HidE And SeeK】













 部屋の壁側一面に配置された棚におかれたオーディオ機器から、静かなジャズの音楽が流れている。女性ジャズシンガーの声音が、夜を迎えた室内にじんわりと広がるように流れている。

 豪奢なソファセットの中央に置かれたローテーブルの上にはワイングラスが二つおかれ、薔薇色の液体がグラスの半分ほど注がれている。その隣には半分ほど中身がへったワインボトルがあった。

 リボーンはソファに両足を乗せて座っている綱吉の膝のあたりに座り、彼の左手を手にとって、彼の爪に詰めヤスリをあてて丁寧に爪の形を整えていた。綱吉は機嫌が良さそうに微笑んだまま、リボーンの仕草を眺めている。


 綱吉の仕事が今夜終えることをリボーンはあらかじめ予測していた。彼の仕事の速度と仕事量をざっと見ただけで彼の仕事がいつ何時終えるか判断がつく。長年、すぐ側で彼を見てきたリボーンとっては造作もないことだ。


 ワインとグラス、ポケットには爪ヤスリを入れ、リボーンは綱吉の部屋を訪れた。


 予測通りに仕事を終えていた綱吉は、ネクタイをゆるめ、上着を椅子にかけた状態で、片手で携帯電話をいじっていた。誰かにメールを打っていたようで、綱吉は携帯電話から目線をあげ、リボーンが入室してきたことを知ると、すこし驚いたように目を開いて、すぐに明るい顔になった。

「わ。どうしたの? それ、けっこーいいワインじゃない? 飲ませてくれんの?」

 リボーンが持ってきたワイン目当てに、綱吉は携帯電話を机のうえにおいて、ソファの方へやってきた。リボーンは綱吉の目の前でワインのボトルをあけ、二つのグラスにワインを注いだ。

 仕事の完了に乾杯。

 などと囁きあって、グラスをかちんと鳴らし、互いにワインを飲んだ。

 しばらく他愛のない話をしたあとで、リボーンはスーツの胸ポケットにさしてきた爪ヤスリを綱吉の目の前に差し出した。彼は、目の前に突き出された細長いものがいったい何をするものなのか分からないらしく、リボーンが「これは爪ヤスリってんだ」と言うと、「あー、母さんの鏡台にあったかもなぁ」などと言いながら頷いた。


「おまえは女じゃねーが、ボスたるもの、身なりはきちんとしていた方がいいだろう」


 そんなリボーンの言葉に、綱吉は手を差し出してにっこりと笑う。


「もちろん、おまえがやってくれるんだよね?」


 そう言って、綱吉は革靴を脱いで、ソファのうえに両足をのせ、太股のあたりを両手で叩いた。まさか膝の上に乗れと言われると思っていなかったリボーンは、百戦錬磨の彼にあるまじき、かるい動揺を表情にのせそうになり、それを隠すように皮肉っぽく笑むことに成功した。

 綱吉に導かれるまま、リボーンは綱吉の太股のあたりに腰掛け、差し出された綱吉の手をとって、リボーンの手よりも一回り以上大きな手の爪にゆっくりとやすりをかけ始める。


 そもそも、爪ヤスリなどを持ち出した理由は簡単なものだ。


 爪を整えるという行為に隠れて、当然のように綱吉の手に触れることが出来る。たったそれだけのためにだ。リボーンは表情には一切出さずに、内心で己の臆病で無様な男心を蔑んだ。これまで数多の女性とつき合い、彼女たちをあらゆる意味でよろこばせてきたリボーンが、好きな相手の手を握りたいがために、爪ヤスリなんてものを持ち出すしかないのだ。

 無様としか言いようがない――今でも綱吉に迫られて追いつめられ、想いを吐露してしまった場面は最高に無様で滑稽で己の過去から抹消したいシーンだったが今更消える訳もない――告白劇の末、綱吉は「オレのことが好きなら口説いてごらんよ」などとあっけらかんと言った。興奮していたリボーンは彼の挑戦を受けるかたちになってしまったのだが、数日が経過するころにはすっかり後悔し始めていた。


 リボーンは彼が面白がっているとしか思えなかった。今まで散々なくらいにリボーンによって虐げられ続けていた綱吉は、「綱吉への恋心」というリボーンに対しての「免罪符」を手に入れたようなものだ。どんなにリボーンがきつい言葉を投げかけて怒っても、結局は「許してくれるんだろ?」という綱吉の甘い考えがリボーンには透けてみえる。口は災いの元という日本の格言がリボーンの脳裏に何度も浮かんできては消える。

