いつもどおり、ノックもせずに扉を開けて執務室に入ってきたリボーンは、片手に持っていた資料から顔を上げて綱吉の顔を見ると、思わずといったように顔をしかめて、呆れるように息を吐き出した。


「目ェ、腫れてんじゃねーか。みっともねーから、いい加減泣くのはよせ」


「うるせー」


 万年筆を片手に執務机に向かっていた綱吉が毒づくと、リボーンの目の色が一瞬で変化して、ぎろりと綱吉を睨んだ。ぞわっと背中を滑り落ちていった寒気にのけぞった綱吉は、背もたれに頭をぶつけて「ぎゃっ」と悲鳴をもらす。元・家庭教師の銃弾が飛んでくるまえに綱吉はすぐに頭を下げた。


「すいません、うるさいです、余計なお世話です、ご、ごめんなさい」


「謝るのか強がるのかどっちかにしろ。うざい」


 冷淡に言い放ったリボーンは執務机の近くにまで来ると、綱吉が処理をしている机のうえの資料に目を通す。綱吉は背筋を伸ばし、両手を膝のうえにおいてリボーンが書類を手にとって確認しているのを見守った。

 一週間近く、骸の病室から綱吉が動かなかったおかげで生じた各方面への対処をすべて完了するまで、ほぼ一ヶ月もかかってしまった。最初に我が儘を通してしまった綱吉に対して、リボーンは頑として甘い顔を見せず、すべての仕事が終わってからでしか、骸のいる病院へ向かうことを許さなかった。生死の境を彷徨ったわりに、彼が元気でいるようなことを見舞いに向かった守護者たちから聞き及んでいた綱吉だったが、やはりゆっくりと骸と話がしたくて全力で仕事に没頭した。その様子を見ていたリボーンがぽつりと「こりゃあ、時々骸には死ぬような目にあってもらったほうがいいかもな」などと恐ろしい呟きをもらしたことを、綱吉は聞かなかった事にしている。


 リボーンが鼻から息をつくようにして、皮肉ぽく唇の片側を持ち上げる。


「死にものぐるいにしちゃあ、上出来だ。――十九時までにここに戻ってくるんなら外出してもいいぞ」


「ほんと!?」


 思わず椅子から立ち上がった綱吉を見ようとせず、リボーンは持ってきた資料を執務机の上に置いて、綱吉が処理を終えた書類の束を手に取った。そして彼はソファに座る。おそらくは本当に不備がないのかをチェックするのだろう。



「ありがと。リボーン」


 執務机の横を回り、綱吉はソファに腰掛けているリボーンの近くに立った。彼は資料から顔をあげて綱吉を見た。


「護衛として千種と犬を連れてけよ?」


「え。二人とも、何か仕事なんじゃないの?」


「おまえが今日、仕事を終わらせると思って、予定あけさせておいたんだ。どうせあいつらも骸に会いてーだろうしな。おまえの護衛なら立派な仕事だし、わざわざ忙しい時間を割いて病院に通う手間もはぶけるだろ」


「ちょ、おまえ、そういう気の回した方は格好良すぎるんじゃないの? リボーン」


「こういうことはおまえが自分で気を回さねーといけねーんだぞ、ダメツナめ」


「うっ、……すいませんね」



 呻いた綱吉を見上げて、リボーンは馬鹿にするようにうっすらとだけ笑んだ。十代半ばの少年が浮かべるには少々毒のありすぎる微笑だったが、それは彼の整った顔立ちには似合いの表情だった。


「それじゃあ、千種に連絡すればいいんだね?」


「そうだ。たぶん、談話室で時間を潰してるはずだからな」


「あそう」


 綱吉は溜息をついたあとで、スーツの内側にしのばせている私用の携帯電話を取り出す。履歴のなかから柿本千種の携帯番号を選び出して、コールを始めてから耳に電話を寄せる。


 ふと、リボーンが一枚の書類を手にとって、綱吉に掲げるように差し出して、ひらひらと動かした。



「帰ってくるまでにたっぷり仕事を用意して待っててやるからな、ボス」



 呼び出し音を繰り返す携帯電話を耳に寄せながら、綱吉は吹き出して苦笑をする。



「ほどほどで、お願いしますよ。先生……」











×××××










 綱吉は書類のチェックをしているリボーンを執務室において、少し離れた私室に立ち寄った。まっすぐにウォーキングクローゼットに向かって、装飾品の棚から腕時計とタイピン、カフスを選び出して身につけながら、大きな姿見を見てスーツとシャツの色のバランスなどを確認する。リボーンに指摘されたように、目元が赤く腫れていることに綱吉は失笑する。もうすぐ一ヶ月も経とうというのに、綱吉は何度も何度も悪夢を見ては朝方に泣いていた。

 傷だらけで、血だらけで、目を閉じて動かなくなる六道骸。
 何度も何度も何度も何度も――、綱吉はあの夜に目にした光景を夢の中で思い返し、そして苦悩していた。

 六道骸の死が沢田綱吉にもたらすもの――、今さら触れてしまった確信から逃げることもできず、綱吉は鏡に映る赤く目を腫らした自分自身へと苦笑いを浮かべる。
 クローゼットをうろついて、ブラックレッドのサングラスを選んで目線にのせた。鏡をもう一度見ると、どうにか目元の腫れは誤魔化せているようだった。

