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倒れたグラスからワインが流れ、真っ白なテーブルクロスに深紅のシミを作り出していく。
「え」
じわじわとクロスを浸食していくワインの染みなどお構いなしに、綱吉はテーブルごしに座る人物を見つめる。優雅な仕草でフォークにさしたステーキ肉を口に運ぶ彼に動揺はない。
「え、なに、なんて、言った、の?」
グラスを倒した手を引き寄せてスーツの襟元をぎゅっとつかみ、綱吉は無意識に止めていた息を吸い込む。
「いま、なんて――」
十四歳の家庭教師は、二十七歳の教え子を射抜くように見つめた。
「今日でおまえの家庭教師をやめるって言ったんだ。これがな、最後の晩餐だ」
何かを言おうとした綱吉の唇は幾度か開いたが、何も言わずに空気を吐くだけだった。
二人の他に誰もいない個室での夕食だった。夜景の見えるホテルの最上階のレストランは、綱吉が初めてリボーンによって連れてこられた高級な料理店で、味もサービスも一級品だった。テーブルの下に備えられたボタンを押さない限り、ウェイターはやってこない。
上品なジャズの音楽が部屋のどこかに隠されているスピーカーから流れている。すこしけだるげな女性の声音が歌うのはドイツ語らしく、綱吉には歌詞は分からなかった。だが、もの悲しいピアノの伴奏としきりと言葉を繰り返す女性の歌声が、別れを認めないわと歌っているように聞こえた。
ステーキを食べ終えたリボーンは手にしていたナイフとフォークをクロスのうえに置き、椅子から腰を浮かせて手を伸ばし、中身が全部流れ出てしまった綱吉のグラスを元の通りに戻した。
「ひでぇな、こりゃ」
べったりとテーブルに張りつく葡萄酒色のクロスを眺め、リボーンが呟く。綱吉は目の前の少年を眺めた。短い黒い髪、吊り気味の黒い目、小さな作りの顔立ち、成長過程の華奢な体格――その体にあつらえた高級スーツ一式、室内のためトレードマークのホンブルグハットはコートと一緒にクロークに預けられている。ぱっとみればまだ十代前半の少年にすぎない。しかし、彼は呪われた赤ん坊として、数え切れない年数を過ごしてきた。呪いがとけてから成長を始めた彼の体だったが、精神面ではまだまだ綱吉がかなうはずはなかった。スーツの内側には拳銃と予備の弾丸を装備している、れっきとしたボンゴレファミリィの一員だった――はずだったと綱吉は考えていた、数分前までは。
「なんだ?」
片手で持ったグラスのなかのワインを飲み干したあと、リボーンは切れ長の目で綱吉を射抜くように見た。彼はいつも視線だけで綱吉を射抜く。その場に張りつけにし、動きを止めさせ、従わせる強さのある黒い瞳はいつだって美しい。
「文句でも言うのかと思ったがな、――案外おまえも冷てぇな。十年以上も過ごしたのにな」
「……だって、なんで、急に――」
「二十代後半にもなって、家庭教師がべったりなんておかしいだろ」
「オレにとってリボーンは家庭教師ではないよ、もっと、もっと大切な存在なんだよ! なのになんで突然、これが最後の晩餐だって?! 突然なにを馬鹿なことをっ!」
「お。――ようやく脳に血が巡ってきたか?」
ふ、と皮肉そのもので笑ったリボーンの様子に、綱吉のなかで何かが切れた。椅子を蹴って立ち上がり右腕を振り上げテーブルにのっていたものを何だろうと構わずになぎ払う。次々に落下していった食器が絨毯のうえに落ちて耳障りな音を立て割れていく。
「あーあ……、せっかくの絨毯が台無しじゃねーか」
「……っ……」
こらえきれなかった涙が綱吉の右目の縁から頬を伝う。
頬の熱さと同じように内側で制御しきれない感情が荒れ狂い、言葉にならない。