 綱吉の言葉通り、リボーンは彼を今まで使用してきたあらゆる口説きテクニックを綱吉用にアレンジして披露した。もはや後に引ける状態でない以上、リボーンは本気で彼を口説き落とすつもりだった。彼はありとあらゆるリボーンの口説きテクニックにいちいち関心するようなリアクションをしたり、「はー、おまえがモテるの、わかるなー。こりゃあドキドキするもんなー」などと言って頷いたりした。わずかに照れたり、はにかんだりするものの、リボーンには綱吉の心を掴んだ手応えはなかった。

 そして困ったことに、リボーン自身が思っていた以上に、リボーンは綱吉に本気だった。今まで心に充分な余裕をもって女性を意のままに扱ってきたリボーンだったが、綱吉に相対するときはひどく緊張してしまっていた。まるで思春期の女学生のように「こんなことをして嫌われてしまったら」などと考えている自分自身のこめかみに銃口を押し当てたい衝動を、何度も何度もこらえてきた。


 綱吉の手を握り、彼の爪を爪ヤスリで磨きながら、リボーンはうつむいて彼の手を見ていた。リボーンの手よりも大きな手、そしてリボーンの身体をのせても苦ではなさそうな、綱吉の体躯が、リボーンの心のやわらかい場所をゆっくりと締め付けてくる。永遠に縮まらない年の差を思って、リボーンは綱吉に気がつかれないようわずかに眉間にシワを寄せる。


 ふいに、綱吉がソファから身を乗り出すようにして片手をローテーブルに伸ばし、飲みかけのワイングラスを掴んだ。急に動かれて、リボーンは思わず指先に力が入ってしまい、綱吉の左手の小指の爪を削りすぎてしまった。せっかく綺麗に整えていたラインがくずれ、思わず舌打ちしてしまう。


「動くんじゃねー」


 グラスのワインを飲みながらリボーンと目があった綱吉は、クスッと笑って片目を細めた。グラスをテーブルへ戻そうとした綱吉の動きが止まったので、リボーンは再び目線を持ち上げる。

「ねぇ……」

 彼は悪戯ぽく言って、持っているグラスをリボーンの口元へ差し出した。

 飲め。
 ということなのだろう。

 告白以後、綱吉からのこういった悪戯めいたやりとりが増えてきていた。試されているのか、それともからかっているのか。もしくは――これは限りなくゼロに近いのだが――誘っているのか。どうとでもとれるようなことしか綱吉は仕掛けてこない。そして無様で臆病な男に成り下がってしまったリボーンに出来ることといえば、その悪戯につきあって、仕方ねえなという顔をする以外にはない。

 リボーンはわざとらしく鼻から息をつき、綱吉が差し出したグラスに唇をつけ、彼が傾けるままにグラスのワインをすべて飲み干した。ワインに濡れた唇を舌で舐めて、リボーンは皮肉たっぷりの笑みを口元にだけ浮かべ、爪磨きのターゲットを綱吉の右手に変えて作業を続ける。


 あからさまな視線でなく、さりげない視線でもって、リボーンは綱吉の様子をうかがった。綱吉は上機嫌なまま、少しだけ微笑んでいるような顔でリボーンの手元を眺めている。親が子供のやっていることを見守っているような眼差しに、リボーンはちりちりと何かが焦げるような思いがした。

 リボーンの中身がどうであれ、綱吉にとってリボーンは己の年齢の半分ほどの年齢の「子供」でしかないのだ。

 悲しいことに、リボーンは読心術というものを会得しているので、すこし意識をするだけで、綱吉の思考を読みとることは簡単だった。彼はしきりとリボーンと自分自身とを比べ、やっぱりリボーンはまだまだ子供だよなーという考えをつらつらと思いついては、微笑ましいような表情を浮かべている。

 咎めるように綱吉を睨むと、彼はリボーンの視線に気が付いた彼は、とぼけたように少しだけ首を傾げる。リボーンはあえて何も言わず、爪磨きの作業へ戻る。


 綱吉と数年を共にしたのち、彼は「お願いだから簡単に人の心を暴いて口にしないで」と怒ったことがあった。それからはたとえ綱吉の心を読んだとしても口にすることはしないようにした。ただ「読むな」とは約束していなかったので、リボーンはいつだって好きなときに綱吉の内心を読むことができた――が、それは彼が高校時代半ばくらいまでだった。そのころ、リボーンは読心術から心を守る術を綱吉に教え込んだ。リボーン以外にも読心術に長けた人間はいる。そんな人間から心を守れないようならば、ボンゴレのボスを担うことは出来ない。彼は必死に訓練し、やがて心を閉ざすことを覚えた。


