両側を深い森林に挟まれた道路を、一台の黒塗りの高級車がアクセル全開で走り抜けていく。
 ハンドルを握っているのは六道骸、同乗者はリボーン、笹川了平、そして沢田綱吉だ。
 彼等四人は、古くからの同盟ファミリィであるリダーチェファミリィの息子が、同じく同盟ファミリィのグリジアファミリィの娘と結婚式に参加するために、とある湖畔の近くの教会を目指して車を走らせていた。

 リダーチェもグリジアも、どちらもドン・ボンゴレ一行が参加するには歴史も名声もないファミリィだった。そういったファミリィから招待状が来た場合、祝い金と部下を一人行かせればボンゴレとしての体裁は保たれる。しかし、今回の結婚式にはドンである綱吉と守護者である了平と骸、そしてボンゴレの影と恐れられるリボーンが参加することになっていた。

 理由は簡単。ドン・ボンゴレたる綱吉が「ぜひとも参加したい」と申し出たのだ。招待状を送ったものの、ドンが正体に応じるとは思っていなかった両ファミリィのドン達は驚きと動揺で何度もボンゴレへと確認の電話をしてきた。ドン達の慌てように、綱吉は「もしかして、参加しないほうがよかったですか?」と両ファミリィのドン達に聞いたくらいだ。ドン達は「滅相もない。来ていただけるのならば、全力でおもてなしいたしましょう」と興奮したように息巻いた答えを返してくれた。


 骸は綱吉に聞いた。
 どうして、急に結婚式に参加するなどと言ったんですか?と。

 彼は寂しそうな顔をして小さな声で言った。
 最近、人が幸せそうにしてるの、あんまり見てないから。
 人が幸せそうに笑ってる顔、オレは忘れたくないんだよ。


 守護者のメンバーや、他の有力な同盟ファミリィのドン達は、綱吉が結婚式に参加することをあまり良く思わず、反対する者もいたのだが――、結局は綱吉の我が儘を受け入れる形になった。守護者二名プラス伝説の殺し屋が一人同行するのだ。滅多な事にはなるはずはないと周囲を無理矢理に納得させたようなものだった。

 綱吉がただ単に興味本位で結婚式に参加したいと言ったと思っている輩はたくさんいるだろう。しかし、弱音を吐いた彼の姿を見たのは骸だけだ。その事実は骸にとっては宝石のように価値のあることだったので、他の誰とも分かち合いたいものではなかった。


 アクセルをほとんどべったりと踏み込んで走っていた矢先、道路の両脇に黒塗りの車を四台ほど停車させ、十人近い黒服の男達が道路を封鎖するように立ちはだかっているのが目に入る。
 気がついた骸はかなり手前のころかブレーキをかけ、なんとか男共を轢き殺すことを避けた。車を停車させて運転席のウィンドウを下げた骸は、招待状の入った封筒を近づいてきた男に手渡した。男は封書をあけて中の招待状を目視で確認したあと、懐から取り出したスキャニングをするかのようなスティックを招待状のうえでスライドさせた。甲高い電子音がすると、男は周囲に立っていた男達に分かるように右手を高々と持ち上げた。すると物々しい雰囲気だった男達が途端に破顔して、車に乗った骸たちに向かって頭を下げ始める。

 骸はアクセルを踏みこんで、湖畔の近くに建てられた古き教会を目指す。助手席のリボーンは腕を組み、先ほどからしきりと人差し指を上下に揺らしている。ちらりとバックミラーで後部座席を確認してみれば、笹川了平が呑気にあくびをかみころし、隣に座っている沢田綱吉は、落ち着きなく腕時計と車の外の風景を見ては、そわそわと視線を彷徨わせていた。ふいにバックミラー越しに綱吉と骸の視線があう。彼は骸と目が合うと、にへらとだらしなく笑った。すると、助手席から鋭い舌打ちがとんでくる。ひゃ、と首をすくめた綱吉は、後部座席で背筋を伸ばして座り直した。

 数分と立たずに、車がずらりと並べられた広い駐車場に到着する。そこかしこに見張りらしき男達が立っていたが、運転席の骸と助手席にのっているリボーンの姿を目にすると、誰もが「ああ、ボンゴレの」と思ったかのように車をわざわざ停車させられるようなことにはならなかった。すでに教会に近い方の駐車場はいっぱいで、仕方なく骸は空いていた出入り口付近の場所に車を停車させた。

 エンジンを切ると同時にリボーンが勢いよく車から降りる。骸や了平、綱吉も急いで車から降りる。先を歩いていたリボーンと、他の三人は歩幅が違う。あっという間に四人ともほとんど肩を並べて、うねうねとカーブする森の小道を歩きながら、木々のてっぺんから少しだけ見える教会の屋根を目指す。

「早くしないと、フラワーシャワーにすら間に合いませんよ?」

「わかってるって!」

 骸の言葉につっけんどんに答えながら左腕の腕時計を見て、綱吉は顔をしかめる。

「うああ、間に合うかな……」

 綱吉の情けない声音をさげすむように、リボーンが冷たく舌打ちする。途端、綱吉は引きつった顔でリボーンをそっと横目で見た。

「式に遅刻するなんてな。印象最悪だぞ、まったく……」

「まあまあ、そう怒るな。どうにかフラワーシャワーには間に合うはずだろう? 獄寺が連絡をいれておいてくれたんだからな」

 了平がリボーンをなだめるように声音をかけるが、彼は少しも苛立ちが収まらないといった風に鼻から息をついて、片眉をおおげさなくらにはねあげる。

 そんなリボーンの態度に耐えかねて、綱吉は唇を噛んだあとで――それはもうすぐ三十路を迎えようとしている男がするような仕草ではなかったが――、開き直ったかのようにふてぶてしく言い放った。

