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豪華な部屋には似合わない、わざと用意されたような固く古ぼけた椅子に座らされたまま、綱吉は視線だけを動かした。黒とゴールドが基調とされた室内の応接セットはセンスがよく、なおかつ高級感が漂っており、部屋の居心地はよさそうだった。
綱吉が座っているのが、目の前にある高級そうなソファだったら、さぞかしリラックスできたことだろう。綱吉が足を伸ばせば届くような位置にある、素敵なソファには痩せた顔に赤いレンズのサングラスをかけた男が座っている。年のころはちょうど綱吉の倍くらいで、短いプラチナブロンドの毛先をワックスで四方へ散らしている。赤いレンズのサングラスのせいで、男の顔色があまりよくないのがはっきりと見てとれる。
赤いサングラスの男が座っているソファのうしろには三人の男が立っていた。部屋の出入り口に二人、そして窓際には四人の男が立っている。いくら広いといえど、一部屋に綱吉を含めて十人以上の人間がいるので、やけに室内の密度が高いように感じられた。
綱吉が座っているのは、木で作られた粗末な椅子で、なおかつ後ろ手に頑丈な手錠を五つもかけられ――おかげで腕がひどく重い――、足にも三つ枷がつけられていた。気を失った振りをして『骸の人形』によって、目的の相手の屋敷に運び込まれたときにはこれほどに頑丈な拘束ではなかったのだが、いつの間にか増えてしまっていた。それでも、綱吉が本気を出してしまえば、手錠の五つくらいは簡単に焼け落ちてしまうので、特に危機感を感じることはなかった。
危機感があるとすれば、それは屋敷の外で待機しているであろう、霧の部隊と雲の部隊が、なにかをきっかけに騒ぎを起こすことだけだった。昨夜も最終確認のために骸と綱吉が会話をしている間、部屋の隅に雲雀が立っていた。彼は発言することはなく、じっとただ、二人が会話しているのを聞いているだけだった。その瞳の冷酷さを思い出して、綱吉は胸の奥が痛むのを感じた。
ノックのあとで部屋の入り口のドアが開き、背の低い男が一人入ってきた。彼もまた事前に写真で顔を確認してある「骸の人形」の一人だ。ソファにふんぞり返るようにして座っていたサングラスの男の側へ、背の低い男が近寄っていき、何かを耳打ちする。
赤いサングラスの男は歯を見せるようにして笑い、膝のうえに両腕をおいて、背中を丸めるようにして綱吉を上目遣いに見た。
「連絡がついたぜ。明日の朝に入金してくれるそうだ」
「そうですか……」
「はあん? 戦神だと崇められていた人間とは思えない、しおらしさだな」
「こうなってしまうと、仕方がないんですよ」
綱吉が手錠だらけの腕を揺らすとじゃらりと音をたてた。男は前のめりになっていた身体を反らすようにして、ソファにどっかりと背中を預け、値踏みするように綱吉をじろじろと眺める。品定めの視線――それは綱吉がボスとなった日から何百、何千という人間が綱吉に注いできた視線だった。
綱吉は、なるべく怯えているように、恐怖しているように、表情や仕草に気を配りながら男をちらちらと見かえした。涙すらも自在に操れるように家庭教師に仕込まれたおかげで、演技の幅は広くなったともいえる。綱吉は〈殺されそうになっているボス〉という役名を演じるために、震えるように息を吐いて、潤んだ目を男に向ける。
「そのわりにずいぶんと余裕だな。殺されないとでも思ってんのか?」
「オレが生きている限り、ボンゴレは金を出しますから――。それならば、オレを生かしておいたほうがそちらも得るものが大きいんじゃありませんか?」
「おまえを助けに守護者たちがくるんじゃあないのか?」
それはそうでしょうけれど、と言ったあとで、綱吉は首を振る。
