執務室を出てすぐに、骸は綱吉が眠っている客間へと向かった。


 小さなノックをしたあとで客間のドアを開けると、ベッドサイドに置かれた椅子に座ったクロームが、綺麗な瞳で骸を見つめた。長い黒髪にはさまれた顔は白く、陶器のように肌はなめらかだった。十代のころから比べて、年を重ねてからの彼女は、より人形めいた美しさをもつようになり、日に日にそれは増していくようだった。

「おやまあ、クローム。うらやましいポジションですね」

 ベッドに近づきながら、骸は言った。クロームの華奢な両手が綱吉の手を握っていた。微笑ましい光景である。骸の発言に対して、クロームは微弱に笑んで、わずかに首を右へかたむけた。

「ボス、よく寝ているわ」

「ええ。可愛らしい寝顔ですね」

 椅子に座るクロームの左側に立ち、骸はベッドに眠る綱吉の顔を見下ろした。安心をしているのか、安らいだ顔で彼は眠っている。よほど緊張が続いていたのかもしれない。綱吉の額にかかるやわらかい癖毛に、指先で触れる。彼は身じろぎもせずに静かな寝息をたてていた。


「良い結果だったの?」

「まあ、綱吉くん的には」

「骸様的には?」

「今のところは譲っておきましょう、な具合です」


 肩をすくめた骸の態度に、クロームは「残念だわ」と囁いて息をつく。骸は吐息で笑って、綱吉の頬に触れ、眠る彼の額に唇を寄せる。ひどく甘い興奮が骸の血に混じって全身に広がっていく。彼が彼であるからこそ、六道骸は六道骸から解放され、六道骸でありつづけられるのだ。多くの矛盾を抱えて生きる骸を肯定し、『現実につなぎ止めている』存在を、骸は愛おしさをこめて見下ろす。


「愛していますよ。綱吉くん。本当の意味で、僕を変えてくれた人」

 そっと、クロームの手が、骸の腕に触れる。

「――私も。骸様やボスと出会えて、本当に幸せ。愛してるわ」

 彼女は綺麗に微笑んで目を伏せる。骸はじんわりと広がった好意を味わうように目を閉じたあと、クロームの体を両腕で抱きしめる。

「ああ、なんて愛らしいんでしょう」

 彼女は照れくさそうに顔を赤くしてうつむく。長いまつげが頬に影をおとしている。クロームの頬に唇をよせ、骸は彼女を再度抱きしめてから、身を離した。クロームは照れくささを隠すようにうつむいてしまい、長い髪のせいで表情のほとんどが隠れてしまった。


 骸はベッドに寝ている綱吉を見下ろす。
 彼は間近の騒ぎにも気が付かずに眠っている。

 綱吉の手を握っているクロームの手に手を重ね、骸は綱吉の顔に顔を近づける。髪が触れあいそうになるほど近くに顔を寄せ、骸は声をひそめて囁く。


「目が覚めれば、あなたの世界は息を吹き返し、鮮やかな色を取り戻しますから。安心して眠ってくださいね」

 綱吉から離れ、骸はクロームの手からも手を引いた。クロームは綱吉の手を握ったまま、じっと彼の顔を眺めている。


「クローム」

「なに? 骸様」

「クロームは、綱吉くんとあのガキが結ばれてもいいですか?」

「……ボスの幸せがそこにあるのならば」

「くふふ。やっぱり僕らは似てますよね……。結局、綱吉くんが好きすぎて、彼に嫌われるのが怖くて怖くて、彼の望むようにしか生きられない……」

 クロームは寂しそうに苦笑して、「そうね」と呟いた。

 骸は綱吉の手を握るクロームの手を見下ろす。やわらかそうな女性の手は、まるで幼子を慈しむ母親の手のようにさえ見えた。慈母の精神とは、子を産んだこともなく、母に愛されたこともない女性にも宿るものだろうか。そんな考えが骸の脳裏によぎる。彼女の人生を半ば搾取した時期のある骸にとって、クロームは綱吉の次に幸せになって欲しい人間の一人だった。

「クローム。これからも綱吉くんを愛していきましょうね」

 困惑するようにクロームがわずかに眉を寄せる。

「……迷惑にならないかしら」

「こんな美青年と美女に愛されることが迷惑なはずありませんよ。くふふ。僕らの愛はふつうとは違うんです、無償の愛、捧げる愛、まるでイェスのようですねぇ」

 小さく声をたててクロームが笑った。

 骸は彼女の長い髪に指をとおしながら言う。

「綱吉くんが幸せになれるといいですね」

「ええ」

 細長く息をついて、クロームは骸の胴に頭を寄せる。片手でクロームの頬を包むようにして抱きながら、骸は微笑む。

「ひとまずは、あのガキに彼を委ねましょう。我らが愛するボスが愛する存在を、抹殺することは出来ないわけですし。――泣かせたら、承知しませんけどね」

「――私も。許さない」

 クロームと骸の視線が重なる。二人とも、どちらともなく、意味深に唇だけで笑む。

「これは、同盟発足ですね。綱吉くんを泣かせたら承知しない同盟」

「発足ね」

 骸とクロームの小さな笑い声が重なる。ふと、綱吉がベッドの中で身じろいだ。近くで行われている会話の騒がしさにようやく気が付いたのかもしれない。クロームは寄り添っていた骸の身体から身を離し、椅子に姿勢良く座り直した。骸は彼女が座る椅子の背に腕を置いて、布団の中で身じろぎをする綱吉の様子を眺める。

 もうすぐ起きるであろう綱吉に、良い結果を報告できることを嬉しく思い、骸は自然と微笑む。その刹那、純粋な想いだけを詰め込んだ微笑を自分が浮かべることができることに、骸は少なからず驚いて、感心をした。

 沢田綱吉という人間が、どれだけ六道骸という存在に影響を与えているのか、骸自身にも分からない。

 訳の分からなさ、得たいのしれなさ、未知すぎる可能性。

 そのすべてが綱吉に骸が惹きつけられてやまない理由だった。


 綱吉のまぶたが震えて、ゆっくりと持ち上がっていく。

 世界を彩る色彩が鮮やかに変化していくような錯覚に包まれながら、骸は綱吉の瞳にうつる自分を眺めた。

 それはひどく幸福なひとときで、骸はまだぼんやりとしている彼の目を見つめ返した。


「――む、く、ろ?」


 かすれた声で綱吉が囁く。


 骸はにっこりと笑い、寝ぼけている彼に愛しさをこめて言った。


「お目覚めですか、ボス。おはようございます。――あなたの下僕が良い知らせを持ってまいりましたよ」

 綱吉は目を見開いて、一瞬だけ息を止めた。

 数秒の沈黙のあと、震えるように呼吸を再開した彼は、仰向けに寝転がったまま、両手で顔をおおった。

「……よかった……」

 骸は膨れあがりそうになる嫉妬心をしたたかに押し隠して、微笑の仮面を被った。クロームは両手をひざのうえに重ねておいて、姿勢よく座ってる。彼女の顔に表情らしい表情はなかった。やはり骸とクロームは似ているのかもしれない。彼女もおそらくは、複雑な思いが胸中をうずまいているだろう。

「……それで? リボーンは、なんて?」

 顔から両手を離した綱吉は、寝物語をねだる子供のように言う。

「最初から、お話しますよ。まず、リボーンが帰ってきたところからですね――」


 彼の世界が幸福に満ちるように思いをこめながら。

 骸は執務室で行われた会話を思い出しながら説明を始めた。