「だって、なにも、こんな日に襲われるなんて思わないじゃないか!」

「そういう場合を考えてオレは早めに時間を設定してたってのに、てめーが呑気に構えてっから――」

「うー、小言はもういいって。散々聞いたよ」

 片耳を片手でおさえた綱吉がしかめ面をして嘆息する。リボーンはまだ文句が言い足りないようで何か言い連ねようと口を開いたが、了平が笑いながら小さく首を左右に振ったのを見て、ふん、と息をついて何も言わなかった。


 綱吉、リボーン、了平、骸の四名は、結婚式に参加するために朝早くから準備をしてボンゴレの邸宅を出発しようとしていた。リボーンが設定した出発時間が早すぎると綱吉が駄々をこね、温かいコーヒーを四人で味わったあとで、出発した。すでに設定時間よりも三十分ほど遅れていたが、現地到着には余裕があるくらいの時間だったので、リボーンは不機嫌そうにしてはいたものの、怒るまでには至っていなかった。

 かねてからの予定ということもあって、ボンゴレの邸宅を出るまでは順調だった。しかし、かなり前から決まっていた予定というものは、外に漏れやすい。十分な注意を払っていたというのに、四人の乗った車とその車を警護していた二台の車は、町中で襲撃を受けた。数十人の刺客と応戦したのはリボーンと骸、了平、そして二台の車に分乗していた霧と晴の部隊のメンバーは、綱吉の指揮の元、街の人々の避難と保護に人力を尽くした。一掃し、騒ぎを聞きつけた警察との押し問答をやり過ごすころには、予定の時間を二時間ちかくもオーバーしていた。もちろん、式は始まっている。 
 三台のうち、無事だった一台の車に乗った四名は、警護目的で同行していた部隊のメンバーに後始末を命じて、結婚式に向かうことにした。骸と了平、リボーンがついているのだから、何かあっても綱吉を護りきる事が出来るだろうと――、守護者や殺し屋、そしてボスである綱吉ですら、そう思っていたし、警護の者を新たに用意するには時間がかかってしまうだろうとふんで、たった一台の車でボンゴレ一行は結婚式が行われている湖畔の教会へ向かったのだった。


 木々の葉の隙間から、小道には木漏れ日が降り注いでいる。明るく晴れ渡った午後は結婚式をするには充分の好天気だ。常日頃、血と喧噪と抗争にあけくれている綱吉にとっては、とても良い気分転換になるだろう。骸は上機嫌さを隠すこともなくにっこりと笑み、歩幅を狭めて少し後ろを歩いている綱吉と肩を並べる。彼は骸と目が合うとわずかに首を傾げる。

「なに?」

「綱吉くん、ネクタイが曲がってます」

 骸の言葉に綱吉が立ち止まったので、了平とリボーンも立ち止まった。骸は両手で綱吉のネクタイに手を伸ばし、ほとんどずれていないネクタイを直すふりをした。

「あ、さんきゅー」

 警戒心もなく礼を言う綱吉に微笑みを返し、骸は上向いていた綱吉の顔に顔を近づけて鼻先に唇で触れる。ぎょっとして綱吉が身を引いて片手で鼻と一緒に口元を覆った。

「――なに、いまの?」

「無防備だったので、つい」

「つい、じゃねェー! つい、ですんな! ばかっ、そんなことしたら――」
「てめー、死にてーのか」

 焦った綱吉が「あああ」と呆れたような声を上げて額をおさえていた手を下げて肩を落とす。骸は背後に押しつけられた硬いものが銃口であると予測しつつ、ゆっくりと後ろへと向き直った。拳銃を引き抜いたリボーンが冷たい視線で骸を睨みあげている。骸は指先をそろえた片手を頬へそえて微笑んだ。

「僕の愛は深く静かに絶え間なく、なんですよ」
「誰もそんなこと聞いてねーぞ?」

 にらみ合う骸とリボーンを見た綱吉は呆れ果てたように長く嘆息する。

「――ああぁっ、もうっ! 二人とも勝手にしてなよ! 了平さん、行こうッ」

 綱吉は了平の腕を掴んで歩みを早めた。了平は苦笑いで綱吉の歩幅にあわせて早めに歩き出す。

 そのすぐあとを追うように、骸とリボーンも歩を進める。行く先の小道が次第にひらけてきて、教会の建物が見え始めてきた。
 チッ、と隣でリボーンが舌打ちする気配を骸は見逃さなかった。大げさなくらいにわざとらしく溜息をつきながら、骸は内心ではからかいを含めた微笑を浮かべた。


「あなたのせいで綱吉くんに怒られたじゃありませんか」
「おまえのせいでツナに怒られちまっただろ、責任取れ、責任」
「責任ってなんですか。責任って」
「ツナの半径五メートルに近づくんじゃねー」
「それじゃ護衛できないじゃないですか」
「じゃあ、おまえはツナの護衛禁止だ」
「残念ですけど、あなたにそんな権限はありませんよ。ねぇーえ? 綱吉くん!」
「うざい。本当にうざい。殺していいか、ツナ?」


