校舎の裏手に回ってみると、そこに人影はなかった。見失ったのかと綱吉が落胆した瞬間、等間隔に植えられたたくさんの樹木のうちのひとつの枝ががさりと動いた。淡い期待をしながら綱吉は枝が動いた樹木に駆け寄っていく。

 案の定、枝のうえに雲雀が立っていた。
 枝の位置はかなり高く、綱吉は顔を上向かせて彼を見上げる。


「雲雀さん」


 すでに綱吉の気配を感じていたのか、雲雀は特に驚いた様子もなく、上向かせていた顔を下へ向ける。木々の枝の合間をぬって降り注ぐ日差しが雲雀の頭上から降り注いでいる。ゆっくりと吹いている風で、彼の肩にかかっている学生服がひらひらと揺れていた。


「こんにちわっ」

「こんにちは」

「なに、してるんですか?」

「巣箱」

「え」

「巣箱が傾いてたから直してた」

 雲雀は視線で樹木の幹に取り付けられた巣箱を指し示した。巣箱はそこらへんのホームセンターで売っているような代物ではなく、手作りされたもののように見える。巣箱の出入り口には鳥が運んできたのか小枝がはみ出していた。

 雲雀は片手を伸ばして巣箱ががたつかないのを確認したあと、枝の上でしゃがみ込み、そのまま五メートル近い場所から地面へ飛び降りた。ぎょっとした綱吉が息を呑んだ目の前で、雲雀はなんの問題もなく着地を成功させた。

 止まってしまっていた呼吸を再開した綱吉を見て、雲雀は口元だけをゆがめて笑った。一瞬の微笑。それだけで綱吉は胸が高鳴るのを感じる。
 雲雀は普段、不特定多数の前では絶対に見せない顔を、綱吉だけに見せてくれるようになった。あまりにも嬉しくて、自分だけの秘密にしたくて、綱吉はその事実を獄寺にも山本にも話していていない。もちろん、リボーンにも話していない。

 綱吉は木にくくりつけられている巣箱を指さして、彼に問うた。

「もしかして、あの巣箱って雲雀さんの手作りですか?」

「そうだよ」

「すごいなあ。器用なんですね、雲雀さん」

「そーだねー、器用だねー、ね、沢田ちゃん」

「うぇ、えっ?」

 突然にかけられた声音に綱吉は息がつまって咳き込んでしまった。振り向いてみれば、数メートル後ろからゆっくりとロンシャンが近づいてくるところだった。雲雀の様子をうかがうと、彼は今し方ロンシャンの存在に気がついたかのように顔をしかめ――普段の彼ならば絶対に気がつくであろうことなのに――、一瞬で敵意という膜をまとった。

「なんだよー、沢田ちゃん。用事って、この人との用事だったワケェ?」

「ろ、ん、しゃん!」

「君、誰?」

「内藤ロンシャンでっす! 沢田ちゃんとはらぶらぶな仲なんどぅえす!」

「――ふぅん?」

 綱吉は瞬時に生まれた殺気を超直感で察知し、ロンシャンのシャツを掴んで思い切り引っ張った。雲雀のトンファーが風を切ってロンシャンが元いた場所へ振り下ろされる。まるで獣が唸るような音を立てて振り下ろされた武器の勢いに、綱吉はロンシャンのシャツを両手で掴んだままで首を振る。

「ほ、本気、は、やばい、です、雲雀さんッ」

 呻くように言う綱吉を無視して、雲雀は二撃目をロンシャンの脇腹めがけて凪ぐ。綱吉にシャツを掴まれたままだったロンシャンは片腕を綱吉の背中に回すと、綱吉を起点としてぐるりと百八十度移動する。普段のロンシャンからは想像が出来ないほどの身のこなしに、綱吉は想わず彼の顔を見上げてしまった。
 ロンシャンは綱吉と目が合うと得意げに笑って、双眸を細める。

 まさか二撃目をもかわされると思っていなかった雲雀は、舌打ちをしてトンファーを構え直した。ロンシャンは綱吉の側に寄りそうように立ってる。おそらく綱吉とロンシャンが密着しているため、雲雀はがむしゃらに殴りかかるのをやめたのだろう。ロンシャンを睨め付ける雲雀の瞳は冷たい熱をもっているように攻撃的だ。だというのに、ロンシャンは雲雀を恐れることもなく、にぃっと口元をゆるめて笑った。