「オレを盾にされたら、彼らは手出しできないと思いますよ。……お願いです、オレ、まだ死にたくないんです……、殺すのだけは勘弁してくれませんか? あなたのどんな要求もオレが受けますから。なんでも言ってください」
「要求、要求ね。あんたの拘束を解いたら、野生のライオンみたいに襲ってきそうだしな。このまま殺しちまったほうが、俺達のような人間にはいいんじゃねえかなあ」
言うが早く、男は懐から大きな拳銃を取り出して綱吉へ向ける。さすがにぞわりと恐怖感がわいて、綱吉は表情をかためてしまった。まだ何も聞き出していないというのに拘束を解いて抵抗してしまっては、今回の偽装拉致の意味がなくなってしまう。
「お、おっ、お願いです、殺さないでください、オレ、まだ死にたくないんです……ッ」
「すみません。ボス、――発言してもよろしいでしょうか?」
綱吉の必死の懇願を遮るように、ソファの後ろに立っていたワインレッドのシャツを着た男――事前に目を通した資料によると彼は男の右腕とも言える人物らしかった――が右手をあげる。彼もまた〈骸の人形〉だ。
「なんだ?」
振り向きもせずに男は背後に問うた。ワインレッドのシャツの男は、腰を曲げて男の顔の近くに顔を寄せ、小さく囁いた。
「ボンゴレが利用できるのならば、利用したほうが得策です。このまま生かして利用するだけ利用して、それから殺せばいいのではないでしょうか?」
「……ああ、そうだな」
嘲笑するように笑ったソファの男は、ためらうことなく、発言をした己の部下の眉間めがけて拳銃をつきつける。そして空いていたもう一方の手を腰の後ろへ回し、大振りのサバイバルナイフ取り出して、その切っ先を綱吉へと向ける。室内の空気が目に見えるように動揺して揺れるのを綱吉は肌で感じた。
「ボス? なにを――」
片手に拳銃、片手にサバイバルナイフを握ったまま、サングラスの男は室内の人間を見回したあとで、獰猛な獣のように舌で唇を舐めた。
「ボンゴレの守護者のなかには、『他人を操ること』が出来る奴がいるそうじゃねえか? ええ? この場にいる奴らのなかに操られてるやつがいねえとは限らねえ。おまえら、みんな手持ちの武器、全部こっちに投げてよこせ」
素早い動作でソファから立ち上がったサングラスの男は、綱吉の傍らに立つと、ナイフの切っ先を綱吉の首筋にあてがった。切れ味の鋭いナイフと皮膚がこすれ、浅い傷ができて痛みがはしる。抵抗すると逆効果だと思い、綱吉は体を動かさないように気をつけながら、そっと息を吐き出した。
綱吉は一瞬だけ室内に視線をはしらせる。室内にいる〈骸の人形〉は四名だけだ。彼等の五感をとおして、おそらく現状は骸へと伝わっている。ここで下手に動けば、男のナイフが綱吉の首を貫き、血を溢れさせるだけだ。
「変な動きをしたらこいつの首を切り落とすぞ……、『守護者』! さあ、てめえら、みんな武器をおいて、この部屋を出ていけ!」
一人、また一人と装備していた武器をサングラスの男の足下へ置きながら、男達は退室していく。〈骸の人形〉たちも同様にして出ていったことに、綱吉は内心安堵した。ここで下手に動かれては、綱吉の生命に危機がおよぶ恐れがある。首筋に当てられたナイフの存在が嫌でも強く感じられ、嫌な汗が肌のうえを伝う。
すべての部下が退室するのを見届けたサングラスの男は、握っていた拳銃を懐のホルスターにしまい、左手に持っていたナイフを右手に持ち替えた。そして、ナイフの切っ先を綱吉の眉間につきつけ、ニヤニヤと笑った。
「さて。これでもあんたは、くだらない芝居みたいな命乞いをするのかい、おぼっちゃん?」
「なんの、ことだか……」