 半眼のままで呻くように言うリボーンの態度に、前方を歩いていた綱吉がくすん、と吹き出して肩越しに振り返った。

「だめ、ころしちゃ、だめ」

 呆れるように言って、綱吉は前を向いた。
 憮然とした顔をしてリボーンは短く鼻から息をついた。

「なに、笑ってんですか、了平さん」
「おまえも笑ってるぞ、沢田」

 小さな声で交わされたやりとりが後方を歩く骸達の方へも聞こえてくる。骸は小さく笑った。他愛のない会話に意味はないが、会話をすることで綱吉が笑うことができるのならば、骸はどんな道化になろうとも構わなかった。

 歩いていくと続いていた林が途切れ、広い場所へ出ることが出来た。左手には大きな湖畔が広がり、右奥には年代ものの大きな教会があった。建物まではまだ数十メートルほどあったが、わいわいと人々が明るく交わし合うざわめきが耳に届くようになる。

 教会の短い階段の周囲にはすでに多くの人々が集まっていた。あまり大きくない双方のファミリィ、そして各々のファミリィと親交のある招待客がいる。せいぜい全員で三十名ほどだろうか。その中の誰かが手をあげて、歩いている骸達を指し示した。どっと、人々は歓声を上げ、拍手と口笛が盛大に響き渡る。ぎょっとしたように綱吉が身体を飛び上がらせ、「う、わー」と短く呻く。数千の人間の頂点に立ちながら、綱吉は目立つことは出来る限り避けたいと常々考えているような――妙な性格を抱えていた。

「あー、もう」

 と、短く呟いた綱吉は、歩みを早め、ほとんど走るようにして教会へと向かう。それを追うように、了平、リボーン、骸の三名も走りだし、人々が集まっている教会の階段へと向かった。


「ボンゴレ!」
「ようこそ、ボンゴレ!」
「ご無事で何よりです」
「ゴクデラさんから連絡をいただいてたんでお待ちしてましたよ」
「よかった。間に合いましたね」
「ボンゴレ、いらしてくださってありがとうございます」
「ありがとうございます」
「今日は良い日だ!」

 口々に折り重なるように言葉をかけられた綱吉は、かるくあがった息を整えるように大きく息を吸ったあと――、両手を身体の前にそろえて、急にがばりと頭を下げた。

「すいませんっ! 遅れました!」

 ざわめきの勢いが急に緩慢になり、辺りが一瞬だけしんとなる。バッと顔をあげた綱吉は己の失態に気がついて、息を呑み、隣に立っていたリボーンの渋い顔を見て、えへへと引きつったように笑った。

「あ、……ついっ」

 リボーンが舌打ちして、

「馬鹿」

 苦笑しながら骸が嘆息し、

「まったく、骨の髄まで日本人ですね」

 何が悪かったのか分からない顔で了平が首を傾げた。

「礼儀正しくていいではないか」


 なんとなく、場の流れが妙な具合になってしまったので、綱吉はとりあえず日本人らしく、ほとんど意味もなくにっこりと笑っておいた。『馬鹿が』と日本語でリボーンが悪態をついたあと早口のイタリア語で「気にしないで、式を続けてくれ」と言った。

 ドン・ボンゴレの日本人特有の行動に面食らっていた人々も、リボーンの言葉で祝いの席であったことを思いだし、明るく華やかな雰囲気をよりいっそうつよく思いだかのように喝采をあげた。

 皆にうながされるままに、ボンゴレの四名は階段の上方へ上がっていった。
 両家のドンが綱吉と握手を交わしながら挨拶を交わす。綱吉は二人に遅れたことへの謝罪と、祝いの言葉を告げた。二人のドンは年若いドン・ボンゴレの気さくな態度に恐縮したかのように終始どぎまぎとしていたが、やはり娘や息子が結婚をする日ということもあり、上機嫌そうに親類などが並んでいる参列に戻っていった。

 教会の扉の付近には、バイオリンとアコーディオンをもった壮齢の男性と、茶色の長い巻き髪を頭のうしろで結い上げたフルートを持った女性がいた。バイオリン奏者とフルート奏者は立っていたが、アコーディオンを持っている男性は椅子に座っていた。

 教会の扉が開いて、ふんわりとしたピンクのドレスを着た、短い金髪の少女が籠を片手に持って出てきた。十代半ばほどの少女は、骸達の手のひらに籐の網籠のなかに入っている生花の花びらをそっと手渡しながら、階段の下方へ下がっていく。階段の左右を行き来しながら上方から下方、すべての人々の手に花びらが行き渡ると、籠を腕に下げた少女は列の一番下に加わった。隣にいた夫婦らしき男女に少女は笑いかける。おそらくは彼女の両親なのだろう。

 扉の前に二十歳前後の若い男が二人立ち、ドアノブを握って扉を開ける準備をした。

「さあ、みなさん、準備は出来ましたでしょうか?」

 司会者らしき男性が大きく声を張り上げた。人々からは威勢の良い声と拍手があがる。司会者が楽員達と目配せを交わす。バイオリン、アコーディオン、フルートの奏者達は目配せをしてタイミングを合わせると、演奏を始めた。曲名は誰もが知っている、ウェディング曲だ。

