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うるさくまとわりついてきた獄寺を昏倒させて教室に放置したまま、雲雀は二年の教室を出た。教室に侵入する前に聞こえていた会話から察すると次の場所は保健室だろう。馬鹿正直に保健室にいるという可能性は低かったが、確認しておく価値はある。
風紀委員のメンバーによる人払いは完璧で、校内に居残っている人間はいないようだった。無人の廊下を無言で歩いていると、世界には雲雀一人きりのような錯覚がした。
たった一人でいること。
それは雲雀が幼いころから感じてきた欲求をつきつめた結果だった。人と関わらなければ傷つかないですむ。暴力ですべてを従わせてしまえばいい。おかしな人間を演じていれば必要以上に近づいてくる人間はいなくなる。それらはすべて本当は弱い自分を護るための手段にすぎない。
弱さというものを知っているからこそ、雲雀は強さに異常なほどに焦がれた。だからこそ、雲雀は現在の強さを手に入れることが出来た。現在の雲雀は、幼い雲雀に比べれば理想的なほどの強さを手に入れた。中学では理想的な環境すら整った。
なにもかも上手くいっていた雲雀の前に、沢田綱吉という少年が現れた。
彼と関わるようになって、雲雀は自分自身が変革し始めているのを感じていた。
それは黒曜中学の連中――六道骸との戦いが終えたころには確信に変わっていた。
弱くて臆病ですぐに泣いたり笑ったりする『彼』に惹かれているのだという、自覚。
自覚をしてしまえば簡単なことだった。
雲雀はいつも通り、強引に綱吉のことを言葉と態度で絡め取った。彼は抵抗らしい抵抗もせずに雲雀を受け入れた。最初は身体を硬直させてばかりだったキスや抱擁も、綱吉は次第に甘受するようになった。綱吉の方からキスや抱擁があったことはなかったが、彼は元から臆病な性格だったので、緊張しているから出来ないのだろうと雲雀は考えていた。
綱吉も雲雀のことを好いてくれているのだと、雲雀は思っていた。
内藤ロンシャンがよけいなことを言うまでは――。
昨日のロンシャンの言葉が脳裏に思い出され、雲雀は無意識のままに舌打ちをした。目線の先には保健室のプレート――、雲雀はノックもなく保健室のドアの取っ手に手をかけてスライドさせた。
「お。来た来たー、おつかれー」
保健室の丸い椅子の上に座っていたのは山本武だった。彼は右手にバットをもったまま、左手を顔の横あたりで広げて、ひらひらと動かす。
「残念でした。ここにはツナはいねーよ」
「あそう」
雲雀が身を翻そうとした瞬間、山本は丸椅子を蹴るように立ち上がって、身体の前でバットを袈裟懸けに振った。空気を裂く音がした刹那、バットは美しい日本刀へと変化を遂げる。
「おいおい。そう簡単に行かせっと思ってんの?」
「邪魔するのなら容赦しないよ」」
雲雀が険しい顔でトンファーを構え直すと、山本は急に殺気を霧散させて握っていた日本刀の切っ先を床へと向ける。
「なーんてな。冗談だよ、冗談。――あのさ、雲雀はさ、いったい、何してんの?」
「見て分からないの? 狩りをしてるに決まってるでしょ?」
「うーん。あながち間違ってなさげだけど、違うんじゃねーの? そんなの、宣言してからするような人間じゃなかったろ、あんた」
「僕のことを知ってるような口ぶりはよして」
低く「うーん」と唸ったあとで、山本は丸い回転椅子に腰をおろした。日本刀を握っているが、雲雀を相手にする様子が山本にはない。それでも雲雀は決して油断せずに、山本の動きに注意して彼を眺めていた。
「雲雀さー、ツナになにかしたろ?」
「……………………」
「俺はさ、ツナのこと近くで見てるから分かんだ。あんた昨日、なにかしたろ? 今日のツナ、なんかおかしかったんだよな、朝からさ。――ロンシャンが休んでんのも、あんたの仕業なの?」
「知らない」
「なんか、あんたも様子おかしいよな?」
火花が散るような感覚に突き動かされるように、雲雀は右手のトンファーを振りかぶって近くにあった壁を殴りつけた。耳障りな音をたてて金属がコンクリートをえぐる。細かい破片が宙を飛び、腕がじんわりと痺れる。
「決めつけないでくれない? 不愉快だよ」
「あーあ……。まったく、穏やかじゃねーな。雲雀は。でもまあ、穏やかな雲雀ってのは、想像つかないけどなー」
呑気に笑う山本にいつまでもつきあってはいられない。雲雀は一歩踏み出して、椅子に座っている山本を厳しく睨め付けた。
「あの子はどこ?」
無防備な様子で椅子に座って刀の切っ先を床に向けたまま、山本はにやりと笑った。
「教えると思ってんの?」
「言いたくなるようにしてあげる」
「体育館にいるよ」
