綱吉と挨拶を交わしたあとで執務室を出た。愛らしい綱吉の微笑みを胸の奥へとそっとしまって、骸が歩き出すと、少し遅れて千種と犬も後を追って動き出す。
 ずいぶんと聞き慣れていたはずの二人の足音を引きつれながら、骸は自身の仕事部屋に向かった。


「襲撃は日が落ちてからにしましょう。とりあえず昼までに人選を行って、午後イチで命令を伝達する方向で動きましょうね」


「そうですね。――犬、どうしたんだ?」


 千種の淡々とした問いかけに犬が低くうなる。骸は歩きながらかるく背後を振り向いて犬を見た。犬はためらうように骸を見たあとで、鼻筋にしわをよせて困ったように眉尻をさげる。


「骸さん……」


「はい?」


「なんか、骸さんから、ヤな臭いがするんれすけど」


 あまり普段動揺しない千種の目が見開かれ、すぐにまた元に戻った。骸は思わず立ち止まって、笑ってしまった口元を右手で隠しながら身体を反転させて犬と向き合うように立った。


「え、僕、臭うんですか?」


「違うんれす。なんか、血の臭いみたいな……」

「骸様。怪我でもしてるんですか?」

「嘘! ホントれすか、骸さん!」


 千種と犬の探るような視線に耐えかね、骸は微苦笑を浮かべて口元をおおっていた手をおろす。


「まったく、犬の嗅覚は優秀で困ったものですねえ。……ええ、ちょっとヘマをしましてね。――昨日の夜、綱吉くんの護衛についていたんですけど、イカレタ馬鹿な男が運転してたバイクで綱吉くんを轢き殺そうとしたのを退いた時に、どうやら肩というか背骨というか、骨にヒビでも入ったようなんですよね。どうしてこんなにも人間の肉体はもろいんでしょう……」

「ドクターに診察してもらいましょう」

「ドクターに看てもらったら、今日の任務は他の誰かに回されてしまいます。そんなの嫌なんです」

「嫌と、言われても……」

「そうれすよ! 骸さん! 怪我してんのに任務なんて無理れすよ!」


 困ったように呟く千種と顔色を悪くして叫ぶ犬とを交互に見て、骸は出来るだけ優しく安心させることができるように微笑んだ。


「僕はね、千種、犬。綱吉くんのためにならどんな苦痛にだって耐えられるんです。逆を言えば、綱吉くんのために働けないなら、僕に存在の価値はないんです」

「骸様に存在の価値がないなんてことは絶対にあり得ません」

「そうれすよ!! 柿ぴーの言うとおりれすよ、骸さん!」


 畳みかけるように言って、千種は唇を噛み、犬は骸の腕を両手で掴んだ。遠い過去を思い起こさせるような甘く苦い感情が骸の中で生まれて溶けて消えていく。


「ありがとう。千種。犬。でも、良い子ですからボンゴレには黙っていてくださいね?」



「……無茶だけはしないでください。俺達は骸様がいなくちゃ――」


 千種の囁きが急激に遠のいていく。

 世界が全体が崩落していくのを感じながら、







 骸は、覚醒した。












×××××
















 熱い。冷たい。寒い。痛い。苦しい。痛い。痛い。痛い。

 咳き込むようにして息をしてみると、全身がびしょ濡れだということ気がついた。がらんがらんとまるでバケツでも放り投げたような音がする。冷水をかけられ失っていた意識が覚醒したのだろう。思考は限りなく遅く、いったい自分がどうなっているのかを理解するまでしばらくかかった。ボンゴレの屋敷を出て、目的のファミリィの本拠地へ出向き、完璧な計画のもと、襲撃を開始した――はずだった。

 相手はこちらの予想を上回る人員を隠して配置させており、霧の部隊の精鋭達でも処理し切れぬほどの雑魚を投入してきた。千種と犬も別々の部隊のリーダーとして行動し、骸は単独で前衛を勤めた。
 いくら骸達の戦闘能力が常人よりもあるとしても体力が永遠に続くわけもない。数時間に渡る戦闘の末、骸は己の兵隊達の生命を重んじ――綱吉ならばそうするであろうと考え――撤退の命令を下し、すべての人員が逃げ切るまで防波堤として右目の能力を駆使して、蟻のように次々とわいてくる敵を正面玄関のフロアで撃退し続けた。千種や犬には悟られないようにつとめていたが、骸は肋骨の負傷で動きがだいぶ制限されつつあることを認めなくてはならなくなってきていた。これ以上はさすがに対応をしきれぬと思い、骸も自分自身撤退しようとしたその刹那、敵の一人が骸の顔へ何かの液体を浴びせかけた。何をされたのだと思った刹那、両目の視覚が急に消失する。いっさいの六道の能力が不能となり、骸はとっさに動揺してしまった。それがいけなかった。動きの止まった骸の頭めがけて鉄の棒が振り下ろされ――、骸は意識を手放してしまった。

