頭と鼻腔が痛い。



 意識を取り戻した綱吉が最初に思ったことは、激しい頭痛と鼻腔が痛むことだった。

 何らかの薬品が染みた布で口を押さえられ――クロロフォルムではないようだった――、どうやら気絶していたようである。唾を飲み込んでみると喉にも違和感がある。帰ったらシャマルに診てもらった方がいい。ふと、綱吉は両目が布で覆われていることに気がつく。残っているのは五感で自分がいる場所を特定しようにも、特に汚れた場所でもなく、かといって外というわけでもなく、室内にいることくらいしか分からなかった。背中側に回っている両手には手錠がかけられている。手のひらはコンクリートに触れる。粗末な部屋なのか、もしくは建設途中の場所なのか。危機的状況のなかでも綱吉は冷静でいられる。車を運転していた人間は、山本に事前に調べさせていた反逆メンバーたちの写真のなかで見た顔だ。その点だけで、拉致を命じた人間も数人に絞られる。そして目的も分かっている。綱吉は殺されることはない。綱吉を殺しても意味はないのだ。伝説のヒットマンを愛人にした綱吉の判断を断罪するための拉致――そんなところだろう。

 綱吉は拘束されたまま、意識を取り戻したことをアピールするために、布で隠された顔を動かしてみる。けれど、何の反応もみられない。もう一度室内を見回すように頭を動かすと、ずきり、と一ヶ月ほど前に傷つけた首の傷が包帯の下で痛んだ。


「あのう、こんなことしなくても、オレ、抵抗しませんけど?」


 物音も、人の息づかいもない。腹筋をつかって身体を起こしても、周囲に何の異変も起こらなかった。誰もいないのかと、綱吉がもう一度口をひらこうとしたところで、ジジッと何かの電源が入る音がした。ラジオをつけた時のような音だった。


「『聞こえているか』」

 スピーカーをとおした男の声だ。
 綱吉は音のする方向へと顔を向ける。

「雑音多いけど、おおむね良好ですよ」

「『おまえの命を奪いはしない。我々の目的はそんなことではない』」

「え、そうなの。まあ、そうだよね。殺すんだったら一撃離脱に決まってるものね。じゃあなに? 誘拐? 身代金を受け取る前にたぶん、オレの仲間があなたたちをどうにかするのが早いと思うんですけど、どうかなあ」

「『我々の要求はただひとつ』」

 綱吉の戯れ言を声は無視した。しゃべりかたに訛りがある。以前聞いたことのある訛りに、綱吉は目を閉じた先に声を発している人間の顔を思い浮かべることが出来た。


「『貴様が失墜させた名誉をとりもどせ』」


「名誉をとりもどせ、か。わかりやすい台詞をありがとう、と言うべきかな。やっぱりなあ。あなたたちだったんですね」

「『何を――』」

「駄目ですよ。謀反とかってのは、もっと内密に、こっそりとしなきゃ。そして限られた人数で行うべきですよ。人数集めばかりに気をとられてよく人選をしなかったあなたたちの落ち度ですよ。ちょっといやなことばかりだったから、痛めつけられてもいいかなとか思ったんだけど、オレに危害をくわえるわけでもないようだし、一般人も解放したみたいだし――。オレ、帰らせてもらいますね」


 綱吉は両の手のひらと額に集中する。途端、赤にも青にも見える不思議な炎が額にやどる。手首にはめられている手錠を手のひらの炎で焼き切って腕を自由にする。目隠しを取り去る。目の前に現れたのはまだ建設中のビルだった。会社のオフィスに使用でもできそうなだだっ広いだけの空間が広がっている。あちこちに資材や配線の束がおかれ、見通しが悪い。声が発せられているスピーカーは、電気ケーブルの束のうえに置かれている。綱吉はスピーカーを手に取り、それを床に投げつけた。部品を飛び散らせながらスピーカーは残骸と化す。


 刹那、背後に気配を感じ、綱吉は振り返った。子供が小さな箱状のものを構えている。年は十歳未満、痩せて着ているものもみすぼらしい。驚いて身を固まらせた綱吉めがけて子供は握っていたものを振り下ろす。

「ちっ」

 舌打ちしてももう遅い。腹部の服を貫いて太い針が肌を貫く。打ち込まれた腹部から急激な熱さが綱吉の身体を襲う。途端、綱吉はがくりと床に膝をつく。全身の力がぬけて立っていられない。受け身をとることもできず、綱吉は床にうつぶせに倒れ込む。

「――あー、もー……」

 打った頭の痛みに顔をしかめるも、身体は動かなくなっていく。指先がかろうじて動く程度で、口も妙に痺れた感覚がし始める。倒れたままで子供の姿を捜すが、もうすでにどこにもいないようだった。

「いったい、なに、仕込んでたのかな?」

 あとで後遺症が残るようなものだったら困る。帰ったらシャマルに診てもらわないとなどと綱吉はぼんやり思った。帰れるかどうかさえ怪しくなったいま、思うことではなかったかも知れない。


 綱吉が床に倒れ伏してしばらく経ったころ、人数は定かではないが、複数の靴音が近づいてくる。顔を動かすことすらできない綱吉は、床に触れている耳で相手のだいたいの人数を把握しようとした。足音の数からいって十名以上はいるかもしれない。今回の黒幕がそのなかにいるかどうかは見えなかった。