 扉のドアノブを握っていた若者二人は、おどけるように一礼をして笑い、左右に扉を開いた。開かれた扉の向こうから、白いタキシードを来た新郎、そして純白のドレスに身を包んだ新婦が姿を現す。短い金髪の新郎はたれ目で穏やかそうな人物で、長く赤い髪を結い上げて真っ白な百合を飾り上げた新婦のほうが、よほど気が強そうな顔立ちをしていた。
 二人が登場すると場はいっそう盛り上がり、よりいっそうかろやかに音楽が鳴り響く。教会の鐘が晴れ渡った空に昇っていくように鳴り響くなか、新郎と新婦がゆっくりと招待客達に一礼をする。新郎が新婦の手をすくいあげるように握り、ゆっくりと、ゆっくりと、一段ずつ階段を降り始める。骸達は彼等に向かって手のひらにのせていた花びらを放り投げる。祝いの言葉と様々な色とりどりの花びらが舞う中、新郎新婦は階段を降りていく。

「可愛いね。花嫁さん」

 ふと、呟くように綱吉が言った。骸が視線を向けると、彼はふわっと微笑む。その姿の方が骸には愛らしく思えた。

「綱吉くんもきっと可愛いと思いますよ」
「え、いったい、何のこと?」
「ああいう格好をしたらお似合いになると申し上げてるんですよ」
「気色悪いこというなよ。オレもう三十路に近いおっさんだよ? ウェディングドレスなんて着られるかっての!」
「あなたが着ないのならば、この人が着るっていうんですか?」
「なんで、リボーンが着なきゃいけないんだよ」
「え? 結婚式しないんですか?」
「するかっ。――公言しないって約束でオレらは黙認されてんだから、そんなことしたら、また大騒動になるだろうが」
「だがしかし、ひっそりと仲間内だけでするのはいいかもしれんな。極限に楽しそうだ」
「え、ちょ、了平さん、何言ってんですか」
「沢田のウェディングドレスが見たい訳じゃないぞ。愛し合っているのならば、式くらいあげたかろうと思ってな。――思い出になるぞ?」
「真面目な顔でなに言ってんですか……」
「オレは別に、おまえが望むんならウエディングドレスくらい着てやるぞ?」
「え、ええー? それ、本気?」
「おおっ、それは極限に潔い態度だ。好感がもてる」
「じゃあ、うちでも結婚式やりますか?」
「じゃあ、じゃない。じゃあ、じゃ! やりません。やりません。恥ずかしくって、目眩おきて倒れちゃうよ。っていうか、なんでナチュラルに結婚話なのよ。男同士で教会で式あげるなんて、出来ないでしょ」

 綱吉が赤い顔をしてぶっきらぼうに言い放つ。骸は片目を閉じて、何度も頷きながら綱吉の肩を叩いた。

「たとえ綱吉くんが結婚したとしても、僕はずっと綱吉くんを愛し続けますから心配せずにいてくださいね」

 瞬間、骸の手はリボーンの手によって払われた。
 綱吉は苦い顔で溜息をつき、今にも拳銃を引き抜きそうなリボーンの腕を掴んだ。

「えーと。……ノーコメントで」
「つれない人ですね」
「油断のならねー、クソガキだな」
「クソガキはあなたでしょう。お坊ちゃん」
「――二人とも、いい加減にして」


 嘆息をした綱吉がぴしゃりと言い放ったので、骸は口を閉じた。リボーンは綱吉を見上げて何か言いたげに口を開こうとしたが、それがいかに子供っぽい仕草なのか気が付いて、手持ちぶさたになった手でボルサリーノをおさえて嘆息した。

 階段を降りた新郎新婦を囲んでいた年若いファミリィのメンバー達が二人のために喝采をあげる。その場にいた人々は高らかに拍手をした。誰もが笑い、誰もが素晴らしい日を祝うために心から手を叩いていた。

 ふと、新郎の友人らしき男性が綱吉達に向かって手を挙げた。

「ミスター! 花嫁と花婿に祝福を!」
「ボンゴレのご加護を!」
「ドン・ボンゴレ! ぜひ!」

 途端、口々に綱吉に向かって威勢のよい声がかけられる。戸惑ったように笑ったまま、小声で綱吉は周囲に助けを求めた。

「え、ちょ……。いったい、何したらいいの?」

 短く息を吐いたリボーンが綱吉の背中をかるく叩いた。

「あれ、歌えるだろ? 賛美歌、愛の御神よ」
「あ、うん」

 答えを聞きながら、リボーンは背後の辺りにいた楽員達へ近づいていき、

「ちょっと、借りるぞ」

 バイオリンを指さした。マフィアの結婚式で演奏をしている楽員は、リボーンがどういった素性の人間なのか理解していたのか、あっさりとバイオリンをリボーンに手渡した。リボーンは受け取ったバイオリンを己の弾きやすいように調節をし、優雅な動作でバイオリンを構えた。

「え、リボーン、弾けるの?」

 言うが早く、リボーンはバイオリンを構えた両腕を動かして、愛の御神よのメロディを弾き、にやっと笑う。

「オレに不可能はない」

「――あはは、私の辞書には不可能という文字はない、って? ナポレオンかよ。っていうか、え、歌うのってオレ一人なの?」

「俺は知らんぞ、賛美歌など」

 了平が首を振るので、綱吉は隣に立っていた骸にすがるような視線を向けてきた。

「あっ、じゃあ骸、一緒に歌おうよ」

「イヤです。綱吉くんお一人でどうぞ。僕はアコーディオンで」

「は? アコーディオンなんて、骸、弾けるの?」

 リボーンの行動を同じく、楽員の一人からアコーディオンを受け取った骸は、己が弾きやすいようにアコーディオンをつり下げるベルトなどを調節しはじめる。ずっと昔に『弾いたことがある』という記憶があったので、おそらく魂がそのことを覚えているだろうとふんでの行動だった。鍵盤に指先をのせ、愛の御神よ、のメロディを思い出しながら弾いてみると――、不思議なことに骸の指は愛の御神よのメロディを『知っていた』。
 骸がアコーディオンを弾けることに驚いた綱吉は、口をぽかんと開いたままで呆然としていた。あまりにも素直な反応に骸がクスッと笑うと、綱吉は開いていた口を閉じて悔しげに唇を引き結んだ。

