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午後二時七分。
ドン・ボンゴレである沢田綱吉から、誕生祝いに贈られた腕時計で時間を確認し、獄寺は片手に提げているノートパソコン入りの鞄の持ち手を握り直した。
今日の綱吉のスケジュールは午前中の会議が長引いたせいで、昼休憩が二時半までずれこんでいる。午後の予定といえば、他の守護者への一週間分の仕事の割り振りを獄寺と決めたあと、少しの休憩をとって、午後七時からは何の異変もなければ休養時間となる予定だ。
仕事の割り振りについての話し合いも、獄寺があらかじめ組み上げた守護者達のタイムテーブルを綱吉と共に見直すだけなので、仕事としては簡単な部類だ。久しぶりにできた綱吉との時間に獄寺は嬉しさを隠しきれず、廊下に人がいないことをいいことに、にやつきながら二階へ上がるための階段を目指して歩いていた。
ふと、開け放たれたままの食堂の出入り口から人影が出て来た。見覚えのある奇抜な髪型が視界に入り、獄寺は反射的に笑みを引っ込ませ、あらん限りに不機嫌さをまじえた表情を近寄ってくる人物に向けた。
「こんにちわ」
「あんだよ、目障りなんだよ、消えろ」
階段下で立ち止まった獄寺は、目の前に姿勢よく立った六道骸を睨んだ。彼はいつ見ても微笑んでいるような顔をしている。見るものによっては愛想があって好感がもてる顔であっても、獄寺のように彼の本性を知っているものが見れば、彼の微笑はただの形だけであることは充分に見抜ける。
もう十年以上も彼と関わっていても、まったくと言っていいほど、骸の内面は獄寺には理解ができないでいた。
六人の守護者の中で六道骸だけが、沢田綱吉に対していつなんどき、いかなる理由か定かではないが、綱吉に最も最悪の形で害を与えるのではないか――。そんな思いが獄寺の頭の隅のほうにいつもひっそりと鎮座していた。
獄寺が考えるに、守護者のなかに造反者が出たとすれば、それは目の前で微笑んでいる霧の守護者以外にはない。雲の守護者たる雲雀も気まぐれさや突拍子もない行動をしたりし、造反する可能性はないと言い切れないが、彼は彼なりに綱吉に執着しているし、なにより雲雀は人間だ。だから獄寺は雲雀のことは理解できる。しかし、骸は違う。彼は獄寺や綱吉や雲雀とは、違ったルールのなかで生きているように見えた。
任務の都合上、骸と共に争いを収めるために二人で行動した際、彼は喜々としてマフィアの連中を襲っていた。綱吉から殺害するなという命令があったせいか、骸は相手を殺すようなことはなかったが、むしろ殺してやったほうが幸せなんではないだろうかというくらいに、えげつない攻撃をした。そのことを獄寺が咎めると、骸はきょとんとしたあとで「僕に命令できるのはあなたじゃありませんよ」と至極当然のことのようにいって獄寺の言う事などまるっきり無視をした。
いまは綱吉が骸の首輪につながった鎖を握っているからいい。その鎖を綱吉が手放してしまったとき、六道骸がどうするのか。それを考えると獄寺は本当に恐ろしかった。
獄寺が冷たく言い放った言葉を受けた骸は、わざとらしくぱちくりと瞬きをする。そしてもったいぶったように善人ぶった笑みを浮かべた。
「それはそれは、すみませんねえ! 僕、これから綱吉くんに報告したいことがあるんですよ。じゃ、お先に――」
階段を上ろうとする骸の腕を掴んで、獄寺は彼を階段下に引き戻した。彼は腕を引かれるままに階段を降りると、再度目をぱちくりとさせ――もはやそれは演技にしか見えなかったのだが――、首を傾げる。
「なんですか?」
「十代目はこれから俺と来週のスケジュールの最終確認をなさるんだ! てめえは邪魔だから消えろ!」
「邪魔します」
にっこりと笑って骸が言う。
「あなたと綱吉くんが二人きりだなんてうらやましすぎます。僕も混ぜてください」
「て、め、え、は! ――いっぺん、死んでこいっ! そして輪廻巡って戻ってくんじゃねえ!」
