『あなたが考えもしないことを考えているんですよ、帽子屋さん』


 綱吉の都合も山本の視線もこれから行うべき仕事のことも考えずに、リボーンは綱吉の腕を掴んで椅子から引き立たせた。

「ちょ、リボーン?」

 抗議の声をあげた綱吉の手を掴んだまま、リボーンはパーティ会場の壁際を歩き、会場の出口を目指す。山本がついてきている気配はしなかった。

 綱吉は腕を振り払わず、抵抗もせずに黙ってついてきていた。リボーンは恐ろしくて背後を振り向けなかった。綱吉が一体どんな気持ちを抱え、どんな表情で先を行くリボーンの背中を見ているかなど知りたくなかった。

 会場外のロビーを横切り、人のいないほうへ進んでいくと、貨物用エレベーターなどがある従業員用の奥まった通路にたどり着いてしまった。強く綱吉の腕を握りしめたまま、リボーンは立ち止まり――動けなくなってしまった。振り返ることもできず、かと言ってなんと言葉をかけていいかも分からず、綱吉の手をただきつく握りしめることしかできない。


 しばらくして、背後で溜息が落ちた。


「痛いよ、離して」


 綱吉の静かな声音で、ようやくリボーンは彼の手首を掴んでいた手を放した。短い深呼吸をして、己の顔に冷徹の仮面をかぶせて背後の綱吉と向き合うように振り返った。

 長い黒髪、耳元ちかくの大きな薔薇の髪飾り、そして薔薇色の瞳――。
 呆れるほどに装飾されていようとも、目の前にいるのは沢田綱吉だ。

 彼は愛らしい顔に不機嫌さをにじませながら、片手で黒髪を背中がわへとはらった。


「せっかく上手くいきそうなんだから、目立ちたくないんだ。あんまりオレの側によらないでよ。オレ、いまボンゴレとは何の関係もない、カルカッサのボスの姪ってことになってんだからさ」


「――おまえ、いったい何を考えてるんだ? そんな真似をしてオレをからかって嘲笑ってんのか?」


「オレ、そんなことするほど暇じゃないよ」


 呆れるように言って、綱吉は柔らかそうに起伏している胸の前で両腕を組んだ。


「たまに前線に出てみたくなっただけだよ。お前に言えば反対したろ? だから黙ってたんだ。それにこの格好なら、むやみやたらに暗殺者にも狙われないしね。今度から、プライベートで外出するときには女装した方がいいのかな。そのほうがゆっくりできたりしてね」


 そう言った綱吉は、しかめていた顔に無邪気そうな微笑を浮かべた。

「――っ、」

 久しぶりに目にした綱吉の優しい微笑にリボーンの感情は揺さぶられた。気が付けば、綱吉の腕と肩を掴んで彼を壁に押しつけていた。驚いたように化粧で彩られた目を見開き、綱吉は息を呑む。形のよい彼の唇に、唇で触れようと――したが、綱吉の手が唇と唇の間に差し入れられた。そこまでしたあとで、全身の血の気が引いて冷たくなっていくのを、リボーンはありありと感じた。崩れ落ちるように綱吉から離れ、リボーンは細い通路の反対側の壁に背中が当たるまで後退した。

 口元を覆っていた綱吉は、そっと息を吐いて顔から手のひらを外した。リボーンは絶句するしかなかった。おそらくは鏡で己の顔を見れば、呆れるほどに動揺していることだろう。

「リボーン……」

 綱吉は先ほどのホールでも見せた、寂しそうな顔をする。

「――リボーン。おまえがそんな状態じゃあ、仕事にならないよ。ねえ、この一件が終わったらすこし休養してごらん。少し、ボンゴレから離れた方がいいよ、きっと」

「……捨てるのか……?」

「違うよ。冷静になれって言いたいんだよ」

 足下から力がぬけてしまいそうになるのを、リボーンは必死でこらえていた。内面の嵐を悟られないように、ずれかけた殺し屋としての仮面を被り直す。冷えた目、揺らがない意志、無表情。過去、幾度となく経験したことのある愛情がからんだ修羅場で、リボーン自身が無様な醜態を晒すことなど、昔のリボーンは考えもしなかっただろう。