「僕に不可能はないんで」

「……ナポレオンかよッ」

 一人で歌うことになったことを憂うように拗ね気味に呟いて、綱吉は息を吐いた。

「う、うあー。緊張する」

「いくぞ」

 バイオリンを構えたリボーンが綱吉と骸に目配せをする。
 骸は頷いて見せ、綱吉はひとつ咳払いをして、こくりと頷いた。

 たん、たん、たん――と、リボーンがつま先で地面を叩く音にあわせ、バイオリンとアコーディオンによる伴奏が始まる。

 端から見ても、すこし可哀想なくらいに顔を赤くして緊張した面もちの綱吉が大きく息を吸って――、賛美歌を歌い始める。彼の声は通常の男性よりも高く、それでいてやわらかな声質だったので、無性別的な、男の高い声なのか女の低い声なのか、どちらとも取れるような不思議な歌声となって、メロディとからみあった。

 まさか綱吉が歌うとは思っていなかった、四十から上の年齢の人々からは感嘆と驚きの囁きがもれ、四十から下の、若い連中からはサービス精神のあるドン・ボンゴレの対応を心から喜ぶかのように、満面の笑みを浮かべて彼の歌声に聞き入っていた。

 一番から三番までを歌った綱吉は、リボーンと骸の演奏の余韻が収まったあとで、「お二人の幸福が末永く続きますように!」と高々と宣言するように言って、深々と一礼をした。

 どおっ、とも、わあ、とも、聞こえるような興奮と歓喜の声と喝采が教会の前に満ちた。おめでとう。おめでとう。おめでとう。重なるように祝福と賛美の声音が高らかにあがる。綱吉が骸達を仰ぎ見て「下へ行ってもいい?」と言った。骸は楽員に楽器を返し――リボーンも楽員にバイオリンを返していた――、階段を降り始める綱吉の側へ早足で並ぶ。リボーンと了平も続いて降りようとしたのだが、途中で双方のファミリィのドン達に声をかけられてしまい、足を止めざるを得なかった。骸は片手をあげて、リボーン達に「僕がついていますから」と合図を送った。了平が頷き、リボーンが「ちゃんと仕事しろよな」と念を押すように鋭く骸を睨んだ。

 綱吉が新郎新婦に近づいていくと、それまで彼等を取り巻いていた若者達がそっと綱吉に場所をゆずるように距離をとった。綱吉はそんな若者達にも笑顔を振りまいて、幸せな様子の二人の前に立った。新郎は深々と一礼をし、新婦は新郎に片手を預けたまま、優雅に膝をおるようにしてあいさつをした。彼等の背後には白い百合の花をあしらった白塗りのオープンカーが停められていた。新郎達はその車に乗って披露宴会場へ向かう予定なのだろう。

 綱吉が右手を差し出すと、新郎は新婦の手を放したその手で、しっかりと綱吉の手を握りしめた。

「おめでとう」

「ありがとうございます」

「幸せになってね。なにか、困ったことがあったら遠慮せずに連絡して。力になるから」

「いいえ。とんでもない。ドン・ボンゴレが、こうして我々のような、下方のファミリィの結婚式になど参加してくださっただけで、我々は充分に幸せです。ほんとうに。わざわざ忙しいなか、いらしてくださってありがとうございます。まだ若輩者ですけれど、ボンゴレと同盟を結んでいるファミリィとして恥じぬよう、ファミリィを盛りたてて――」

 新郎が懸命に話しているというのに、綱吉はどこか遠くの物音でも聞くかのように、視線を伏せていた。普段の彼ならば、人と話している時にそういった状態になることはない。骸は嫌な予感がして、周囲に視線を走らせる。誰も彼もが陽気な態度で周囲の人々と話をして盛り上がっている。妙な動きをしているような人間は見受けられない。

「ドン・ボンゴレ?」

 新郎に問いかけられ、綱吉はようやく意識が現実に戻ってきたかのようにハッとして、笑った。

「え、あ――ごめん」

 骸は綱吉の肩に手をおいた。彼は骸を振り仰ぐ。琥珀色の瞳は言いしれぬ予感を感じているのか、困惑の色を宿して揺れている。

「綱吉くん? どうかしましたか?」
「むく――」

 なんの予兆もなかった。
 まず強い光、轟音、衝撃が前方で起こり、続いて時間をおかずに後方から凄まじい轟音と熱風が襲いかかってきた。光が網膜にやきつく刹那、骸はとっさに両腕の中へ綱吉を抱え込んで地面に倒れ伏した。頭と言わず、体中に衝撃がくわわり、激痛が神経をはしりぬける。身体は己の意志とは関係なく地面の上を転がり、いくつもの硬い何かが降り注いできて、よりいっそう大きな何かが骸の身体に覆い被さるように降ってきた。身体の全体が潰れたかのような錯覚とともに一瞬だけ意識が飛ぶ。現実では数十秒の轟音が意識では何分も続いたかのようだった。光と轟音と衝撃――、それは爆発音だった。骸の網膜に最後に映ったのは、内側からまるでふくらむようにして車が大破した映像だった。ばらばらになった車の破片が周囲に立っていた人々に向かって、まるでそれ自体が弾丸だったかのような鋭さをもって弾け飛んだのだ。