あっさりと言って、山本は右手から左手へ刀を持ち替える。瞬間、刀は元のバットに戻った。綱吉が本当に体育館にいる可能性よりも、それが罠だという可能性の方が高い。雲雀が体育館に向かっている間に校外へ脱出するのかもしれない。
綱吉が校外へ脱出ことが出来るのならば雲雀は『罠にかかるべき』だった。
雲雀が黙り込んでしまったので、山本は肩をわずかに持ち上げて首をかしげる。
「嘘じゃねーよ。笹川の兄貴と一緒にいるはずだ」
「どうして逃げないの?」
「なんだ。雲雀はツナに逃げて欲しいのか?」
逃げて。
欲しい。
綱吉が本当に雲雀のことが怖いのならば。
雲雀の手の届かないところまで逃げればいい。
そして『二度と近づかないでください』と願えばいい。
そうなれば、雲雀はようやく、沢田綱吉のことを切り捨てることができる。
今まで雲雀は、いつもいつも、自ら様々なものを断ち切ってきた。相手の都合など考えたことはない。だが、綱吉に関してだけは例外だった。どんなに嫌で、どんなに苛立っても、雲雀は綱吉のことを自ら断ち切ることができなかった。臆病で弱虫で優しい彼の、深い情と愛らしい笑みを知ってしまった。忘れることができなかった。
綱吉が雲雀と共にいるのが嫌ならば、雲雀は身を引くつもりだ。沢田綱吉に関わる事柄について考えていると、雲雀自身にもよく分からない感情に突き動かされてしまいがちだった。雲雀はそれが許せなかった。己が弱くなったような気がして許せなかった。
だがしかし、綱吉が悲しんだり、苦しんだりすることのほうが、己のプライドが傷つけられるよりも辛く許せないことだった。
雲雀はもれそうになった溜息をこらえるように唇を引き結ぶ。
「一緒に行ってもいいぜ? もしもいなかったら、俺のこと好きなだけ殴ればいいだろ?」
山本がよくとおる声で言う言葉で、雲雀は思考から戻った。真摯な顔つきで山本は雲雀を見つめている。山本が何を考えているのか雲雀には読めない。彼の思考はとても複雑に入り組んでいる。本心など深層に隠されていて、他人の目になど触れない場所にあるようだった。それはリボーンと相対している時にも感じる――奇妙な感覚だった。
「どうして君がそこまでするわけ?」
山本は無表情のままでいる雲雀に対して、人懐っこい笑みを浮かべる。
「うーん。これはさ、俺なりの、罠ってやつだよ。雲雀がやってんのが狩りなら、俺は撒き餌、ツナは囮の餌ってわけ。……っていうか、ツナはさ、逃げるよか、あんたと話がしたいって、そう言ってたぜ? 昨日、なにがあったのかは教えてくんなかったけどさ、……雲雀はツナと会話をした方がいいと思うぜ? ほら。人間って、分かってもらいたいときって、言葉にしねーと駄目だろ? 雲雀がなに考えてんのかはツナには分からねーし、ツナがなに考えてんのかは雲雀にも分からねー訳だしさ」
「…………………………」
「雲雀はさ、本当はツナに逃げて欲しかったん? っていうか、あれか。ツナに勝って欲しかったとか、そういうこと?」
雲雀が言葉もなく、深く静かに激情をこめて山本を睨み付ける。――と、彼は「わりぃ」と小さく謝罪の言葉を口にして眉間にしわをつくった。そして肩を落とすように息を吐き出して、苦笑いを浮かべる。
「なんか、ほんと、今日の雲雀、雲雀じゃねーみてー。くるくる表情変わってさ」
自分のペースを崩さない山本と会話をしていても、雲雀には得るものはない。丸椅子に腰掛けて笑う彼と向き合うのをやめて保健室の扉へと歩き出す。
「お。行くのか? ついてったほうがいい?」
「ついて来なくていい」
ドアの辺りで雲雀は室内へ振り返る。
山本は丸椅子から立ち上がっていた。
「あ、そ。――あっ、獄寺はどーしたんだ? 教室にいんの?」
「鬱陶しいから昏倒させておいた」
「ははっ。容赦ねーな。わかった。獄寺のことは心配すんな。俺が始末つけといてやるよ」
「それって、始末をつけるじゃなくて、面倒をみておく、の間違いなんじゃないの?」
「お。雲雀につっこまれちまったな。あはは」
「……君って、ほんとに喰えない奴だよね」
微笑のなかに、甘い毒を含ませるようにして笑い、山本は双眸を細める。
「俺は喰われるより、喰らいたい方の人種だからなー。あんたと一緒で」
「一緒にしないで。気色悪い」
「そうそう。雲雀はそういう方が雲雀らしくていいよなー」
山本武の戯言を無視して、雲雀は室内に背を向けて廊下へ一歩を踏み出す。背後でスライドドアが閉まる気配がした。
向かうは――、体育館。
そこに『鍵』がある。
雲雀の世界を閉ざすための『鍵』が、待っている。
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