「おぼっちゃん。あまり我々を馬鹿にしないでいただきたいねえ。確かにボンゴレはあんたにならいくらだって金を積むだろうよ。でもなあ、なにも五体満足で取引しなくてもいいんじゃねえかい? え? あんたの指の一本くらい、耳のひとつくらい、切り落としたほうが、いい交渉材料になるんじゃねえか?」
ゆっくりと綱吉の背後に回った男は、身をかがめて綱吉の耳元に顔を寄せる。
「右手と左手。どっちがいい?」
冷たく固いものが拘束された綱吉のてのひらに触れる。すぐにそれがナイフだと分かって、綱吉は指先に緊張をはしらせる。まだ何も肝心なことは聞き出してはいない。しかし、ここで抵抗しなければ、指を切り落とされてしまうかも知れない。どちらを選んでもどちらかが不利益を被る状態に綱吉の思考は停止してしまった。
「言わねーのなら、俺が決めちまうぞ」
「……ひっ、や、やめて、ください――、お願いしますッ……」
半分は演技、半分は本音だった。怯えた綱吉を声を立てて嘲笑い、男はゆっくりと歩いて再び綱吉の前へと立った。ナイフの面で綱吉の頬をかるく叩いたあと、男は震える綱吉のあごを片手で掴んで乱暴に上向かせた。
「なあ、お坊ちゃん。綺麗事ばっかりじゃあ世界は動かねえんだぜ? 薬の売買で利益を得て、暮らしてる家族だっているんだ。あんたはそういう人間たちの生活を全部駄目にしちまうんだぜ? なあ、それは悪じゃあねえのか?」
「……小学校に通う子供にまで、クスリをながすのは、悪じゃないんですか?」
「悪? そんな呼び方になんの意味がある? 馬鹿なガキはいい、馬鹿な親とセットだからな。支払いがよくって助かってんだ」
愉快そうに男が笑った瞬間、どこかで銃声が鳴り響いた。びくっと肩を震わせて男は部屋の入り口を見たが、ドアに変化はない。銃声が鳴ったのは部屋からは遠い場所だ。それでもなにやら騒ぎになっているらしい喧噪が遠くから聞こえてくる。綱吉は諦めるように目を閉じる。おそらくはボンゴレの部隊が動き出したのだ。ぎりぎりで証言を聞き出せたことを綱吉は静かに安堵する。これで決断することができる。
刹那、綱吉は右の太股に激しい痛みを感じて目を見開いた。目に映ったのは足に深々と刺さるサバイバルナイフ、そして憎悪に歪んだ男の顔だった。
「やっぱり、害虫を潜ませてたんだな!! クソガキめ!!」
男は唸るように言って突き刺したナイフを動かす。傷口がさらに広がって綱吉は思わず痛みに負けて絶叫してしまった。加虐の愉しみに酔うように男は目をつり上げて、悲鳴を上げ続けている綱吉の耳に呪詛のように暗い声を注いだ。
「せいぜい苦しみな、お坊ちゃん。この世界で綺麗事を並べるつもりなら、警察官にでもなればよかったんじゃねえか?」
痛みでくらくらとする頭を必死に正常に戻そうと綱吉は大きく深呼吸をした。気が狂うほどの痛みに耐えることすら冷酷な家庭教師はやってみせろと言って笑った。そのことを思い出す。耐えろ。耐えろ。耐えろ。痛んでいるうちは生きているのだから、やるべきことをしなくてはならない。
綱吉は、己の背後にいる何千もの運命を思って、目を開く。
綱吉の目から怯えや恐怖が消えたことを悟ったのか、男が怪訝そうに顔をしかめる。
「ええ。オレもそう思います。でも、オレの――」
額に意志を集中させる。強い、何よりも強い意志――運命を呪った日と同じく、運命を受け入れたあの日の決意を胸に、両手と額に炎を宿す。
強烈な炎の光に眩んで、男はよろめくように後退した。綱吉の腕を拘束していた幾つもの手錠が炎の熱に負けて溶け落ちていく。それでも着ているスーツが燃え落ちないのは、ひとえに綱吉の炎の制御によるものだ。
自由になった両手を広げ、綱吉は微笑んだ。
「オレの血がそれを許さないでしょう」