 耳鳴りがする骸の耳に、悲鳴と怒号が届き始める。頭も腕も胴も足も、身体の中のあちこちが痛んだが、まず一番最初にすることは己の身のことではない――、沢田綱吉の安全だった。

 動こうとした骸の背中に何か重く硬いものがのしかかっている。綱吉を腕に抱えたままで、どうにか背中にのっているものを振り落とすと――、教会の一部と思われる瓦礫と共に骸の背中から転げ落ちたのは事切れた男の死体だった。サッと周囲に視線を巡らせる。動かない人間もいたが、身動きが出来る人間のほうが多いように見えた。新郎は倒れ伏していたが、新婦は意識があるようで、倒れている新郎に手を伸ばしていた。彼等を囲んでいた若者達のほとんども生きているようだったが、とてもではないが無事と言えるような状態ものは一人もいないようだった。身体を動かすと、胴がずきりと痛んだ。見下ろしてみれば、背後から車のどの部分かは定かではないが、ねじりきられたような鉄の一部がぐっさりと突き刺さっている。気がついてみれば後頭部のどこかに瓦礫でも当たったのか血が出ていて、後頭部と首筋を濡らしているようだった。腕と足の骨は折れてはいないようであったが――、内臓が無事だとは思いにくかった。

「これは、少々厄介な……」

 もうもうと黒煙が立ち上っているため視界は悪い。リボーンと了平がいたはずの教会側を見上げて骸は息を呑む。周囲を覆うように漂っている黒煙の向こうに、教会の建物がなかった。建物は跡形もなく『吹き飛んでいた』。
 最優先事項は沢田綱吉の安全。
 骸は己に言い聞かせるように心の中で言って、腕のなかにいる綱吉の身体を確認する。地面になのか、それとも瓦礫なのか、どちらかは定かではないが、綱吉は右目の上の額に傷を作っていてそこから血を流していた。あちらこちらに擦ったような傷跡があったが、一番に目立つのは額の傷だった。指先で額の傷口の汚れを拭おうとしたが、骸の手はすでに土に汚れてしまっていた。
 目を閉じている綱吉の頬に触れて、骸は彼の名を呼ぶ。

「綱吉くん、……綱吉くん」

 衝撃が強すぎたのか、かすかに意識を失いかけている綱吉の頬に触れて骸は何度も彼の名前を呼んだ。

「綱吉くん、起きて、目をあけて」

「う、う、……む、く、ろ?」

「意識はありますね、立てますか? ……綱吉くん?」


 骸の腕のなかで、綱吉はみるみるうちに目を見開いていく。それは痛みに驚いたり、周囲の惨状に驚いたといった様子ではなく、それ以上に強烈に愕然としたような有様だった。刹那、黒煙を裂くように誰かが近づいてきた。骸はとっさに片手に三つ又の槍を出現させ、片腕で強く綱吉のことを抱きしめた。

「ツナ! 骸!」

 現れたのは拳銃を両手に持ったリボーンだった。トレードマークのボルサリーノをどこかに飛ばされたのか、黒髪を火薬混じりの風になびかせながら、彼は骸達の傍らに立った。彼も一度、瓦礫の下にでもなったかのように、身体全体が薄汚れ、どこかへ打ち付けたのか左側頭部の辺りから赤い血がだくだくと流れ、スーツの襟元を真っ赤に染めていた。

「綱吉くんを――」

 地面に座り伏したままの綱吉をリボーンに託す。彼は片手の拳銃に安全装置をかけ、ベルトに差し入れ、片腕で座り込んだままの綱吉の肩を抱いた。綱吉は強いショックから立ち直れないかのように、目を見開いたまま地面を見つめている。
 骸は奥歯を噛みしめながら立ち上がった。よく見れば、左の太股の辺りが吹き飛んできた鉄材でざっくりと裂けていた。ネクタイをといて止血をしてみたものの、歩くのもやっとのようだった。すぐさま六道の能力を使用するために集中するも、激しい痛みのせいで気が乱れて使用することができない。槍を地面について立っていることだけが精一杯の己の存在に、骸は心の底から苛立ってきつく槍の柄を握りしめた。
 瞬間、立ち上っている土煙のなかを何かが突進してくる。骸は痛みのことなど意識から握りつぶし、槍を構えて突進してきたものへ突き出す。がちん、という硬い物同士がぶつかり合う音がして小さく火花が散った。煙のなかから現れたのは、のっぺりとした奇妙な白いデスマスクのようなもので顔を隠した男だった。両手で握っていたのは青龍刀で、ぎらりとした刃に燃える教会の炎が反射する。槍をひねるようにくりだし、骸は身体をひねりながら返す手で男に向かって持ち手の側を振り下ろす。男は身軽な動作で後方へ跳び、反射的にはしった胴への痛みに動揺した骸へ向かって突進してくる。あわや青龍刀が骸の胴をまっぷたつにした――ようだったが、その寸前、男の身体が真横からの正面突きによって問答無用に吹っ飛んでいった。男を吹っ飛ばした拳の持ち主は、もちろん笹川了平だった。骸は汗なのか血なのかわからないものを手の甲で拭った。手は赤く染まっていた。知らずに息があがっているのは怪我のせいなのだろうと思いながらも、骸は必死に気を張って周囲からの攻撃に備えて槍を構えた。

