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手術着の前を真っ赤な血で汚したシャマルとの通話が遮断されても、クロームは通信端末の前から動けなかった。
綱吉の要望で、壁際の大きな液晶テレビではボンゴレが主催したごく内輪だけのパーティを録画した映像が流れている。大きなスピーカーから聞こえてくる楽しげなパーティ参加者達の声を聞きながら、綱吉は膝を抱えるようにして座り、寄せた膝のうえにファイルをのせてじぃっと書類を眺めている。クロームの動揺すら気が付いていないようだった。
テレビ画面では、ビデオを録画していた人物から山本がカメラをとりあげて、ボンゴレの守護者の面々を撮りだしていて、愉快そうな笑い声がさざ波のように広がっていく。
ふいに綱吉が書類から視線を持ち上げる。
クロームは混乱しかけた頭のなかに静寂を取り戻そうと短く息を吸い込み、通信端末から離れて、周囲にあらゆる資料と書類と写真を散らばらせている綱吉のもとへ近づいていく。彼は持ち上げていた両足をソファから下ろして、持っていた分厚いファイルを膝のうえにおく。
二十七歳の綱吉が普段袖を通しているブラックスーツに白いワイシャツ、ネクタイはクロームが選んだ寒色系のストライプのものをしめ、スーツの上から立て襟のついた真っ黒なマントを羽織っていた。マントの襟元の飾りや装飾めいたボタンはすべて鈍い金色で、マントの襟の縁には金糸で縁取りがされていた。外出用のマントだったが、寒いという綱吉のためにクロームがクローゼットから出してきたものだった。
少々、スーツやズボンの袖や裾が大きめなことを綱吉は最初は気にしていたようだったが、即興で裾あげなどをしている暇がないことは分かり切っているので一言「……大きいね」とぼやいただけだった。
ソファに座っていた綱吉は膝のうえのファイルをソファへどけて、重なり合っている書類の中からテレビのリモコンを探しだし、テレビの電源を切った。そして近づいてきたクロームに相対するように立ち上がった。
いつもよりも低い位置にある綱吉の顔を見上げ、クロームは唇を開いたが――言葉を口に出そうとすると胸が苦しくなってしまう。下向いたクロームの視線の先に綱吉の革靴の先が見えた。
「クローム。どうかしたの?」
綱吉の手が、クロームの肩に触れる。
「なにか、あったの?」
片手で胸をおさえ、クロームは顔をあげる。
男性にしては大きく、形の良い琥珀色の双眸を見上げる。不安げに眉を寄せた彼の目を見つめる。過去から未来へやってきたとき、彼の目には混乱だけがあり、意志などほとんどありはしなかった。しかし、いまの彼の目には確固たる意志が灯っているようにクロームには見えた。
深く息を吸い込んで、クロームは言葉を口にした。
「リボーンが」
「ん?」
「リボーンが大怪我をして運ばれてきたって」
綱吉の表情が、すとんと抜け落ちるかのように消える。それでも彼は叫んだり泣き出したりしなかった。クロームの肩に触れていた手を己の身体に引き寄せた綱吉は、きつく目を閉じて悔しげに歯を食いしばったあと、意識を切り替えるようにぱっちりと目を開いた。
「容態は?」
「わからない。命に別状はないらしいけれど、詳しい容態は……」
「クローム。オレをここから出して」
「――だめ、よ」
琥珀色の瞳に射抜かれるように見つめられながら、クロームは首を振った。
「だめ。できない。ボスはここにいたほうが安全だもの」
「クローム。オレは覚悟を決めたんだ。だからもう、平気なんだよ。お願い。ドアを開ける解除コードを教えて」
「だめ、だめ……。できない、私には、できない」
クロームは首を振りながらよろめくように後退する。それを追うように綱吉が歩を進め、後ずさろうとするクロームの手首を掴んだ。乱暴な動作ではなく、優しい仕草で綱吉はクロームの手を握りしめた。ふわりと彼の身体に添うように黒いマントの裾が揺れる。
