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千種と犬が病室を出ていってから、骸は高まってくる緊張から目をそらすように、窓の外へと視線を向けていた。窓の外には暖かな日差しが満ち、穏やかな昼下がりが広がっている。
ようやく枕に背中を預けて上半身を起こすことができるようになったが、まだ身体のほとんどの部位が不自由で、リハビリにはまだまだ時間がかかりそうだった。リハビリ自体は退屈な日々のメリハリにはなったが、自由に動かない体に苛立ちがつのることが多く、気分が上がったり下がったりする差が激しかった。千種達と会話をしたせいか、今は落ち着いているようだと骸は他人事のように自身のことを思った。
ほぼ一ヶ月ちかく、綱吉とは顔を合わせていない。最後に会ったとき、彼は骸をひどく罵って泣き叫んでいた。骸は謝罪の暇もなく綱吉と引き離されてしまい、以後、彼の様子は千種達から聞き及ぶことしかできなかった。仕事を忙しくこなしている以外、特に変わった様子はない。そのことが、骸が考えついていた嫌な結末へゆっくりと近づいている証拠のような気がしてならなかった。
骸が不在だというのに、綱吉がいつも通り忙しく仕事をこなしているということは、『骸がいなくとももう構わない』という結論に綱吉が到達している可能性があった。彼の前に跪き、くちづけをして忠誠を誓ってまで得た居場所から骸は追い出されてしまうのだろうか。
守護者解任。
もしもそんな事態になったら、骸は綱吉の側にいられなくなる。
考えただけで寒気がして骸は目を閉じた。
『オレに従えないのなら、オレを忘れてどこへでも行ってしまって構わないよ。そのかわり、決してボンゴレの前には二度と現れないで』
二度と現れないで。
綱吉がいつの日かにつむいだ声音が骸の頭のなかで冷たく響く。
静かな音を立てて、スライドドアが開く気配がして、骸はかるく息を呑む。窓の外を眺めていた顔をゆっくりとドアの方へ向けると、両手でドアを閉め終えた綱吉が病室の内部へ振り返るところだった。
綱吉はドア付近に立ちつくして、目線を隠すレッドブラック色のレンズのサングラスごしにまじまじと骸のことを見つめた。骸もしばらくぶりに綱吉のことを見た。彼は幼顔にサングラスをかけていたが、お世辞にも似合っているとはいえないような有様だった。少しだけやつれたように見えるのは、骸の気のせいかもしれない。色の良い唇が震えるように息を吐き出して、引き結ばれる。一瞬、泣くのをこらえているのかと骸は思ったのだが、綱吉は涙を流すことはなかった。
そっと、綱吉は目線を覆っていたサングラスを外して、スーツのポケットへとしまう。
目元は泣きすぎたように赤く腫れ、まるで化粧のようだった。
何を泣いていたのだろう。
そう思っても骸は言葉に出来ない。
綱吉が何も言わない。
その事実によってもたらされる結果が恐ろしくて、他のことなど考える余裕はなかった。
骸は沈黙に耐えられなくなって、自ら口を開く。
「……お久しぶりです……」
「うん」
綱吉は頷いた。
立ちつくしたまま、ベッドに近づこうともしない。
骸は布団に隠れた右手を握り込む。腕の傷が引きつるように痛んだが、それよりも心が砕けていく痛みのほうがよりいっそう強かった。
「こっち、来ないんですか?」
「うん」
「元気そうですね」
「うん」
笑いもせず、泣きもせず――、綱吉は淡々と返事をするばかりだった。
「――怒ってますか?」
「……うん」
綱吉は怒っている。
『オレに従えないのなら、オレを忘れてどこへでも行ってしまって構わないよ』
『そのかわり、決してボンゴレの前には二度と現れないで』
いつかの日の綱吉の言葉が骸の胸の奥底をえぐる。まだろくに動かない両手で顔を覆って、骸は暴れ出したい衝動を必死にこらえて、震えるように息を吸った。呼吸をするだけで身体がばらばらになってもいいくらいの激情が身体の内側でのたうち回る。骸は強く顔面をおさえて、怒り出したいのか泣き出したいのかよく分からない感情に目をきつくつむった。
