病院に到着すると、綱吉は千種と犬に先に病室へ行って来るように言って、彼自身は病室から離れた待合室に入っていってしまった。犬が早く病室へ行こうと急かすので――綱吉のことが多少は気がかりだったのだが――、千種は彼をおいて骸の病室へ行った。

 骸はようやく身体を起こして会話ができるようになっていた。とはいえ、誰かの手をかりなければ起きあがることができないくらいなので、自分自身の意志で自由に動き回れるようになるにはまだ時間がかかりそうなのだと骸は残念そうに呟いていた。しばらくは他愛のない会話をしていたのだが、犬が綱吉も一緒に病院に来ているのだと告げると、骸は珍しくポーカーフェイスをくずして動揺した。しかし、千種達の前だということもあってか、骸はすぐに取り繕うように微笑んで、もとの会話へと戻っていた。


 三十分ほどが経過してから、千種と犬は骸の病室を出た。


 待合室へ向かうと綱吉一人だけが、ぽつりと座っていた。面会時間を過ぎているせいか、待合室には彼しかいない。プラスティックの椅子に座り、ぼんやりと床を眺めている。何かを考えてるようにも見えたし、何も考えていないようにも見えた。


「――ボンゴレ!」


 犬が声をかけると、綱吉はびくっとしたように肩を震わせて顔を上げた。夢から覚めたような目で千種と犬を見て、綱吉はとりつくろうように笑った。


「あ、ああ……、終わったの?」


「骸さん、待ってるって」


「そう……」


 静かに頷くだけで、綱吉は椅子から立ち上がろうとしない。



「会いたくないの?」



 千種の問いかけに綱吉は、視線を右へ滑らせ、すぐに千種へと戻した。



「会いたい、よ」



 綱吉は椅子から立ち上がらずに静かに息を吐き出した。犬は不思議そうに綱吉を眺めたあとで、目線だけを動かして千種を見た。
 千種は心から面倒だと思いながらも、右手で眼鏡のふちをおしあげ、片目を細める。スーツのポケットに入っている車の鍵を手にとって、犬へと放る。彼は突然に投げられた鍵をなんなく右手で受け止めると、千種を見て首をわずかにかしげる。


「犬、先に行ってて」


「え、俺が運転していいってこと?」


「駄目。だけど、先に行ってて」


 千種と目をあわせた犬は、綱吉をちらりと見てから、仕方なさそうに頷いた。


「ちえ、柿ぴーのずるっこ、意地わるっこー」


 子供っぽく言葉に音程をつけて言いながら、犬は病院の廊下をエレベーターを目指して歩いていった。
 一人で残った千種の真意が分からないようで、綱吉は呆けたような顔のままで千種を見上げている。彼の無警戒な顔をだけを見ていると、彼が数千の人間のうえに立つ人間だとは思えない。人の良さそうな顔立ちは彼が十代半ばのころからどこも変わっていない。
 しかし、沢田綱吉のそういった面に触れたおかげで、千種も犬も――六道骸も生き方を変えることが出来た。綱吉と出会う以前のことを嘆くつもりも悲しむつもりもない千種だったが、ボンゴレという組織で生きるようになってから得たものは数え切れぬほどにある。


「千種?」


 黙ったままの千種を不思議そうに見上げ、綱吉は首を傾げる。
 千種は彼の前に突っ立ったまま、琥珀色の瞳を見下ろす


「めんどいんだけど、この際仕方ない。……ボンゴレは骸様のことを受け入れる気があるの?」


 綱吉は目を見開いて息を呑む。むせたように咳を何度かしたあとで、彼は唇を舐めて口を開く。


「うけ、いれ? って、え、千種、オレと骸のこと、どこまで知って――」


「見てれば分かる。そのぐらい。――で、どうするの?」


「どうするのって、言われても……」


 背中を丸めるようにして、右手で額をおさえた綱吉は、肩が下がるほどに溜息をついた。やわらかい癖毛がふわりと揺れる。そうして背中を丸めて縮こまると、よけいに小柄な彼が小さく見える。どうしてこんな青年に骸は魅了されているのか。千種はほんの少しだけ不思議に思うことがある。その実、千種自身も綱吉の魅力が決して外面的な事だけではないことが分かっている。沢田綱吉という人間が周囲にもたらす影響力の強さ、それを実感するには十年は充分すぎるくらいだった。
 千種や犬、クロームが、骸と共に食事をし、日常のささいな事で笑いあうことが出来るようになったのは、沢田綱吉がいたからこそ実現できた幸福の肖像であって、彼がいなければ決して実現できるようなことではなかっただろう。


 千種が黙っていると、綱吉は観念したかのように、額に当てていた手をとりさった。わざとらしいほどに長々しい溜息をついてから綱吉は話し出した。


「あいつのこと、よく分からないんだよ。言ってることもやってることも、時々ものすごくちぐはぐで、すごく矛盾してて、常識とか雲雀さんとはまた違った意味で逸脱してて、オレのことだって、ものすごく盲目的に愛してるとか好きだとか言っておいて、それなのに時々すごくマフィアのドンであるオレのことを嫌っていたり、今回のことみたいに笑ってオレに本当のことを言わずに欺いてみたり……。オレには、あいつの、六道骸って人間がよく分かんないよ……」