 それから以後、綱吉はリボーンに知られてもいいようなことを考えているときは、心を開け放したままで、知られたくないことを考えているときは心を閉じるようになった。
 

 中身がどうであれ、リボーンの外見は綱吉にとっては子供にしか見えない。そもそも綱吉はリボーンが赤ん坊から成長して現在に至るまで、その経過をすべて見ている。子供扱いするなと言っても無理だということはリボーンも理解はしている。


 何の前触れもなく、綱吉が心のドアを閉め切った。ラジオの電源をオフにしたように、綱吉の心の声が一切聞こえなくなる。動揺で指先が震えないようにリボーンは慎重に普段通りを装った。


 右手の人差し指から右手の小指に爪ヤスリを当てるころになって、綱吉はようやく閉ざしていた心のドアを開いた。彼が考えていることと言えば「リボーンはやっぱり格好いいねえ」などというからかいじみた思考だった。


「リボーンて、ほんとマメな男だね」


「おまえもモテたきゃ、これぐらいしてみろ」


「モテたら困るんじゃないの、リボーン」


 リボーンは一瞬だけ綱吉を見て、すぐに手元へ視線を戻す。彼のこういった言葉の投げかけ方は、駆け引きになれていない子供のようなところがある。


「ね、……オレのこと、好き?」


 声を潜めて囁く綱吉へ視線を向けず、リボーンは素っ気ない態度で肩をすくめる。


「――さぁな」


 とぼけるような声でリボーンが言うと、かすかに声を立てて綱吉は笑った。
 右手の小指の爪のかたちを整えたあと、綱吉の手をすくいあげるように持って、リボーンは指先を口元へ引き寄せ、わずかに息を吹きかけた。


「終わりだ」


 リボーンはやすりをスーツの胸ポケットにさし、綱吉の足のうえに座ったままで、テーブルのワイングラスに手を伸ばした。が、リボーンの腕はテーブルには届かなかった。ふいに隣でクスッという笑いがもれたかと思うと、綱吉の手がテーブルに伸ばされ、グラスを手に取ってリボーンの前に差し出した。体躯の差が思い知らされ、リボーンは苦い顔をして差し出されたグラスを受け取る。グラスの中のワインをゆらしたあと、三口ほどで飲み干し、グラスをカラにする。


「ありがと。きれいになったね」


 両手を顔の前に掲げて、やすりでみがかれた手の爪を眺めて綱吉が言う。

 リボーンは吐息だけで笑う。

 カラのグラスに気が付いた綱吉がボトルに手をのばし、「飲む?」と聞かれたが、断った。すると綱吉はリボーンの手からカラのグラスを奪うと、さっさとテーブルのうえに置いてしまう。


 作業が終わったので、リボーンが綱吉の足のうえからどくために立ち上がろうとすると、急に甘えるように綱吉の両腕がリボーンの身体にからめられる。ぬいぐるみを横抱きするような形でリボーンを抱きしめた綱吉は、リボーンが横目で冷たく睨んでも、悪びれた様子もなくにっこりと笑った。


「なにしてやがる」


「もうちょっとこのままで」


「あほか」


 リボーンの首筋あたりに顔を伏せて、クスクスと綱吉が笑う。リボーンは彼に寄りかかることも、両手を持ち上げて綱吉の身体に触れることもしない。彼のこういった仕草は本気ではない。面白く遊んでいるようなものだ。それに対してリボーンが出来ることは、じゃれついてくる大きな猫を上手にあしらってご機嫌をとり、そっぽを向かれないようにすることぐらいだ。


 どのぐらい昔に戻れば、綱吉の腕を振り払い、冷徹に睨み付けて「なれなれしくするんじゃねえ」という言葉を吐けるか。リボーンはつらつらと考えてみたが、よく分からなかった。わずかに鼻先に香る綱吉のムスクと服越しに伝わってくる彼の体温が、リボーンの理性をゆっくりと食らいつくしていく。


「――リボーン」


 リボーンの身体に両腕を絡めたままで、綱吉は囁く。顔を伏せているせいで、彼の表情はまったく分からない。


「なんだ?」


「オレはね、おまえのこと、好きだよ」


 優しい仕草で、綱吉はリボーンの耳のうしろ辺りにキスを落とす。彼の心は閉じられていて、リボーンの読心術は役に立たない。
 穏やかに微笑む彼が本気なのか、戯れに囁いているのか。
 恋に惑っているリボーンの目には分からない。


