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激しい頭痛を感じながら綱吉は目を開いた。映ったのは規則正しい幾何学模様が金字でうっすらと刻まれた、黄土色の天井だった。上等な細工が施された天井を眺めながら――はて、自分はいったいどこに寝ているんだろうか――と思い至るまで、数十秒ほどかかった。劇的な早さというわけではなく、瞬きごとに出来事を思い出すかのようにゆっくりと、綱吉は自分の身がおかれている状況を認識していった。
枕に頭をのせたまま、片手を頭の後ろへ回してみると、ガーゼが指先に触れる。未来の雲雀はやはり綱吉の知っている雲雀で、容赦などしない人間だった。思わず苦笑をしながら、ベッドから身体を起こす。頭痛がするだけで、動くことには支障はない。
綱吉が最初に寝かされていたベッドより、少々装飾の華美さは控えめだったが、通常と比べると数段は上等そうなベッドだった。ベッドから足をおろし、用意されていたスリッパに素足をいれて、綱吉は立ち上がる。
寝室の照明はわざと明度を落としているのか薄暗かった。壁際には大きめな観葉植物がふたつほど並べられ、壁一面が収納になっているのか――おそらくは服飾を納めておくような場所なのだろう――、細い線が等間隔ではしっている。薄闇のなか、綱吉は扉へ近づいていき、ドアノブを回して寝室から出た。
寝室を出た先にあった部屋は、綱吉が普段暮らしている部屋の五倍はあろうかというほどに広かった。大きく立派な応接セットが部屋の中央よりに置かれ、壁際にはスクリーンのようなテレビが置かれ、部屋の端にはキッチンが設けられており、その近くにはダイニングテーブルがあった。煩雑と言ってもいいようなくらい、様々な家具と調度品が壁際を飾り、目がちかちかとするような部屋だった。
ぐるりと部屋を見回した綱吉は、見つけた扉へ近づいていった。しかし、その扉にはドアノブはなく、銀色の美しい文様が刻まれた黒い鉄板のようなものだった。その扉の近くの壁に、オートロックのマンションなどに備えられている0から9までの数字のキーが並んでいるボードがあった。電子版の小さな窓には「LOCK」の文字が浮かんでいる。
「起きたのなら、手当をさせてもらってもいい?」
突然の声に驚いた綱吉は、跳ねるように身をひるがえして後ろを振り返った。リビングの応接セットの近くに、クローム・髑髏が小さな箱を抱えて立っていた。
「クローム」
名前を呼びながら綱吉は彼女に近づいていった。
「いま、どこにいたの?」
「隣の部屋。ボスが寝ていた部屋の向かい側」
言いながら、クロームは部屋の奥を指さす。大きな薄型テレビの右側奥に扉が一枚あった。
「ここに座って」
クロームに言われるがままに、綱吉はソファに座った。適度なやわらかさのソファに身体を沈み込ませた綱吉は、隣に腰をかけたクロームの横顔を眺める。ゆるやかに首のうしろで結ばれた黒い髪が華奢な背中にこぼれおちている。無機質的な綺麗さに包まれているクロームのことを眺めていると、綱吉は彼女が呼吸をして生きていることさえ忘れてしまえそうなくらいだった。
クロームは抱えていた箱を開け、救急道具を取り出してソファに並べ始める。綱吉はクロームに背中を向けるように座った。
「痛かったら、遠慮なく言って」
優しい動作でクロームの手が綱吉の後頭部を覆っていたガーゼをはがしていく。ぴりぴりとした痛みを感じたものの、口に出すほどの痛みではなかったので、綱吉は唇を引き結んで我慢をした。今の綱吉の中には流す涙もあげる悲鳴もなく、抗う気持ちもくじけてしまいそうになっていた。二度も意識を失ったことで、綱吉のなかの時間感覚は狂いだしてしまったのか、とても長い時間が経ったような錯覚がしていた。
