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元々、キルベティは美しい少女や可愛らしい女性を偏愛している情報もあるくらいで、「アリス」という存在に化けた綱吉は、まさに理想が具現化したかのように思っているのだろう。幼顔だというのに理知的で幅広い知識を持つ「アリス」にキルベティが夢中になっているのが、コロネロにもありありと伝わってくるほどだった。
パーティが終盤にさしかかるころ、アリスがアンダーパーティのことをちらりと口にすると、キルベティはニヤニヤと笑いながら「よろしいですよ、お嬢さん。あなたをご招待しましょう」と甘く囁いてアリスの手を両手で握った。思わずコロネロは周囲にリボーンの姿がないことを確認して、彼がいないことにホッとした。いまのリボーンは、任務にとって手助けとなるどころか、逆に障害となり得る確率のほうが高い。
パーティが終幕を迎え、各々がグループを作ってバーや自宅へ戻り始める。「アリス一行」は、キルベティの導きどおり、キルベティの部下が運転する車に乗車して、アリス達はパーティ会場とは別の場所へ移動した。
運転手に問うてみれば、郊外の屋敷に向かっているということだった。地名を聞いたところによると、ずいぶんと町中からは離れた寂しい場所だった。車は法廷速度ぐらいで車道を走っている。おそらくは距離を置いてコロネロ達を監視しているリボーン達も、ボンゴレの配下達を連れて追跡をしていることだろう。
普段の綱吉は、おっちょこちょいだったり、どこか抜けているところがあったりするのだが「聡明な令嬢」や「愛らしい淑女」などという役名を与えられると、完璧なほどにその「役」をこなしてしまう。そんな綱吉を見ていると、コロネロはいつも胸の内で思うことがあった。
周囲からの期待と古くからの血脈の因縁によってボンゴレを継いだ彼は「ドン・ボンゴレ」という役名を必死に演じているのではないか。
と、いう疑問だ。
口にすれば、何かが壊れてしまう気がして、コロネロはいつも思うだけで言葉にはしない。沢田綱吉が自分自身で捨てるものと拾うものを決めて選んだ道だ。コロネロにも、誰にも分からないものを踏み越えた綱吉が、今の場所に立っているのだとしたら、余計な詮索や言葉は必要ない。
屋敷には四十分ほど経ったころに到着した。仰々しいほどに庭に配置されている人員の数からみて、事前の情報通りに公には決してすることができないパーティが催されているのだと予感できた。車から降りるとき、コロネロはスカルと目を合わせる。生来から気の弱い彼も、元・アルコバレーノだ。マフィアの世界を生き抜いてきた者として、これから起きるどのようなことにも対処できるように周囲へ意識を展開しておくべきだった。気弱な表情も態度も心の奥底にしまい込んだスカルは、真っ直ぐにコロネロの瞳を見た。スカルの中のスイッチが切り替わったのを感じつつ、コロネロは車から降りた綱吉へと視線を移す。
綱吉はコロネロと目が合うと微笑んだ。敵地に乗り込んでなお、綱吉は不遜な態度を一切崩さなかった。昔の彼からは想像が出来ない不敵さを頼もしく思い、コロネロは思わずゆるみそうになった口元を慌てて引き結んだ。
キルベティの案内によってとおされた部屋は、ごてごてとした装飾が施された派手な家具と調度品で彩られた応接室だった。肘置きが金の金具で彩られた真っ赤なソファに優雅に綱吉は座った。その背後にスカルとコロネロは、両手を腰のうしろで組んで立つ。
両手を膝のうえで重ねた綱吉は、傍らに立っていたキルベティを見上げて、上品な笑みを浮かべた。
「わたしの我が儘を聞き入れてくださってとても感激しております。こういう場所には出入りするなと叔父様にさんざん言い聞かせられてきたんですけれど、やはり興味があって……」
「仕方がありませんよ。ミス・アリスもカルカッサの血を受け継ぐお嬢さんなんですから、こういった社交界にもいずれデビューなさるご予定でしたでしょう。それが私の主催する今宵の社交界ということについては光栄に思っておりますよ――」
「お上手ですわね、ミスター」
目の前で交わされる、狸の化かし合いのような会話を聞き流しながら、コロネロが小さくあくびをかみころしていると、部屋の隅に立っていたキルベティの部下達のうち、ひとりが目ざとくコロネロの仕草に気が付いて、咎めるような視線をよこしてきた。コロネロは鼻から息をついて、キルベティの部下を睨み付けた。男は不機嫌そうに顔を歪めたが、声をたてるようなことはせず、視線をそらした。
「先輩」
非常に小さな声でスカルが囁く。
横目でスカルを見てみれば、彼も同じように目線だけを動かしてコロネロを見ていた。
「アリスはリ……、えっと、殺し屋のあいつのこと、相当好きみたいだが――」
「そりゃあそうだろ。あいつらは昔っから、無自覚でお互いに執着しまくってたからな、コラ」
「そうなのか?」
「ま。おまえはあんまりあいつらが二人でいるとこ見てねぇから、分かってねぇんだろうけどな」
はあ、などと、溜息なのか相づちなのか判断がつきかねる声らしきものをもらし、スカルは眉間にしわをきざむ。
「……いったい、いつまで続くんだ……」
