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短いノックのあと、執務室を開けた途端に鼻先に香った甘ったるい人工的な匂いに、リボーンは盛大に眉を寄せた。アジア特有の香りは複雑で、甘いなかにも渋みがあり、上品な香水しか嗅ぎなれていないリボーンにとっては異臭と大差ない。くらくらと頭のなかが揺れるような感覚がして、リボーンはボルサリーノのうえから頭をおさえた。
「あ、リボーン」
執務室の机には綱吉がいつものように椅子に座って、書類に目を通しているところだった。リボーンに気が付いた彼は、持っていた万年筆にキャップをかぶせ、紙のうえにおいた。
「おかえり。二人の様子はどうだった?」
「まだぼんやりとしか見られねーらしいが、回復はしてきてるってよ」
「そう。よかった」
「ツナ、この匂いはなんだ?」
「ああ、これ? 骸がね、落ち着くからって焚いてくれたお香だよ」
綱吉が右手で机をしめす。そこには細長い木の板のうえに、スティック状のお香がセットされ、白い煙を細長くたちのぼらせている。不快な匂いの原因を憎々しげに見下ろし、リボーンは舌打ちする。
「なんか、気持ち悪ぃーな」
「そうかな。オレはなんともないけど? ねえ、リボーン、そこに座って」
綱吉が指をさしたのは、執務室の机の正面にあるローテーブルを挟むように置かれた、ソファのひとつだった。リボーンがソファに座ると、彼は一枚の紙と万年筆を手に持って立ち上がる。
「なんだ?」
差し出された書類と万年筆を、リボーンから綱吉から受け取る。
「――は、ぁ?」
リボーンは息を止め、紙に書かれたイタリア語の文章を一気に目で読む。呼吸を再開したあとで、もう一度読む。信じられない文章にリボーンは次第に心音が早まっていくのを感じ始めていた。偽物か、あるいは冗談かと思い、もう一度読み返す。くせのある綱吉のイタリア語のつづり方が、彼が書いたものだと証明している。
「これは、なんだ?」
声を絞り出すようにリボーンが問う。
ローテーブルをはさんだ向かい側のソファに足を組んで座る綱吉は、何気ない契約書を提示しているかのように、普段通りの顔つきでリボーンの視線を受け止める。
「なんだって……。誓約書だよ。ボンゴレに関することはいっさい他言しませんっていう」
「なんだって、こんなもの――」
「もう終わりにしよう」
幕引きを意味するかのように、綱吉は静かに、しかし、はっきりと言った。
「もうオレ疲れちゃった。ごめんね。リボーン。振り回すだけ振り回しちゃったけど、もう終わりだから。それにサインしてくれれば、おまえは自由の身! どこへでも行けばいいよ」
「自由の、身?」
「どこへでも行けばいい。オレがいない場所へ行けばいいよ。オレはここから動けないんだから、おまえを追いかけることもないから安心して。そうだね、長年のつきあいだし、退職金として結構な額を用意してあげる。できれば顔をあわせたくないから、イタリアから出国してくれると、オレ的にはたすかるんだけど、どう?」
「………………」
リボーンは紙をローテーブルのうえに置いた。書類にサインをすることは簡単だ。右手に持った万年筆のキャップを外して、該当する箇所にリボーンの名を記せばいい。簡単なことなのに、リボーンの右手も左手も動かなかった。
「望んでたんでしょう? オレの側から離れたいって。それを許すって言ってるんだよ?」
「これは、なんだ?」
「だから書類だって――」
「また試してるのか!?」
リボーンが右手でローテーブルを叩くと、綱吉は悲しげに目を伏せてうつむいた。
「試す? 本当に試したのは、リボーンの方じゃないの? オレ、分かっちゃったんだ。リボーンがいきなり別れを切り出したのは、オレに行かないでくれって泣きついて欲しかったからだったんだなぁって。愛人にしたことを公表しろって言ったのも、オレがリボーンのことで思い悩んで苦しんでるの見てみたかったからなんでしょう? ひどいよね、リボーン」
「オレはそんなこと考えてなんかいねーよ」
