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重苦しい話が途切れてからすでに数分が経過しようとしている。
骸は所在なさげに執務室のなかに視線を彷徨わせながら、骸の唯一の君主たる彼が発言するのを待っているところだった。窓の外には、穏やかな太陽の光によってようやく明るさを得、きらめくような生き生きとした世界が広がりつつあった。外のはつらつとした明るさと、室内の重たい空気がやけに対照的に思えて、骸はひっそりと皮肉っぽく唇をゆがめる。
朝食を終えてすぐに執務室へと呼び出され、綱吉から聞かされた話は以前から不穏な動きをしているファミリィのことだった。九代目よりも以前に同盟を交わしたとされるとあるファミリィが、昨今、ボンゴレ内での暗黙の規定から逸脱しつつある傾向がみられていた。そのことで内々に調査をしてみると、やはり「襲撃やむなし」の判断を下すだけの材料がいくつも出てきた。
そうなると、ボスである綱吉の判断は一つしかない。
机を挟んだ向こう側の、豪奢な椅子に座っている君主は、じっと机のうえに広げられている資料を見ているようだたったが、その瞳は資料ではなくどこか遠くを見ているような雰囲気があった。
骸はそっと視線だけを動かして、部屋の壁際に配置されている豪奢すぎるサイドボードのうえにのった、これもまた綱吉の趣味ではないであろう――おそらくは元・家庭教師が好みそうな――アンティークの置き時計を見た。沈黙から五分が経過している。これ以上は時間の無駄だと思い、骸は用意していた言葉を口にした。
「――きれいにすべて皆殺しでよろしいんですね?」
綱吉は憂鬱そうに息を吐き出したあとで、顔を持ち上げてゆっくりと頷く。
「――うん、そうだね。もう彼等と交渉の余地はないし、我々も多少なりと打撃を受けつつあるし――。ひとまず本拠地を叩いてみて、あとは連中の出方次第で対応は変わってくると思うから臨機応変で。今回の任務は霧の部隊に一任するよ。――あと、朝のうちに連絡をいれておいたから、もうすぐ犬と千種が来るから。二人と一緒に行ってね」
「え? 犬も千種も別口の仕事があったんじゃありませんでしたか?」
「うん、まあね。あの人達にはわりと都合よくいろいろと動いてもらっているから――。でもそれはどうとでもできるから、他の人に頼むことにしたんだ」
「はあ。そうなんですか。……彼等にも彼等の都合があるでしょうに――」
骸が苦笑して呟くと、綱吉はそれまで強ばらせていた表情をゆるめて、机のうえに両肘をおいて背中を丸めるようにして身を乗り出した。
「骸と一緒に任務だなんて言ったら、二人の返事なんて聞かなくても分かるよ。絶対にイエスだもの。それに骸だって千種達と一緒の方が背中を任せやすいでしょう? ――とにかく、任務についてだけれども、相手もボンゴレの襲撃を予想している可能性もあるから、きちんと霧の部隊の人達も連れていってね? 自分一人で充分だ!なんて勝手に判断して一人でのこのこ襲いにいかないでよ?」
「はいはい……」
骸は執務机の横を歩いて、椅子に座っている綱吉の傍らに近づいていった。綱吉は机にひじをついていた姿勢をやめ、骸と向き合うように椅子を軋ませながら回転させた。
「本当に分かったの? 骸」
骸はにこにこと笑いながら愛らしい君主の右手を右手ですくいあげて、やんわりと握る。
「綱吉くんは心配性ですねえ。僕ひとりでだって平気だと思いますけれどね?」
「おまえはいっつも無理をするから、オレは心配なんだよ」
「おやまあ、僕はずいぶんとあなたに愛されているようですね! 嬉しいかぎりです」
彼の顔がくすぐったそうに赤くなるのを楽しみながら、骸は手に取った右手の甲へ唇をよせる。
「言ってろ……」