暗色の絨毯にばらまかれた料理や皿などに目もくれず、リボーンは椅子に座ったまま、唇を結んで綱吉を見ていた。どこまでも冷静で揺るがない少年の瞳には、暴れ出した綱吉を映しても何の動揺もうかんでいない。
「っ、クソッ――ああっ!!」
頭をふって両手をテーブルに打ちおろす。がしゃんっと食器類がテーブルのうえで音を立てた。膝の力がぬけたようにへなへなと絨毯のうえに座り込み、綱吉は両手で頭を抱えた。何も聞きたくなかった。何も見たくなかった。いきなりの離別の言葉によって逆巻いた感情は行き場をなくし、子供のように体を縮めて絨毯がしかれた床に縮こまることしかできなかった。
近づいてくる足音に反応することもせず、綱吉は必死に流れ出てくる涙をとめようと歯を食いしばる。
「なぁ、ツナ」
変声前の甲高い声が興奮している綱吉とは対照的に淡々と語り出す。
「おまえは立派になったろ。もうオレは必要じゃねぇ」
「そんなこと言うなよっ、オレにはまだ、リボーンが必要なんだ」
「どうしてだ? おまえには六人の守護者がいる、仲間がいる、配下がいる、守るべきファミリィがいる。オレはもうおまえに教えてやることはない」
大きく息を吸い込んで綱吉は顔をあげる。スーツの袖で涙をぬぐい、床に座ったままで、目の前に立つリボーンを見上げる。彼は非情なスナイパーのように、感情の色を感じさせない顔で綱吉を見下ろしていた。
「――リボーンだって、オレのファミリィだ。オレはリボーンのこと、家庭教師なんて枠でくくってないんだよ。唯一無二の存在だって、思ってるのに――」
リボーンは顔の片側だけで笑う。
「おまえはもう十分にドン・ボンゴレだ。ドンはファミリィを愛し、ファミリィを守って行かなきゃならねえ。ツナ、おまえ、オレがいる限りは、最後の最後でオレを頼ろうとしちまうだろう。それはな、ドンとしては失格だ。おまえはおまえ自身だけでファミリィを愛し、養い、守っていかなきゃならねえんだ」
するりと笑みを翻し、リボーンは姿勢よく立ったままで冷酷に言い放つ。
「だからサヨナラだ。もう会うことはもうないだろーよ」
室外へ続くドアへと歩き出そうとしたリボーンの足を綱吉は両手で握った。彼は転びはしなかったものの、よろめいてから立ち止まり、怪訝そうに眉をよせて綱吉を見下ろす。
「ツナ。――離せ」
「や、ヤダ!」
「ツナ、綱吉、おまえはもう大人だろ。ガキじゃねぇーんだから離せ。ここの勘定ならオレが支払ってってやるから」
「お金のことじゃない! 行かないでよ、リボーン」
「足を離せ」
きっぱりとした命令の言葉だった。
「離せ。綱吉」
声変わり前の少年が発するには修羅をくぐりすぎた声音に、綱吉は弱々しく首を振る。
「いや、だ」
ばしん。
と、頬を平手で叩かれた。拳でないだけましだったが、殴られた力は本気だった。痛みはじんわりと熱に変わっていく。
「聞き分けのないガキは嫌いだ」
乱暴に綱吉の手を振り払い、リボーンは距離をとる。とっさに綱吉は立ち上がってリボーンの小柄な体を抱きしめた。拳銃のないリボーンの腕力では大人の綱吉に敵うはずはない。短く舌打ちしたリボーンは右手で綱吉の胸を強く押し返そうとするが、弱い抵抗でしかなかった。背中を丸めてリボーンのやわらかい黒髪に顔をよせる。十年以上、共に過ごし、共に成長し、もはや代わりの人間などいないくらいの思いを抱えていた。それは綱吉だけだったのだろうか。リボーンにとって綱吉は手のかかる生徒でしかなく、食事中にあっさりと別れを切り出せる程度の相手だったのだろうか。胸のなかでうずまく不満と不快さに綱吉は心細すぎてすがりつくようにリボーンの体を抱きしめた。彼が低い声で「いてぇ」とつぶやく声でようやく少しだけの理性が戻り、綱吉はほんのわずかだけリボーンを拘束していた腕をゆるめる。それでもリボーンを腕の中から逃がすほどはゆるめなかった。