「クローム。お願い。――ドアを開けて。オレが立つべき場所へ、立たせて」
凛とした彼の眼差しがクロームを見つめた。
三日ほど前、泣き叫んでいた少年はもうクロームの前にいなかった。
ブラックスーツ、白いワイシャツ、ネクタイ。
静かだけれど、強い意志が秘められた琥珀色の大きな瞳。
背丈は少し小さいが、顔立ちは過去も今も変わりはない。
「クローム」
綱吉の声が導くようにクロームの名前を口にする。
「……ボス……」
「オレを信じてよ。クローム。――ね?」
オレンジ色の暖かな炎の温もりを思わせるような、あたたかな綱吉の微笑がかたくなに閉じていたクロームの心を溶かす。
目を伏せて考える。
下向いた視線の先にクロームの手を握る綱吉の手があった。
彼を閉じこめておくべきだと思う。
しかし、彼を閉じこめておくことで、せっかく顔を持ち上げて前を向いた彼の意志を殺すことになる。
六道骸ならどうするだろうか。
彼ならば、おそらくは――。
『あなたがそう望むのならば、僕がすべての望みを叶えましょう』
微笑む六道骸の顔がクロームの脳裏に浮かぶ。
そうして『彼』は綱吉のためにありとあらゆる献身をその身を賭して捧げるのだろう。
黙り込んでいるクロームの顔をのぞき込むように、綱吉が少しだけ背中を丸める。ゆっくりと呼吸をしてから、クロームは顔を上げて真っ直ぐに綱吉の瞳を見上げた。
「――わかった。解除コードを教えるわ。そのかわり、私も一緒に行く」
綱吉の顔に安堵の表情が浮かぶ。
「ありがとう」
掴んでいたクロームの手を一度つよく握りしめた綱吉は、頭を下げて手を放した。ソファセットから離れて、廊下に繋がっている扉へと歩き出したクロームと肩を並べながら綱吉は片手で胸元を押さえた。眉間にしわを寄せ、彼は唇を噛む。
「――ボス、苦しいの?」
「え」
「胸を、おさえているから」
「ああ、……いや」
胸元をおさえていた手をはずして、綱吉は苦い顔をして首を振る。
「なんでもないよ」
彼はそれきり黙ってしまう。
二人は広い部屋を横切って扉へ向かう。解除コードを打ち込むための端末がある扉脇に立ち、クロームは綱吉を見た。琥珀色の目を瞬かせながら、綱吉が首を傾げる。
「え、なに?」
「ボスは、何のために、どうして、ここを出るの?」
クロームは静かに問いかける。
「あなたは何をするために、鳥籠を出るの?」
綱吉はクロームと向き合うように姿勢良く立ち、はっきりとした口調で迷いなく言った。
「オレがいる現代よりも、未来がどんなに危ないところかってことも、ここが安全だってことも、オレの生命がボンゴレという組織にとってどんなに大切かってことも――いろいろ分かってるつもりだけれど。オレはみんなを、ファミリィを守りたいから『鳥籠』の外に出たいんだ。もう誰かが傷つくのを守られて見ているのなんていやなんだ。みんながオレを守ってくれるように、オレもみんなを守りたいんだ」
身体の向きを変え、閉まったままの扉へ指先で触れて、綱吉は祈るような声音で囁く。
「オレの世界は『鳥籠』のなかにはない。オレの『世界』はこの扉の向こう側にある――、扉の向こう側にある世界こそ、オレが『生きる』世界で、オレが『生きていた』世界で――」
言葉をきって、綱吉は扉に触れていた手を身体のほうへ引き寄せる。外套の裾がふわりと揺れて彼の細い身体をすっぽりと覆ってしまう。
「ここが間違いなくオレの世界だっていうんなら、オレは絶対に逃げ出したくないんだ」
大きな琥珀色の瞳で扉を見つめながら、綱吉は独り言のように呟いた。
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