいるのを見て、綱吉はどきりとした。綱吉にとってリボーンは、いくら容姿が年下であれど、教師であり師であり、強く優秀な一人の男だった。そんな彼が、いまにも泣いてしまいそうな顔で綱吉を見ている。
「つな。おまえ、戻って――」
「うん。そうだよ」
とろんとした彼の瞳の様子から見て、何らかの薬で夢心地のままに口をひらいているようだった。おそらく精神的にも不安定なのだろう。怪我を負って参っている彼を安心させたほうが彼のためだと思い、綱吉は微笑んで嘘をついた。
「戻ってきたんだよ。だから安心して眠っていて。大丈夫だよ。もう、大丈夫。あとはオレに任せておいて」
綱吉が笑ってみせると、リボーンは今まで見たこともないような優しい顔をした。それは綱吉の心拍を速めるには充分の威力があった。
「おかえり。ツナ」
「ただいま。リボーン」
吐息で笑ったリボーンは、無事な左手を伸ばして綱吉の後ろ頭を包み込むようにして引き寄せた。綱吉が身構える前に、リボーンの唇が綱吉の唇に触れる。ふにゃりとした柔らかい感触は一瞬で離れていく。身体の動きを止めて驚く綱吉をよそに、リボーンはどこか焦点のあっていないような視線で綱吉の顔を眺めながら、綱吉の唇に触れた唇を開く。
「おまえがいない間、昔のおまえに、ずいぶんと酷いことを言っちまった……」
「……それは、状況が状況だったんじゃないのか。気にすることないよ」
キスの動揺を悟られまいと微笑を浮かべたままで綱吉は告げる。
「おまえが、何の意味もなく人を罵るような人間じゃないって、きっと過去のオレだって分かってるさ」
まぶしそうに目を細めてリボーンは綱吉を見上げてくる。
「ツナ」
「ん?」
「おまえが無事で、よかった、ほんとうに、よかった」
想いを込めるようにリボーンが繰り返す。つよい愛情が感じられるリボーンの声音がくすぐったくて、綱吉はとっさに皮肉ぽく笑って照れくささを紛らわせるように軽い口調で言葉を返した。
「おまえが無事で良かったなんて、こっちの台詞だよ。おまえが死んだらオレは此処で一人きりになるの? そんなことになったらオレはどうしたらいいわけ――?」
途端、リボーンの顔から笑みが消え、みるみるうちに表情が哀切にゆがんでいった。間近で急な変化を見せた彼の表情にぎくりとして綱吉は肩を震わせてしまった。何か言ってはいけないことを言ってしまったのかと、口にした言葉を反芻してみるものの――、怒られたり皮肉を言い返されることはあれど、悲しまれるようなことは言っていないように思えた。
「リボーン?」
綱吉が問いかけると、リボーンは目を伏せてしまう。うすくひらいたままの唇がかすかに動いたが、言葉は発せられることはなく、かたく引き結ばれた。
「なに? 急にどうしたの? 痛い? どこか痛いの? だいじょうぶ?」
「……ツナ」
「うん? なに? どうしたの?」
小さな声、――室内に響く心電図の電子音にすら負けてしまいそうなくらいの小さな声でリボーンが綱吉の名前を囁く。綱吉はリボーンの声を聞き逃すまいと、彼の顔へ顔を近づけた。苦しげに眉を寄せたまま、伏せられていたリボーンの瞼が持ち上がり、漆黒の瞳がぴたりと綱吉の顔を見つめる。その瞳はまだどこか朧気で頼りない感じで、いまにも夢のまどろみの中へ戻っていってしまいそうなほどにぼんやりとしていた。
「やっぱり、オレを許せないのか?」
「え? なに?」
「おまえを『こんなふうに』しちまったオレを恨んでるのか?」
「いったい、何の話をしてるの? 恨むとか、よくわからないんだけど」
「過去から来たおまえに、何もかもをぶちまけちまったほうが良かったのかもしれない。オレとおまえが生きている『いま』に辿り着かないように、『おまえ』に何もかも言っちまったほうがよかったのかもしれねぇ」