「じゃあ、何を考えてたっていうの?」
「……それ、は……」
「何にも言ってくれないんだったらオレには分からないよ。オレはリボーンじゃないんだから、リボーンがどんなことを考えてるかなんて分かんないもの。――ほんとに疲れちゃったんだ。一人で悩んでるのも、一人で苦しんでるのも、もうたくさん。おまえは一度だって支えてくれなかったし、別れを切り出された晩から今日まで酷いいことばっかりでいい事なんてなかった……。もう、オレ、自分をすり減らしてくほど、気力ないよ」
うなだれていた顔をあげ、綱吉はまっすぐに貫くようにリボーンを見た。そこに迷いは一切感じられない。
「サインをして」
綺麗な琥珀色の目がリボーンを見つめている。昨夜、散々に犯した際に潤んでリボーンを見上げていた眼差しが、めまいのように思い出される。てのひらや肌で感じた熱すら幻だったかのように、現実味が薄れていく。
綱吉は動かないリボーンの腕を悲しげに見つめ、ゆるゆると首を振ったあと、片手で顔を覆った。
「なんで、サインしないの? まだオレのこと苦しめたいの?」
「違う」
とっさにリボーンの口から否定の言葉が出た。
「おまえを苦しめたい訳じゃない」
「じゃあ、どんな訳なの? お前が欲しいって、必要だって、オレはあんなに言ってたじゃない。それなのに、おまえは答えをくれなかったじゃないか。だからオレは、こうして一人で決断したの。今は辛いけど、きっと時間とか仕事とかがいろいろ忘れさせてくれるだろうし、みんなも側にいてくれるし。――リボーンとはこれでお別れだけど、ね。元気にやってよ、ここでおまえの幸せを祈ってるよ」
突き放すように笑う綱吉に決意の強さを感じ、リボーンはゾッとした。
「ツナ――」
「嫌だ。今更なにを言うつもりなの?」
綱吉はソファから立ち上がり、リボーンから距離をとるように廊下へと続く扉へと素早く移動する。
「オレがいるとサインしづらいんだったらいいよ。オレ、部屋を出てるから。サイン、書いておいて。書類はデスクにおいといてくれればいいから。――さようなら、リボーン
。もう二度と会わないだろうけど、元気でいてね――」
「待て」
綱吉はドアノブを回して扉を廊下側へ開けようとする。
「待て!!」
リボーンが激昂すると綱吉は動きを止めた。扉のドアノブを掴んだまま、振り返りもせずに停止している。現在のリボーンほどの年齢のころから見てきた見慣れた彼の背中がそこにあった。身長も体格もあのころに比べて大きくなったが、中身はあのころとなんら変わりがない。これまで見つめてきた背中を見るのがこれで最後だなんて、リボーンは思いたくはなかった。
失いたくない。
自分が無様なことになっても失いたくない。
一ヶ月前の綱吉も同じ気持ちだったのだろうか。
リボーンは漠然と思う。
綱吉がリボーンを手放すことはないと考えていた。彼に愛されている自覚はあったし、彼にとってのリボーンの変わりになるような人間がいないとも思っていた。
それでも、彼に決別を宣言したのには理由がある。
リボーンは綱吉を徹底的に甘やかしてやりたい衝動にかられることが多々ある。なんでもかんでも、綱吉の仕事を奪うかのごとく、手を出して、彼を甘やかし尽くしたくなる。しかし
、それは綱吉を駄目にする。本来、優秀なはずの彼を徹底的に駄目にする。それは許し難い行為だ。
綱吉を愛していたいが、側にいればいずれ、リボーンの愛は泥のように淀んでいく。
愛したいけれども、愛せば愛する者は朽ちていく。
愛する者を想えば離れるべきだけれども離れたくはない。
パラドクスに陥った考えは、次第に歪んでいき、答えは出ないまま、日々がすぎていくばかりだった。
綱吉がドアを背にして振り返った。何も言わないリボーンをいぶかしむように、顔をしかめている。彼がそんな表情でリボーンを見たことなど、ほとんどない。
いまにも扉を開けて飛び出していきそうな綱吉を、リボーンはまっすぐに見つめた。やわらかい癖毛、年を重ねても変わらないベビーフェイス、なかなか低くならない声音、あと数年もすればリボーンが追い抜いてしまうであろう身長――。