「冷静になってよ。リボーン。おまえはこんなことをしでかすような人間じゃあなかったろ?」

 綱吉の声音ではない、女性のような声音が綱吉の言葉を話す。

 美しい虚飾、それらに隠されているものはいったいなんなのか。
 リボーンはゆっくりと呼吸をしながら、目の前の綱吉を冷静な心で見つめ直す。
 彼は心を閉ざしているから、リボーンの読心術では何を思っているか分からない。

 綱吉は心を閉ざしている。

 リボーンに隠しておきたい事実が心の中にあるのだ。彼の口から出ている言葉のすべてが彼の本音だという確率は限りなく低いとみてもいいのかもしれない。彼は恋情を捨てきれないリボーンは側においておけないと言う。しかし、リボーンの感情を煽るかのように、リボーンの任務を横取りするような真似をし、あまつさえ『女装』などというふざけた装いをして彼はリボーンの目の前にいる。リボーンは苛立ちとともに短く息を吐く。いったい、何を考えているのだろうか。と、思いつつ目の前の人間を眺めて、リボーンはふと思いついた言葉を口にしてみた。


「怒らせたいのか、オレを……」


 憂うような瞳が、一瞬だけ、震えるように動揺して視線を揺らした。


「おまえ、わざとオレを怒らせようとしてないか?」


 リボーンは言いながら、注意深く綱吉の顔を見ていたが、彼は微笑するばかりで何も答えなかった。読心術は意味をなさず、化粧で変化した綱吉の表情はいつもよりも内心が読みにくい。心の閉ざし方やポーカーフェイスの仕方を教えたのもリボーンだ。かつての駄目生徒へ、最高の教育をしてしまった過去の己へ舌打ちして、リボーンは片手で顔をおさえた。


「アンダーパーティのことは任せておいて。ちゃんと証拠を掴むからさ」


「――失敗しやがったら、ただじゃおかねぇーぞ」


「頑張るよ。おまえのお仕置きは怖いからね。――ねえ、リボーン」


 綱吉は片手でドレスのスカートを掴んで少しだけ持ち上げ、その場でくるりと一回転をした。長い黒髪の毛先とドレープを描くスカートの裾がふわりと揺れ動き、停止した綱吉の成人男性としては華奢な身体に巻き付くようにして、再び元の位置にもどる。


「どう? 似合う?」

「――気色悪い」

「あそう……、それは残念」


 間髪を入れずに返したリボーンに対して、綱吉は苦笑しながら片手で頬にかかってしまった黒髪をはらう。普段の琥珀色とは違う、薔薇色の瞳が憂いを帯びるようにしっとりとしたものへ変わる。泣きだすのかと思ってリボーンの気持ちは驚くほどに冷えたが、彼は寂しそうに口もとだけで微笑んだ。


「ねえ、リボーン。オレが女だったら、いろいろと簡単だったのにね」


 もしも綱吉が女で、そしてボンゴレの血を引く血族の末裔で、リボーンが伝説の殺し屋の男で、二人が結ばれることとなれば、マフィアの世界でも有名なカップルとなったことだろう。紆余曲折があれど、おそらくは婚姻することとなり、二人の間に子供が生まれれば、それはマフィア界の至高のサラブレットになることは間違いない。

 しかし、そんなことは空論でしかない。
 綱吉は男で、女ではない。
 胸を中心にじわじわと広がっていく苦みにリボーンは顔をしかめる。


「おまえが女だったらなんて、オレは一度だって考えたことはねーぞ」


 綱吉は小さく「あっ」と悲鳴を上げて、片手で口元を押さえて俯いた。おそらくは、考えついたことをさらりと口にしてしまったのだろう。昔から、幾度となくリボーンが注意してきた彼の癖だ。思ったことを考えたことを素直に口にしてしまう。それはマフィアとなるには徹底的に直すべき癖だった。ポーカーフェイスが貫き通せないということは、己を守れないということ――心も体も精神も守れないということ――と同じことだ。

 綱吉はバツが悪そうに眉を寄せてかるく首を振る。かすかな音をたてて黒髪が細い背中のあたりで跳ねるように揺れた。


「……ごめん。不愉快なこと言って」


 リボーンは、どんな言葉を綱吉にかけるべきかを悩んだ。何を言ったとしても、失敗してしまいそうな気がして、何も言うことができない。綱吉自身も失言をしてしまった手前、どう会話を再開したらよいのか考えあぐねたのか、唇を結んで黙ってしまった。