「おい、ツナ。いつまでこうしてるつもりなんだ?」
「どうしても、行くの?」
「行くって言ってんだろ。離せ。もう一度殴られたいか」
ぐ、とリボーンの両手が綱吉の胸を押す。それでも綱吉は腕をゆるめない。
「――リボーン、前に言ったよね」
「ご託はいいから離せ。いい加減、本気で怒るぞ」
「マフィアは愛人を大切にするって」
「それがどうかしたのか?」
不可解そうなリボーンの声を綱吉は目を閉じて聞いていた。腕のなかの温もりを手放すつもりなど綱吉にはない。理性などほとんどない状態で思いついた異常な案しかいまの綱吉にはなかった。
「ねぇ、リボーン」
意を決したように目を開き、綱吉は腕のなかのリボーンを見下ろす。彼は苛立ちを隠すことなく、黒い瞳で綱吉を見上げていた。
「オレの愛人になって」
綱吉の目の前で、リボーンの黒い瞳が見開かれる。それが彼が今日初めてみせた動揺した表情だった。すぐさま動じたことを隠すように険しい顔をし、リボーンは右手の拳で綱吉の胸を打った。
「なに馬鹿なこと言ってんだ」
「オレ、本気だよ」
「あんまり驚いてトチ狂ったのか?」
「狂ってなんかないよ。家庭教師として側にいられないって言うんなら、愛人として側にいてよ。それならいいでしょう」
綱吉の願いにリボーンは大きな嘆息で答える。
「――あのな、ツナ。オレは誰の愛人にもならねーんだ。自分の身は自分で守るし、自分で面倒みてぇーからな」
「じゃ、じゃあ、オレを愛人にしてよ」
「馬鹿かおまえは。誰がドン・ボンゴレを愛人にすんだよ」
リボーンを抱く両腕に力を込め、綱吉は駄々をこねるように首を振った。
「イヤだ。選択肢はふたつだけしか許さない。リボーンがオレから離れるのなんて、許さない」
「お前が許さなくてもオレは勝手にする」
「させない。リボーンがそうでるなら、オレはボンゴレの力を使ってでも、リボーンをオレの側におく」
「……そりゃ、ボス失格だぞ」
心底呆れたふうに呟いたリボーンは綱吉の腕のなかで脱力した。
暴れるのをやめたリボーンを腕に抱きしめたままで綱吉は黙っていた。二十代も半ばを迎えた大人がする態度でも言葉でもなかったが、リボーンに対してはいつまでも子供のように甘えてしまう。おそらく、リボーンも常々、綱吉の甘えを感じており、今回のことに至ったのかもしれない。
それでも。
それでも綱吉はリボーンを失いたくはなかった。
多感な十代半ばから、共に様々な修羅場をくぐりぬけ、信頼と親愛を交わしあい、数え切れないほどの日々を過ごしてきた。呪いがとけてからのリボーンは成長するにつれて精神面と外面がようやく折り合いがつくようになり、周囲の評価は上がるばかりだ。いまだに子供の姿といえど、リボーンほどの名前と知名度があれば、どこのファミリィでも雇うことだろう。まさかボンゴレと敵対する組織に雇われるようなことはないにせよ、他のファミリィの一員としてリボーンが肩を並べること自体、綱吉は許せそうになかった。
ふいにリボーンの手が綱吉の胸をかるく押した。見下ろしてみれば、彼は呆れ顔に少々の苛立ちをふくませていた。
「ちょっと、離せ。ツナ」
「イヤだ。リボーン、逃げるから」
「逃げねーよ」
「嘘だ」
「本当だ。離せ」
いつもより優しい声音でリボーンが言う。綱吉は腕をゆるめた。リボーンはすぐに身を離さず、ゆっくりと綱吉の腕から一歩ほど後退する。乱れたスーツを両手で正した後、背筋をのばして両腕を胸の前で組み、切れ長の双眸で綱吉を見る。
