腹部に鉄くずを突き刺したまま、骸はナイフを持っていた男をあっという間に倒してしまった。しかし、刺客がその男で終わりという確証はどこにもない。四名は襲ってくる刺客をことごとくやり過ごして駐車場までたどり着きそうになったが、そこは教会と同じく、ほとんどの車が爆破されていた。そして見るからに敵意をもった男達が大勢うろうろと歩き回っていたので、無事な車を奪取出来る確率は低そうだった。

 とにかくいったんは身を隠して傷の応急手当をしたり、今後の行動を考えねばならないと了平が考えていると、リボーンや骸も同じことを考えたのか、ほぼ同時に三名とも木々が鬱蒼としげる林の中へと走る向きを変えた。
 了平とリボーンに挟まれた形で走る綱吉の顔は青白く、もはや現状を理解する前に身体だけが周囲の言うがままに必死に動いているだけのように見えた。小枝や枯れ木を踏みしめて木々の合間を走っていく。呼吸はすでに上がっている。後方から追っ手がやってくる気配がしていた。骸はどうにか走っているものの、少しずつ三名よりも遅れそうになっていた。了平はリボーンに視線を送る。彼は気がついて了平と目を合わせ、そして頷いた。了平は綱吉の腕を放し、数メートルほど後方を走っていた骸の腕をとって肩に回し、並んで走り出した。骸は何も言わず、苦笑しただけだった。走りながら、リボーンが振り向く。了平達の遙か後方へ向かって、彼は連続で引き金を引く。応戦するように背後で発砲音がしたものの、弾丸は走っている了平や骸達に命中することはなかった。
 どれくらい走ったかは分からないが、背後からの追っ手の気配が消え失せてしばらく経った頃、四名はなだらかな斜面の一角にできた地面のうろを背中にし、身を隠した。重なり合った木々の葉が晴れ渡っていた日差しを地面に降り注ぐ前に消してしまうかのごとく、森は薄暗く不気味な静けさを辺りに漂わせていた。
 四名ともあがった息を整えるために少しの間は荒い呼吸を繰り返した。リボーンは片手を頭の後ろへやり、傷口がどの程度なのか確認していたようだったが、真っ赤になった手を見て眉間にしわを深く刻んだだけで、手当らしい手当はしなかった。
 骸はうろの壁に背中を預けて座り込み、足の傷口に巻いているネクタイをさらにきつく締め上げた。ぬらぬらと赤く塗れた布地から染み出た赤い血が枯れ木の積み重なった地面へとぽたりぽたりと落ちていく。
 了平の視線に気がついた骸と視線があう。
 彼は己の腹部と足の傷口に視線をやったあとで、肩をすくめるような仕草をした。骸の額や首筋には汗が浮き、どんなおどけた態度をとろうとも――、彼の状態が最悪であることを物語っていた。

 骸の近くの地面に座り込んだ綱吉は、両手をついて背中で息をしていた。時折咳き込みながらも息を整えた彼は、不安げに顔をあげ、うろの前に立って周囲を見張っている了平とリボーンを見た。濡れた瞳は赤く充血し、顔色は相変わらず蒼白で、無表情に近かった。

 あまりにも綱吉が痛々しくて、了平は彼の目の前に片膝をつき、綱吉の肩を片手で掴んだ。びっくりしたように目を開いて、綱吉は大きな琥珀色の目を了平に向ける。綱吉の前髪の隙間から、走ったせいで浮かんだ汗がすぅっと流れ落ちていった。

「沢田、気をしっかりもて」

「あの……、ここ……」

 まるで自動で稼動する人形のように綱吉はゆっくりと瞬きをする。

「ここは20●△年の十月二日だ。おまえはいつから来たんだ?」

「――20××年、三月、五日」

 綱吉が答えた矢先、けふりと骸が突然にむせこんだ。とっさに口元を覆って背中を丸めた骸の手元から細く赤い血が滴った。息をつまらせた綱吉は、けふけふと咳き込んだ骸の側に近寄る。綱吉は両手を持ち上げたのだが、どう触れて良いのか分からず、悲しげに顔をゆがめて、血を吐いた骸のことを見つめていた。