「ざーんねーん。オレってば、これでも一組織のボスだしぃ、たかだか街ひとつ仕切ってる人間にやられる訳にはいかねーってのぉ」

「……ロンシャン?」

「んー? なになに? 沢田ちゃん、本気のオレに惚れちゃいそう?」

 一瞬で雲雀の殺気の濃度が増す。綱吉はまとわりついてくるロンシャンを押しのけ、とっさに両手をつきだして、雲雀を制止した。

「す、とっぷです! 雲雀さん! もう、ロンシャン、帰れって……!!」

「んー、ヤだ。オレ、イインチョーに言いたいことあんだよね。――イインチョーはさー、ずっこいと思うんだよねー。沢田ちゃんはさ、流されやすい子なのよ。だからあんたみたいなさ、強烈なインパクトの人間からアプローチされたら、恐怖と恋情がごっちゃになっちゃうような子なの。――そんな沢田ちゃんのことをさー、手に入れたなんて浮かれてんのって、どーかと思うんだよねぇ」

「綱吉」

「はっ、い」

「君、僕のことが怖いの?」

 両手にトンファーを握ったまま、雲雀が抑揚のない声音で問いかけてきた。綱吉は言葉に詰まった。怖くない、とは言えない。以前よりは随分と怖いと感じなくなったとはいえ、ふいに雲雀が見せる暴力的な面を受け入れるには、綱吉は雲雀のことを理解してはいなかった。

 綱吉が「いいえ」とすぐに言わなかったことに驚いたように、雲雀のまつげが震える。まずいと思った綱吉が口を開こうとした瞬間、雲雀はトンファー構え、綱吉めがけて振り上げようとした。殴られる!と思った綱吉は反射的に両腕を身体の全面で交差させて防御の態勢をとって歯を食いしばった。

 ――が、衝撃はいつになっても訪れなかった。

 おそるおそる目を開いてみれば。

「――あ……」

 雲雀はトンファーを構えただけで、そこから先、動いていなかった。

 綱吉の態度が予想外だったのか、雲雀は驚いた顔のままで、呆然としていた。そして綱吉も、呆然としている雲雀の顔から視線を外せずに立ちつくしていた。


「一方的に殴られた記憶ってのはね、消えないんだよ、イインチョー」


 歌うように喋るロンシャンの声音が、停止していた二人の時間を動かし始める。

 綱吉と雲雀はほぼ同時にロンシャンへと視線を向ける。

 ロンシャンは綱吉を見ずに雲雀を見た。

「ねえ、イインチョー」

 彼は普段のにやついた表情とは相容れぬ、
 鈍く光る刃物のような雰囲気を目元へ浮かべる。

「恐怖を振りかざしていったい何を手に入れるつもり?」

 周囲の温度が一瞬で冷えて凍ったような錯覚。
 雲雀がロンシャンを殴り殺してしまう。
 綱吉は瞼の裏にうつった未来の映像に戦慄し、

「雲雀さん!」

 片腕を振り上げた雲雀の身体に抱きつくようにして体当たりをした。骨と骨がぶつかる鈍い音がして雲雀は停止する。綱吉は背中に回した両手で雲雀がはおっている学生服を強く掴んだ。雲雀は綱吉の腕を振り解かなかった。抱きついたままで雲雀を見上げてみると、彼は何の感情も宿していないかのような澄んだ瞳で綱吉を見下ろしていた。そこには怒りも驚きも戸惑いもない。すべての感情のゆらぎを遮断したかのような、意志のない硝子玉のような瞳があった。

「雲雀さん……」

 名を呼んでも彼は反応しない。
 綱吉の視線と視線を絡めたままで、雲雀はトンファーを握っていた両腕を身体の脇へゆっくりと降ろしてゆく。
 武器をおろした彼がもうロンシャンに襲いかかることはないだろうと思い、綱吉は腕をといて雲雀から離れた。視線はつながったままだが、綱吉は雲雀が何を考えているのか分からなかった。綱吉が息を吸い込んで言葉をつむぐ前に、ロンシャンが片手を顔の当たりまで持ち上げて左右に振った。