「ご気分はいかがです?」


 訛りのない発音だった。どうやら黒幕は目の前には現れないらしい。後日の処理が面倒だなと綱吉は考え、誰に仕事を割り振ろうかとさえぼんやりと考える。

「我々の要求をのんでもらうまで返すわけにはいかないんですよ。マイ・ボス」

 嫌味がたっぷりとまぶされた言葉が頭上から降ってくる。綱吉は痺れた口で喋るのが億劫で何も答えなかった。

「何か言ったらどうですか? 喋ることができるように調合したんですからね」

「………………」

「そうですか。ならば致し方ありません。副作用があるかもしれない薬だったので使用は控えたかったんですが――」

 腕を捕まれ、乱暴に持ち上げられ、仰向けに倒される。山本が提出した書類のなかにあった写真で見たことがある風貌の男がいる。その背後にも十人以上の男たちがいる。あるものはスーツで、あるものはアーミールックでと、服装も年齢がばらばらでとても統率がとれているとは思えない、ちぐはぐな印象がするメンバーたちだ。銀縁の眼鏡をかけたインテリ風の男は、右手にもっていた注射器を綱吉の目の前に突き出す。

「死なない程度に痛めつける術はいくらでもあるのですよ」

 男の背後に控えていたアーミールックの男が仰向けに倒れている綱吉の右腕のスーツの袖をめくる。綱吉は抵抗しようとしたが、身体はうまく動かず、もどかしい思いだけが先行する。すでに麻痺している皮膚のなかへ注射針が沈む。何か定かではない液体が綱吉の体の中に注入される。熱い、灼けるような熱さが腕から全身に広がる。それは一瞬で激痛へと変わる。間接をめちゃくちゃに折り曲げるかのような痛み。息が止まる。身体は硬直したまま動かない。瞬きも出来ない。生理的な涙が溢れ出す。痛い、とにかく痛い。転げ回りたい衝動にかられながらも、麻痺した身体はのたうつことすらできない。

「ん、ぐ、い」

 見開かれた綱吉の目の前に注射器が差し出される。眼鏡の男は優勢の立場に酔うように微笑む。

「痛いでしょう。解毒薬はここです。さあ、誓っていただきますよ。あの男を国外に追放すると。それとも、もっと痛みをさしあげましょうか? そうなれば精神が崩壊しない保証はありませんけれど」



 誓う。
 何を。
 リボーンを追放。
 なにを馬鹿なことを。 
 そんなこと。
 できるわけがない。
 あいつがいないなら。
 ここにいる意味はない。
 あいつがいるから。
 ここに立っているというのに。
 追放。
 馬鹿げてる。
 おかしい。
 おかしくって。
 笑えてくるよ。



 綱吉は激痛の中、まるで生命すべての力を注ぐかのように、獣のように挑戦的に嘲笑した。



「くそくら、え」



 男が綱吉のあごを蹴り上げた。全身を押そう激痛のせいであごの痛みは感じていないも同然だった。血の味が口の中に広がる。視界が赤く染まっていくような幻覚がちらつく。


「こんな狂った若造にボンゴレの長い歴史を汚されてたまるかっ!!」


 男の悲鳴のような声。

 重なり合うように罵声が降り注ぐ。



 痛い。
 うるさい。
 痛い。痛い。痛い。
 もう好きにすればいい。
 誰かが終わらせてくれるのならそれもいい。
 身体が痙攣を始める。
 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。


 涙で滲んだ世界はすでに暗い。何も見えないに等しい。怒声と共に降り注ぐ殴打と蹴り。身体のどこが痛いのかすら分からない。綱吉は自分の身体の輪郭すら見失いそうになる。




 ダーン!

 一発の銃声――立て続けに連射される弾丸。



「き、さ――!?」


 眼鏡の男の声が途切れる。生暖かいものが綱吉の顔面に降り注ぐ。鉄くさい。血だ。銃声、重いものが倒れる音、悲鳴、罵声――永遠に続くかとさえ思った銃撃の音がやがて収束していき、ぴたりとやんだ。


 足早に誰かが近づいてくる。肩を掴まれ引き起こされる。それでも身体の痙攣はとまらない。綱吉は反射的にきつく閉じていた瞼を持ち上げる。黒いシルエットが映った。体格に少し不似合いのボルサリーノのつばの下で、端正な顔立ちが困惑にゆがんでいた。静まりかえっている室内――綱吉は彼がその場にいた全員を撃ち殺したことを瞬時に悟った。



「ころし、た、の?」

「言うに事欠いてそれか、クソ野郎」

「ごめ、……も、……だめ……」

「ツナ! 綱吉!」

「リ、ボーン……?」

「ああ、ここにいる、いるぞ!」

「オレ、死ぬん、かな」

「ふざけんな!!!」

「おまえの腕のなかでなら、いいね」

「馬鹿なこと言うんじゃねぇ!」


 リボーンの小さな手のひらが綱吉の頬に触れる。彼の手は冷たかった。

 気持ちがよくて綱吉は目を閉じる。

「ごめん、ね……」