「――おまえ、オレを愛人にするってーのは本気なのか?」
「家庭教師としても、ボンゴレのファミリィとして側にいられないって言うのなら、それがいちばんでしょ?」
「男の愛人になるって?」
「うん」
「十四歳のガキの愛人になるってか?」
「うん」
「男同士で愛人関係なんてバッシングの標的だぞ」
「それでも、いい」
「愛人て言葉の意味わかってんのか?」
「分からないほどガキじゃない」
短く嘆息してリボーンは肩をすくめる。
「まったく、今までどれだけ言っても愛人なんぞ作らなかったくせに」
「それ、は――」
とっさに綱吉は何か言おうとしたが、言葉はとぎれてしまった。リボーンは眉間にしわをよせ、短く舌打ちしたあと、組んでいた腕をほどき、綱吉から距離をとるように部屋の壁に背中をあずけて立った。
「おい、ツナ。オレにキスしてみろ」
「え」
「愛人、なんだろ? それくらいしてみろよ」
まったく温度のない冷たい声音だった。表情もひどくさめていて、綱吉の心は冷水を浴びたかのように震えていた。それでも足を進め、リボーンの前にまで行った。しかし、そこまでだった。突き刺すようなリボーンの視線を前に、綱吉は動けなくなってしまった。緊張した体をどう動かせばいいか分からず、早まる鼓動のせいで思考はどんどん鈍くなっていく。
硬直してしまった綱吉を眺めたリボーンは、鼻で笑ったあと唇の片側を持ち上げる。見限られる。一瞬の恐怖が綱吉の体を動かした。リボーンの両肩を手で掴み、彼の顔に顔をよせ、唇と唇をあわせて目を閉じる。まだ成長過程のやわらかく小さな唇をかるくついばみ、綱吉は唇を離そうとした。が、リボーンの手が綱吉の襟元を乱暴に掴み、顔を離すことを許さなかった。驚いて綱吉が目を開くと、間近にあった小綺麗な顔には馬鹿にするような意地の悪い表情が浮かんでいた。
「……誰がこんなガキのキスだって言ったんだよ」
噛みつくように開いたリボーンの口が綱吉の唇をふさぐ。すぐさま舌と舌をからめるキスが始まり、向きをかえ、幾度となく深く深く口をあわせる。リボーンの小さな舌先で口内をなぶられ、左手で首筋をなであげられた綱吉は、思わず身をすくませて体をひいてしまった。とたん、ぱっと襟元を掴んでいた手を離し、リボーンは乱暴に綱吉を突き飛ばした。キスの余韻が残っていたためか、綱吉は足がもつれて尻餅をついてしまった。どちらのものかわからない唾液が綱吉のあごを伝った。
リボーンは唾液でぬれた唇を舌でなめとり、嘲るように綱吉を眺めた。
「おまえがオレを愛人にすんのは無理だろ、馬鹿が――」
「もう一回、今度こそ、満足させてみせるから……!」
立ち上がって近づこうとした綱吉を右手で制し、リボーンは再び壁に背を預ける。綱吉がいままでも見たこともない冷淡さを含んだ眼差しを浮かべ、リボーンは腕を組んだ。
「じゃあ、ツナ。いまこの場所で服を脱げ」
「え、え……?」
「オレのこと、愛人にしたいんなら、オレを誘惑してみろよ」
「ぅ、う……」
「できねーのか? なぁ」
はん、と強気に笑ったリボーンは組んでいた腕をはずし、壁から背中を離す。
行ってしまう。
綱吉はスーツのボタンに手をかけ、脱いだスーツを歩き出したリボーンの背中に投げつける。リボーンはゆっくりと振り向く。そしてじっと綱吉を見ている。綱吉は目を伏せて深呼吸を繰り返したあと、意を決してワイシャツのボタンを襟元から裾にむかってひとつひとつ外し始める。相変わらず物憂げなジャズが室内をゆらゆらと漂っている。綱吉はもう自分が何をしているかあまり自覚はなかった。服を脱がなければリボーンが部屋を出ていくというのなら、脱ぐしかなかった。綱吉はゆるんだ涙腺を引き締めることができず、激しい情けなさや冷たい言葉に悲しさに導かれるままに、はたはたと涙を流していた。シャツのボタンを最後まで外す。下唇を噛んだあとで、綱吉はシャツを脱ぎ、倒れたままの椅子の上に放った。あごを引いてうつむいて細く長く息を吐いてズボンのベルトに手をかける。