「沢田ちゃん」

 ロンシャンが歌うように綱吉の名を呼ぶ。
 彼は右手の人差し指でこめかみあたりを指し示し、右目を細める。

「沢田ちゃん。よおく、考えてみなよ。沢田ちゃんは本当にイインチョーのこと好きなの? 流されてないって言えるの? 痛いのが嫌だから、怖いの嫌だから、思いこもうとしてるだけじゃあないの?」

 綱吉はとっさに雲雀の様子をうかがった。雲雀はロンシャンのことも綱吉のことも見ていなかった。視界に綱吉達が入ることすら気に入らないのか、雲雀は目を閉じて顔を背けていた。


「不愉快。消えて」

 ロンシャンは短く息を吐き出して肩をすくめる。
 次の瞬間には、彼は人懐っこい笑みを浮かべて片目を閉じた。

「バイバーイ。沢田ちゃん。また明日ねー」

 陽気な声でそう言ったロンシャンは、手を振りながら去っていった。綱吉は手を振りかえすこともできず、呆然と彼を見送った。

 視界の隅で黒い影がゆらりと動く。綱吉は一瞬だけ驚いて身をすくませたが、影の正体が雲雀だったので慌てて彼の側に近寄った。

「雲雀さん。ロンシャンの言う事なんて、気にしないでくださいね。オレは雲雀さんのこと――」

 綱吉が雲雀の腕に触れようと両手を伸ばした刹那、雲雀は腕を振り上げて綱吉を睨んだ。

「ひっ……」

 過去の経験を忘れることが出来ない綱吉は反射的に身をすくませて目をつむる。しかし、なんの衝撃も訪れない。目を開いてみると、雲雀の瞳と瞳が合う。彼は苛立ったように眉を寄せ、振り上げた腕を降ろして背を向けて歩き出した。

「雲雀さん」

「消えて」

「え」

「君も僕の前から消えて」

 雲雀の歩幅に合わせるように、綱吉は早足で彼の背中を追いかける。雲雀は振り向かない。以前の雲雀恭弥ならば、なんらおかしくもない一方的な拒絶の態度に、綱吉の胸は嫌なくらいに軋み出す。雲雀に触れて、雲雀が微笑んで、雲雀とキスをして――、十日間ほどの間になくなってしまった距離があっという間に開いていく恐怖に綱吉は息を呑む。

「ご、ごめんなさい」

 焦燥にかられて口から出た言葉は、何が悪いのか分かっていないままに吐き出されものだった。混乱した綱吉は手を伸ばして、雲雀の肩にかけられた上着の裾を掴もうとした。

「――消えて」

 冷徹と言っていいほどに硬質な声音に綱吉の手は止まる。指先が触れそうになった学生服の裾がひらめいて遠くなっていくのを、綱吉は立ち止まって見送る。

「……さようなら。雲雀さん」

 小さく呟いた綱吉の言葉が届く前に、雲雀は校舎の角を曲がった。

 雲雀は一度も振り向くことなく行ってしまった。


 ロンシャンの言葉の意味も、雲雀の態度の意味も、綱吉にはまだ消化しきれないでいた。確かに雲雀のことが怖くないとは言えない。彼は時たま、ひどく暴力的だし、興味のない対象には非情かつ不遜な態度を貫き通す。綱吉は元々、雲雀のような人間は苦手で、生きていくうえで迂回したい人物といってもおかしくない。自ら近づいていこうとは思わない対象だ。

 けれど綱吉は雲雀に惹かれていた。
 それが恐怖のせいだと言われると、そんなような気もする。が、それだけではないと頭のすみで呟くもう一人の自分がいた。

 雲雀は強い。たった独りであろうとも、そのことを嘆くことも恐れることもせず、決して何者にも揺るがない『もの』がある。

 綱吉はそんな雲雀の強さにひどく憧がれていた。

 恐ろしくもあるし。
 憧れの対象でもあって。
 雲雀に特別扱いをされているととても嬉しかった。
 彼が綱吉だけに見せる淡い表情を見るのがとても至福だった。

 耳に残る雲雀の冷たい声を思い出して、綱吉は俯いて目を閉じる。

 一色の感情ではなく、まるでグラデーションのようにあやふやな、自身の感情の揺らぎに悩みながら、綱吉は眉間にしわを寄せる。


「……雲雀さん……」


 軋む胸を片手でおさえながら、綱吉は校舎裏でしばらく立ちつくしていた。