「ねえ、クローム」
「なに? ボス」
「――オレが、こっちにきて、……クローム達と会って、どのくらい経ったんだっけ?」
「こちらの『ボス』が結婚式に行ったのは十月二日。私とボスが会ったのは三日の明け方で、いまは――十月四日の朝」
「……二日? オレ、二日の間に二回も気絶してるの?」
「そうね」
「なんか、疲れた……、すごく」
独り言のように呟いて、綱吉は唇を結んだ。
クロームは黙ったまま手を動かして、雲雀の殴打によって出来た傷の手当てをしている。まだ寝ぼけているようなぼんやりとしたまま、綱吉は部屋を眺めていた。ふと、先ほど見た、ドアノブのない扉を思い出して顔を動かす。手当をしていたクロームが不思議そうに綱吉の横顔を見ていた。
「どうかしたの? ボス」
「あそこ、どうして鍵が開いていないの?」
「内側からは開かないの」
内側から開かないということは、いくら豪華絢爛な内装の部屋だとしても、檻の中へ幽閉されたことと同じ事だ。綱吉は己の現場をすぐに理解して、深く落ち込んだ。
「そう……、そうなんだ……」
呟きながら、己の不甲斐なさや情けなさを思って、顔をしかめて歯を噛みしめる。元のように、クロームに背中を向けて座り直す。新しいガーゼを傷口に当てたクロームはテープでガーゼを固定すると、手当が終わったようで、小箱に救急道具をしまいはじめる。
ソファにきちんと座り直した綱吉は、救急箱のふたを静かに閉めたクロームの横顔を見つめた。視線に気がついたクロームは、小箱を応接セットのテーブルに置くと、姿勢を正して綱吉のことを見た。きれいなクロームの瞳を見つめた綱吉は、その瞳のなかに己の醜悪さを見つけたような気がして、泣きたいような気持ちになった。
「ごめん」
クロームがかるく目を見開く。
それでも、綱吉の言葉は止まらなかった。
「オレ、なんの役にもたてない、駄目で、愚図なやつで……」
「ボスは駄目でも愚図でもないわ」
「じゃあ、なんで、こんなところに閉じこめられてるっていうの?」
「ボスのことがとてもとても、大切だからよ」
押さえきれない衝動にかられて、綱吉は振り上げた握り拳でテーブルを叩いた。がたんとテーブルが激しく揺れ、中央に飾られていた背の低い花瓶が倒れて飾られていた花が散る。
「大切、大切っていうけど、オレは大切にされるような人間じゃないし、大切にされたくてボンゴレを継ぐって決めた訳じゃない!」
荒々しく息を吐いて、綱吉は苛立ちに任せてクロームを睨み付けた。
クロームは動揺することもなく、静かに――、まるで綱吉自身を映す鏡であるかように、綱吉のことを見つめていた。途端、綱吉のなかで苛立ちは霧散し、かわりに激しい後悔が湧いてきて顔が熱くなっていく。綱吉が閉じこめられたのは、綱吉自身に問題があるということを――、綱吉は本当は理解しているのだから、クロームを怒鳴りつけることはただの八つ当たりにしかならない。
おそらくは、真っ赤になっている顔を片手でおおって、綱吉はクロームに頭を下げた。
「ごめん。クローム」
綱吉が指と指の合間からクロームの表情を伺うと、彼女は微笑んで首を横に振った。倒れた花瓶から零れた水が絨毯にしたたってゆく。散ってしまった花をまとめて片手に持ち、クロームは花瓶をたてに直すと、ソファを立ち上がってキッチンのほうへ歩いていく。その背中に「ごめんね」と言葉をかけ、綱吉はふかくソファに座り直した。苛立ちと焦りに急かされるように片足が無意識のうちにリズムをとるように揺れてしまう。