「あの人は、「何にも囚われてない人」だから仕方がない。意志も感情も思想も存在も――、俺達が生きている世界の何ともつながってない。だから、俺やボンゴレから見たらすごく違和感がある。でもそんなことは、ずっと前から分かっていたことで、いまさらためらう理由にはならない」


「千種は、直球だね」


「回りくどいの嫌い」


 クス、と笑って綱吉は双眸を細める。
 千種は笑わずに、かといって、冷淡な響きにならないように気をつけながら、静かに綱吉に問いかけた。


「俺の、――俺達の主をいったいどうするつもり?」


 おそらくは何か冗談のたぐいを口にしようとしていただろう綱吉は、千種の真剣さを肌で感じ取って、へらへらとした笑みを引っ込めた。

 椅子に座ったまま、綱吉は組んだ両手を膝のあたりにおく。



「――失いたくないって思った」


 独白のような綱吉の言葉が、二人きりの待合い室にそっと響いては消えていく。


「あのまま、骸が死んだらと思ったら、今でもぞっとするほどだよ。腕に血塗れのあいつを抱いて、失うかもしれないって覚悟がよぎった瞬間、オレは自覚したよ。嫌ってほどに自覚した、あいつのこと、何よりも大事なんだって。どうして曖昧な態度や曖昧な言葉であいつの言葉を受け流しちゃったんだろうって。一度だってオレの方から好きだなんて言ってやらなかったし、触れてくるのもいつも骸ばっかりで、オレのほうから求めたことなんて一度もなかった。いつでも差し伸べられてくるあいつの腕ばっかりに甘えて、頼って、守られて――、なのにオレは、言葉ひとつ、キスひとつ……なにひとつとして返してやらなかった。そう思いついた瞬間、絶望したよ、オレはこいつに何にもしてあげられないまま失うのか!って……」



「そこまで答えが出てるのに――」



「分かってるよ。優柔不断だってのは。でもさ、オレにとっては決断するのって結構キツイんだぞ。オレ、ノーマル思考だったのに、好きになったのは男です、相手はオレに惚れてます、両思いです、やったね!なんてすぐになるわけないの。ためらうことぐらいしたっていいだろ」


「潔くない」


「……無様ですいませんね!」


 ヘッ、と卑屈そうに笑って、綱吉はおどけるように鼻筋にしわを寄せる。嘆息とともに苦笑いを浮かべた綱吉はプラスティック製の椅子に背中でもたれた。



「気まぐれで突拍子もない骸様が十年以上も執心し続けてるものなんてボンゴレ以外にないと思う……」


 千種の言葉に「あー、それはそうかもね、あはは」と、どこか投げやりな感じで相づちを打った綱吉は、再び落胆するようにおおげさな溜息をついて、もたげた頭を支えるように右手を額に添えた。


「……あー、オレの人生、マフィアになったのが最大のフラグだと思ったのに、こんなとこに隠しフラグがあったとはなあ……やんなっちゃう、ああう……」



 フラッグ?
 旗がどうしたのかと千種が聞く前に、顔を上げた綱吉と目があった。近距離のせいか、サングラスごしでも彼の視線が千種を真っ直ぐに見ていることは分かる。彼は右手を伸ばして、千種の腕を掴んだ。掴まれた腕が重くなり、綱吉の手のひらの温もりが感じられる。

 綱吉は一呼吸をして、きれいな目で千種を見上げる。



「千種はいいの? 骸、オレの愛人になっても」



 愛人。
 そんな名を彼に与えたところで、彼を捕まえることはできない。
 彼を捕まえた気になれるのは、綱吉や千種のような『こちら側の人間』だけだ。
 


「別に骸様が愛人になろうと、愛人を作ろうと構わない。俺が必要なのは骸様だから」



「あ、そう」



 吐息をつくように相づちを打って、綱吉は掴んでいた千種の腕を放して困ったように笑んだ。もしかして反対して欲しかったのだろうかと思い当たったが、千種は面倒だったので口を開かなかった。

 しばらくして、綱吉は「さぁて」と気合いをいれるように言いながら立ち上がった。サングラスのふちを指先で押し上げて、ニィッと強がるように彼は笑う。



「千種と話せて良かったよ。またこんなふうに迷っているうちに、あいつ、フラフラして無理しそうだし……、覚悟、決めるよ。――迎えは違う人呼ぶから、千種と犬は先に帰ってていいよ。また、あとで連絡する」



 右手を振りながら、綱吉は待合室を出ていこうとする。その背中に向かって千種は声を掛けた。


「ボンゴレ」


「んー?」


 くるりとその場で回転して、綱吉は待合室の外の廊下で立ち止まる。



「俺達の大事なご主人様をよろしく」



 きょとんとしたあとで綱吉は声を立てて笑い――、

 そして右手を胸元へ添え、うやうやしく一礼をした。