「あんまり怒ると血管きれますよ?」
面白がるように言う骸に向かって拳を振り上げた獄寺は、ふいに誰かが階段を降りてくる気配を感じて何気なく視線を階段上へ向けた。
階段の中程にドレスを着た人間が立っていた。骸に殴りかかろうとしている獄寺に驚いたように、赤いアイシャドウで魅力的に彩られた双眼がかるく見開かれ、長いまつげが震える。
ドレスの女性は、真っ直ぐな長い黒髪を細い身体の背中にながし、左耳の上あたりに大きな赤い薔薇をあしらった髪飾りをつけていた。女性にしては大柄な印象がしたが、がっしりとしているというよりは、背が高いのと全体的に細いせいで痩せすぎて身体の凹凸が少ないモデルのようだった。
細い首を覆う襟は優雅なドレープを作り、ドレスは鈍い光沢があるゴールド色で、布地には細かい花柄のレースがあしらわれている。そのドレスのうえに彼女は丈の短いドレスと同色の長袖のボレロを着ていた。袖口とボレロの裾は美しい光沢を放つレースで彩られていて華やかだ。
手のひらほどの幅があるサテン地のリボンがあしらわれたウェストから下へ向かい、ふんわりと広がっているスカートはボリュームがあり、丈の長さも足下を隠すほどに長い。ドレスの裾からのぞいた靴は光沢のないゴールド色のハイヒールだった。
ドレスの女性は獄寺を見た。獄寺も女性を見た。見つめ合っているうちに彼女の瞳が赤いことに気が付く。そしてすぐに、どこかで会ったような既視感が獄寺の頭のなかに浮かぶ。
「……誰だ、あんた……?」
呟くように言うと、女性は薔薇色の唇を上品に笑みのかたちにすると、少しだけ首をかしげるような仕草をした。
「――気がつかないんですか?」
馬鹿にするように骸が言った。獄寺は女性から目を離して、隣に立つ骸を横目で見る。彼は心底呆れたというようにおおげさに肩をすくめると、階段の上で微笑む女性を見上げる。女性と視線を交えた骸は「まったく……」と呆れたように呟いて、唇の片側だけを持ち上げる。
「悪趣味なイタズラですよ。――綱吉くん」
獄寺は息を止めて、瞬時に骸を見ていた視線を階段上の女性――ではないのだが――に戻した。
口紅をほどこした唇を片手で隠すようにして、ドレスの女性は声をたてて笑った。その笑い声がよく知った沢田綱吉のものだったので、獄寺は止めていた呼吸を再開し、手放してしまいそうになった鞄の持ち手を慌ててぎゅっと握った。
「なんだよー、骸はすぐにわかっちゃうのか。じゃあ、もう少し、念入りにメイクしてもらおうかなあ」
ドレスの裾を豪快に両手で掴んで持ち上げ――きれいにすね毛の処理までされている細い両足が膝まであらわになる、足のラインは男性的でお世辞にも女性的ではない貧相な両足だった――、綱吉はリズムよく階段を降りてきて、獄寺達の前に降り立った。
獄寺はドレス姿の綱吉から目が離せない。普段の彼の髪色からは想像もしない艶やかで真っ黒な髪。そして大きめな瞳はいつもの琥珀色ではなくカラーコンタクトのせいなのか鮮やかな薔薇色だ。まつげも付けまつげをしたうえで赤いマスカラをすこし塗っているのか、元から大きな彼の目元が妖しい魅力に彩られていた。アイシャドウも口紅もきれいに塗られ、ドレスの胸元もちゃんと詰め物でもしているのかふっくらとしている。
骸は綱吉の長い黒髪に触れ――おそらくは出来の良いウィッグだろう――、「実に愛らしいですね。プリンセス」などと言って、片目でウィンクをしている。綱吉は骸の仕草にもけらけらと声をたてて笑うばかりで、妙に上機嫌だった。
普段の獄寺ならば骸に対して「十代目に触るんじゃねえ!」と一喝してもおかしくない状況だったが、怒るより何より、目の前の信じがたい状況に獄寺の脳細胞のほとんどは機能停止状態だった。
しげしげと眺めてみれば、確かにドレスの人間は沢田綱吉だった。しかし、化粧のせいなのか、ウィッグとコンタクトのせいなのか、普段の綱吉を知っている人間でも近づいてよく顔をみないと分からないだけの仕上がりになっている。