右手で足を拘束している手錠を外して立ち上がる。太股の激痛にはなるべく気が付かないふりをした。いまにも倒れそうだとは思いながらも、微塵もそんな気配を面に出さずに綱吉は男を見た。
「て、めえ! 死ね! 死ねえぇええええぇ!」
男が拳銃を取り出して連続して引き金を引く。綱吉は右腕を身体の前にかざし、炎のボリュームを上げる。銃弾は綱吉の身体に届く前に炎のなかで溶けて消える。全弾を撃ち尽くした男は、かしゃんかしゃんと弾のなくなった拳銃の引き金を引き続けている。綱吉は右足を引きずるようにして絨毯のうえに座り込んだままの男へゆっくりと近づいていく。
「クソッ、……クソッ……!」
男はとっさに己の近くに山積みなっていた部下達の拳銃に気が付いて手を伸ばす――が、そのころにはもう遅い。綱吉の右手が男の額を掴んだ。男は息をのんで目を見開く。もう一方の手で男の肩を掴む。銃声の音や罵声が段々と部屋に近づいてくる気配がした。男もそれに気が付いたのか、さらに絶望したかのように暗い目で綱吉を見上げる。
「すみません。うちの守護者は有能なもので、おたくのボディガードがここへ戻ってくることはないでしょう。――それと、申し訳ありませんが、これ以上、子供にクスリを与えないためにも、あなたにはここで消えていただくことになります……」
「偽善者め! いつかその偽善のせいでてめえはいい死に方しねえだろうよ!!」
呪うように男が吐き捨て、両手で額を掴んでいる綱吉の手首に強く握った。
「――ははは、先に地獄で待ってるぜ、おぼっちゃん!」
嘲るように言って男は狂ったように笑い出す。
「さようなら」
囁いて、綱吉は男の首を折った。骨が壊れる音と確かな手応えを感じ、綱吉は目を閉じる。男の笑い声がぴたりと止んで、部屋の外の喧噪だけが変わらずに続いていた。
死んだ男の身体をそっと絨毯に横たえて、綱吉は炎を沈静させる。途端、今まで意識しないようにしていた太股の激痛が綱吉の神経を突き抜けていく。まだ足にはナイフが突き刺さったままだ。下手に動かせば傷口が広がるし、いまは無事な血管を傷つける恐れがある。怪我に関しては素人の綱吉がどうにかするよりも、このままナイフを突き刺したままでドクター・シャマルに看てもらったほうがいいだろうと思い、綱吉は痛む右足を引きずりながら、先ほど朽ち果てた男が座っていた高級そうな黒革のソファにぎこちなく腰を下ろした。思っていたとおりの抜群の座り心地も、怪我さえしていなければ充分に堪能できていたに違いないと思いながら、綱吉は長く息を吐き出した。
スーツの内ポケットから密閉された小さなビニールの袋をつまんで取り出す。袋の中には白いタブレットが三つ入っている。以前、シャマルからもらった即効性の鎮痛剤だ。震える手でビニール袋からタブレットを取りだして、口の中に入れる。奥歯で噛み砕いて咀嚼する。水がないので妙な味が口の中に広がったままになるが、痛みが薄れるのならば我慢ができそうだった。
嫌な脂汗が額から頬を伝って顎先へ滑り落ちていく。命に別状はないにせよ、しばらくは松葉杖が必要かも知れないとぼんやりと思いながら天井を見上げていると――。
部屋の外の喧噪がやんでいることに綱吉は気が付いた。視線をドアに向けて綱吉は待った。いったいどちらがドアを開けてやってくるのかを想像して、それぞれにかける言葉を考えてしばらく待った。
数分もたたないうちに、ドアが勢いよく開いた。そこから室内に入ってきたのは、きつい美貌を返り血に染めた雲雀恭弥だった。両手に握ったトンファーも赤く染まり、ぬらぬらとにぶく光っていた。黒いスーツに白いシャツ、ネクタイも黒――まるで喪服だと山本が笑いながら言っていたのを思い出す。雲雀は他の守護者とは違い、いつもその喪服のような格好を好んでいた。それは昔、学生服に固執していたのと同じ理由からだと綱吉は思う。彼の執着心が異常なことは、惚れている綱吉ですら異常だと思うほどに強い。