「骸、ねえ、骸、大丈夫なの? それ、抜いたほうがいいんじゃないの?」

「抜いたら大量に出血して、すぐに意識を失ってしまいますから、このままでいいんですよ」

「そんな……」

 言葉をつまらせた綱吉の右目の縁から、涙がもりあがって流れていく。それが合図だったかのように、ぼろぼろと両目から涙を流しながら、綱吉は嗚咽で肩を震わせ始めた。骸の怪我だけでなく、さきほど目にした惨状の影響もあってか、もうすぐ二十歳にもなろうとしているはずの綱吉は、子供が泣くかのように両手で顔をぬぐいながら泣き出した。
 スーツの袖で、赤く染まった口元をぬぐった骸は、泣いている綱吉の揺れる髪に血で汚れていないほうの手の指先で触れる。髪に触れられた感触を悟ったのか、嗚咽を飲み込みながら綱吉が顔をあげる。骸は綱吉の涙に濡れた頬に指先で触れながら、微笑んだ。

「泣かないでください」

「――むくろ」
「男がグズグズ泣くんじゃねえ。泣いたって、何も変わらねーんだからな」

 冷酷な響きを含ませたリボーンの声音に骸は苦笑し、綱吉は信じられないことを聞いたかのように大きく目を見開いてリボーンを見た。その左目のふちに涙がこぼれ落ちずにたまる。一瞬の間――、綱吉は骸の腕を両手で掴んで、涙の浮かんだ瞳に怒りを宿してきつくリボーンを睨みつけた。
 
「おまえって、いつもそうだよな、いつも、いつも――」

 こみ上げてきたものを言葉に出来なくて、綱吉は悔しそうに歯を噛みしめる。リボーンは口元にせせら笑うような色をのせて、骸に身を寄せるようにしている綱吉を冷たく見下ろす。了平はとっさに立ち上がり、口を開こうとしたリボーンの肩に触れる。彼はうすく開いた口を閉じ、了平を見上げた。その瞳が少しだけ冷静さを取り戻すのを確認して、了平は彼の肩から手を引いた。

「何が起きたと思う?」

「そうですね。現象だけで言うのならば、車と教会に爆弾がしかけられていた。狙われていたのは花嫁でも花婿でも、両家のドンでもなく――、我々のようでした。現に、刺客に襲われたのは我々で他の招待客にはノータッチでしたからね」

 了平の問いかけに骸が静かに答える。
 リボーンが舌打ちし、握った拳で近くの木の幹を殴った。鈍い音に綱吉が首を縮めて怯えるように肩を揺らした。

「一度目の襲撃のときに、とりやめておけばよかった」

「いまさら言っても遅いですよ」

「そもそも、あんなくだらない結婚式に参加させたのが間違いだったんだ」

「リボーン」

 骸に呆れを含んだ声音で名を呼ばれ、リボーンは目線だけを動かして骸を見た。鈍感だ鈍すぎると揶揄される了平ですら、感じ取れるほどわかりやすい殺気をリボーンは周囲に放っている。
 殺し屋たる彼は殺気を隠すことに関してはエキスパートだ。そもそも殺気が隠せないのならば殺し屋などという職業に就けるはずもない。伝説の殺し屋とも言われる彼の殺気が、意識せずとも肌に直接突き刺さるかのように感じられること事態、異常だった。

「あなた、ちょっとおかしいですよ。いつものあなたらしくない」

 リボーンは何も答えずに、幹を殴りつけた拳をおろした。
 面々の間を妙な沈黙がおりてしまう。
 了平は小さく咳払いをして、話題を元に戻した。


「あの、仮面に心当たりは?」

 骸は首を振る。
 リボーンも同様に首を振った。
 了平ももちろん見たこともなかった。

「あ」

 骸が小さな声をあげる。

「携帯電話――、連絡はとれそうですか?」

 素早くリボーンと了平がスーツの内ポケットを探る。携帯電話をひらいて画面を確認すると電波がない。リボーンも同じだったのか、短く首を振る。

「林のせいか、電波がないようだな」

 遅れて、スーツの内側から携帯電話をとりだした骸がため息混じりに「そのようですね」と相づちをうった。電話をポケットにしまいなおした骸は、細長く息を吐き出したあとで、片手で左目を覆った。

