獄寺は三時間ほどの面会を終えると、「んじゃあ、あとは適当に寝とけ」とそっけなく告げて病室を出ていこうとした。
 時計がないことを苦慮していた骸が、獄寺がしている腕時計を貸して欲しいと言うと、彼は室内を見回したあと――病室に時計がないことを知って――少しだけ渋るようにしたが、舌打ちをしたあとで、腕時計を外して骸の枕元へ置いてくれた。骸が礼を言うと獄寺は「絶対に返せよ、なくすな、傷つけんなよ!」ときつく念を押して立ち去っていった。

 高価な腕時計ではあったが、彼がそんなにも時計にこだわっているのかと不思議に思った骸はベッドサイドに置かれた時計を眺めているうちに理由に思い当たった。

 綱吉がボンゴレを継いだその年の守護者達の誕生日に、それぞれの守護者に似合うブランドの腕時計を綱吉自身が選び、文字盤の裏にドンである綱吉の名を刻印して贈ったことがあった。

 骸は贈られた時計を身につけることはせずに大切に部屋にしまっている。綱吉から贈られたものを他の誰にも触れさせたくはなかったし、傷をひとつもつけたくなかった。

 獄寺は身につけることで、贈り主である綱吉への敬愛をしめしているのだろう。そんな大切な時計を骸の枕元においていった獄寺に、骸は思わず苦笑してしまう。どれだけ口が悪かろうとも、獄寺が守護者のなかでも笹川了平と並ぶお人好しなのだと証明できるような出来事だった。


 腕時計を見ると、午後十時近かった。骸が他の入院患者と同じ扱いをされているとは思わないので――ボンゴレの手が入っている病院なのだから骸の入院環境は病院のルールからは多少逸脱しているはずだ――、消灯時間だからといって看護士が見回ることもない。照明が明るくても骸は平気で眠ることができる。気をはってしゃべり続けていたこともあり、目を閉じて何も考えずにいると、うとうとと眠気がやってきた。眠るには早い時間だったが、そのまま一度寝てしまおうと思って、骸が睡眠に入ろうとしていると――、廊下を歩いてくる複数の人間の足音が耳に入ってくる。看護士や医師が履いている靴では鳴らないであろう、革靴のかかとがリノウムの床を踏む音を響かせながら近づいてくる。


 ゆっくりと長いため息をついたあとで、骸は閉じていた目を開いて、スライドドアの方へ向ける。

 案の定、骸の病室の前で足音が止まる。瞬間、音もなくスライドドアがすーっと横に移動し、人懐っこい笑顔を浮かべた背の高い青年が顔を見せた。


「よー、まだ起きてるかー?」


 にこやかに言って、山本武は病室に入ってくる。黒のスーツの上下、シャツの色はワイン色でネクタイはしておらず、第二ボタンまで開かれた胸元にはシルバーの細いチェーンネックレスが光っていた。病院ということもあるせいか、彼のトレードマークともいえる刀を帯刀しておらず、格好だけを見るとマフィアというよりも日本のホストを思わせるような雰囲気がある。


 山本は骸のベッドサイドまで近寄ってくると、


「おー、やっぱり起きてたんなー。こんな時間から寝るわけないとは思ってたんだ、よかったよかった」



「あのう、ほんと、自分で言うのもなんですが、僕、面会謝絶中ですよね? 面会の許可もらってきたんですか?」


 息を吐くように明るく笑って、山本は悪戯っぽく双眸を細める。


「ばかだなー、骸。俺とか他の守護者がそんなん守ると思ってんのか?」


 骸が無言のままに双眸を細めて、唇を皮肉ぽく歪めても、山本は気がつかないように親しげに骸のベッドの足下の方へどっかりと腰を下ろし、にぃと歯を見せるようにして笑う。



「思ってたより元気そうなのなー。心肺停止したとか聞いたから、ほんと驚いたんだぞ?」


「不死身なんで」


「あはは、おまえがそういうこと言うとホントみてーで面白いよな!」



 骸がますます顔をしかめ面にゆがめていくのを華麗に見ないふりをして、山本は開け放したままのスライドドアへと顔を向ける。骸はそこで、複数の足音がしていたことを思い出し、山本に同行者がいることを悟った。