「――くそっ、落ち着け、落ち着かないと駄目だ。怒鳴ったって、叫んだって、なんにも変わらないんだから……」
しばらくして、戻ってきたクロームは大きめのタオルを持ってくると、テーブルの水をきれいに拭き取った。そして濡れたタオルを持って再びキッチンルームへ行き、おそらくはタオルの処理をして、ソファに戻っていた。
そのころには、綱吉の心も落ち着きを取り戻すことに成功していた。ソファに座ったクロームに自然に笑いかけながら、綱吉は口を開く。
「よけいな仕事させて迷惑かけちゃってごめん。クローム」
「いいの。このぐらいのこと、迷惑でもなんでもないわ。――ねえ、ボス。まずは周囲をよく見渡してみて。そして、誰が何のために動いているのか、誰が何を考えているのか、自分が何をすることが一番の解決方法なのかを、ゆっくり思案してみて。みんなは、ボスを無意味に閉じこめている訳じゃないと思うわ。みんなはボスに考える時間を与えてくれたの。ボスは沢田綱吉なんだもの。重ねられた年月の違いがあれど、ボスはボス。私はボスならば、きっとこの苦難も乗り越えられると確信してるの」
水面に広がっていく波紋のように、澄んだ綺麗な声音が、綱吉のひび割れて乾いてしまっていた胸に染みこんでいく。目を閉じて、クロームの言葉がゆっくりと体の中を巡っていくのを待つ。温かいものが胸のあたりに宿るのを感じながら綱吉は目を開いた。そしてクロームの瞳を見つめ、感謝を込めて頷いた。
「ありがとう。クローム。……オレはオレだものね。しっかりしなきゃ――」
綱吉は、改めて室内を見回しながら、口を開いた。
「ここって、ボンゴレの屋敷の中なの?」
「ここは通称『鳥籠』。本邸が襲撃された際に使用されるボスの避難部屋。核シェルターに匹敵するくらいの頑丈さを備えてるわ。部屋数は六。バス、トイレも設備されてるし、ここの電源は本邸とは別の電源を保有してるから、もしも停電するようなことになっても平気なのよ」
「へえ。すごいね。でもさ、シェルターなのに内側からは開かないの? それって、なんかおかしくない?」
「緊急用のキーワードを打ち込めば内側からも開くことは可能よ。入ったら出られないシェルターでは使えないもの」
「そのキーワード、クロームは知ってるの?」
「ええ」
「教えて」
「だめ」
微笑んだまま、きっぱりとクロームは言う。
綱吉は上目遣いにクロームを見て、首を傾げる。
「ほんとに? だめ?」
「だめ」
「……そう」
さすがにクロームから無理矢理にキーワードを聞くことはできないと思い、綱吉は二度目の問答で引き下がった。きらびやかな室内を探るよう見回していると、おかしそうにクロームが笑い出した。不思議に思った綱吉が口を開く前に、彼女は言った。
「リボーンの言うとおり」
「へ?」
「ボスは無理強いして、わたしからキーワードを聞くようなことはしないって」
「あー……だってさ、女の子相手にけんか腰になろうとは思わないよ。それにさ、クロームから無理矢理キーワード聞いて、ここを出たってさ、どうせまた捕まって、元に戻されるに決まってるでしょ? ……なら、突破するよりもさ、『どうしたら外側から扉を開けてくれるようになるか』を模索するのが妥当なんじゃないかな」
まさしくそれが正解だとでも言うかのように、クロームは優しく微笑をした。そんな彼女の姿に、彼女のもう一人の主君である彼の姿が重なる。
クローム・髑髏のもう一人の主君――六道骸。
綱吉の頭のなかで、血を流す骸の姿が思い出された。
彼が、死ぬとは思えなかった。
いや。
死ぬなんて考えたくなかった。