「どうして僕を死なせてくれなかったんですか!?」
「――え……?」
「あなたに見限られるくらいならば僕は死んでしまったほうがよかった!!」
叫んだ刹那、ぐいっと胸ぐらを掴まれて、骸は目を開いた。いつの間にかベッドの横に近づいていた綱吉の右手が、骸の寝間着の襟を掴んでいる。額に炎が宿っていないにしろ、鮮やかな怒りに染まった綱吉のきれいな瞳が骸を射抜くように睨んでいる。間近に見る綱吉の顔を眺めながら、骸は彼の顔にただ見とれていた。
「ふざけるなよ。馬鹿ッ!」
片手では足りなかったのか、両手で骸の襟元を掴み上げ、綱吉は激昂する。
「オレをおいておまえは死ぬつもりだったの!?」
「僕にとって死は――」
「うるさい!」
骸の声を遮って綱吉は叫ぶ。
「おまえがオレをおいて死んだら、オレはおまえのことなんて待っててやらない! 絶対に待ってなんかいない! 忘れてやる――、忘れてやるからな!」
感極まってしまったのか、彼は骸の襟元を掴んだまま、くずれるように骸の首筋に顔を埋めて、泣き出してしまった。遅いテンポの嗚咽が骸の肩口で静かに繰り返される。骸は両手を持ち上げて綱吉の身体を抱くこともできたが、どうしてか両腕は動かなかった。
「――おまえはオレをおいて死ぬの? やめてよ。人に好きになれって言っておいて、オレがおまえのこと好きになったらおまえは死ぬの? 死んでオレをおいていくの? だったら、オレのことなんて好きにならないでよ、オレのことなんて放っておいて!」
「……綱吉くんは僕が死ぬのがそんなに嫌なんですか?」
骸の首筋から綱吉が顔を上げる。
泣き濡れた顔を拭いもせず、赤く潤んだ瞳を骸へ向けた綱吉は、吐息がかかるほどの近さで骸の顔を眺めた。彼のまつげが涙に濡れ、まばたきをするたびにすべらかな頬を滴が流れ落ちていく。涙のいくつかが骸の首筋に零れて肌を伝う。
「おまえが死ぬのが嫌だよ。すっごく嫌なんだ。耐えられない。そんなふうにオレのことを変えといて、どうして分かってくれないの!?」
「何がそんなに嫌なんですか?」
綱吉は殴られたかのように身体をわずかに揺らしたあと、歯を噛みしめて首を左右に振った。流れ出てくる涙を乱暴に腕で拭った彼は、深呼吸をして――。
骸の唇に唇を押し当てた。
やわらかく温かい綱吉の唇の感触に驚いている間に、彼は両腕を広げて骸の身体を抱きしめた。ふわりと彼がいつも使用しているムスクが骸の鼻先に香る。心の底に安らかな波紋が広がっていくのを感じながら、骸は目を閉じた。綱吉の肩に頭を預けると、彼は骸の身体をつよく抱きしめて骸の頭に頬をすり寄せるようにした。
「こうして触れあった骸の身体が灰になるのが嫌なんだって言えば理解できる?」
「――ああ、それは、確かに。残念なことかもしれませんね」
腕をゆるめて抱擁をといた綱吉は、ベッドの上に腰を下ろした。短く息をついたあと、感情を切り替えるように首を振って、綱吉は骸を見た。
「……怒鳴って、ごめん」
そう言って彼は寂しそうに視線をシーツのうえへ投げる。
骸は左手を動かしてシーツのうえにあった綱吉の右手を握った。彼は骸の手を振りほどかない。そんな些細なことで、骸は泣き出したいような気持ちになって、慌てたようにゆっくりと息を吐き出した。
「――僕もすみません。……やっぱり、僕は人間じゃないんでしょうか。さっき、あなたが言ったことをやはりほとんど理解できません。死んでも僕は輪廻を巡って必ず綱吉くんのもとへ行くことができるのに、なにを悲しむ必要があるんです? 肉体は違えど僕は僕なんですよ?」
綱吉は骸の左手を強く握りしめてまっすぐに骸を見る。
「オレは、オレに触れてくれる今の骸の手が好きだよ。綺麗な瞳も、顔も、好き。……おまえと出会った頃から、ずっと、オレが眺めてきたのは、いま目の前ににる六道骸なんだ、たとえ魂が同じだと言われても、オレにとっての六道骸はオレが死ぬまで、目の前にいるおまえだけなんだ。たとえ生まれ変わったおまえでも、今のおまえの代わりになんてならないよ」