そこで。
綱吉の手にリボーンの小さな手が触れて、綱吉の手をベルトから払った。
驚いた綱吉がとっさに顔をあげると、リボーンの頬に綱吉の涙が一滴飛んで散った。彼は頬に落ちた綱吉の涙のあとを気にすることなく、
「泣きながらすることじゃ、ねーだろ。――馬鹿が」
「……脱げって、言った、のは、おまえ、だろっ」
「子供の着替えじゃねーんだ。ただ脱いだって意味ねーだろ」
「そんな――、だって……」
鼻をすすりあげ、綱吉はその場に膝をついて、リボーンの両肩を掴んだ。彼は振り払いもせず、逃げもせず、駄々っ子のように泣く綱吉を見下ろしている。
「だって、オレ……、リボーンがいなきゃ、生きてる意味ないんだもの」
「てめぇーには頼りになる仲間がたくさんいるだろ」
「そういう意味じゃなくて。リボーンが側にいなきゃ、オレはずっとダメツナで、こんな風に生きてなかったもの。――オレ、リボーンがいなきゃ、生きてる気がしないよ……」
「だからって愛人、かよ」
リボーンが苛立ったように話すたびに、綱吉の心にはヒビが増えていく。それでも綱吉はもう言葉を飲み込まずに吐きだした。
「好きなんだ」
リボーンの胸元に額をよせ、祈るように言葉を紡ぐ。
「本当に。本当に。好きなんだ」
「………………」
実際には数秒の沈黙だったろうが、綱吉にとっては数分にも思える静けさだった。つよく目を閉じて頭上から降ってくるであろうリボーンの言葉を待つ。
「なんでいま言うんだ? 引き留めるための口実か?」
彼の声はあくまで抑揚がなく、感情が読みとれない。リボーンの顔を見上げれば少しは表情から感情を読みとることができるかもしれなかったが、今の綱吉は顔をあげる勇気はなかった。リボーンの華奢な肩を掴んでいる両手に力を込め、首を左右に振る。
「違う。違うよ……! もう、ずっと前から好きだったんだよ。こんなことおまえに知れたら、きっと軽蔑されると思ってたんだ。でも、もう、そんなのかまってられないよ。いま言わなきゃ、いつ言えばいいんだよ。き、嫌われてるんなら、もう、それ以上は嫌われないだろ……っ、愛人つくれって言われるたび、ほんとは、すごい、複雑だったんだ、――でも、つくんなかった、だって、好きでもない人、愛人にしても、全然、幸せじゃないもの……。おまえがいなきゃ、オレ、もうダメなんだよ。いなくなるなんて言わないでよ。――い、いまさら、オレの手を離さないでよ」
「………………」
リボーンは何も言わない。
綱吉の両腕が嗚咽とは関係なく震えている。こみ上げてくる別離の恐ろしさに綱吉は自分が何を喋っているのか理解していなかった。思いついたことを話しているにすぎない。リボーンの肩を掴んで何かを喋り続けていればとりあえずは彼は部屋を出ていかないリボーンをつなぎ止めておくための自分のの魅力という武器が綱吉には分からなかった。年ばかりとる一方で成長しない教え子だったのだろうか。もっと有能な他のボス候補を探しに行くのだろうか。ぐるぐると思考は巡り、どうしても前向きな発想など出てくることはない。
離れていって欲しくない。
そばにいて欲しい。
どちらも綱吉の我が儘にすぎない。リボーンには何の得もない。だから体を差しだそうと思った。しかし、それも拒絶されたも同然だ。もう他に道はない。
綱吉は顔をあげた。