綱吉はまとわりついてこようとする不安を払拭するように理性を奮い立たせる。自身の身体を見下ろしてみれば、綱吉が着ているのは未来へやってきたときと同じシャツとジーパンだった。着ていたジャンパーの胸ポケットには六道骸から預かった指輪が入っている。
「あ。オレの上着、ジャンパーある?」
「ええ」
クロームはソファから立ち上がり、綱吉が寝ていた寝室の中へ入っていった。そしてすぐに、綱吉が未来へ来たときに着ていたジャンパーを両手に抱えるようにして現れた。
「はい。ボス」
両手で差し出されたジャンパーを受け取り、綱吉は胸ポケットのファスナーを開けて中に手を入れる。そこには六道骸から預かった霧の指輪がある――だけのはずだった。しかし、綱吉の指先には小さな金属が二つある感触がした。片手で掴んで手をポケットから出し、手のひらを開いてみると、そこには指輪が二つころりと姿を現した。
「――指輪が……二つ?」
クロームが綱吉の隣に座りながら囁く。
綱吉はジャンパーをソファの背もたれにかけ、手のひらのうえの指輪を眺めた。
「あー……。ひとつは骸の、霧の指輪なんだけど――。もう一個はオレのだね、大空のリング……、なくしたとは思ってなかったけど、ここに入れておいたの、忘れてたよ」
「大空の指輪。ボスの指輪ね。……ボスは指輪、していなかったの?」
「オレ、高校に通ってるころはしてなかったんだ。学校にはそういう装飾してくのって普通は禁止されてるから。――たまに、遊びに行くときとか、出かけるときとか……、そういうときにつけるぐらいで。だいたいは机の引き出しのなかの指輪ケースに入れておいたんだよ」
「そうなの……」
「ジャンパーに入ってたのはね、同じ高校の子がね、恐喝されそうになってたから、指輪外して、ちょっと相手をこらしめたんだけど――。そのあとで、指輪するの忘れてたみたい。なくさなくてよかった。もしもなくしたなんて言ったら、リボーンの奴にものすごく怒られるとこだったよ――」
「そうね。もしも、ボンゴレリングをなくしたなんて言ったら、リボーンはとても怒ると思う」
「そりゃあもう! オレ、もしかしたら殺されちゃうかもしれない」
綱吉は、己で言いながらも、ぞくりと背筋が寒くなる思いがした。大空のリングを右手の中指にはめる。ひんやりとしていた指輪の感触が、次第に綱吉の肌の熱を奪っていく。
手のひらに残った霧の指輪をどうしたらいいか迷い、綱吉がクロームへと渡した方がいいのではないかと思った。綱吉が視線を動かしてクロームを見ると、彼女は綱吉の考えを悟ったのか、小さく首を振った。
「それはボスが持っていて」
「え、でもこれは――」
「私はもう霧の守護者じゃないわ。……それは、ボスが骸様から託されたものでしょう? なら、ボスが持っていて」
「……そう。わかった」
頷いて、綱吉は右手の人差し指に霧の指輪をはめた。骸と綱吉は少々体格差がある。指のサイズだって明らかに違うはずだというのに、指輪は不思議なことに綱吉の人差し指にぴったりだった。気味の悪い指輪だとは思っていたが、目の前でまざまざと不可思議な現象を見せつけられて、綱吉は指輪をじぃっと見つめた。
綱吉の運命と、綱吉に関わっていた友人、知人達の運命を圧倒的な力で書き換えたものが、綱吉の指を重たく彩っていた。指輪をした両手を握り込み、綱吉は両腕を膝のうえにのせ、背中を丸めるようにして座る。
ずきりと雲雀に殴られた頭が痛んだ。
痛みに導かれるように、リボーンの暴言が思い出される。骸が綱吉のために死んだとしても仕方のないことだと言わんばかりの彼の言動が、綱吉の心を暗い炎で焦がしていく。未来に来てからずっと、綱吉は混乱していた。そのことを今は恥じるくらいに思い知っている。無様にも混乱する綱吉に苛立っているから、リボーンは綱吉に酷い言葉を投げてくるのだろうか。だがしかし、綱吉は彼から強い拒絶を感じていた。まるで「おまえはツナじゃない」と「おまえはいらない」と言われているような気がして、さらに綱吉の神経を逆撫でた。