 髪は適当にヘアワックスで整えて、身なりを前も後ろも整えたあとで、ニィっと笑ってみる。浮かれ出している気分を落ち着かせるように長々と息を吐き出して、綱吉はクローゼットから出た。

 携帯電話とクレジットカードをスーツの内側のポケットに入れて、荷物は一切持たずに綱吉は表玄関へ向かった。途中ですれ違った執事の一人に外出と綱吉の分の夕食が必要ないことを告げた。執事は一礼をして「お気をつけて行ってらっしゃいませ」と深々と頭を下げる。それに片手で答え、綱吉は真っ直ぐに玄関へ向かった。


 扉を開けて外へ出ると、黒塗りの車を背に、柿本千種と城島犬が並んで立っていた。外はまだ明るく、日がようやく傾きだしたころだった。陽光の眩しさがブラックレッド色のレンズごしに綱吉の目に射し込んでくる。

 綱吉に気が付いた犬がにぃっと牙を見せるようして笑う。いつも通り、派手な色のシャツに髪や首や腕にじゃらじゃらとアクセサリィを身につけ、犬は片手を顔の横にあげてひらひらと動かす。その右手の指にも銀色の指輪が二つ鈍く光っている。

 犬の隣に立つ千種はブラックスーツに色の薄い青色のシャツにブルー系のグラデーションのネクタイをきっちりとしめ、頭には黒いハンチングをかぶっていた。彼は笑うこともせず、ただ綱吉を見てかるく頭を下げる。


「久しぶり。――病院行くからさ、護衛お願いね」


 玄関のスロープを降りて二人に近づいていくと、犬がにやにやと意地悪そうに笑って片目を細める。


「ボンゴレ、似合わないれ、サングラス」

「うっ、……でもしてないとさ、目がね、腫れてるからさあ」

「ま、いいんれない? お子さまギャングみたいれ」

「けーんー」


 綱吉の振り上げた拳を、犬は特徴的でいて奇妙な笑い声をあげてひょいっと身軽に避ける。


「具合はいいの?」

 車の向こう側にまで逃げていった犬を追おうとしていた綱吉は、立ち止まって助手席のドアの近くに立つ千種を振り返った。

「うん?」


「飲まず食わずでいたのなら身体、弱ってたんじゃないの?」


「ああ、それか。もう平気。もりもりご飯食べてるし、たっぷり寝たしね」

「……そう……」


「オレがいたらないばっかりに骸がヒドイ目にあって、千種や犬にまで嫌な思いさせちゃって……。ごめんなさい。これからは気をつけるからさ――」


 綱吉の語尾にかぶるように犬が「あっ、ああ……うう」と呻いて、車のトランクに寄りかかるようにして表情を曇らせる。いったいどうしたのかと綱吉が口を開く前に、目の前に立っている千種が重苦しく息を付いた。その双眸につよい戸惑いのようなものが浮かんでいて、綱吉は落ち着かない気分になって上擦った声をあげてしまう。


「え、なに? どうしたの、二人とも」


 犬はもたれていたトランクから身を離し、綱吉のところまで近寄ってくると、申し訳なさそうに眉尻を下げて口を開く。


「ボンゴレ。謝らないれいいんら。俺ら、骸さんが怪我してんの、知ってらんだもん。だから謝んのは俺らなの。ごめんれ?」


「……は?」


「犬の言うとおりなんだ。俺も犬も骸様が怪我をしているのを知っていて、現場に向かったんだ。――それが骸様の望みだったから俺達は何も言わなかっただけで……」

 刹那、綱吉は犬の襟元と千種の襟元へ両手を伸ばして掴み上げ――彼等は驚いたように目を見開く――、燃え上がった感情のままに声を上げた。

「馬鹿!! そういうときは相手がどんなに嫌がったって止めるべきなんだ!」


 荒々しく二人の胸ぐらを突き放し、綱吉はふらりとよろけるようにして背後の車の車体に背中を預ける。右手で顔を覆って俯き、綱吉は奥歯を噛みしめる。

 千種と犬が骸に心酔していることは綱吉も理解している。骸が黙っていろと言うのならば二人は何の抵抗もせずに黙っているだろう。黙っていた千種達への憤りもあるが、黙らせていた骸への怒りもふつふつと沸いてくる。

 ふと、指の隙間から見た千種と犬の、落ち込んだような表情に綱吉はゆっくりと息を吐き出して目を閉じる。
 過ぎてしまった過去を責めても取り返しがつくはずもない。おそらくは千種たちも自分たちが沈黙していたがために骸が死にかけたことを自身で理解しているはずだ。骸の怪我に気がつかなかった綱吉に彼等を責められる権利はない。