見つめ続けていれば普段の綱吉に戻るのだろうか。などといささか混乱気味に考えながら獄寺が食い入るように綱吉を見つめていると、綱吉がその視線に気が付いて獄寺を見て、そしてまた明るく笑い声をたてる。
「――あはっ、獄寺くん、すごい顔になってる!」
「じゅ、じゅ、十代目、なんですか?」
笑顔を浮かべた綱吉は、獄寺の前までくると、突然背伸びをした。眼前にまで寄せられた綱吉の顔に驚いて獄寺は思わずのけぞるようにして後方へ右足を引いた。綱吉だとは思えない――黒髪の愛らしい女性が微笑んでいる姿に、獄寺は目をぱちぱちとさせることしか出来ない。獄寺の反応に満足したかのように頷いて、綱吉は右手でドレスのスカートをつまんですこしだけ持ち上げると、くるりとその場で一回転した。
「そうだよ。沢田綱吉だよ。どう? けっこー、オレ、いけてるよね?」
「――天使です!」
獄寺が拳を握って力説すると、くはっ、と骸が吹き出した。
「あなた、あたまだいじょぶですか?」
心底馬鹿にするような骸の声が獄寺の耳に届いたが、目の前で微笑む綱吉を見ているほうが有意義だったので、獄寺は彼を無視した。
「とりあえず、執務室に戻ろうか? 獄寺くんの反応が見たくって迎えに来ただけだし」
「俺のためにわざわざいらしてくださったんですね、ありがとうございます!」
獄寺が感激のあまり声を震わせながら言うと、ますます綱吉は上機嫌そうに笑う。その近くで骸が大袈裟なほどに嘆息をして、首を左右に振った。
「なんだよ」
「いや……、哀れな人だと思って」
「なんだと!?」
「まぁまぁ、怒らない怒らない」
拳を振り上げた獄寺とニヤニヤ笑う骸との間に割って入り、綱吉は両腕を広げた。骸は伸ばされた綱吉の右手をすくうように握ると、その手の甲に唇を寄せる。愚かしいほどに演劇的な彼の動作も、ドレス姿の綱吉に対しての仕草だと別段おかしくもないように見えた――ので、獄寺は怒鳴るタイミングを失ってしまった。ふと、綱吉が赤いアイシャドウで彩られた大きな目を獄寺に向ける。獄寺は、まるで目の前の綱吉がまったく別人の、魅力的な女性に見えてしまい、指先にまで緊張が一瞬で伝わっていく。
硬直した獄寺を見た綱吉は小さく声を立てて笑い、右手を獄寺の前に差し出す。獄寺は少しだけ逡巡したあと、綱吉の手を右手ですくうように握り、その手の甲に唇を寄せる。
そっと右手を離すと、綱吉は二人の男にキスをされた手を胸のあたりで組んでクスクスと笑う。言葉を喋らずに笑っているだけならば、化粧とウィッグのせいか、男性とは思えないだけの魅力が綱吉にはあった。
「……綱吉くん、楽しんでますね?」
骸の問いかけに笑みだけで返答して、綱吉は「じゃあ、執務室に行こう」と言って再びスカートを両手でたくし上げるようにして、階段を上がっていく。膝うえまであらわになった綱吉の足を視界にいれないように、獄寺はうつむき加減のままで階段を、前のめり気味に昇りだした。隣を歩く骸は先を行く綱吉のうしろ姿をじぃっと眺めながら、くすくすと笑ってあごを引いた。
「おやおや、これは随分とはしたないお嬢さんですねぇ」
獄寺は不届きな発言をした骸の脇腹を右腕で思いっきり殴ろうとしたのだが、あらかじめ予測していたのか、ひょいっと骸は器用に階段をあがりながら獄寺の拳を避けた。
「邪な目で十代目を見るんじゃねえ!」
声を潜めて獄寺が怒鳴ると、骸はすぅっと半眼になって唇に皮肉そのものの笑みを浮かべた。
「顔を真っ赤にして目を潤ませてるあなたに言われる筋合いはありませんよ」
「ばっ、このっ――」
「なにしてんのー、早く来なよー」
階段を昇りきった綱吉が、スカートを両手でなおしながら獄寺と骸を見下ろしている。骸はあっけらかんと「今行きますよ」と言ってさっさと歩き出してしまった。
獄寺は振り上げた行き場のない拳で空中を殴りつけたあと、紅潮した顔をさますために大きく息を吐き出して階段を昇り始めた。
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