 目を覚ますと場所はどこともしれぬ殺風景な部屋の中だった。右目は相変わらず見えず、左目だけがかろうじて見えていたが、普段の半分くらいの視力しかないようだった。
 骸がいる部屋が拷問部屋なのだと分かったのは、骸自身が天上からぶら下げられていることと、部屋の片隅におかれた様々な器具類が視界に入ったからだ。襲撃したファミリィのボスがサディストだというくだらない情報を先んじて耳に入れていたので、すぐに捕らえられてしまったのだという考えに至った。


『目が覚めたか? ムクロ・ロクドウ。ずいぶんとうちのもんが世話になったそうじゃあねえか、たっぷりとお礼をしなきゃいけねえよなあ、私はこうみえても律儀な方でね、もらったもん以上のものを返さねえと気がすまねえんだ』


 吊されている骸の背後から、リッツィオファミリィのボスのにやついた笑みを浮かべながら現れる。彼の右手が持っている鞭の意味を理解した骸は、ぼんやりと「これは綱吉くんに怒られますねえ」などと思って嘆息をついた。その態度がリッツィオを刺激したのか、彼は右腕を振りかぶって鞭を振り下ろした。空気を切り裂いた鞭は何度も骸の胸や腹といわず、背中や腕、足すらも殴打した。痛みに負けて悲鳴を上げるのだけは骸のプライドが許さない。唇を噛んで耐えているうちに下唇をかみ切ってしまって口の中に血の味が広がった。鞭で悲鳴をあげないと分かると、リッツィオは部屋の隅へ行って、鞭の変わりに棍棒のようなものを握って戻ってくる。すると彼は興奮気味に笑いながら棒を骸の身体に振り下ろし始める。十回目の打撃までは覚えていたが、あとはもうよく覚えていない。

 おそらく殴られている間で気を失って、先程、リッツィオが浴びせた冷水のおかげで骸は覚醒したのだろう。

 頑丈な鎖で固定された骸の両腕は天上から下がっている鉄製のフックに引っかけられ、両足は床から浮いている状態になっている。見ることは出来ないが、足下にはおそらく血だまりが出来ているに違いない。鞭の傷、それに殴打を受けた際に切れたのか、額や腕、足など至るところの皮膚が傷ついてじわじわと血が流れていっているような気がした。もはや怪我を視認しようとする気力さえ骸にはなかった。つり下げられてどれくらいの時間がたったか分からないが、もう肩の関節が限界を訴えていて、いつ外れてもおかしくないような違和感があった。右目は相変わらず麻痺したように機能せず、視界はもっぱら左目だけだったのだが、額から流れてくる血と浴びた水のせいで、左目すらよく見えなくなりつつあった。





「ようやく起きたか、怪物め」







 吊られた骸から少し離れた場所にリッツィオはいた。リッツィオは右手に大振りのサバイバルナイフを握り、黒檀の椅子に腰をかけて骸を見上げている。焦げ茶色の髪をきれいにオールバックにした容貌は研ぎ澄まされたように鋭く、もうすぐ五十を迎えつつある男には見えなかった。まだまだ血に飢え、暴れ足りないのだと全身のオーラが語っているほどに、獰猛で攻撃的な雰囲気がリッツィオにはあった。まさに綱吉とは正反対のボス像だった。





「自白剤がきかねーなんて、どういう身体の仕組みしてんだ? え?」





 骸は答えることをせずに、左目だけで冷徹にリッツィオを見下ろす。気が狂ったほうがましな痛みに耐えながら、ずっと心の中でたった一人の人間のことだけを思い返す。

 綱吉。
 綱吉。
 沢田綱吉。

 骸の左頬の上を、浴びせられた水なのか、血なのかよくわからない液体が、額から顎へとどろどろと流れていく。



「さあ、さっきの尋問の続きをしようじゃないか。――ムクロ・ロクドウ。ドン・ボンゴレ、もしくはおまえと同じ守護者共の弱みはなんなんだ? 家族の住所、恋人の勤め先、なんだっていいんだ、弱みを洗いざらい吐いてくれねえか?」


「………………………………」


「いい加減、死ぬぞ? じきに仲間の奴らも一緒に並べて、悲鳴をきかせてやるからなあ」



「――あの子達を捕らえることはできませんよ」


「はあん? なんでだ?」



「あの子達を逃がすために僕がこうしてここにいるんですから」



 骸が唇を笑みの形にゆがめると、リッツィオは豪快に笑って椅子から立ち上がった。



「随分と肝が据わってんだなあ、俺は、そういう人間が好きなんだよ。こんだけ痛めつけられても何も言わねえ、自白剤もききやしねえなんてな! てめえの忠誠心には頭が下がるぜ」