「――ああ、雲雀さん」
綱吉が声をかけても、雲雀は返事をしなかった。呼吸を止めたかのように動かず、ただ一点を見つめて立ちつくしている。どこを見ているのだろうと雲雀の視線をたどるまえに、雲雀が何かを呟いた気がして、綱吉は視線を持ち上げて雲雀を見た。
「誰?」
「え」
「それ。誰がやったの?」
綱吉は反射的に視線を床に横たわっている男に向ける。そもそも室内には死んだ男と綱吉しかいないので、綱吉が刺されるとすれば床の男しかいない。そのことすら考えつかぬほど、雲雀が混乱しているのだと思い、綱吉はとっさに立ち上がって雲雀を制しようとしたが、足の痛みのせいで立ち上がる事は出来なかった。いくら即効性といえど、飲んですぐに効果が表れる訳ではない。
雲雀は大股で死体に近づいていくと、床に仰向けになっている男の身体めがけてトンファーを叩き下ろした。骨が砕ける鈍い音がする。雲雀は悲鳴をあげない死体めがけて繰り返しトンファーを振り下ろす。それはひどく死を冒涜する行為であったし、まったく意味のない行為でもあった。
「雲雀さん、もう死んでるんです! そんなことしないでください!」
綱吉が叫んでも雲雀は制止しない。短い舌打ちをして綱吉は両足を踏ん張って立ち上がった。悲鳴を上げたいほどに足が痛む。こらえきれない涙がこぼれて頬を濡らしていくが、何度か瞬きをして涙を流す間も、雲雀は殴打をやめない。
「雲雀さん!」
綱吉は両腕を広げて、彼の名前を呼んだ。
「雲雀さん、雲雀さん、雲雀さん――!」
初めて綱吉の声が届いたかのように、雲雀が身体を揺らして動きを止めた。両腕を広げている綱吉を見た彼は、苦痛を受けたような顔を一瞬だけ浮かべ、憎しみのこもった目で、ぐちゃぐちゃに歪んだ男の死体を見下ろす。
「雲雀さん」
綱吉の呼び声に誘われるように、ふらりと雲雀が一歩を踏み出した。近づいてくる途中で、雲雀はトンファーを床に投げ捨て――、両腕で綱吉の身体を抱きしめた。まるで子供のように、すがりついてきた雲雀の身体からは血の香りがした。痛みで気がどうにかなりそうだと思いながらも、綱吉は雲雀の肩に頭をあずけ、床の上の死体を眺める。骨を砕かれ、もはや通常の状態でない男の死体から目を背けるようにして、雲雀の顔を見上げる。
彼は怒っているような泣いているような、とても複雑な顔をして綱吉を見下ろしていた。繊細な雲雀の指先が脂汗のういた綱吉の頬や額に触れる。そのくすぐったさに目を細めながら、綱吉は必死に微笑を浮かべた。
「オレ、大丈夫ですから、こんなの、すぐに治りますって、ね?」
「綱吉……」
綱吉の頭に頭を寄せ、雲雀が彼らしくない弱々しい声で綱吉の名を呼んだ。今にも泣きだしそうな雲雀の――とはいえ彼が泣いた場面に遭遇したことは一度もない――身体を両腕で抱きしめて、綱吉は目を閉じる。
極度の緊張から解放されたせいか、つよいだるさが綱吉をおそう。もしくは激しい痛みのせいで意識が遠のきかけているのかもしれなかったし、飲み込んだ鎮痛剤が効き始めているのかもいしれなかった。
「……雲雀さん、骸は? 骸はどうしたんですか?」
「知らないよ、あんな男のことなんか。あいつのせいで、君がこんな目にあったんだ。ほんとうに殺してやりたい、ねえ、いいでしょう? 君には僕さえいればいいんだから」
「駄目です、よ。――オレはボスだから、雲雀さんがそんなことをしようとするのならば、止めなきゃならなくなります。そんなこと、言わないでください……。それに今回の件を提案したのはオレであって、骸は協力してくれたんです。だから、あいつを責めないで――っ、う」