胸のあたりがむかむかとしてきて、綱吉は深い溜息をついた。丸めていた背中をのばし、そのまま柔らかいソファに背中をうずめる。クロームはソファに上品に座ったままで、綱吉の視線を微笑んで受け止める。
「あのさあ、クローム。この時代のオレとリボーンって仲悪いの?」
「どうしてそう思うの?」
「なんか、リボーン、オレのことをすごく憎んでるような、そんな気がして。――クロームは何か知ってるの?」
「ええ。知ってるわ」
「教えて」
「出来ないわ」
「……どうして?」
「リボーンとボスのことを話すことはできないわ。あなたをこれ以上、混乱させてしまう可能性が高いから。でも、ボス、聞いて欲しいの。リボーンは決してボスを憎んだり、嫌ったりはしてないわ。その逆よ」
「逆って、好きってこと? そんなふうな感じじゃあ、なかったけどな……」
「ボスのことが嫌いならば、リボーンは此処にはいないでしょう? 彼が此処にいる理由はボスなのよ」
「リボーンが、此処に、いる理由?」
リボーンが此処にいる理由。
九年と半年後の世界では、綱吉は二十七歳だ。とても家庭教師が必要な年ではない。もしかしたら、未来の綱吉は、リボーンと新しく契約を交わしているのかもしれない。リボーンは有能すぎるほどの殺し屋だ。マフィアのドンらしく、プロの殺し屋を雇ったということだろうか。だがしかし、リボーンは常々、誰とも契約などしない。オレはフリーの殺し屋なんだと言っていた。そんな彼が未来の綱吉と契約を交わしたとなれば、いったいどんな契約をしたのだろうか。――悶々と考えてみても、過去の存在である綱吉には答えは分からない。
そもそも、リボーンは自己中心的で自分勝手で横柄で自尊心が高く、綱吉程度の人間に扱えるような人種ではないはずだ。そんな彼がボンゴレの十代目のもとにいるということは、それ相応の報酬、もしくはメリットがあるということになる。金か地位か名声か。そのいずれも、リボーンにとってはすでに手に入れているものばかりだろう。彼は天才的な殺し屋なのだ。
ぐるぐると綱吉が堂々巡りな考えに陥っていると、クロームが静かにソファから立ち上がった。ハッとして綱吉が俯いていた顔をあげると、彼女はキッチンのほうを指さした。
「朝食を用意してあるの。キッチンに行ける?」
「――食欲、ないよ」
「ボス。二日、食べていないはずでしょう。なにか食べないと身体も気持ちも良くならないわ。厨房の人達も心配しているのよ。ボスが体調をくずしてしまったって、屋敷の人達には伝えてあるから。……だから、消化の良いものを特別に用意してくれたのよ」
「オレは……。ここのみんなが、心配してくれるような、奴じゃあないよ」
「悲しいことを言わないで。お願いよ。ボス」
眉尻をさげ、今にも涙をこぼしそうなほどに悲しげな顔をして、クロームがあごを引く。長い黒髪がさらりと動いてクロームの細い面にかかる。綱吉は慌ててソファから立ち上がり、俯いてしまったクロームの前に立った。
「わかったよ! 食べるよっ」
「――よかった」
ふんわりと幸せそうにクロームが笑う。綱吉はどきどきしながら笑みを返した。恋愛感情に直結するわけではないが、綱吉は綺麗すぎるクロームの姿にずっと緊張していた。昔、笹川京子に憧れていたときのような、甘酸っぱいような気持ちがじわじわとこみ上げてくる。