「ありがとうございます」


「そう! そしてその慇懃無礼な態度! 虫酸が走るぜ!」



 高笑いをしたリッツィオは、で座っていた椅子の背もたれを掴んで持ち上げ、骸の頭めがけて叩きつけた。木製の椅子は砕けて壊れ、大きな衝撃で骸の身体が振り子のようにぎしりぎしりと部屋の中央を行ったり来たりする。顔の半分が熱くて熱くて、いったいどんなことになっているか分からないくらいだった。意識というものすべてが痛みによって塗り替えられてしまったかのように他のことが考えられない。意識を失いたいと思っても、そう思っているうちは無理だ。


 死ぬかもしれない。


 今までの人生のなかで一番の危機かもしれなかったが、骸の心は恐怖したりしなかった。


 生死など、六道の名を持つ骸には些末なことにすぎない。


 これ以上、痛みに耐えるよりは、死んでしまった方が楽だ。


 過去の経験上、死ぬまでにはもう少しかかりそうだと思いながら、骸は閉じてしまいそうな瞼を少しずつ持ち上げる。




「おっと、やりすぎたか? おーい、ロクドウ? まだ生きてるか?」


「……あいにくと……」




「そうそう。簡単に死んだりしちゃあ困るんだ。どうあっても、何にも言わねえんなら、仕方がねえ。ボンゴレが泣き叫ぶくらいにてめえをめちゃくちゃにして殺すしかねえなあ」


「――……ふふ、……くふふ……ふ……」


「ああ? なに、笑ってんだ?」



「……ボスが、僕のために、泣くなんて、素敵だと、思いまして、ね」



「ははは! ずいぶんと余裕だな? ここには誰も助けになんてこねえぞ? 数百人以上が屋敷をかためているし、武器だってよりどりみどりなんだ。それにここは防音で、いっさいの電波が届かないように出来てんだ。私のお楽しみ用の部屋だから、外にはいっさいの音がもれねえ。悲鳴もなんにも聞こえやしねえんだから、発信器や無線で助けを呼ぼうとしたって無駄だぜ?」



 リッツィオの手が骸の顎に触れる。

 嫌悪感にかられて首を振ろうにも、身体の自由がもうきかなかった。

 生暖かい男の指先が血に濡れた骸の頬をいやらしく下から上へと撫で上げる。


「なあ、ロクドウ。おまえはまだ若いんだし、死にたかあないだろう? ボンゴレを捨てて俺の配下に下れ。そうすれば金も地位も何もかも思いのままにしてやろう、おまえの美しい顔と怪物みたいな能力にはそれだけの価値がある! おまえも昔はそうとう悪かったんだろ? あんな理想論を振りかざして、良い子ちゃんを気取る馬鹿な若造に使われるよりゃあ、最高の仕事をおまえにくれてやれるぜ?」



 骸は笑う。

 馬鹿な男の言葉を心の底から嘲笑う。

 彼を裏切るくらいなら今生に未練などない。



 喉に絡まっている血なのか痰なのかよく分からないものを喉を鳴らして口にとどめ、それを目の前にいる男に吐き捨てる。よく見えない視界でも、リッツィオの顔に赤い飛沫が散ったのが分かって骸は満足して笑んだ。






「僕の、血に汚れて、呪われ、ろ」







 リッツィオはよりいっそう狂気じみた笑い声をあげ、サバイバルナイフを持つ右腕を振り上げる。ぼんやりとした視界のなかで、部屋の照明を反射させたナイフがぎらぎらと光っているのが分かる。



「ああ、残念だ。残念だよ、ムクロ・ロクドウ!!」



 リッツィオが振りかぶった右腕が振り下ろされ、骸の生命が終わろうとしていた――、

 刹那、

 耳がおかしくなるような爆音と共に室内がもうもうとした煙と埃でいっぱいになる。がらがらと大破した壁のコンクリート片が部屋の床を転がる。混乱したリッツィオが何かを叫んでいたがそんな声は骸には聞こえない。


 霞む視界の先――、埃が舞い上がる中に美しい炎の影を見たような気がして、骸は大きく目を見開いて視界を凝視した。



「うちの部下を返してもらいにきた」



 空中に煙る埃の中から、目にも鮮やかな真っ赤な炎を身にまとった青年が進み出てくる。 
 額から血を流し、頬に銃創を作り、――普段の彼が浮かべることのない、慈悲のない冷徹でいて荘厳たる「王」の顔をして――、沢田綱吉は両の手に赤とも橙とも黄色とも見えるような不思議な色合いの炎を宿して、血の臭気が濃い部屋に踏み行って来る。その背後から両手で拳銃を構えたランボがじりじりと進んでくる。