「僕がクロームと連絡をとってみます」

「それは、極限に身体に負担がかかるんじゃないのか?」

「それしかないでしょう? 綱吉くんを――」

 骸は視線で十八歳の綱吉を示して、片目を細める。

「この綱吉くんを一刻も早く、あの堅牢なボンゴレの屋敷のなかに匿わないとならないんですからね。しばらく無防備になるんで、警護のほうはよろしく――」

 骸は両目を閉じて、うろの壁に身体を預けてしまう。その姿は眠っているようにしか見えなかった。三名の会話を聞いているだけで精一杯の様子の綱吉は、急におとなしくなってしまった骸を不安そうに眺めている。うろに寄りかかっている骸のすぐ側に座り込んでいる綱吉の横顔は、よく観察してみれば髪がまだ幾分か現在の綱吉よりも短く、顔立ちも幼さが残っているように見えた。

「沢田」

 了平が呼ぶと、綱吉は骸の腕を片手で掴んだまま、了平のことを見上げてきた。まるで迷子の子供のように不安と焦燥に揺れる瞳に了平の心は苦く痛んだ。

「××年の三月ということは、卒業式のあたりか?」

「え、あ……はい。卒業式、当日でした」

「そうか。京子はどうしていた?」

「京子ちゃん、みんなとお別れするのが寂しいって言って、泣いてました。でも、笑ってました。――手紙を書く約束しました」

「そうか」

 綱吉自身が分かる内容で話をしたせいか、彼の顔に表情らしきものが戻ってくる。了平と視線をあわせると、綱吉は少しだけ微笑んだ。その照れくさそうな仕草が、綱吉らしくて了平は彼が彼であるのだとつよく確信した。

「……ここ、未来、なんですね」

「ああ」

「オレは、未来のオレは――、ドン・ボンゴレなんですね?」

「ああ。そうだ。俺が誇りに思い、心から慕うドン・ボンゴレになっているぞ」

「そうですか……」

 安心したのか。それとも諦観したのか。
 どちらともとれそうな曖昧な表情で綱吉は頷いた。そして伺うような視線をリボーンへと向ける。リボーンは綱吉の視線に気がつかぬふりをするかのように、遠くを眺めていた。綱吉が無事にドン・ボンゴレに就任したとなれば「家庭教師」であるリボーンがどうして側にいるのか。疑問に思ったのかもしれなかった。

 家庭教師としての任を九代目から解かれたリボーンが、再び十代目たる綱吉と契約を交わした事実があることを、過去の綱吉が知るはずもない。

 それだけでなく、リボーンが、どれだけ未来の綱吉にとってかけがえのない、失えない存在なのか――すら、過去の綱吉は理解していないのだ。

 了平も骸も動揺している。
 しかし、それ以上に動揺し、混乱しているのは――リボーンなのかもしれない。

 リボーンは、了平の視線にすら気がつかないふりを決め込むかのように、辺りを警戒し続けていた。


「了平さん?」


 急に黙り込んでしまった了平をいぶかしむように綱吉が言う。

 了平は綱吉の前に片膝をつき、彼の琥珀色の目をまっすぐに見た。
 綱吉は戸惑ったように一度、了平から視線をそらしたが、すぐにまた元に戻した。


「沢田。手を出せ」


 言われるがままに、綱吉は両手を了平のほうへおずおずと差し出した。了平は一まわり以上も小さな綱吉の両手を――緊張のせいかひどく冷たく強ばっていた手を――両手で力強く握った。綱吉は両手を見下ろし、泣くのをこらえるかのように唇をきつく引き結んだ。


「大丈夫だ。俺達が必ずおまえを守り通す。そして、必ずおまえを元の時代へ送り返してみせるからな。安心していろ」

 了平に両手を握られたまま、綱吉は唇を引き結んで下を向いてしまう。うつむいた彼の顔から、ぽたりぽたりと透明な滴が落ちて枯れ木を濡らす。

「――泣くな。沢田」

「ごめんなさい。……なんか、もう……」

 両手でめちゃくちゃに顔をぬぐいながら、綱吉は無理やりに笑おうとした。
 十八歳。
 彼が十八歳のとき、了平は十九歳だった。
 そのとき、どんなことを考えていたのか――。もう思い出すこともできない。ただひとつ、変わらずに胸にあるのは、沢田綱吉という人間がマフィアをやるのならば、笹川了平は彼の信念を貫くために拳を振るう。それだけだ。
 ぎこちなく笑う綱吉の頭を片手で撫でる。了平の大きな手に撫でられた彼は、まだ蒼白そうな顔で必死に泣くまいと唇と目元に力をいれていた。