「さあな。でも、こんな状態がそう長くは続かねぇ。だいたい、あの男がしおらしく引いたまんまなんてことはねぇだろうからな。――オレ達は面倒なことに巻き込まれてるってことだけは当たってんだ」
コロネロは歯を見せるようにして不機嫌極まりない顔をした。思わず吹き出しそうになったスカルは、唇をぎゅっと結んでこらえる。馬鹿なことにつきあわされている者同士という妙な連帯感をスカルに抱きつつ、コロネロは細長く息を吐き出す。
「あとであいつには高ぇ店で酒と料理でもおごってもらわねーとな」
「あ。じゃあ、オレは低価格で仕事請け負ってもらお――」
一瞬だった。
ぽきゅん。
と、いう、妙に軽い音がしたかと思うと、室内の四隅から一気に白い煙が吹き出してくる。むろん、それが無害なものであるはずはない。
「――く」
口元を押さえても遅い。あっという間に部屋に充満し始めた気体を吸い込んでしまい、ぐにゃりとコロネロの視界が歪む。膝から力がぬける。絨毯の上に膝をつき、そのまま倒れ伏すのを両手をついて阻止する。がくがくと腕は無様に震えた。閉じそうになる目で必死に周囲を見回すと、片手でソファを掴みながら、スカルが必死に立っていた。スカルの視線の先には――綱吉がいる。ソファから立ち上がった彼は、息を止めているのか唇を引き結び、目を見開いてスカルとコロネロを見下ろし、次の間、怒りに染まった薔薇色の瞳をキルベティへ向けた。
もうもうと白く煙る部屋のなか、呼吸器を覆う小型のガスマスクを口元に添えたキルベティが嘲笑するように双眸を細める。
「お嬢さん。――あなたが持ち込んだ招待状、よく出来ていたんですがね、我々が用意した招待状じゃあなかったんですよ。どうして偽物だと分かったのか、種明かしは出来ませんけれどね……。あなたがどこの誰で、どんな目的でここへ来たのかはを知りたいなんて我々は考えていないんですよ。咎めるつもりも責めるつもりもありません。むしろ、感謝したいくらいですよ。のこのこと、ここまでついてきてくださってね。お連れする手間が省けました」
ガスマスクによってくぐもったキルベティの声が呪詛のようにわんわんと部屋の中に響き渡る。毒ガスの影響で立っていられなくなったスカルが、絨毯に膝をつき、そのまま受け身もとらずに倒れていった。その様子を見ていた綱吉の顔が苦痛そうに歪み、倒れたスカルに駆け寄ろうとした――が、キルベティが綱吉の腕を掴んだ。とっさのことで綱吉は結んでいた唇を開いて、言葉を発するために息を吸い込んでしまう。すぐに自分の過ちに気がついた綱吉だったが吸い込んでしまったものを吐き出せはしない。キルベティはニヤニヤと笑いながら、掴んでいる綱吉の腕を乱暴に上方へ引き上げる。綱吉は顔をしかめて唇を噛んだ。
「白ウサギも帽子屋も女王様もトランプ兵も――、チェシャ猫もここにはいませんけれど。――我々の開く夜会をどうぞお楽しみくださいませ、ミス・アリス」
綱吉は掴まれた腕を揺すってキルベティの手から逃れたが、勢いのついた身体はソファにぶつかった。よろけた彼は片手でソファを掴んで体勢を立て直そうとしたらしかったが、ガスのせいなのかふらりと上体を揺らし、今にも倒れそうに見えた。
コロネロは舌打ちをして必死に体を動かそうとするが、麻痺したように手足が動かない。それどころか非常に強い眠気によって意識が食らいつくされそうになっていた。絨毯に爪を食い込ませて両腕に力を入れても、身体を起こすこともできない。
どさり、という物音と共に、コロネロの目の前に綺麗な黒髪が散る。意識を失い力の抜けた綱吉の身体が絨毯のうえに転がっていた。コロネロは手を伸ばしたが、絨毯のうえに無惨に広がった彼の黒髪にすら触れることができない。歯がゆさで何かが千切れそうだった。
絨毯の上にはいつくばった面々を愉快そうに眺めているキルベティの顔を、コロネロは憎しみを込めて睨みあげた。彼はコロネロの近くまでくると、まるでサッカーボールでも蹴るかのように革靴の先でコロネロの顔面を蹴り上げた。力の入らない身体はごろりと転がり、燃えるような痛みが走った鼻筋からは温かい液体――血がだくだくと流れ始める。痛みで叫び声をあげて転げ回りたかったが、薬による強制的な意識の白濁が始まっていて、声すらあげられなかった。
高揚した気分そのままに笑い声をあげたキルベティは、仰向けに倒れている綱吉の側まで来ると、コロネロの顔面を蹴り上げた靴先で綱吉の頬をつついた。わずかに付着していたコロネロの血で、綱吉の頬に赤いこすれた跡がついた。何がおかしいのか分からないが、キルベティは再び声を上げて笑い、部下に「例の部屋へ連れて行け」と言った。キルベティと同じ小型のガスマスクをつけた男達が部屋の外からも現れて、数人がかりで倒れ伏しているコロネロたちに群がってくる。
乱暴に腕を掴まれて引き起こされ、ぐるりと頭の中が掻き回されるような不快感に身体が支配される。怒りにまかせて何か罵声を言おうとコロネロが引きつったように息を吸い込むと、有害なガスの威力がコロネロの意識を根こそぎ奪い取っていく。
完全なる暗転。
コロネロは何もかも失って闇に沈んだ。
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