 舞い上がった埃で咳き込んだリッツィオは、握っていたナイフの切っ先を綱吉へと向ける。

「……貴様ッ、どうして――」

 綱吉はかるく右足を一歩前へ移動させて、体勢をわずかに低めてリッツィオを睨んだ。

 
「上はもう鎮圧した。抵抗するなら容赦しない」


 リッツィオの思考は一瞬だった。彼は手首をしならせるようにしてナイフを投げ――、それは的確なランボの狙撃によって撃ち落とされ――、スーツ下の胸元に差し入れた手で拳銃を引き抜こうとしたが、その行動は遅すぎる。一瞬で間合いをつめた綱吉の拳がリッツィオの側頭部に激しく叩き込まれた。まるで人形のようにリッツィオの身体は殴られた方向へ吹っ飛んでいき壁に激突してずるずると床に崩れ落ちた。



 綱吉はリッツィオが動かなくなったのを一瞥する。そのあとで、背後で拳銃を構えていたランボへ何か、二言三言告げた。ランボは素直に返事をして、部屋から走り出ていく。おそらくは病院の手配、もしくは同行して来たのかもしれないドクター・シャマルを呼びに行ったのかもしれなかった。


 綱吉くん。
 助けに来てくださったんですねえ。


 骸はそう言おうとしたが、喉は震えるように呼吸をするばかりで、声にはならなかった。


 綱吉は軽い動作で床を蹴って跳び、骸を繋いでいた鎖を右手で溶かし切った。支えを失った骸の身体を両腕で受け止め、綱吉はそうっと驚くほど優しい仕草で骸の身体を床のうえに横たえる。




「――骸ッ……、むくろ、ねえ、オレのこと、分かる? むくろ……っ」




 震えるように名を呼んで、綱吉は唇を引き結ぶ。その顔はもう「ドン・ボンゴレ」ではなく、「沢田綱吉」に戻っていた。両手に宿っていた炎も消えてはいたが、額や頬を彩る彼の流血が争いの痕を残してた。


 愛らしい顔に傷を作ってしまって勿体ない。そもそも何故、綱吉が骸の救出のために動く必要があったのだろうか。骸は自分自身の怪我を黙っていたせいで捕らえられる失態をおかしたので、敵に殺されたとしてもそれは至極当然のことのはずだ。それよりも守護者を、部下を助け出すためにドンが自ら動くことなど、他のファミリィから見れば異様なことに違いはない。
 もともと、綱吉がドンになったことで、ボンゴレは異様なファミリィだと揶揄されることが多かったが、今回の件でまた周囲が騒がしくなるだろう。


 綱吉の両腕に抱きかかえられ、なんとか見える左目で彼を見上げたまま、骸はぼんやりと様々なことを思考していた。

 骸が何も言わないので、綱吉は不安そうに顔に顔を近づけ、骸の目をのぞくような仕草をする。




「もしかして、目、見えてないの……?」




 骸は微笑する。
 言葉をつむごうと息を吸うのだが、結局は言葉にもならず、再び息を吐き出すことしかできない。身体の痛みはもう感じていない。あまりに酷すぎるので神経がまいってしまったのかもしれない。もしくは、もう――、死ぬのか。




 綱吉はますます不安そうな、いまにも泣きそうな顔をして骸の身体を強くかき抱いた。彼の腕が震えているのか。それとも骸の身体が震えているのか分からなかった。ただ綱吉が引きつれるように息を吸って、もう見えなくなりつつあった視界の先で嗚咽をあげて泣き出した気配がした。





「いまランボがシャマルを呼びに行ったし、すぐに応急手当をして病院に連れて行くから。骸。死ぬんじゃないぞ。オレ、おまえにこんなとこで、こんなことで、死んでなんか欲しくないんだから! 死ぬなよ! 死んだりしたら、絶対に許さないからな! なあ、聞いてんの!?」





 段々と激しくなっていく綱吉の声が骸の身体に響く。力強い彼の腕に抱かれながら、骸は意志と反して下りていく瞼に、確かな終わりを感じた。






「死ぬな! オレをおいてくのか!? オレを一人にすんの!? ねえ、骸! やめてよ! オレ、まだおまえに――、おまえに何にも返してやれてないのに! なんにもしてあげられてないのに! 死ぬな、死ぬんじゃない、こんなとこで死んでどうすんだよ!? 骸、骸ッ、目ぇとじるなよ! オレを見ろって! 骸ッ――オレを残して逝くつもりなのかっ……むくろっ……」






 悲痛な綱吉の叫びが落下するように遠のいて――、骸は現実世界から脱落した。