「ずるいですね」


 うろの土壁に身体を預けたままの格好で、骸が両目を開いていた。不機嫌そうにゆがめられた顔をした彼は、片方の眉だけを神経質そうに跳ね上げて了平を見た。


「笹川了平、僕に黙って綱吉くんの手を握るなんて所行、許されませんよ?」

「どうして、おまえに断らねばならんのだ」

「……あなたは本当に油断のならない人だ」

「骸」


 心配そうに綱吉は骸の側へ行き、その傍らにしゃがみ込んだ。骸は微笑ましそうに近寄ってきた綱吉を眺めて「大丈夫ですよ」と優しく言う。骸の手が綱吉の手に触れると、綱吉は彼の手を両手でぎゅうっと握った。了平はとっさにリボーンの様子をうかがってしまう。綱吉は怪我をしている骸を心配している。手を握ったのも元気づけるためであって綱吉に他意はない。あるとすれば六道骸か。もしくはリボーンか。
 骸は己の手を握りしめる綱吉を幸福そうに見つめ、――その瞳を了平に向けた。

「クロームと連絡がとれました。すぐに迎えと人員を手配してくれるそうです。詳しい位置は携帯のGPSで探知するしかないのでこの林をもっと南下して――、電波の届く位置に行くしかありません。追って側にこちらの動きがどれほど漏れているかは分かりません。事は一刻を争います。いかに早く、綱吉くんを護るか。それが我々に課せられた使命であることを、あなた達は理解していると、僕は思っています。」

 了平の隣にリボーンが並ぶように立った。
 うろの壁に身体を預けたままの骸は、にっこりと微笑む。

「リボーン。笹川了平。僕を置いていきなさい」

「え――?」

 驚いた反応をみせたのは綱吉だけで、了平もリボーンも動揺しなかった。

「あなた達二人で綱吉くんを連れて急いで南下するんです」

「い、嫌だ!! なんでだよ! 骸も一緒に!」

 骸の両肩を掴んだ綱吉が青い顔で叫ぶ。

「無理です。一度、こうして休んでしまいましたしね。身体がもう、思うように動きません」

「いやだ!!」

 甲高い声で叫んだ綱吉は、骸の身体に横から抱きつくように腕を回した。そして嫌々をする子供のように首をふって「いやだ、そんなの絶対にいやだ!」と言葉を繰り返す。

「熱烈ですねえ」

 両腕も両足も動かさず、綱吉にされるがままに抱きしめられた骸は、大怪我をしていることすら他人事のように吐息で笑う。身体を話した綱吉は、汗のういた骸の顔を両手ではさむようにする。

「置いていける訳ないだろ? そんなことできるわけ、ないだろ!」

 了平ですら、心の隅で考えている。
 彼を此処に置いていくことは彼を見殺しにする事と同じ事だ。
 昔の己ならば絶対にそんなことなど許しはしなかった。必ず骸を連れて帰っただろう。
 しかし、いまは違う。
 了平には、了平達には『己の生命を犠牲にしても』守るべき生命と誇りと血脈がある。

 笑った骸を信じられないものを見たかのように見つめた綱吉は、顔を涙でぐしゃぐしゃにしたまま、骸の両肩を掴んで肩口に額を寄せる。

「こんな状態のお前をおいてなんていけない! 動けないって言うんだったらオレがおぶってやるから、だから一緒に行こう!!」

「駄目です。僕を連れていくだけで、どれだけ時間がロスすると思ってるんですか? こうしている間にも時間というものは過ぎていくのです。とっても幸せですけれど、そろそろ抱擁を解いて行ってください」

「嫌だ、こんな姿のおまえを置いていくなんて、そんなの、そんなの――、そんなのって、ないよ……」

「はあ……。仕方ありませんねぇ」

 嘆息まじりに言った骸が右腕を持ち上げ、左手で綱吉のことを突き飛ばした。骸の行動を予測していなかった綱吉は背後へ倒れかけたが、片手を付いて倒れ込むのを阻止した。
 持ち上げた骸の手に、三又の槍が姿を現す。あざやかな仕草で、持ち手を短く持ち替えた骸は槍の刃を――己の首に添えた。つぷり。と、ためらいもなく、骸は己の首筋の皮膚に槍の切っ先を浅く沈ませて、微笑んだ。


「あなたがいま、ここで行かないと言うのならば、僕は此処で死ぬことにします。あなたの躊躇いをここで断ち切る方をお望みならば、どうぞそのままでいてください。さようなら。綱吉くん。いままでありがとうございました。お元気で――」


