病院のベッドの上で、リッツィオの拷問から生還したのだと理解した骸は、まだ続いている自身の生命のしぶとさに少しだけ皮肉を感じた。あのまま死んだとしても特に後悔はない。少ない可能性とはいえ、なにか後遺症が残るような身体でこれからも生きていくのかと思うと骸は少し憂鬱になった。


 目を覚ました骸にすがりついて泣き叫ぶだけ泣き叫んだ綱吉は、ボルサリーノをかぶった少年に引きずられるようにして出ていったようだった。そのあたりの確かな記憶は骸にはない。


 意識は途切れ途切れで、看護士や医者が居たかと思えば、骸と同列に位置する守護者の面々が黙ったまま、一人でベッド横のパイプ椅子に座っていることもあった。誰かが常にいるというわけではなく、たまに病室に誰もいない時もあった。骸の目が届く位置に時計やカレンダーがなかったため、いったいどれくらい寝て、目覚めてを繰り返しているのかも分からず、骸の中の体内時計は確実に狂っているようだった。

 自分の意志とは関係なく意識が途切れることがなくなり、長いこと起きていられるようになると、今度は時間をもてあますことになった。腕も足もまだギプスで固定されており、動かすことすらできない。意識ははっきりとしているのに、寝返りひとつうつことが出来ない。いっそ拷問のような仕打ちだった。

 ふらりと検診にきたドクター・シャマルに「この身体をどうにかする術はないんですか?」と問うてみれば、彼は「俺はまだ死にたかぁねえからお前の頼みは聞いてやれねぇなァ」などと言って顔をしかめた。おそらくはドン・ボンゴレにきつく言い渡されているのだろう。骸が絶望的な溜息をつくのを聞いたシャマルは、何かを言いたそうな笑みとも同情とも取れるような顔をした。骸が問いかける前に彼は「ま、お大事に」などと言って彼は退室していってしまった。


 日に何度も訪れる女性看護士との雑談も、点滴やガーゼや包帯を取り替える時のみで――彼女たちも仕事があるので骸の相手ばかりしていられない――、医者とは怪我の治癒具合や治療方法などを話し合うだけだった。骸がリッツィオ襲撃の際に右目に浴びせられた液体は、骸の肌に残っていた薬品の検査結果によれば、目の手術に用いられる麻酔の類だったようだった。しかし、それは手術などに用いるには協力すぎるもので、丹念に右目を洗ったにせよ、視覚に問題が残るかどうかはもう少し経過を見てからと医者からは説明を受けていた。

 眼帯の下の右目はまだ違和感があったが、ある程度の能力は回復してきているようだった。身体をいっさい動かすこともできず、話し相手もいないとなると、右目の能力の発動具合を少しずつ試すことぐらいしかやることながいのだ。


 そうすることにも飽きて数日後――、スライドドアを静かに開けた看護士が「こんにちわ。六道様。特別にお見舞いの方との面会が許されましたよ」と優しく微笑んで病室に入ってきた。


 見舞いの客――。

 骸は枕にのせている頭を動かして、扉の方へ向ける。


 普段よりは派手さがおさえめの――とはいえ首や手首、指の装飾品のいくつかがキラキラと輝いていたが――、城島犬と、トレードマークの帽子をかぶらずに、普段よりもひどく暗い顔をした柿本千種が病室に入れないで、廊下に突っ立ったままでいた。看護士は点滴ホルダーに近寄り、残量のなくなっていた点滴を新しいものに取り替え、血管への注入速度やチューブの接続部分、骸の皮膚にささった針を確認する。


「なにかあったら、ナースコールを押してくださいね」


 淡いピンク色の口紅に彩られた唇を笑みの形にゆがめ、看護士は首の後ろで束ねた金髪の毛先を揺らしながら扉へ向かう。


「どうぞ」


 看護士はスライドドアを手で押しとどめ、中へ入るように犬と千種をすすめた。犬が先におずおずと足を進ませて室内に入ったあとで千種を振り返り見た。千種は今にも倒れるのではないかというほどに青白い顔をしたまま、物音をたてないですうっと進んで部屋に入る。
 二人が入ったのを見届けた看護士は、廊下に出て止めておいたスライドドアを閉めて立ち去って行った。


 犬と千種は、まるでそれ以上進むには骸の許可がいるとでも思っているのか、部屋に二歩程度踏み行った場所に立ちつくしている。


「犬」

 犬が肩を震わせる。


「千種」


 まるで首でも絞められたかのように千種の顔がしかめられる。



 ふいに、犬が右手で顔面をおさえた。いつも人をからかうような笑みが浮かんでいる彼の顔がくしゃりと歪んだと思うと、目元からぼろぼろと涙がこぼれ始める。犬の泣くところなど見たことのなかった骸は、「ああ、彼も人間なのだなあ」などと呑気に思いながら、子供のように号泣しだした犬を眺めていた。



「うっ、……うぅううう、骸さん……、うぇっ、うぅうぅっ……」



「犬。こっち、来てください。僕、動けないんで」


 盛大に鼻をすすったあとで、犬がよろよろと骸が寝ているベッドに近づいてくる。ベッドの傍らに立った彼は耐えられなくなったようにベッドにすがりつくように座り込んで、シーツに顔を押しつけると、わぁわぁと泣き始める。
 ベッドの上ならば動かすことのできる左腕を動かして、シーツのうえにのっている犬の手を掴んだ。彼は骸の指先をぎゅうっと握って、シーツに顔をおしつけながら泣き続ける。