 顔に触れていた手を外して、もう一度だけ息を吐き出して、綱吉は顔をあげる。


「……ごめん、怒鳴って……。二人だって、後悔したはずだもんな……。もう、今回のようなことがあっても、千種も犬も骸のこと止めてくれるよね?」

「もちろん!」
「今度は止める」


「なら、いいんだ……。あー……、もう、おまえらの主従関係って、ほんと、ときどき献身的すぎて困っちゃうよ……、二人とも骸のこと大好きだよね」


「うん、俺、骸さんのこと大好き!」


 落ち込んでいた顔を一変させて犬がにこりと笑って言う。綱吉はぐちゃりとゆがんだままの犬の襟元をなおしながら「あそう。それはよかったね」と半ば呆れるように言って苦笑する。


「ボンゴレだって――」



「え、千種、なにか言った?」



「何でもない」


 そっけなく言った千種は片手でゆがんでしまった自身の襟元を正しながら、形のよい唇をまっすぐに結んだ。


「ね、ね? 柿ぴー、俺が運転したら駄目?」

「駄目。犬、ブレーキ踏むの嫌いだから」

「あ、それはオレも怖いからヤだ。運転は千種ね」

「ずっりぃー、オレらって運転したい!」


 運転したい!と三回繰り返して、犬はうらめしそうに千種と綱吉と車を順番に睨んだ。 遠い過去、牛柄の服を着た子供が駄々をこねていた様子が思い出され、綱吉は苦笑してあごをひく。綱吉自身は一人っ子だったが、幼い子供達と一緒に過ごして年を重ねたせいか、駄々をこねる子供――とはいえ犬は綱吉と幼少期を過ごしたわけでも年下な訳でもなかったのだが――には弱い。

 今にも地団駄を踏みそうな犬と視線をあわせ、綱吉は首を右へ傾ける。


「それじゃあ、屋敷の敷地んなかだったらいいよ。あとで時間があいたときにでも、運転したら? そのかわり、絶対に危ないことはしないことと、必ず誰かと一緒にね、それとその人が駄目だって言ったら必ずそこで降りること。これが約束できるんならいいよ」


 車にもたれたままの綱吉に、目を輝かせた犬ががばっと両腕で抱きついた。体格差のある犬にじゃれつかれ、思わず綱吉は後頭部を車体にぶつけて呻いたが、テンションのあがってしまった犬は気がつきもしない。

「まじで!? ボンゴレ、いい奴らね! 約束する!」


「そう。それじゃあ、ランチアさんにあとで頼んでおくよ」


「……ありがとう。ボンゴレ」

「え」

 片手で犬の背中を撫でていた綱吉は、目の前にいる千種の顔を見て思わず「へえ」と感心するように呟いてしまった。
 普段からしかめ面というか、無表情というか、まったくといっていいほど友好的な表情を浮かべない千種がやわらかく微笑を浮かべて綱吉と犬を眺めている。きっと本人すら優しい表情をしていることに気がついていないようだった。
 少しだけ千種の表情に見とれたあとで、綱吉はほうっと息をつく。

「千種、――笑うと可愛いんだね」


 かるく目を見開いた千種が右手で顔を覆った。隠し切れていない彼の頬が朱に染まるのを綱吉は見逃さなかった。

「うげー、なに言ってんの、ボンゴレってば。柿ぴーはもともと可愛いれしょ?」

「え、もともと、か、かわ?」

「骸さん、よく言うんらよ。千種は可愛いれすねーって」

 綱吉の身体にもたれかかったままで、犬が至極当然のことと言わんばかりの顔で言う。思わず顔をにやけさせてしまった綱吉をきつく一瞥した千種は赤い顔で舌打ちをして、運転席側へと早足で歩いていってしまう。


「あ、待って、千種! ごめんって!」


「柿ぴー、怒んらよー。骸さんが言うと怒らないくせにー」

 骸に「可愛いですね」と言われて喜んでいる千種を想像した綱吉が思わず吹き出してしまうと、千種はますます厳しい視線を綱吉に突き刺さるように向ける。必死に笑いをかみころして綱吉は首を左右にふった。振りすぎてずれたサングラスを右手でかけなおし、「ごめんね、千種」と謝罪をすると、彼は下唇を噛んで犬へと視線をずらした。

「犬、それ以上無駄なこというと――」

「はーい、もう言わないもんれ」


 疑うように数秒間犬を睨みつけたあと、千種は運転席のドアを開けて車内へ身体を滑り込ませた。

 綱吉の肩に腕をからめたまま、犬が綱吉の方へ顔を向ける。綱吉も犬の方へ顔を向け、彼と視線を合わせる。



「怖いれ、柿ぴー」

「ね、怖いね、千種」



 クスクスと二人が笑っていると、車のエンジンがかかって、急に数メートル車が動いた。車体によりかかっていた綱吉は危うく転びかけ、犬に腕を掴まれて体勢を立て直した。運転席をのぞいてみれば、千種が怒ったような顔で綱吉たちを睨んでいる。

「千種に置いて行かれる前に車に乗ろうか」

「そうらね。――どうぞ、ボス」


 後部座席のドアを犬が開く。
 犬は彼が心酔する主人のように、執事めいた滑稽な仕草で頭を下げ、にぃっと牙を見せるようにして笑う。

「ありがとう」

 礼を言って、綱吉は開かれた後部座席へと乗り込んだ。