先を歩くクロームに導かれるように、綱吉はカウンターのあるダイニングルームへ向かった。キッチンにあるダイニングテーブルは四人がけで、ふつうの核家族が使うような大きさだったが、椅子やテーブルの縁に施されている細かい装飾のせいで、ずいぶんと高価そうな印象がした。テーブルのうえには細かく刻まれた野菜が浮かんだコンソメのスープ皿とみずみずしいフルーツがもられた小皿があった。硝子容器に入っているのはヨーグルトで、こちらには少しだけフレークがのせられていた。
食欲がないことは本当だったが、テーブルのうえに並べられた料理ならばどうにかすべて食べる事ができそうだと思いながら、綱吉は席についた。綱吉の席の隣に立ったクロームはテーブルのうえに置かれていたグラスを手に取り、同じくテーブルのうえにのっていた硝子製の細いピッチャーからミネラルウォーターを注ぎ入れて、綱吉の前におく。
「クロームは?」
「私はもういただいたわ」
「そう。――じゃあ、いただきます」
銀色のスプーンを手にとってスープを飲み始めると、リビングの方で電子音が響き始める。口の中のスープを飲み干した綱吉は、歩き出そうとするクロームの背中に問いかける。
「――なんの、音?」
「電話のコール音。見てくるわ」
そう言ってクロームは部屋の隅へ歩いていく。調度品が飾られているサイドボードの上にある、ノートパソコンのような端末の前に立つと、クロームは画面を指先でタッチする。何か会話する声が聞こえてくるが綱吉とクロームとの距離は室内といえど五メートル以上も離れているので、言葉は聞き取れない。
端末から顔をそらしたクロームが片手をあげて綱吉のことを手招いた。綱吉はスプーンをスープ皿のなかに沈ませたまま――マナー違反だとリボーンに叱られると思いつつも――、椅子から立って早足でクロームのもとへ近づいていく。
「どうかしたの?」
「ボス、――来て。ボスと話したいって人がいるの」
「へえ?」
綱吉が相づちをうちながら端末の画面を見ると、そこには大人びてはいるものの、よく知っている人物が満面の笑みを浮かべていた。背景はイタリアのどこかの町並みのようで、彼が座っている椅子のうしろには、カフェテリアの風景が広がっている。
「『はぁあい、ツナちゃん、おっひさー。俺が誰だか分かっちゃったりするするぅ?』」
ばちん、と音が出そうなくらいにウィンクをした青年は、黒いシックなスーツには不似合いなごてごてとしたカラフルな装飾品を腕や首、髪に飾りつけていて、一目見れば覚えてしまいそうなくらいの強い印象を残すような風体だった。
思わず失笑をもらしながら、綱吉は端末の画面でにっこにっこと笑う彼――内藤ロンシャンに対して何回も頷いた。
「ロンシャン、だよね?」
「『イエッス! 正解ッ! 大正解ッ!』」
両手を身体の前に差し出してピースしたかと思うと、一人で盛大に拍手を始める。あまりの騒がしさに一般客が振り返るのを、ふんわりとしたレースで飾られたドレスを着た後ろ姿が咎めるようにロンシャンの背後に立った。ロンシャンと共にいる少女――というか、未来なのだからすでに女性と呼んでもよい年齢だとは思うが――は、おそらくパンテーラだろう。
パンテーラのフォローに一切気が付かない様子で、ロンシャンは画面に向かって大はしゃぎをしている。思わず溜息をもらしながら、綱吉はしかめ面でロンシャンを見た。
「あのねぇ……。間違えようがないよ、おまえのことなんて。っていうか、――ロンシャンもイタリアにいるの?」
「『そうっすよ。これでもトマゾを背負ってるのよ。どうよどうよ、ボスらしくなったっしょ?』」
スーツの襟を両手で正してロンシャンが胸を張る。
綱吉は微笑ましい、旧友の態度に笑ってしまった。