作り物めいた小綺麗な顔立ちは無様に泣き伏している綱吉を見下ろしても、何の変化もなかった。思わず綱吉は笑ってしまった。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、肩をふるわせて狂気的に笑う。そこでようやく、リボーンは眉間にしわをよせた。
「オレ、本気だからね。リボーンが離れてくって言うんなら、オレが使えるものすべて使って引き留めるために全力を尽くすからね。――おまえも一緒に大きくしたボンゴレが没落するのはいやでしょう?」
「ひでぇ脅迫だな、ったく」
「オレをこんなふうにしたのはリボーンなんだからね」
「カテキョーとして責任とれってことか?」
「そう」
「どこまでガキの戯言なんだ、おまえは」
「ガキでも馬鹿でもなんでもいいよ」
「投げだしすぎだ」
「おまえがいるからマフィアの道を歩いてこれたんだ。おまえがいないなら、オレはもうこれ以上頑張れる自信はないよ」
「仲間はどうする?」
「それはあとで考える」
「……計画性がねぇー」
「そりゃあ、いま、考えたからね。誰かさんが突然、別れるなんていいだすから」
いつの間にか涙はとまっていた。両手の平で顔をぬぐい、ぱちんとかるく頬をたたく。泣きわめいたおかげで頭がすこしすっきりとした。綱吉の顔をじっとみていたリボーンは、綱吉の表情の変化を見逃すはずはなく、嘆息したあとで、くしゃりと右手で前髪をかきあげた。
「すぐに即答できねーよ。考えさせろ。また明日、ボンゴレの邸宅の方に顔出すから今日は勘弁してくれ」
「どこに行くっていうの? いやだ。オレも一緒に行く」
「信用ねーのな」
にぃ、と卑屈に笑い、リボーンは床に落ちていた綱吉のスーツを片手で拾い上げる。
「本当は今夜からホテル住まいでもしようと思って予約をしてたんだがな、今日はひとまず、ボンゴレの邸宅に戻るぞ。おまえがその辺をふらふらしてると危険だから――」
「
ホテルの予約、ここ? だったら、試してみればいいだろ、オレのこと」
「……あのな、バカツナ、言葉ってのはなよく考えてから口にしろ。その台詞は愛人が言う台詞だぞ。――落ち着け。分かった。いますぐ居なくならねーから安心しろ。明日の夜までに返事をする。オレが考えて出した答えなら、おまえ、のむんだよな?」
「え……っ」
「そりゃそうだろう。おまえは条件を出した。オレはそれをふまえた上で考えて答えをだす。おまえだって本当の馬鹿じゃないだろう。オレがどうして離れていくか理解してるだろ?」
綱吉は唇を噛んだ。
実際のところ、綱吉がリボーンを最終的に頼っていることは事実だった。それは10年以上続いた関係のせいで無意識に組み込まれてしまったシステムであって、綱吉の自覚はない。信頼と甘えの境界線は主観的では見ることはできない。
ボンゴレのために別れた方がいい。これは真実。
ボンゴレのボスに育てたのはリボーンだった。これは事実。
ボンゴレのボスであることでリボーンを失う。これは現実。
黙り込んだ綱吉にスーツを差し出し、リボーンは口をひらく。
「さっさと服を着ろ。みっともねぇ」
綱吉はふくれっ面でスーツを乱暴につかみ取った。
「おまえが脱げって言ったんじゃないか」
「早く着ろ。もういい加減、この状態の部屋にいるのは苦痛だ」
リボーンはそう言って部屋に視線だけを巡らせる。床に飛び散った料理、そこからにおいたつ何もかもがごちゃまぜの臭い、散々に割れたり欠けたりしている食器類。綱吉はよろよろと立ち上がり、脱ぎ捨てたシャツを手にして、のろのろと腕をとおし、スーツもついでに着用した。泣きすぎたせいか、目の奥がじんと痛んでいる。シャツのボタンをとめるために両手を胸元に持ち上げ――。