 リボーンは綱吉の顔を見つめることしかできない。


 愛人に好きだ、愛していると言われれば、「オレもだ」と言ってキスをするくらいリボーンは赤子のころも当たり前のようにやってきた。それが綱吉に対してはできない。彼は年上で男で教え子で悪友で戦友で――、今まで出会ってきた人間のなかで最もリボーンの心を奪っていった相手だ。心を奪われてしまった以上、リボーンは彼に強く出ることができない。何事をも甘受し、そして許してしまう。そんな弱さなど心底軽蔑してきたというのに、リボーンは愚か者のごとく、弱さに支配されている自分を痛感した。


「リボーン?」


 表情もなく呆然としているリボーンを不思議そうに見て、綱吉は首を傾げた。それでもリボーンが何も言わないでいると、彼はリボーンを抱いていた両腕をといて、両手を身体の横についてわずかに身を引いた。眉を寄せて微苦笑を浮かべた綱吉はかるく息をつく。


「信じてないの?」


「……ああ……」


「オレ、真面目におまえとのこと考えたんだけどさ――」


 ぞわりとした悪寒のようなものがリボーンの背中にぺたりと張り付く。心が落下していくのを感じながらも、リボーンは外面を平静に保ち続けた。


「こんなふうに甘やかしてくれるのはすっごく嬉しいし楽しいよ。あのときから、リボーンすっごくオレに優しくなったし、本当におまえがオレのこと好きなんだなあって思ったし――。でもやっぱり、オレ、おまえのことそういう対象では見られない気がするんだ。だから、おまえもオレに無駄な労力そそぐよりは、もっと素敵な女性を見つけたらどうかなって思うんだけど……」


 振り上げられた死神の鎌がリボーンの心をまっぷたつにする。

 覚悟はしていた。

 が。

 予想よりも強い痛みが心を襲う。


 しかし、リボーンは持ち前のポーカーフェイスを全力で駆使して、いっさいの動揺を面にださなかった。いつものようにシニカルに笑んで綱吉と視線を交える。彼はリボーンが傷ついていないかを慎重に探るような眼差しをうかべている。



「そうか。なら、もう無駄なことはしねーでいいな」



「無駄って……。無駄なことはなかったよ。オレ、おまえがしてくれることは全部嬉しかったし、楽しかったもの」



「そりゃー、喜ばせるためにやってんだから、おまえが喜んでなきゃ意味ねーだろ」



 綱吉は笑いたいのか悲しみたいのかどちらともとれぬ、複雑な眼差しでリボーンを眺めている。同情とは違う目であることが唯一の救いだった。

 彼は間違いなくリボーンを好いてくれている。だがしかし、それはリボーンとは全く違う種類の好きだ。互いの感情が永遠に交わらず、歩み寄ることができないというのならば、下手に触れあえば触れあうほど、互いにどんどん歪んでいってしまうばかりになる。ならばもう必要以上に近づかないほうがお互いのためだ。

 ソファに背中を預け、綱吉は戸惑ったような顔でリボーンを見ている。リボーンは無表情でいることよりも、皮肉っぽく笑うことを選んで、綱吉の眼差しを受け止める。


「ねえ、リボーン。オレの側にいんのが辛いんなら――」


 綱吉が最後まで言い切る前に、リボーンは鋭く彼を睨んだ。彼は気圧されたように口をつぐみ、じっとリボーンが喋りだすのを待つ。



「バカツナめ。オレはドン・ボンゴレの沢田綱吉と契約してんだ。仕事は仕事、プライベートはプライベート。公私混同なんてしねーぞ、オレはプロだからな。それとも何か? オレはもう必要ねーか?」



「いや、必要ないって訳じゃなくて――。そりゃあ、おまえがボンゴレにいてくれるってんなら、オレは助かるけど」



「ならいいじゃねーか」



「――あ、そう……」



 息を吐いて、綱吉は片手で頭をかく。



「なら、話は早いね。……これからも、よろしくね。リボーン」




 髪をかきあげた手を差し出して、綱吉ははにかむように笑った。



 リボーンはそっくりそのまま、綱吉の表情をなぞるように顔に浮かべ――、




 少しだけ、彼の大きな手のひらを眺めたあと――、





 つめたく冷えた右手で彼の手を握った。





















 こうして、殺し屋の恋は終幕を迎えた