呆れるように嘆息した綱吉が、赤い顔のままで低くうめく。骸の大仰な仕草にも段々と慣れをみせている綱吉が骸は少し残念だった。以前は骸が触れるだけで赤くなっては、しどろもどろに言葉をつむいでいた彼も、手の甲にキスくらいではもう動揺することもない。ふむ、と一人で骸は頷いたあとで、――綱吉はうろんそうにじぃっと骸を観察するように見上げていた――、掴んでいる手をぎゅっと握って綱吉が逃げられないようにしてからにっこりと笑った。
「ねえ、綱吉くん」
「駄目だ」
「何にも言ってないじゃないですか」
「どうせろくでもないことに決まってる」
半眼のままでうめくように言った彼は骸に掴まれたままの手を引こうとしたが、骸はそれを許さなかった。椅子に座っている綱吉が立てないよう、覆い被さるようにして、骸は抵抗しようとした彼の顔に吐息がかかるほど顔を近づける。さすがに焦った彼が眉を寄せて顔を背ける。骸の目の前に髪に隠された彼の耳がある。耳へ触れんばかりに唇をよせ、骸はわざとらしくおさえた声で囁いた。
「キスをください」
「ほら、な……。ろくでもない」
「いいじゃないですか。戦場へ旅立つ兵士に祝福のひとつくらい!」
骸は両手で綱吉の頬をはさんで無理矢理に顔と顔を向き合わせて笑顔を浮かべる。
「はっ、なっ、せっ、……っ」
綱吉は頬に触れている骸の手首を掴んで外そうと試みているらしかったが、骸が構わずに綱吉の唇の脇を舌でなめあげたために、彼はヒィッと小さく悲鳴をあげて身をすくませてぎゅっと目を瞑る。
「絶対服従ッ」
裏返った綱吉の声に思わずクスリと笑って骸は双眸を細める。
目を瞑っている彼の唇に触れるだけのキスを落とす。
キスをされた綱吉は嘆息しながら閉じていた瞼を持ち上げる。骸は琥珀色の瞳と目をあわせ、幸せに満ちた表情で甘く囁きながら、綱吉の横髪を片手でかきあげる。指先にからむことのないやわらかい髪質が心地よかった。
「いつまでそんな言葉で僕の愛を防ぎきるつもりなんですか? いい加減、降参してくださいよ」
「うっ、……ほんとおまえってさ――」
「僕のすべてはあなたのものなんですよ? あなたが望めばこの身体のすべてを使ってあなたを満足させてあげられるのに……」
「ちょ、やめ――」
綱吉のこめかみにキスを落としながら、骸はスーツの上から彼の胸元あたりに手を這わせる。ぎょっとした綱吉が椅子から立ち上がろうとするのを、彼の膝の上に膝を載せて阻止して、なおも抵抗しようとする彼の唇を強引にふさぎ――、
かるいノック音が二回、
「失礼します」
静かな声と共に開かれたドアの影から柿本千種が顔をのぞかせる。
千種は綱吉を椅子に押さえつけて迫っている骸を目にすると、無言のままで開いたはずのドアを静かに閉めようとする。顔をしかめた綱吉は口の中にあった骸の舌を強めに噛んで、骸が思わず唇を離した瞬間、解放された口で素早く叫んだ。
「閉めなくていい、閉めなくていいから、千種! 入ってきて!」
微妙な間をあけたあと、千種は特に表情を変化させることなく、「失礼します」とマイペースに発言して入室した。その後ろから城島犬もひょっこりと姿を現す。千種はきっちりとブラックスーツに白いワイシャツ、ストライプの地味なネクタイを締めているだけのシンプルな服装で、黒いグラデーションがかった模様のキャスケットをかぶっていた。
逆に犬はブラックスーツは同じものでも、派手な色合いのシャツにノーネクタイ、首や手首、髪にもじゃらじゃらと装飾物をつけていた。二人が並んでいると同じスーツを着ているようには絶対に見えないだろう。
「すみません、骸様」
執務机の前まで歩いてきた千種は、申し訳なさそうな顔もせずにぼそぼそと言った。
「なにを謝るんです、千種」
「骸さん、目が、目が笑ってないびょん……」