「なあ、あんたも入ってこいって」



 開いたままのスライドドアの影からためらうように姿を現した人間を見て、骸はあきれ果てた吐息を吐いて、枕に頭をしずめた。


「ランチア……、あなたまで」



「俺はなー、この人のつきそいなのなー。行きたそーなのに、絶対自分から言い出したりしねー人じゃん、ランチアさんって。だから俺が連れてきたんだ。――よし、俺はもう骸の元気な顔を見たから行くわ! 仕事ぬけてきてんの、小僧にばれたらあとでどやされちまう! じゃー、あとはお二人でどーぞ」



 腰を掛けていたベッドから立ち上がると、山本は颯爽とランチアが立ちつくしている場所まで大股で歩いていった。



「……ありがとう」


 ランチアの礼の言葉に山本は笑顔を返して右手を顔の横で左右に振った。



「いーえ! じゃー、またなー! 今度は手みやげに美味い酒持ってくっからなー」



 病院では限りなく不適切だと判断される発言をにこやかに残して、山本は去っていった。



 残されたランチアは、弱々しく息を吐くと、病室に入ってスライドドアを閉める。それから静かに骸のベッド脇のパイプ椅子に近づいて、そこへ座った。骸と目が合うと、彼は微苦笑を浮かべて双眸を細める。


「元気そうで安心した」



 お人好しそうに呟くランチアを呆れるように眺め、骸は嘆息した。



「ぞろぞろ、ぞろぞろと、まったくボンゴレという組織は騒がしいですね……」


「俺は、よかったと思う」


 突然のランチアの発言に骸の思考がわずかに揺らぐ。
 良かったと思う。
 ボンゴレが騒がしい組織だということが、良かったということだろうか。
 骸は不可解そうな顔のままで、ランチアを見上げる。


「いったい、なにが?」


 ランチアは静かに目を伏せ、穏やかな表情になる。


「おまえが、こうして、いろいろな人間と関わって、いろいろな関係を築くことができていることを、よかったと思う。俺や千種達以外にも、おまえを心配して見舞いにくる人間がいることがなんだか嬉しいんだ……。」


「死んで欲しかったんじゃありませんか? 僕、あなたに恨まれていて当然だと思うんですが?」


「勘違いするな。許した訳じゃない。ただ、おまえを恨むほどの気力が俺にはもうないだけだ」


「あなたも年をとったということですかね」


 骸の皮肉を微笑で受け流し、ランチアは肩をすくめる。



「恨んだり憎んだりして、余生を送りたいとは、俺は思わないようになっただけだ」


「それも、彼のおかげですか?」


「そんなところだろうな……。――ボンゴレ、相当に怒っているぞ。まだ許してもらえんだろう?」


 心配そうなランチアの言葉に、骸は思わず卑屈に唇をゆがめておおげさに息を吐き出す。


「許すもなにも。人に覆い被さって号泣した挙げ句、迎えに来たリボーンに引っ張られてろくに会話もせずにいなくなってしまいましたからね、彼。――怒ってたんですか?」


「怒られないとでも思っていたのか?」


 骸はぐるりと視線を回して、口角の片側を持ち上げる。怒られないとは思ってはいなかったが、あれほど烈火のごとく怒るとは考えていなかった。あっけにとられてしまったせいで、泣いている彼を呆然と眺めていることしかできず、結局は何の言葉も交わさないまま別れてしまった。

 一ヶ月が経とうとしている現在までで、綱吉が骸の病室に姿を現したのは、目覚めた時、あの一度きりしかない。病室に顔を見せないほどに、綱吉が立腹しているのだとしたら、骸は誤解を解きたかった。なにもそこまで綱吉を怒らせたかった訳ではなかったのだと、弁明する機会を与えてもらいたいと思っていた。しかし、守護者達に仲介を頼むことは骸のプライドが許さなかったし、千種達に頼むことにも気が引けてしまい、綱吉と連絡を取る手段が骸にはなかった。