 遠い場所のはずだというのに、かすかにホールの喧噪が耳に届くほどの静寂が廊下には流れていた。ふいに駆け寄ってくるような足音がしてリボーンも綱吉もホール方向へ続く廊下へ視線を向ける。

 廊下を駆けてきたのはスカルだった。コロネロよりはやや身長が低いスカルだったが、リボーンと比べると拳ひとつぶんほどスカルのほうが身長が高い。リボーンは己の体躯の成長の遅さに内心で舌打ちをした。

 綱吉の隣に立ったスカルは、仏頂面のままで綱吉の隣のあたりの空間を見ながら口を開く。

「ボンゴレ、ここにいたのか。会場にいないから捜したんだぞ!」

「ごめんね」


 綱吉はスカルと目を合わせるために少しだけ背中を丸め、己の顔の前で持ち上げた片手を上下させる。スカルは綱吉に顔を覗き込まれると落ちつきなく視線をさまよわせて「もう、いいけどなっ」などと呟いた。スカルはあまり他人と目と目を合わせて会話をすることができない。他人と視線をあわせるには、目線と目線の間にサングラスやフルフェイスヘルメットのバイザーなど、物理的なものが必要になる。パーティという場所柄、サングラスなどかけるわけにもいかず、おそらくスカルは極度にストレスを感じているのかもしれなかった。リボーンと出会ったころはまだパーティの序盤だったが、長い間サングラスもなしに、見知らぬ大勢のなかにいたせいで、頭痛でも感じ始めているのか、スカルの顔色は普段よりも幾分か青白かった。


 一瞬だけ、スカルはリボーンの表情を伺うように視線を動かした。リボーンは無表情のままにスカルの視線を跳ね返す。彼は何かを言いたげに口を曲げたが、リボーンには何も言わずに、綱吉へと視線を戻した。

「コロネロ先輩は、例の奴と武器についての話をしてご機嫌とりしてる」

「そう。じゃあ、陥落させに行こうか」

 不敵に笑んで呟いた綱吉は、無言でいるリボーンを見た。


「じゃあね。リボーン。休暇のこと、よく考えてみてね」


 それだけを言って彼は離れていこうとする。刹那、リボーンは歩き出そうとした綱吉の腕を掴んだ。進みかけた足を止め、綱吉は困ったように重たく息をつく。ずぐりと己の胸の奥がえぐれた音をリボーンは確かに聞いた。


「離して」


 リボーンは手を放す。


「リボーン……、――……」


 肩越しにリボーンを振り向いた綱吉は、何かを言いかけて、――やめた。
 何を言いかけたのかと普段のリボーンならばきつく問いつめただろうが、今のリボーンにはそれはできなかった。決定的な否定の言葉を聞くくらいならば、あえて自ら傷をえぐる必要はない。

 何故か綱吉は、リボーンが何かリアクションをおこすのを待つような間をあけた。しかし、リボーンがなにも起こさないことを知ると、浅く息をついて、悲しいというよりは寂しそうな眼差しでリボーンを見た。いったい、リボーンのどこに寂しさを感じたのか、それすらもリボーンは分からなかった。ただ綺麗な薔薇色の瞳を無表情に見返すことしかできなかった。


「――じゃあね」


 綱吉はリボーンへ背を向けると、振り返ることなくパーティ会場へと向かい始める。二人のやりとりに何かを感じ取ったのかスカルが苦い顔をしたが、何も言わずに先に歩き出した綱吉を追ってリボーンから離れていく。


 やがて二人の姿が廊下の角で見えなくなる。一人取り残されたリボーンは、ふらりとよろめくように壁に背中でもたれ、頭にかぶっていたシルクハットを手に取ると、それで顔を覆った。泣き出したい訳でも、怒り出したい訳でもなかった。ただ、いまの顔を誰にも――むしろ自分にさえ――見られたくなかった。







そんな状態じゃ仕事にならない。
この一件が終わったら。
すこし休養してごらん。
ボンゴレから。
離れた方が。
いいよ。
きっと。
(おまえの気持ちには応えられない)
 (これが終わったら)
(けじめをつけよう)
(オレの前から)
(消えて)
(二度と現れないで)
(さようなら)






「……オレは、もう、必要じゃ、ねーのか……ツナ……」




 声にもならないような声で呻いて、リボーンはそれ以上どんな言葉も漏れないように、唇をかたく引き結んだ。