「ほら。泣くんじゃありませんよ、犬。もうおまえはそんな年じゃあないでしょうに」


「だって、だって、骸さん……。ごめんらさい。ごめんらさい、ごめんらさい!」


「……犬、謝らないでいいんですよ」


 ふいに骸の顔に影がさす。犬のすぐ隣、ベッドの傍らに千種が無言で立っていた。泣いてはいないものの、瞳に浮かんだ悲痛さが痛いほどに伝わってくる。


「千種」



「すみません」


 絞り出すような声音で言って、千種は唇をきつく引き結んだ。



 骸は苦笑をしてゆるゆると息を吐く。



「千種、――僕の左手に触れてくれませんか?」



 千種は「なぜ?」と問いかけることもなく、右手で犬の手を握っている骸の左手に触れた。背中を丸めた千種は、座り込んでしまった犬に身を寄せるようにして、骸の顔をじっと見つめた。


 犬と千種の二つの視線に見つめられながら、骸は穏やかな気持ちで語りかけた。


「二人とも、謝らないでください。これは僕の自業自得なんですから。これ以上、二人に謝られると、僕はとても悲しくなります」


「骸さんっ……、でも、俺たちが……」


「二人がその程度の怪我ですんでよかった。すべては僕が負傷しているのに無理をしたせいなんですから……、二人は悪くはないんです。それはきちんと綱吉くんに説明しておきますから――」


「骸様……。骸様がいなくなったら俺達はどこにも帰る場所がなくなってしまいます。お願いですから、もっとご自分を大切にしてください……」


「なにを言ってるんですか。僕がいなくとも、ボンゴレが犬と千種の帰るべきところですよ」


「違うっ」


 犬が叫んで、骸の手を強く握る。


「違いますよ、骸さん! 俺らが帰る場所は骸さんだけれす! ボンゴレじゃない、骸さんなんれす! それ以外は全部違うんれす! 嫌れす、骸さんがいない世界なんて、絶対に嫌れすよ!」


 嫌いやをするように犬は泣き濡れた顔のままで首を振る。かちかちと髪留め同士が当たって硬質な音を立てる。千種の表情を伺ってみると、彼も同意するように静かに頷いた。


 幼い頃、あの悪夢のような研究施設から連れ立って、醜い世界に飛び出した。骸の身体が使用不能になったときの代替えの身体として、最初は二人を連れて行った。彼等は利用すべきものであって、それ以外の用途や感情はなかった。犬も千種も、何故か骸の言うことならば何でも受け入れたし――それらはきっと強い強い恐怖の記憶と連結しているせいで無意識に服従していたのだろうけれども――、恐ろしいことにも耐えて、骸の思うように動いて成果をあげた。優秀な手駒としての愛着はあれど、やはり彼等は道具で利用すべきもので、いつでも取り替えのきく骸の運命の部品だった。

 十年ほど前に沢田綱吉と出会ってから、様々な出来事があった。

 綱吉と関わっているうちに、骸のなかで不思議な変革が起き始めていた。

 代替え品、部品、利用すべきもの。

 そんなレッテルを貼り続けてきた「彼等」の無事を祈るようになった。そして、彼等が笑っていることで骸自身も笑えるようになった。もはや彼等は利用すべきものではなく、骸にとっても「大事なもの」と言えるような存在になっていた。




 骸の指先を握る犬の手と、骸の手に触れている千種の指先の熱を感じながら、骸は微笑んだ。



「君たちの帰る場所が僕だと言うのならば、僕は絶対に死ねませんねぇ」


「そうれすよ! 骸さんは死んじゃ駄目れす!」


 力説するように言って、犬が泣いたままで笑った。その隣で千種が無言のままに頷く。骸は起きあがって彼等を抱きしめたい思いにかられたが、身体はやはり動かすことができなかった。犬の手を握り、彼等が少しでも安心できるように骸は穏やかに微笑んだ。



「ありがとうございます。犬。千種。――あなた達がここにいてくれることを、僕は誰かに感謝すべきなのかもしれませんね……」



犬は意味が通じなかったのか目を瞬かせ、骸の言葉の真意に感づいた千種は少しだけ皮肉そうに片目を細めた。


 三人とも何も言葉を交わさず、ただ手を触れ合わせたままで、数分が経つ。


 そっと千種が骸の手から指先を離した。
 犬がもの悲しそうな目で背後に立っている千種を見上げる。千種は表情なく、ただ淡々と言葉を紡ぐ。


「長い面会はまだ許されてないんだ。犬、もうそろそろ行くよ」


「やだ。俺、まだ骸さんのとこにいるびょん」


「駄目だ。ボンゴレとの約束は十分だけだ」



 骸の手を離さない犬の腕に触れて、千種は首を振った。そこで、ようやく犬は諦めたように息を吐き出しながら骸の手を離した。人肌が離れていくことに恋しさを感じたような気がして、骸は気弱になっている自分自身に心の中で失笑する。

 犬はぐずぐずと鼻をすすったあとで、強がるようににっこりと笑った。


「骸さん、またすぐにお見舞いに来ます。なにか欲しいものないれすか?」


「では、あまり匂いのつよくない花束をひとつ。部屋が殺風景でつまらないので」


「分かりました! 柿ぴーと一緒に選んで持ってきます!」

「失礼します」


 千種が一礼をして、犬が敬礼をするように額に片手をそえる。


「千種。犬」


 病室を出ていこうとする二人の背中に骸は言葉を投げかけた。




「今回のことは綱吉くんには非がありません。これからもボンゴレに尽くしてくださいね?」


 困ったような、呆れたような顔で千種は頷いた。


「骸様がそう仰るのならば」


 隣の千種と視線を交わしたあとで、犬もしっかりと頷く。


「俺らはそうするびょん」