 ランチアは俯いて、しばらく何かを考えるかのように黙っていた。遠い昔、出会った頃の彼と比べるとやはり経過した時を思わせる風格がランチアにはあった。それは決して老いではなく、積み重なるべくして積み重なった年月が彼の雄々しい容貌にさらに深みをもたせたようだった。本来の年齢より若く見えるのは、ひとえに彼が身体を鍛えていることと、規則正しい生活をしているせいもあったが、なにより自分がすべきことを理解している人間ほどに人生を謳歌できる者はいない。


 長いこと黙りこくっていったランチアが、うつむいていた視線を持ち上げて骸を見た。骸は片目で彼の視線を受ける。ランチアは口を開きかけ、ためらうような仕草をみせたあとで、ゆっくりと言葉をつむぎだした。


「骸。おまえがここに運ばれて手術室に入って、そして手術を終えて個室に移動して――、おまえが目を覚ますまで、ボンゴレは着替えをすることもせず、それこそ何も飲まず食わずのままで、おまえの側にいたんだぞ?」


「くふふ。まったく、お優しいボスですねえ。いったい、どれくらいのあいだ? 僕はすぐには起きなかったでしょうに」


「……どのくらいだと思ってるんだ?」


「二、三日ってとこですかね?」


 ランチアはしかめ面のままで答えない。
 骸は心にさしこんだ不安に耐えきれず、息を吐いて強がるように笑う。


「違うんですか?」



「八日ちかくだ」


 短く息を吐いて骸は言葉を失う。
 飲まず食わずで、おそらくは骸を救出したままの誰のものともしれぬ血を浴びたままで、――骸が目を覚ますまでずっと病室でほとんど眠りもせずにいたというのか。

 目覚めた際に見た綱吉の姿が脳裏によみがえってくる。思い返してみれば彼の顔色はひどかったし、精神的にも充分に弱っていたようだった。

 しばらくの間をあけたあとで、骸は呻くように唸って顔をしかめた。



「バッ、――馬鹿じゃないんですか……っ」


 歯を噛みしめる骸に構わずにランチアは淡々と言葉を紡ぐ。


「目を離したらおまえが死ぬとか、目を覚ますまでここから動かないとか、骸が死んだら自分はなんて取り返しのつかないことをしたんだとか、そりゃあもう、他の守護者たちがあの手この手で、おまえの病室からボンゴレを退室させようとしたんだが、頑として動かなかったんだ。せめて着替えをと言って、獄寺が持ってきた着替えにさえ手をつけないで、おまえのことをずっと傍らで見守っていたんだ」


「僕は僕の無様な判断ゆえに自業自得で死にかけているんですから、綱吉くんがそんなに追いつめられることはないのに――本当に馬鹿な人だ」


「おまえを想って心をいためた彼をそんなふうに言うものじゃない」


「だって僕にとって死はそれほど恐ろしくも辛くもないんですもの。僕は死んだって、すぐに輪廻をめぐって彼の元へ戻ってこられますからね。少しの間、無にかえってたゆたい、そしてまたこの美しくも醜い世界に産み落とされて死ぬまで動き続ける――人間とはそういうものでしょう」


「おまえのことだ。本当に生まれ変わって再びボンゴレや俺の前に現れることくらい、おまえには出来るんだろうな。確かにおまえはそれでいいだろう。でもボンゴレはふつうの人間だ。おまえのような「死への思想」もない。おまえに死なれて、おまえが再び生まれ落ちて成長するまでのあいだ、彼はずっと孤独なのか? おまえが注ぎ続けた好意の分だけ、穴があいた心を抱いて、虚無感に苛まれながら何年も生きて行けと?」


 わずかにランチアの言葉に苛立ちとも叱責とも言い難い感情が交じり始める。骸はそもそも他人が理解できない。相手が何故怒るのかが分からない。相手が何故苛立っているのかが分からない。骸は骸自身のことしか分からず、骸は自分自身が世間に生きている他人とは様々な感情の揺らぎ方が違うことを自覚している。

 ランチアが言っている内容を骸は思案するように思い返してみたが、やはりよく理解できなかった。

 骸は輪廻を巡って必ず、沢田綱吉の元へ現れる。それでいいはずだ。その間、綱吉は確かに独りきりになるだろうが、骸は戻ってくるのだ。どうして待つ事が出来ないようなことをランチアは言うのだろうか。