犬が小さく囁くのを聞いて、綱吉は唾液で濡れたままの唇を親指のはらで拭いながら、非難がましく骸を見上げる。
「骸――おまえ……、こんなことぐらいで怒るなよ、大人げない奴だな」
不機嫌そうにしていた顔をすぐににやにやとした笑みにすりかえ、骸は横目で綱吉を見る。
「なにを馬鹿なことを。怒ってなんていませんよ? とまあ、冗談はさておき」
怪訝そうな綱吉の視線をまるきり無視して、彼の座っている椅子の背もたれに片腕をのせてもたれながら、骸は机の向こう側に並んで立っている千種と犬を眺めた。二人の顔を見るのは二週間ぶりほどだった。たいした怪我もなく過ごしていたらしく、これといった変わりはないように見える。すこしだけ千種の髪が伸びた程度だ。
「千種、犬。今回はよろしくお願いしますね」
「俺、また骸さんと暴れられるって聞いて、すんごい楽しみにしてたんれすよ!」
鈍い金色の髪をカラフルな髪留めで飾っている犬が、まるで子供のように顔をくしゃくしゃにして笑った。隣に立っている千種には相変わらず表情はないが、それでも彼が通常よりは上機嫌でいることが骸には分かった。
世界は「敵」か「それ以外」かでしかないものだと思っていた。
その例外を作り出した人間が一部屋に三人もいることに気がついて、骸は心の中でだけでひっそりと喜びをかみしめる。
彼らがいなければ、六道骸は「人間」として機能することなく朽ちて死んだだろう。
「なに、にやにやしてるんだよ」
綱吉の怪訝そうな問いかけで骸は思想の世界から現実に戻る。椅子に座ったままで見上げてきている綱吉の目を見つめて、骸は口を開く。
「襲撃は予定どおり、今夜零時に開始します。戦闘要員は僕、千種、犬、――それにそうですね、十五人から二十人くらいは連れて行きましょう。それならば、あなたも安心でしょう?」
「うん、そうだね……。よろしくお願いします」
そう言った綱吉は、少しだけ苦しそうな顔をして骸や千種たちに頭を下げた。本来ならばボスである彼が頭を下げる必要などない。ここに元・家庭教師で殺し屋の彼がいたらおそらくは頭をさげた綱吉のことを烈火のごとく怒っただろう。
マフィアには不似合いな誠実さを未だに抱え続けている彼の苦悩と絶望を、きっと骸が知ることはできない。骸のなかにはそもそも誠実というものがないのだ。だから綱吉が敵である相手を討ち取ることにさえ心を痛めたり、涙を流す行為がはっきり言って骸には理解ができない。敵に情けをかけることは、そう遠くない未来で必ず報復という形になって目の前に現れるのを知りながら、それでも他人を信じようとする姿勢は愚かでさえある。
しかし、彼がその愚かさで、敵であった骸自身を救いあげて虜にしてしまったことも紛れもない事実だ。
骸は数歩ほど綱吉から離れて立って、あらためて彼を眺める。
気が弱く優しい彼には似合いそうにない豪奢な椅子、そしてきらびやかで高価なものがところ狭しと置かれた室内――、そんなごてごてと飾られた屋敷を一歩外に出れば、彼は殺し合い騙し合う世界に君臨する孤高の王と化す。
骸の眼差しを受け、綱吉は不思議そうに瞬きをして骸の顔を見つめ返している。
人を想うという気持ちを嫌というほど理解させてくれた人間を瞳に映したまま、骸は右手を胸に添えてかるく一礼をする。
「わずらわしいダンスパーティはすべて我々下僕に任せて、あなたは立派な椅子に座ってこの世界に君臨していてください。――我が王よ」
骸の芝居がかった態度に吹き出した綱吉は、あごをひいて愛らしく双眸を細める。
「いってらっしゃい。オレの可愛い兵隊さんたち。美味しい紅茶とお菓子を用意してみんなの帰りを待っているよ」
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