沢田綱吉を見つめる時の自分の想いを、リボーンはいま、まざまざと感じた。
それが愛おしさでないのなら、いったい何なのか。
リボーンには分からない。
「オレはおまえが大事なんだ」
絞り出した声がわずかにかすれたが、こぼれだした言葉は止まらない。
「何よりも大切なんだ。由緒あるファミリィのボスであり、誇り高き若き獅子であるおまえが、オレが側にいることで弱くなるのに、オレは耐えられないんだ……」
「だから、離れたかったの? そんなの、オレに言ってくれれば、オレだって努力するのに――」
綱吉は小さな声で言うと、唇を噛んでうつむいた。
「ツナ。オレはおまえが怖かったんだ」
「こわい?」
「オレは女の愛人ならガキのころからいた。愛人と交わしてきたものがオレにとっての愛だった。愛とはそういうものだって割り切って生きてきた。なのに、おまえに対する愛は、オレにとっては未知数すぎた。まるで初恋のようにいつまでたっても感情に振り回されちまう。そんな無様な奴に成り下がるのが我慢ならなかった」
「……それって、オレのこと、好きってこと?」
綱吉がよろめくように何歩かリボーンの方へ近寄った。ほうけたような表情に、少しだけ希望がにじんだようになり、すぐに泣きそうな顔になる。
リボーンがソファから立ち上がると、綱吉はゆっくりとリボーンの前にまで歩み寄って来た。まだ追いつくことのできない身長の差の分だけ、リボーンは顔をあげて、綱吉の顔を仰ぎ見た。
彼は泣き出しそうなのをこらえるように、唇を引き結び、目元に力を入れている。
「言ってよ。――それだけでいいんだ。言ってくれれば、オレは今までのおまえの仕打ちをすべて許すよ」
彼は目の縁に涙をためていた。
まばたきを続けていれば、そのうち溜まった涙がすべらかな頬を伝っていくだろう。
リボーンは目を閉じて。
息を吸って。
息を吐いた。
目を開いて。
綱吉の顔を見つめる。
彼は瞳を潤ませて。
リボーンの言葉を待っている。
終わりかけた世界のすべてが変わるのを信じて。
リボーンは唇を動かした。
「オレはおまえのことを愛してるんだ。沢田綱吉」
途端、世界がぐるりと回転したかのように歪む。
リボーンがふらついた足下を踏ん張って顔を上げてみれば。
目の前には綱吉ではなく。
にやついた六道骸が立っていた。
彼はおどけるように両手を頬にそえて首を傾げる。
「これはこれは、熱烈な告白を聞いてしまいましたねえ」
「――む、く、ろ――!?」
特徴的な含み笑いをして骸はおどけるように片目を細めた。
「あんがい、あなたも抜けているんですねぇ。それとも、あなたも相当思い悩んでいたんですかね? いつもなら見破るはずの僕の能力にどっぷりとつかってしまうなんてねぇえ! くふふ! ああ、本当に良い告白を聞いてしまいました! これは綱吉くんに報告せねば!」
拳銃をホルスターから抜き出して引き金を引く。
「撃ち殺す!」
銃弾は骸の額を撃ち抜いたが、それは幻ですぐにかき消えてしまう。微笑する骸は執務室の机に腰をあずけ、優雅に右手の人差し指を左右に振った。
「残念! 僕はね、綱吉くんに頼まれたんですよ? もしもあなたが僕を撃ち殺そうとして怪我でもさせたら、彼は自分が頼んだばっかりにと悔やんで泣くでしょう。あなた、綱吉くんが泣くのをみたいんですか?」
にやにやと笑う骸に銃口を向けたまま、リボーンは睨んだだけで彼が呪えたらと心底思った。けれどもリボーンにそんな技術はない。今ここで骸を銃撃して怪我をさせることはできても、あとで綱吉が気にすることは手に取るように分かる。短くて長い葛藤の末、リボーンは拳銃をホルスターにしまった。骸はその様子に機嫌がよさそうに何度も一人で頷いた。
「そうそう。短気は損気、ですよ?」
「――てめぇはいいのか。オレがツナの愛人だって」
「いいも悪いも。綱吉くんがそうしたいなら、どうぞその通りにすればいいんですよ。別に愛人なんて一人って決まってる訳じゃありませんし、僕は気持ちだけではいつだって綱吉くんの愛人ですから」