 ランチアは苦い顔をしている。おそらくはランチア自身も、己が言っていることが骸の理解を得られないことを承知しているのかもしれなかった。

 骸には分からない。
 綱吉があんなにも怒った理由も、病室を訪れない彼の真意も。
 沢田綱吉を想っている間は確かに六道骸も人間として生きているのだと感じていたというのに、いまの骸は目の前にいるランチアとの間に深くて決して越えられない崖を見つけたような気分がしていた。

 不愉快さでいっぱいになった身体で溜息をついて、骸は鋭く双眸を細めて冷たくランチアを睨んだ。


「何を言いたいんですか? 回りくどいことはやめてくれませんか?」



「……これはおまえをずっと見てきて俺からのアドバイスだ。おまえの死がもたらすものをよく考えろ。そしてボンゴレに言われた言葉やボンゴレがどうしてそんなことを言ったのかとよく考えるんだ。――おまえは『人間』なんだから、きっと分かるはずだ」


 ランチアの瞳が真っ直ぐに骸を見つめる。彼がそんな風に骸を見ることはあまりない。骸がまだ幼い子供のころのほうが、彼はよく笑ってよく怒っていたような記憶がある。利用し、利用し、利用し尽くしていた年月のあいだ、ランチアの時は止まっていたようなものだ。再び動き出した彼の時間は、やはり時が止まっていた間があるせいか、昔の彼とはどこか違っていた。骸を真っ直ぐに長いこと見つめることはなく、あけすけな笑顔など向けてくれることもなく、そして激怒されることもなく――、ただ壊れ物にでも触れるように骸に相対する。それは彼の中に根強く支配への恐怖、もしくは表には出さないのだろうけれども、憎しみや恨みの類のせいなのかもしれなかった。


 ほんの少しだけでも、骸に何か新たな思いが生まれるのを期待するようなランチアの瞳の意思に勝てそうになく、骸はゆるく息を吐いた。



「ランチアは時々、ほんとうにお節介ですよね」



 ランチアは何かを言いたそうに口を開きかけたが、結局は何も言わずに苦笑したままで視線をベッドのシーツのあたりへ向ける。



「説教は終わりですよね? もういい加減、ほんとうに休みたいんですよ」



「長々とすまない。――また来る」


 申し訳なさそうに謝罪をしたランチアはパイプ椅子から立ち上がる。


「来なくていいですって。あなたも仕事があるでしょう」


「仕事、か。……そうだな。おまえが請け負っていた仕事のほとんどは俺が引き継ぐ予定になっているんだ。だから安心して養生していていいぞ」



「指輪は渡しませんよ?」



 骸の発言に、ランチアはゆっくりと微笑した。それはまるで家族にでも笑いかけるかのような温かなもので、見間違いかと骸が目を瞬かせているうちにすぐにいつもの苦笑へまぎれてしまった。



「ああ。それはおまえのもので、俺には必要がないものだ」


 骸が黙っていると、ランチアは右手を伸ばして包帯が巻かれた骸の額に指先で触れる。片目で彼を見上げると、ランチアは自分でも自身の行動を理解していないかのように、困ったようにくしゃりと笑った。

 骸が口を開く前にランチアがイタリア語ではない言葉で静かに囁き始める。それがラテン語の祝福の言葉だと分かるころには、ランチアは骸の額に触れていた手を自身へ引き寄せ、二歩ほどベッドから遠ざかった

 

 じゃあな。
 そう言ってランチアは病室を出ていった。


 一人きりになった病室のなかに、深夜の病院に似合いの、暗く冷えた空気が病室のなかを漂い始める。



 骸はランチアが呟いたラテン語の祝福の言葉を繰り返し――、思わずゆるんでしまう顔をわざとらしくしかめたあとで、重苦しく溜息をついた。



 そのあとで、もう一度、ゆっくりと祝福の言葉を呟きながら、六道骸は祈るような気持ちで沢田綱吉を想って、そっと目を閉じた。