「ちょっと待ってって、リボーン、いったい何を言ってるんだよ?」
「だが、結局オレは過去のおまえに何にも言えやしなかった。おまえといる未来を、いまをオレは絶対に無くしたくはないんだ。おまえがボンゴレにならなければ、オレはおまえの側に一生いることはできなくなる。オレは殺し屋だ、ただの日本人のおまえの側にはいられない。ドン・ボンゴレの側にならいられる……、そうだろう?」
「……リボーン……」
リボーンは力がぬけたように寄せていた眉をはなして微苦笑を浮かべる。優しげでいて甘く、苦く、胸をつくようなきれいな微笑をうかべる。綱吉はリボーンの顔から目が離せず、息をすることさえ忘れてしまうかのように彼の顔に見とれた。だから、リボーンの手が綱吉のワイシャツの襟元を掴んで強く引いた瞬間も、されるがままだった。小さめなリボーンの唇が綱吉の唇に触れる。角度を変えてすぐにもう一度やわらかく触れ、リボーンは右目を細めた。
「愛してるんだ」
唇が触れ合う距離でリボーンが囁くのを綱吉は呆然と聞いた。
「オレはおまえを手放したくないんだ。たとえおまえが泣いて苦しむのが分かっていても、たとえ過去をやり直せる機会があったとしても、オレはおまえがドン・ボンゴレになるように導くだろう……、すまない、愛してる、愛してるんだ、ツナ。オレはおまえと生きたいんだ、ツナ、綱吉――」
うわごとのように囁きながら、リボーンは綱吉の唇を甘く吸い、やわらかく触れてくる。気持ち悪いというよりもリボーンとのキスはやわらかくて気持ちよかった。しかし、ぐい、と舌で唇をひらかれ、舌で舌を追われ、からめとられかけた瞬間、これが親愛や友愛のキスでないと気が付いて――考えてみれば親愛や友愛で唇にキスをすることなど確率的に少ないだろう――、綱吉は思わず口内に侵入していたリボーンの舌を噛んでしまった。
「――ッ……」
痛みで目を見開いたリボーンは、とっさに綱吉の顔から顔を離す。唇の脇から唾液が細くたれて綱吉のあごを濡らした。羞恥心から顔を真っ赤にしてあごを伝った唾液を手の甲で拭いながら、綱吉は伏せていた身体を起こした。
「り、――」
リボーン。
と、名前を呼ぶはずだった綱吉の言葉は途切れた。
綱吉の視線はベッドに横たわっているリボーンに釘付けになる。
リボーンが心底絶望したような顔で綱吉を食い入るように見つめていた。
それはまるで、亡霊か何かを見るかのような、驚愕と戸惑いと恐怖が混じった瞳だった。
一瞬で嘘がばれたと察した綱吉は、慌てて取り繕う言葉を探したが、突然のことで考えはまとまらない。キスのせいで動悸はあがっているし、まともな思考なんて出来そうになかった。早鐘をうつ心臓を洋服のうえから右手で押さえるようにして息を吐く。
「リボーン、あの――、オレ……」
言いかけた言葉は、しどろもどろのままで口のなかで消えてしぼんでいく。
「つ、な」
もう分かっているはずなのに、リボーンはすがるような声で綱吉を、――『未来の綱吉の名前』を呼ぶ。綱吉のなかで、急速に「しまった」という思いが駆けめぐっていく。彼を思って『戻ってきたのだ』などと嘘をついたが、彼の様子と表情からその嘘が最も最悪なものだったのだと分かった。しかし、分かったところでもう遅い。頭上から足下へむかって血の巡りが下がっていき、きゅうに身体が冷たくなった気がして、綱吉は肩を震わせた。
「――ごめん。オレ、オレは……」
瞬きを忘れたかのように綱吉を凝視していたリボーンの瞳が、火花が散るような鮮やかな怒りによって、めらりと揺らめくのを見て、綱吉は呼吸が止まりそうになった。
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