 ひとかけらのためらいもなく、骸の右腕が右から左へと動く刹那、綱吉は「やめろ!」と叫びながら骸の右腕に飛びついた。ほんの指先程、わずかに切り裂かれた骸の傷口からは新しく赤く鮮やかな血が流れ、皮膚のうえを伝って落ちていく。瞬きすら忘れたかのように綱吉は骸を睨みつけて、悔しそうに歯を噛みしめて嗚咽すらこらえるように唇を引き結んだ。

「ばかやろうっ」

 吐き捨てるように言って綱吉は骸の右腕を両手で強く掴んだ。骸はパフォーマンスは終わりとでも言いたげに手首をかえして槍を消滅させると、泣きだした綱吉をなだめるように彼の頭を何度も何度も右手でなで続けた。

 骸の突飛な行動に、とっさに了平は動けなかった。
 あのまま、骸が喉をかき切って死んだとしたら――、いまの沢田綱吉には受け止めきれないだろう。いまの綱吉の恐慌状態からいって、精神的におかしくなるに決まっている。それを分かっていて、わざと『綱吉が止めるのを分かっていて』骸は『本気で自害』しようとしたのだ。もしも、数秒でも綱吉が止めるのが遅れれば骸は死んでしまう。それもまた、彼にとっては喜ばしいのかもしれない。骸を目の前で死なせてしまった綱吉はきっと生涯、骸のことを忘れる事はなく死ぬまで骸への謝罪と悔いで生きることになる。それが喜ばしいと、それでもいいと、考える骸の思考が了平には理解できない。

 了平の胸の内を見透かすかのように、美しいオッドアイが了平を見つめ、ゆっくりと細められる。

 こいつは駄目だ。
 こいつだけは、駄目だ。

 何がと聞かれれば、答えようがなかったが。
 了平は、言葉にできない恐怖と畏怖を初めてありありと六道骸に対して感じて、思わず唾液を飲み込んだ。

 隣に立っていたリボーンの様子を伺って見れば、彼はひどく冷静に、マネキンのように整いすぎた容貌に無表情をのせ、目の前で繰り広げられている綱吉と骸のやりとりを黒い瞳で眺めていた。

「頼むよ、骸、一緒に逃げよう、死ぬなんて言うなよ、嫌だよ、オレは嫌だよ、死んで欲しくなんかないよ、誰にも死んで欲しくなんかないんだ、頼むよ……、死ぬなんて言うなよッ、そんなこと、するな……」

「綱吉くん。泣かないでください。それじゃあ、約束してください。僕はここで、幻術を使って敵から姿をくらませていますから。綱吉くんが安全なところでクローム達と合流したら、僕を助けてに来てください。それまで僕は、ずっとここで待っていますから」