「――そんなにこの顔が好きなんですか?」
「そういう意味じゃないんだって――。ほんとうに分かってないんだね、オレが言いたいことが……」
苦痛そうに顔をゆがめ、綱吉は目を伏せる。骸は慌ててすぐに謝った。
「すみません……。あなたを悲しませたり、怒らせたい訳じゃないんです」
「分かった。いいよ。オレはオレの考えがあるし、おまえにはおまえの考えがあるんだ。全部を譲歩しあう必要はない。……ただ、これだけは理解して、誓って欲しい」
綱吉は握っていた骸の手を引いて導き、己の右胸に押し当てる。スーツ越しに綱吉の胸に触れながら、骸は惹かれるままに綱吉の大きな瞳を見つめ返す。
「……はい」
綱吉は微笑むこともせず、哀しみにくれることもせず。
ただ透明でいて強い意志の感じられる瞳を骸に向けて――言った。
「オレを愛しているのならオレの目の届かないところで死ぬな」
それは『目の届く場所でなら死んでもいい』という意味にもとれる言葉だったが、綱吉の真意はそうではないだろう。ともあれ、綱吉からの熱烈な言葉に骸はこらえきれぬ笑みを唇にのせ、綱吉の胸に触れたままで頷く。
「――分かりました」
短く嘆息して、綱吉は己の胸へ導いていた骸の手を放した。
「おまえが嘘吐きで性格が最悪なのは長年のつき合いで分かってるからさ。今さら嘘をつくなとか性格を直せって言っても無駄だろうし。なら、ああいうしかないじゃないか」
「綱吉くんって、ときどき頭がよくなりますね」
「ときどきはよけいだ」
「ようするに、無茶をするなら、綱吉くんの目の届く範囲でやれってことですよね?」
「ああ……、ようやく骸に話が通じたなあ」
病室に来訪して初めて綱吉が声を立てて笑った。
骸も嬉しくなって微笑する。
「あなたの目の前で死ぬならいいんですか?」
「……見てない場所で死なれるよりは、まし」
「看取ってもらえるんですね。それはなんて素晴らしい約束でしょうか!」
笑顔で喜んだ骸に対して、綱吉は対照的にひどく傷ついたような顔をした。かすかに首を左右に振って、眉間にしわを寄せる。
「そこで喜ぶことがおかしいんだって、どうして分かんないんかな。オレはおまえに死んで欲しくないんだって」
「でも人間は生まれたら死ぬ運命なんですよ? 死なないなんてあり得ません」
「じゃあ、骸はオレに死んで欲しい?」
「は?」
「おれが死んで、生まれ変わったら、オレはきっとおまえのことなんか分からないんだろうな。今度はマフィアなんかじゃなくて、ふつーの人生がいいなあ。あ、でも人間じゃない可能性もあるのか……、そう考えるとむずかしいな、転生って」
沢田綱吉が死ぬ。
沢田綱吉が世界から消える。
骸は目を見開く。
死んだら。
綱吉が死んだら――。
考えただけで、恐ろしい虚無感と絶望感がこみあげてきて、一瞬だけ息がつまる。
「や――、やめてください。綱吉くんが死ぬなんて、そんな――」
骸のうわずった声に綱吉は驚いたようだったが、苦笑をして口角の片方を持ち上げる。
「あ、……おまえにはそう言った方が分かるんだな?」
綱吉は呆然としている骸の頬に片手をのばし、ゆっくりと子供にでも言い聞かせるように優しく話し出した。
「オレが言いたいことはね、骸。『死んでも必ず戻ってくる』って確かな約束よりも『どんな姿になっても生きて側にいます』っていう戯れ言のほうが、すっごく嬉しいってことなんだ。――分かる? わかって、くれる?」
「はい。……はい、――なんとなく、分かったような気がします」
よくできました。
そう言って微笑んだ綱吉は、片手で骸の顔を穏やかに引き寄せ、ついばむようなキスを何回か繰り返した。深いキスでないにせよ、綱吉からのキスを何度も受けているうちに、骸の胸の内には幸福感で満たされていった。骸から求めるばかりで、綱吉から求めてキスをすることなど今の今まで一度もなかった。
音をたてて離れていった綱吉の唇が、唾液で艶やかに濡れているのを見て、骸は嬉しくて嬉しくて微笑んでしまった。