「変わってないね、ロンシャン」
「『えぇえぇー、そりゃあ、ないんじゃないのお、ツナちゃん! ここは、『ロンシャン、立派なボスになったんだね!』って俺を褒め称えるとこでしょうに!』」
「ああ、そう? じゃあ、おめでとう。ドン・トマゾ」
「『えっへっへー、ありがとう。ドン・ボンゴレ!』」
顔を赤らめてくねくねするロンシャンの態度がおかしくて、綱吉はほんとうに、心から楽しくなって声をたてて笑ってしまった。昔は彼の人の話を聞かないところによくイライラしたり、うんざりしていたが、ロンシャンの良さはロンシャンらしさだということに気がついてからは、苛立つこともうんざりすることもなくなった。
隣にいたクロームも笑っていた。綱吉はクロームと顔をあわせて笑う。人と笑いあったことが、とても遠い日の記憶のように思えて、ひどく懐かしい思いが綱吉の胸に去来した。
泣いたり叫んだりすることは簡単だ。
笑うことのほうがよっぽど、難しい。
笑いすぎて、深く息を吸い込みながら、綱吉は端末の画面に映っているロンシャンを見た。彼は――、二十七歳の内藤ロンシャンは、ふざけた態度をやめ、綱吉が見た事もないような、優しい顔をして、テーブルにほおづえをついていた。なんだか、どきりとして、綱吉は微妙に微笑んだまま、首を傾げてしまう。
「ロンシャン?」
「『そうそう。ツナちゃんはね、笑っててくんないと駄目な訳よ』」
独り言のようにつぶやいて、ロンシャンがきれいな歯並びをみせるように笑う。
「『ロンシャンお兄さんが、必ずきっと、バズーカの出所をつきとめて、犯人をとっ捕まえてぎったんぎったんにしてやるからねェ。待っててね、ツナちゃん」
「捕まえるって。ロンシャン、無理なことは――」
「『ドン・トマゾに任せておけばいいのよ、ツナちゃん。じゃあねー、またね』」
片手をひらひらとさせたロンシャンの手が、画面の下へ伸びたかと思うと、ぷつり――と映像が消える。画面に浮かんだのは回線切断という四文字だった。
「ロンシャン!」
綱吉は端末に手を伸ばしたが、どうやって操作するか分からずにただ両手を持ち上げただけだった。クロームに「電話、かけなおしてみる?」と問いかけられたが、綱吉は電話をかけ直しても何を言ったらいいか分からなかった。所詮、綱吉はこちら側の世界の己の立ち位置も彼等の立ち位置も知らない。何も知らない綱吉に、ロンシャンがやろうとしていることを止められるだけの理由も言葉も思いつかなかった。
「あいつ、いったい何をする気なんだよ……」
独り言を呟いて、その場に綱吉はしゃがみ込む。
「ボス、気分が悪いの?」
心配そうなクロームの声に綱吉は顔をあげ、すぐに立ち上がる。落ち込みたい訳ではなかった。トマゾがボンゴレの――ロンシャンが綱吉のために動いている。
他にも綱吉のために動いている人間がたくさんいるはずだ。
彼等が立つ場所が危ういものだということを綱吉は嫌と言う程に知っている。
これ以上、守られてばかりなのも、匿われてばかりなのも、綱吉は御免だった。
「――クローム。トマゾはボンゴレと同盟を結んでるの?」
綱吉の顔を見て、まるで見とれてでもいるかのように、すこしの間をあけたクロームは、こくりとうなずいた。
「ええ」
「じゃあ、ロンシャンがドン・トマゾ?」
「そうよ。彼がトマゾを継いだのは、ボスから数年遅れてだったけれど――。昔は敵対関係だったトマゾとボンゴレが、ボスと彼の代になって同盟を結ぶことになって、わりと騒ぎになったのよ」
「そうなんだ。――同盟っていえば、キャバッローネは? ディーノさんはどうしてるの? 元気でいるの?」