 穏やかに優しく笑いながら、骸は綱吉の頭を撫でていた手を彼の肩におく。

「ね? 約束しましょう?」

 骸のオッドアイをしばらく眺めたあとで、綱吉は頷いた。

「わかった。絶対、ぜったいに助けに戻るから」

「じゃあ、約束のしるしにこれを――」

 骸は左手の薬指にはめていたボンゴレリングを右手で外し、綱吉の前にさしだす。綱吉は片手で受け取った指輪を眺め、泣いて赤くなった目を瞬かせた。

「ゆびわ……、ボンゴレリング? 霧の、指輪?」

「僕のとても大事なものを、あなたにお預けしますから。――今度会ったときに、必ず返してくださいね」

 右手のうえにのっている霧の指輪を眺めた綱吉は、つよく指輪を握りしめて、真面目な顔をして頷く。

「うん。わかった」

「お願いしますね」

 満足そうに微笑んだ骸が両腕を広げる。

「お別れの前に。あなたを抱きしめさせてください」

 これが最期ですから。
 と、いう言葉が了平の耳に聞こえたような気がした。
 リボーンは何も言わずに黙って、目の前の光景を眺めている。

 綱吉は握りしめていた指輪をジャンパーの胸ポケットのなかへ入れ、両腕を骸の首に回した。

「かならず、ぜったい、迎えにくるからな」

「ええ。待ってます」

 腕をゆるめた綱吉の顔へ、骸が顔を寄せる。
 骸の唇が、綱吉の唇に触れる。
 一瞬だけのキス。
 リボーンは、沈黙を守り通し、二人から視線をわずかに逸らした。

 驚いて声が出ない綱吉をよそに、骸は吐息で笑う。

「むっ、く……」

「約束ですよ」

 ショックで涙がひいてしまった綱吉が複雑な顔で下を向いてしまう。
 骸は顔をあげて了平とリボーンを見た。

「彼をお願いします」

「言われずとも」

 了平は力強く頷いた。
 骸がどれだけ深く、どれだけ強く綱吉に執着しているのか、了平は今更に気が付いた思いだった。いくら恐ろしいと思っても、骸は了平と同じ守護者であり、十年近く共に生きてきた友人でもある。――瀕死の重傷を負った友人を置き去りにする現実を、了平は考えた事はなかった。

「笹川了平」

 骸は美しい瞳を細める。

 同情をかけられることなど御免だ。
 僕は僕のやりたいようにするだけ。

 艶笑する彼に答えるように、了平はゆっくりと頷く。
 

「リボーン」

 言いながら、骸は綱吉の手をとり、その手をリボーンへと差し出す。
 表情をいっさい変えないまま、まるで等身大の美しい自動人形のような雰囲気をまとったリボーンは、骸達へ近づいていき、差し出された骸の手から綱吉の手を受け取る。

「彼を『よろしく』」

 言外に何かが含まれているような声音で骸が言う。
 リボーンは骸の傍らから立ち上がる綱吉の手を握りしめ、綺麗なかたちの目を真っ直ぐに骸へ向けた。


「死ぬんじゃねーぞ」


 綱吉のために死ぬんじゃねーぞ。
 了平にはリボーンがそう言っているような気がした。


 名残惜しそうに骸を見つめいてる綱吉の横で、リボーンは彼の顔を見つめる。綱吉が若いせいか、普段のリボーンと綱吉の身長差よりも数センチほど差が縮まっているようだった。ふいに、綱吉が顔をしかめ、リボーンとつないでいる手を見下ろす。

「いたい」

 綱吉に言われ、ハッとしたようにリボーンは綱吉の手を掴んでいる己の手を見下ろす。綱吉の手を掴む手から力をぬいたリボーンは、己のした所行を蔑むかのように眉間に深いしわを刻んだ。しかし、すぐに躊躇ったような表情を消し去り、リボーンは仕事に徹するヒットマンのように、鋭い視線を浮かべて黒い瞳に世界を映した。


「了平。弾倉は?」

「替えがあと三本。装填済みのほうは半分はある」

「そうか」

 リボーンの視線が骸へ向けられる。
 骸は頷く。

「いってらっしゃい」

 うろの土壁に身体をもたれさせたままで、骸は微笑む。
 綱吉が何かを言おうと口を開きかけたが――、

「行くぞ」

 宣言をしたリボーンに手を引かれるままに、綱吉は歩き出す。不安そうに歩みを進める綱吉の背中を骸は穏やかに見つめている。了平の視線に気が付いた彼は、右手を持ち上げ、「早く行ってください」とおどけるように片目を細める。

「あなたが守るべきものは、あちらですよ。笹川了平」

「すまない」

「謝るのなんてお門違いですよ。――あなたはあなたの使命を果たしなさい」

 まるで神託を告げる殉教者のように、骸は遠ざかっていく綱吉の背中を人差し指で指し示した。
 了平は、大きく一度うなずいて、骸に背を向ける。
 靴底で積み重なった枯れ木を踏みしめながら了平は歩き出す。




「Arrivederci」




 骸の囁くような声音が耳に届いたが――、了平は振り返らなかった。















































































 ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、骸は腹部に片手をやる。出血は少ないし、痛みなどもう痛みとして感じることもなくなっていた。麻痺した感覚のせいか、感情すらも鈍くなるかのように、骸はぼんやりとした眼差しで木々が立ち並ぶ林を眺めた。

「口約束を素直に信じてしまうなんて、甘いにもほどがありますよ。綱吉くん」

 誰に話すでもなく、骸はクスクスと笑いながら言葉を続ける。

「あなたはどうするんでしょう。それを近くで見ることができないのがとても残念です。きっとあなたは――」


 くふふ。
 いつもどおり、吐息で笑うようにして、骸は目を閉じる。
 瞼のうらに思い描くのは、たった一人だけ――、彼が幸せそうに笑う顔。


「クローム。犬。千種。――僕の最愛の人をどうか守ってあげてくださいね」


 そして骸は――。