空気を裂く音がして綱吉はとっさに両腕をそろえて左側頭部を防御した。鈍い打撃音のあと激痛が腕にはしる。視界の端にリボーンが愛用してる拳銃のグリップがうつる。リボーンが舌打ちし、すぐさま身をひいてドアに走る。しかしその体はあまりにも幼い。身体能力だけでいえば、綱吉はリボーンに負けるつもりはなかった。強い踏み込みの跳躍でドアノブを回していたリボーンのスーツの襟を掴み、力任せに引き倒した。体重の軽い彼は仰向けに床にたたきつけられ、低く呻いて体を縮めた。拳銃は彼の手を離れ、残骸と化していたディナーのなかにまぎれてしまった。
「うそつき」
床に倒れるリボーンの体をまたいで押さえつけ、綱吉は彼のスーツの襟元を両手で力いっぱい握りしめる。
「うそつき。うそつき。うそつき、うそ、つき……」
「・・っ、けほっ……」
「オレ、なにか、悪いことしたの?」
哀しみがまた涙腺を刺激する。
「――おまえに、こんなふうにされるほど、オレ、なにか、した?」
リボーンが逃げ出したいほどのことを綱吉はしてしまったのだろうか。
綱吉の側にいてもリボーンが苦痛で苦痛で苦痛でたまらないのなら、リボーンを自由にしてやったほうがいいのかもしれない。
とまったはずの涙が頬を伝う。
リボーンは引き倒された際に締まったであろう首を右手でさすりながら苦しげに息を吐く。まだかるく咳き込む彼の唇に綱吉は唇で触れた。彼はぎゅっと唇を引き結ぶ。綱吉が舌で唇を舐めあげても、彼の唇が開くことはなかった。喉からはい上がってきた嗚咽をこらえきり、綱吉はふらりと立ち上がった。リボーンは綱吉の唾液にぬれた唇を手の甲で拭いながら立ち上がる。
綱吉は散乱している割れた食器の中から持つのに手頃な陶器のかけらを拾い上げて、リボーンへと振り向く。綱吉を見たリボーンの顔に緊張がはしる。それはすぐに烈火のような怒りへと変貌した。
「ツナ。よせ」
「さっき、おまえがしたことと同じだよ」
綱吉は尖った陶器の先を首筋にあて笑う。
「派手に血が流れれば気を失う。――さっき、のと、同じでしょう」
「ツナ、よせ。――悪かった」
「ふふ。リボーンが謝るのなんて初めて聞いたかもしれないなぁ」
ぐ、と陶器のかけらを首筋に押し当ててすべらせる。割れた陶器の破片が皮膚に沈み込む感触がして指先が生ぬるく紅く染まっていく。
「馬鹿野郎!」
罵声と共にリボーンは綱吉に飛びかかって陶器を持つ綱吉の腕に両手でしがみつく。思ったより激しい痛みに驚いていた綱吉はリボーンの体当たりを受けきれず、二人は絡み合うように倒れ込んだ。つい先ほどとは逆に、綱吉の腰をまたいだリボーンは、血にまみれた陶器のかけらを綱吉の手からとりあげたリボーンは、苛立ち任せに短く荒々しい声をあげたあと、上等な布で作られたスーツを素早く脱いで丸め、綱吉の首に押し当てた。
「馬鹿が!! 首はやべえんだぞ!! 死んだらどうする?!」
鮮やかな炎を思わせるリボーンの怒りに綱吉はみとれていた。
まだ怒ってくれている。
まだ心配してくれると。
馬鹿なことだと自覚をしつつも、うれしさはこらえられなかった。
微笑んだ綱吉を見て、リボーンは怒りの投げつける先を見失ったようだった。傷口から溢れ血で色を変えていくスーツに気づいた彼は、皮肉な笑みでもなく、冷酷な視線でもなく、怒りと困惑が入り交じった顔で眉をしかめる。
「――リボーン」
それほど深く刺したわけではない。ただ切っただけだ。
「ねえ、これ、覚えてる?」
声帯に傷がついていないので声は出る。
「あなたへの信仰を失うことはすべてを失うことと同じことなのです」
どこかの教会で聞いた宣教師の演説の一部だった気がする。ミサなんて参加したことのなかった綱吉がリボーンを引き連れて無理矢理に参加したことがあった。もうリボーンは覚えていないかもしれなかったが、綱吉は宣教師の言葉をうろ覚えながらも、思い出しながら口にした。