「変態野郎め」
「僕の愛は広く深いんですよ」
片目をとじて骸が言う。いちいち仕草が気に障る男だった。リボーンは舌打ちのあとで、彼から視線をはずす。
「てめぇ、他の奴に他言したら、地の果てへでも追って行って必ず殺してやるからな」
「くふ、くふふ! ああ、なんて喜ばしい日でしょうか! 伝説のヒットマンたる者が肩を震わせながら愛を告白したなんて!」
「骸。てめぇ、ほんとにあとで覚えておけよ」
「覚えておきますよ、忘れるものですか。くふふ! これであなた、僕に頭があがらなくなりましたねぇえ」
「はん! てめぇはどうせツナには頭があがらねーだろ。ツナはな、オレにはめちゃくちゃ甘ぇーんだよ」
「それはよかったですね。でもね、彼は僕らみんなに甘いんですよ?」
「言ってろ、クソが」
手近にあったソファを蹴りつけ、リボーンは視界から骸を排除するように、体の向きを変え、近くの壁際へと顔を向ける。
「綱吉くんは客室で寝ています。しばらく寝かせてあげてください。――あなたも少し眠った方がいいでしょう。寝不足なんでしょう?」
「いらねー世話だ」
「――リボーン」
名を呼ばれ、リボーンは仕方なく、顔だけを骸の方へ向ける。表情は自然と苦いものになった。
「なんだ? まだ何か用か?」
彼は両腕をかるく広げるようにして、首を右へかたむける。まるで道化師のように微笑んではいても、左右の色の違うオッドアイは仄暗い色合いをたたえている。決して、綱吉の前では見せることがないような、表情と感情とが交わらないちぐはぐな態度だった。
「僕はね、綱吉くんにはなるべく泣かないでいて欲しいんです。もしもあなたが綱吉くんを泣かせるようなことがあったら、僕は僕のすべてをかけてあなたを抹殺しますからね」
「消せるものなら消してみろ。道化野郎が」
「くふふ。言わせておいてあげますよ。ただの一度の生を生きているだけのあなたが、この僕に勝てるはずはありませんから」
「いまここで決着をつけるか? ちょうど、苛ついてるしな」
リボーンが瞬時に拳銃を抜くと、彼は暗い微笑をゆっくりとひそめる。道化師のように大げさな動作で両手を肩まで持ち上げ、頭を左右に振って心から呆れているという主張をわざとらしくする。
「これだからガキは駄目ですねぇ。今は綱吉くんの笑顔を取り戻すことのほうが重要じゃあないんですか? 僕は客室の綱吉くんに会いに行って、結果を報告してきます。――あとはどうぞ、ご自由に」
特徴的な含み笑いをして、骸は拳銃を構えたままのリボーンに、うやうやしく一礼をした。引き金を引きたい衝動をおさえるのに、リボーンの右腕が震える。ここで骸を撃ち殺したりすれば、綱吉は一生、リボーンを見るたびに罪悪感に苛まれ続けるだろう。骸のために綱吉との関係が崩れ去るなど、リボーンには耐えられない。
引き金を引かないリボーンを嘲笑うかのように骸は片目を細める。
「殺せないのは、お互い様ですよ」
「消えろ」
「言われずとも」
骸はきびすを返して、執務室のドアを開けて出ていった。遠ざかっていく足音を聞きながら、リボーンは大きめのソファに体を横たえた。ボルサリーノを顔のうえにかぶせ、目を閉じる。
苛立ちはまだ腹のあたりを漂っていたが、興奮しきっている状態では先ほど以上に何を口走るか分かったものではない。誰にも会わず、誰とも会話せずに、一度寝てしまってからのほうが、気分も落ち着いてくるだろう。
まぶたの裏に憎々しい骸の笑みがちらついて、リボーンは舌打ちをした。
出来ることなら、綱吉の夢が見たいと思い、リボーンはぼんやりと過去の記憶を何気なく思い出し始める。
胸がつまるような思い、いくら苦しくても手放せない情愛がそこにはあった。
愛する相手が彼だという事実を受け入れるのに、ひどく時間がかかったのかもしれない。
綱吉の声を、髪を、顔を、指先を、肌を、体温を――。
彼に関するあらゆる記憶に触れながら、リボーンは微睡みにおちていった。
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