「無事か!?」

 了平はリボーンと同じく片手に大きめの拳銃を構え、周囲に警戒するように視線を巡らせる。了平はパッと見た感じでは怪我がなさそうだったが、リボーンと同じく瓦礫に一度押しつぶされかけたようで、スーツが土埃で汚れて無惨な様子になっていた。リボーンは骸の体の状態を一瞥して舌打ちした。それは骸の失態に対する舌打ちではなく、こんな状況を作り出した元凶に向けての呪いような舌打ちだった。

「動けるものは負傷者の対処を!」

 了平の高らかな声音で軽傷者が倒れ伏している人々を助けようと緩慢に動き出した。刹那、連続するように発砲音が鳴り響く。骸の頬をかすめた銃弾が背後へ飛んでいく。銃弾のすべてがボンゴレに向かって発砲されているのは明らかだった。音のする方向だけを見てリボーンが次々発砲していく。まるで手品か何かようにリボーンが引き金を引いたとほぼ同時に悲鳴があがって銃声が止む。リボーンの血走ったような目が辺りに潜んでいるであろう敵を捜すように巡らされる。と、綱吉が両手でゆっくりと顔をおおい、そして小さく悲鳴をあげた。

「なにが、起きたの? なんで、真っ暗、なの?」

「綱吉くん、真っ暗って――」
「もしかして目が見えてないのか!?」

 骸と了平の問いかけに、綱吉は答えない。
 まるで綱吉だけが惨状から切り取られた空間にでもいるかのように、のろのろと片手をあげて、己の顔の前で左右に手を振った。本当に見えないのか、彼は絶望したかのように息を引きつらせ「見えない、見えないよ!」と悲鳴のように言った。

「――ゆるさねえ」

 怒りに染まったリボーンが両手に拳銃を構えて、綱吉の傍らから離れた瞬間だった。

 骸は襲ってきた男と応戦したために綱吉から離れていた。
 了平は綱吉達よりも骸の側に立っていた。
 我を忘れたリボーンは、綱吉から離れて――あまつさえ目線を外していた。

 まるでその時を狙ったかのように、ひときわ大きな発砲音が響き渡った。それは拳銃のものではない。もっと大きな武器の発砲音だった。

 うすく煙っていた空気を裂いて出現したのは――、ボンゴレの守護者達ならば見慣れている『バズーカ』の弾丸だった。骸が息を呑み、了平がとっさに駆け出そうとし、リボーンが振り返った、その先――。その先にいるのは沢田綱吉だった。両手を顔の前にかざしたまま、目が見えないことに動揺しきっている彼は、己の身に迫っていることに少しも気がつく様子はない。

「綱吉くん!」
「沢田!」
「ツナ!」

 三人がほぼ同時に駆けだしたがすでに時は遅い。綱吉に被弾したバズーカは、奇妙な白い煙を一瞬で立ち上らせて三名の視界をさえぎった。一番最初に白い煙のなかに飛び込んだのは、距離が近かったリボーンだった。彼は白煙の中にいる綱吉に飛びついて、その両肩を掴んだ。
 リボーンが掴んだ肩が動いた。骸は少なからず安心した。彼は生きている。しかし安堵は一瞬だ。あの『バズーカ』の弾丸が骸達が考えていた通りの『バズーカ』の弾丸だったとして、それが被弾したということは――。

「ツナ!」

 リボーンが掴んだ肩を揺さぶる。まるで奇術のように白い煙がどこかへ消えていくに連れて現れた人物は、沢田綱吉であったが、沢田綱吉でなかった。軍用を模したようなデザインの立て襟のジャンパーにジーンズを履いた『彼』は、土埃があがっている空気を吸い込んだ途端咳き込み、顔をしかめたあと――、ぎょっとしたように限界まで目を見開いた。

「――え、あれ?」

 瞬きすら忘れたかのように周囲を凝視する。まだ、どこか幼さが残る顔立ちに浮かんでいるのは動揺で、表情は限りなく無表情に近い。己が異変の渦中にいるのだと理解した綱吉の顔が見る間に青白く色をなくしていく。そして己の肩を掴んでいる少年に視線を合わせ、さらに驚いたかのように瞬きを繰り返した。

「り、ぼーん?」

 リボーンは、幼くなった綱吉を見て、自失したように呆然としていた。骸は舌打ちしてリボーンの肩を掴む。びくりと身体を跳ねさせた彼は硝子玉のように感情が存在しない瞳を骸に向けてきた。

「リボーン、綱吉くんを立たせてください。笹川了平と僕で周囲の狙撃を牽制しますから、駐車場に戻りましょう。一台くらい、無事な車があるかもしれませんから」

 リボーンは素早く綱吉の腕を掴んで引き立たせた。無傷の綱吉は素直に立ったが、己の足下を見下ろして小さく声をあげる。骸も綱吉の足下を見て舌打ちした。彼は室内にいたのか、靴を履いていない。骸は近くに倒れていた男の死体に駆け寄り、革靴を脱がして綱吉のもとへ駆け戻る。彼はぎょっとしたように目を見開き、首を左右に振ろうとしたが、骸は有無を言わさずに綱吉の足をとって革靴にいれてしまった。死体には靴は必要ない、靴が必要なのは生きている人間だけだ。