「ドン・キャバッローネも元気でいると思うわ。今回のことで、ボンゴレは、キャバッローネの情報網と人員を少し、借りているみたい」
「そっか。……みんな、いろいろ動いてくれてるんだ」
目を閉じると、まぶたの裏にいろいろな人の顔が浮かんでくる。
綱吉はゆっくりと深呼吸をしてから、両手をぎゅっと握りこむ。
「あのさ、クローム」
「なに?」
「俺が巻き込まれたっていう爆破事件? その詳細とか分かる?」
「獄寺隼人が整理したものがあると思うわ」
「それって、オレが読んでもいいものかな?」
「ボスが資料を読みたいと言うのなら、それを止める権利は誰にもないはずよ。すぐに誰かに用意してもらうわ」
「ありがとう。お願いね。あ! あとさ――こっちの時代のオレの服ってある? それと、えーと、なんて言えばいいかな……、こっちの時代のオレが喋ったりしてる、映像っていうの? ビデオ? そういう記録って何かあるかな?」
「服はすぐに用意できると思うわ。――映像は……、ランチアに聞いてみる。就任式のときとか、身内のパーティのときにビデオを回してるときがあったと思うから」
「ありがとう」
「ビデオを見て、何をするつもりなの? ボス」
クロームが不思議そうに片目を瞬かせる。
綱吉は真っ直ぐにクロームの瞳を見つめ返す。
「オレは『オレ』を知らないといけないと思ったんだ。みんなが必死に守ろうとしている『オレ』を、オレは知りたい」
そう言って、綱吉は頷いた。
この時代に沢田綱吉は一人しかいない。
この時代のドン・ボンゴレは沢田綱吉だ。
ならば、綱吉はドン・ボンゴレとして、この世界に立たなければならない。
十八歳。
卒業の春。
肌寒い早春の朝、目覚めた綱吉は己の運命を悲観する事も、呪うこともしていなかった。
高校を卒業し、イタリアへ渡ってしまえばもう後戻りすることなど出来ない。
想像もしない恐ろしいことや涙を流すことがたくさんあるだろう。
痛い思いをし、血を流し、幾たびも幾たびも嘆くような惨憺たる物語があることだろう。
だがしかし、綱吉はもう逃げようとも惑おうとも考えていなかった。
綱吉の側には頼りになる家庭教師がいて、信頼できる守護者達がいて、なにかと気にかけてくれる知人達がいた。それらはすべて綱吉がドン・ボンゴレを継ぐ運命に足を踏み入れなければ、到底得る機会などないようなものばかりだった。
だから綱吉は選んだ。
どんなに苦しい道でも、『彼等』と歩けるのならば、それで良いのだと覚悟をした。
綱吉がいるのは、未来の綱吉が生きていた世界だ。
自分が生きようと選んだ世界に、いま、綱吉は立っている。
「――オレが、選んだんだ」
声に出さずに綱吉が囁くと、気が付いたクロームが首をかしげる。
彼女が何かを言う前に、綱吉はクロームに優しく笑いかけた。
「食事、食べてくる。――なんか、食べられそうな気がするから、何か他に軽食で用意してもらってもいい? って、なんか、オレ、急にあつかましくなってる? ごめんね」
ゆっくりと首を横に振ったクロームは、右手で胸元をおさえるようにして触れ、頷いた。
「いいの。ボス。――なんでも言って。あなたが為すべきことを手伝えるのならば、私はとても嬉しい」
「ありがとう。面倒かけるかもしれないけれど、協力してね。クローム」
綱吉の言葉を聞き終えたクロームは、片手でワンピースのスカートをつまむと、上品な仕草で膝をおる。優雅な微笑を浮かべたクロームがわずかに頭を下げると、絹糸のような黒髪がさらりと彼女のすべらかなあごもとへこぼれおちてゆく。
「ええ、すべてあなたの望むままに。マイ・ボス」
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