「キス、たくさんしてくれるんですね」
「してやるよ。――しないで、後悔したくないから」
「いやあ、綱吉くん、男前ですね」
気のない返事を「はいはい」と繰り返し、綱吉は骸の横髪を指先でもてあそび、指で髪をすく行為を繰り返す。まるで子供をあやすような優しい手つきに、骸はくすぐったさを感じたものの、心地いい彼の仕草にしばらく身をゆだねた。
骸の髪に触れるのに飽きたのか、それとも満足をしたのか、綱吉は骸の顔から手を引いた。ベッドに腰掛けて骸を眺めている綱吉の左手を右手ですくいあげ、骸は彼の薬指に音を立ててキスを落とす。
「綱吉くん。あなたが望むのならば僕はたとえ手をもがれ、足を折られようとも、必ずあなたのもとへ生きて戻りましょう。無様に敗走して誇りが汚されようとも生きてあなたのもとへ戻りましょう。――誓います、我が君、我が王、我が主、――我が恋人に!」
「また、……そう恥ずかしいことを言って……。無駄に元気になってきたなぁ」
照れくさそうに赤い顔でうめいて、綱吉は苦笑する。
「綱吉くんがキスしてくれるので、僕はいまとっても嬉しいんです!」
「恥ずかしいやつ……」
「ねえ、綱吉くん、添い寝してくれませんか?」
「あほかっ、唐突になに言い出すんだよっ」
「添い寝してくれたら、きっと僕、怪我が治っちゃうかもしれません」
「一晩で怪我が治ったら、人間じゃない」
「知らなかったんですか? 僕、人間じゃないんですよ?」
真面目な顔で骸が声を潜めて囁くと、綱吉はくすくすと笑いながら、左手を顔の横で左右に振った。
「添い寝はできないけど、手は繋いであげる」
「なんです、その清らかな感じのおつきあいの仕方は。添い寝ぐらい、ばばんとしたらどうです?」
「怪我人は怪我人らしくしてろ、ばーか」
照れ隠しのようにぶっきらぼうに言い捨てて、綱吉はシーツの上の骸の右手をぎゅっと握った。
骸の手を強く握る綱吉の手を見下ろしながら、骸は問いかける。
「綱吉くん。僕のこと好きですか?」
触れあう手から視線を持ち上げ綱吉を見た。
彼は惑うことも迷うこともせず、汚れを知らぬ人のようなきれいな瞳で骸を見る。
「骸のことが好きだよ。だからオレをおいていかないでね」
はっきりとした綱吉の言葉が骸の胸をうつ。
そのとき、身体の内側に広がっていた響きを骸は一生忘れないだろう。
「抱きしめさせてもらってもいいですか?」
「許可しなくたってやるだろ、おまえ」
吹き出した綱吉は、あまり動けない骸を気遣ってか、自ら骸の身体にそっと身体を寄せた。骸はまだぎこちなさの残る両腕を持ち上げて綱吉の背中に腕を回す。腕のなかに確かに沢田綱吉がいること、骸と目があった彼が優しく微笑むこと――、今という現実があるということに、骸は生まれて初めて誰かに感謝をしてもいいと思った。
片手を綱吉の背にまわし、もう一方の手でやわらかい彼の髪を指ですきながら、骸は目を閉じて綱吉の身体を感じながら囁く。
「愛してます。愛してます。愛してます。いくら言葉にしても足りないくらいです」
「はいはい……、オレも愛してますよ」
綱吉の腕が骸の背中に回る。
「ありがとう、綱吉くん」
骸は腕のなかにいる綱吉のつむじあたりにキスをおとして、――清らかな思いで囁いた。
「僕を愛してくれて、ありがとうございます。――僕は、僕はいま、幸せです」
骸の腕の中から、綱吉は骸を見上げてくる。
彼は骸と目が合うと潤んだ瞳を細めてくしゃりと笑った。
「礼を言われることなんてしてないつもりだけど……。でも、おまえが幸せなら、きっとオレも幸せになれるよ。――骸、生きていてくれてありがとう」
綱吉の右目の縁から涙が一筋だけ流れ落ちていった。
「愛してますよ。綱吉くん」
「うん。オレも、好きだよ」
微笑む綱吉の唇に唇を寄せ、現実が現実であるのだと実感するために、骸は優しく甘いキスを何度も繰り返した。
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