 骸はリボーンに掴まれていない方の綱吉の腕を掴む。彼の琥珀色の瞳が骸を見た。それだけで骸は分かってしまった。ああ。これは間違いなく沢田綱吉だ。しかも、マフィアとして様々な経験を積んでいない、知識しか知らぬ『素人』だと、分かってしまった。ぞわりとした悪寒が骸の身体を包む。屍を踏む覚悟をしていない人間が立つ場所は、此処にはない。

「骸? 了平さん? みんな、成長して、る? じゃあ、ここ、未来なの?」
「しっかりしてください。気を抜くと死にますよ」

 リボーンと骸に挟まれて腕をとられるままに歩いていた、まだどこか現状を理解していない綱吉の視線が、足下に転がっている死体に向けられた。飛んできた瓦礫によって頭を割った若い女性の死体から、だくだくと赤い血が流れ出て地面に染みこみ始めている。綱吉はヒィッと短く悲鳴をあげて、あやうく足をもつれさせかける。怪我のせいでいつも通りに動かない体に苛立ちながら、骸は必死に両足を動かして今にも座り込んでしまいそうな綱吉を連れて走った。どうせ死ぬのならば、綱吉のみの安全を確保したあとでないとならない。守護者は己の命よりも、己の誇りよりも、己の身体よりも、己の感情よりも、ボスたる沢田綱吉を守り、その生命を生かさねばならない。

 動き出した骸達に向かって乾いた発砲音が重なる。

「走れ!!」

 了平の叫び声と同時に骸とリボーンは綱吉を挟んだまま走り出す。追いかけるように響く銃声の発生源に向かって了平とリボーンが拳銃を向ける。骸は近づいてくる標的がいないか四方へ気を配りながら、痛む足を動かして走った。ふと、綱吉の視線と骸の視線があう。

「骸、怪我、してる」

 片言のように呟く彼の瞳から涙がこぼれた。顔をくしゃくしゃにして泣く彼を見つめ、骸は胸を刺すような甘い痛みを感じた。
 他人の痛みを己のことのように思って涙を流す沢田綱吉。
 六道骸が愛してやまない綱吉の部分が、目の前に存在している綱吉にも確かにある。

「大丈夫ですよ。綱吉くん。必ず、僕達があなたのことを守りますからね」

 汗の浮いた顔で精一杯微笑みながら、骸は強く綱吉の腕を掴んだ。涙を流しながら不安げに綱吉は頷く。その様子を横目で見ていたリボーンの顔が悲壮に歪む。彼のそんな顔を骸は見たことがなかった。何か言葉をかけようと骸が息を吸った刹那、行く手をふさぐように大振りのサバイバルナイフを持った男が現れる。青龍刀を握っていた男と同じく、白いのっぺりとしたデスマスクを男は被っている。骸は綱吉の腕を離し、獣のような鋭い動きで男に向かって飛びかかっていく。

「骸!」

 綱吉が悲痛な声をあげたが、リボーンと了平は走るのをやめなかった。そのまま逃げればいいものの、綱吉がリボーンの腕を振り払うようにして立ち止まった。綱吉は何を考えたのか、骸の元へ走ろうとするのを、了平とリボーンに腕をとられて止められる。彼は立ち止まった場所でもう一度大きな声で「骸!」と骸の名を呼んだ。

 骸は男のサバイバルナイフを槍先でさばき、傷口から流れる血の飛沫を辺りへ散らしながら応戦を開始する。視界の端に綱吉が涙を浮かべて骸を見ている様子が映る。

 六道骸はいま、沢田綱吉を護っている。
 そのことがありありと、感じられる。

 ナイフを槍でさばいて一瞬、男と距離をとる。痛くて痛くてたまらないというのに、骸の口元には笑みが浮かぶ。ナイフの男は骸へ飛びかかるためのタイミングを計るかのように、左右に身体を揺らしている。
 骸は槍を握っていた左手の、薬指にはめられている霧の守護者をしめす指輪を口元へ持っていき、キスをする。誓う。誓う。指輪に誓う。彼を護ると。彼を愛すと。言葉には出さずに意識のなかで言葉にする。すると、男は苛立ったかのようにつま先で地面を土を蹴り上げ、「ソドム野郎め」と白い仮面の下から吐き捨てるように言った。
 
 ソドム。

 骸の綱吉への愛はそんなくだらない名で呼ぶことは侮辱以外のなにものでもない。

 痛みなどどこかへ消えてしまうかのような怒りが骸の奥底からはじけるように沸く。久しく使用していなかった『人間道』の、黒く仄暗い気が骸の身体にまとわりつくように噴出する。
 男がひるむかのように片足を引く。
 愚かな男だ。
 僕を怒らせるなんて。
 心の中でひとり呟いて、骸は優雅な仕草で槍を構える。
 男もナイフを構え直し、殺気のこもった視線を骸へ向けてくる。
 骸は、くふふ、と吐息で笑い、表情をくるりと反転させるかのごとく、冷たい怒りに満ちた顔で男を睨み付ける。


「僕と彼の行く手を阻む者には、暗く冷たい死を与えてあげましょう」


 宣言の終わりと共に、骸は地面を蹴って男に突進した。