「わたしを生かすものとあなたを生かすものがたとえ違えども、わたしたちは共に歩むことができることでしょう」
リボーンは唇を引き結んで眉間にしわをよせ、耐えるような顔をしていた。声を出すたびに喉に違和感を感じたが、綱吉は話すのをやめなかった。
「いまのオレ、そういう気分。――お願い、リボーン。オレ、こんな馬鹿なこと、しちゃうやつ、だけど。ひきょーで、最低だけど、――お前が一緒に、あの、血路を、歩いてくれなきゃ、オレが、この未来、選んだの、後悔、しちゃう、よ」
「………………」
「好き。好きだよ。いつからか、わからないけど。おまえがいるから歩いてこられたんだ。おれの道しるべ、おれの、大事な、人。――愛してるんだ、リボーン、ねぇ、愛してる、ん――」
ぐ、と首の傷口ごとリボーンによって首を締め付けられる。綱吉が苦痛に目を閉じ息を止めると、ふいに唇にやわらかい感触が触れる。慰めようなついばむようなキスの感覚はほとんど首の傷の痛みに負けていたけれど、綱吉は必死に唇の感触を知ろうとした。
リボーンは笑わなかった。何も言わなかった。まるめて綱吉の首に押しつけている自分のスーツに顔を伏せて動かなかった。血はリボーンの力強い止血のおかげか徐々に収まりつつある。出血のためかぼんやりとしてきた頭で綱吉は思う。最後は同情にはしった自分の醜さに吐き気がした。リボーンは冷酷さを装っていても心根は繊細な人間だ。目の前で教え子が自殺未遂などすれば、彼は逃げ場をなくすに決まっている。本当に彼が鬼畜な人間だったら、綱吉が陶器の先を首に向けたのを見ても足をとめずに部屋を立ち去っただろう。そうなれば、綱吉は心を八つ裂きにして、ボンゴレのボスになるしかなかった。しかしリボーンは立ち去らなかった。最悪の賭は成功したのだ。
「ツナ。――綱吉」
止血のためとはいえ、リボーンに服越しに首を締め付けられながら、綱吉は彼を見上げた。黒く短い髪がふわふわとゆれる。憂うような瞳が綱吉を見下ろしている。まだいくぶんかまるみのある幼い顔立ち、これからまだまだ年を重ねていけば、男として体格も顔立ちも変化していくことだろう。呪いが解けてどんどん成長していく彼に惹かれていくのを自覚したのは、高校を卒業した日だった気がする。いとおしいという感情は、一度自覚してしまうと、彼と会うたび、話すたびに募っていく。十年近く降り積もった想いが刷り込みであろうと、綱吉にとっては、もう彼しかいなかった。
「ツナ、聞こえてるのか?」
「ん?」
「ひとつ、条件がある」
切れ長の黒い双眸がまっすぐに綱吉をみている。
「なに?」
「オレを愛人にしたと公表しろ」
「……どうして……?」
「それが条件だ」
「いいよ」
リボーンはまるで胸を刺されたかのように顔をゆがめる。
「すべておまえの言うとおりにする。だから自由よりオレを選んで」
綱吉の言葉を聞いたリボーンは死刑宣告を受けたように絶望した顔で目を閉じた。祈るように数秒間そうしたあとで、彼は片手をシャツの胸へとのばし携帯電話をとりだす。おそらくボンゴレの息がかかった病院へと綱吉の搬送を頼むのだろう。綱吉はリボーンが携帯電話を耳に当てるのを見届けてから目を閉じた。リボーンが離れていかないと分かったからか、急に意識が遠くなっていく。
「――……ッ、ツナ……!」
リボーンの呼ぶ声を遠くに感じながら。
綱吉はゆっくりとゆっくりと暗闇のなかに落ちていった。
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