後ろ髪を掴まれて顔を上向かされた綱吉は、驚く暇もなく、雲雀によって唇を塞がれた。まるで噛みつくようなキスで呼吸すら奪われる。綱吉は必死に雲雀のキスに応えたが、ふわっとした浮遊感に包まれた刹那、ぐるりと世界が暗転したように真っ暗になる。おそらくは呼吸が出来なかった事と血を流しすぎているせいで貧血のような症状に陥ったのだろう。
綱吉の身体を抱き留めた雲雀は、ゆっくりと瞬きをする綱吉の目をじっと覗き込んだ。黒檀のような瞳に見つめられると綱吉はいつでも見とれてしまう。
「僕の前であの男の名前を何度も呼ばないで」
囁いたあとで、かるく触れるだけのキスをして雲雀は綱吉を目を見つめる。まるで魔力でも秘められているかのように、綱吉はその目線から目を離せない。
はい。
分かりました
そう言いたかったはずなのに、綱吉は瞬きを返すことしかできなかった。鎮痛剤の副作用なのか、痛みを感じなくなってきたのと同時に、五感すべてがぼんやりとしたものになってきていた。両足で立っていられなくなってぐらりと揺れた綱吉の身体を、とっさに雲雀が両腕で抱きとめた。
「綱吉?」
雲雀が案ずるような視線で綱吉の顔をのぞきこむ。綱吉は頷いた。何に頷いているのかは分からなかったけれど、おそらくは「大丈夫です」と伝えたかったのかもしれない。雲雀は短く舌打ちしたあとで、綱吉の膝の裏に腕を差し入れて抱き上げると、ソファのうえに綱吉を座らせた。そして綱吉の前に跪いた。雲雀が目の前に跪いた光景に、綱吉は少なからず驚いた。彼が綱吉の前で膝をおり、跪くことなど出会ってから今日まで一度だってなかった。
雲雀はじっと綱吉の右足の傷を見つめていた。ナイフが刺さったままのおかげで多量の出血はしてないものの、傷口からはだらだらと血が流れ出している。高価そうなソファの黒革のうえに赤い線が幾筋も流れてゆく。
目を見開く綱吉の目の前で、雲雀はそっと両手を持ち上げ、綱吉の右足の傷に触れようとして、触れる前で手を止めた。あと数センチで綱吉に触れそうな指先は、まるで見えない膜にでも遮られているかのように動かない。
「ひ、ば……り、……さん……?」
ぼんやりと彼の名を呼ぶと、雲雀は傷口に触れようとしていた両手を、座っている綱吉の両足の脇のソファのうえに置いて俯いた。雲雀の表情は前髪に隠れて見る事が出来ない。綱吉からは彼が唇を噛んだことしか伺えなかった。
「綱吉……」
俯いたままで、ほんとうに小さな声で雲雀が言った。
「守ってあげられなくて――、ごめん」
雲雀さんが謝る必要はないんですよ!
そう言いたくても言葉にはならなかった。
触れたくて動かそうとした右手が重かった。綱吉は歯を食いしばって右腕を持ち上げる。いま彼に触れる事が出来ないのならば綱吉の右腕に意味はない。
綱吉が伸ばした右手の指先が、俯いている雲雀の額に触れる。彼は指先に導かれるように綱吉を見上げた。いつものように無表情、そして切れ味の鋭そうな目元――、そこにさきほどの言葉をつむいだ気配は少しも残っていなかった。
「――綱吉、……」
「なに、言ってるんですか? 雲雀さんが、謝る必要なんて、ないんですよ? これは自業自得で受けた傷なんだし、ほら、それに、死ぬような怪我でもないんだし……。だから、雲雀さんが気に病む必要はないんですよ」
雲雀の目を見つめながら綱吉は微笑む。足の痛みも感情の揺らぎも、何もかもがぼんやりと曖昧に輪郭を失っていく。それでも目の前にいる雲雀のために綱吉は懸命に言葉を紡いだ。
「それでも気になるのなら、病院に行くまで、オレの側にいてくれませんか? それだけで、オレはどんなに辛いことだって、耐えられるんですから」
差し出した綱吉の手を、ためらいがちに雲雀が握りしめる。温かい彼の手のひらを右手に感じながら、綱吉はソファの背もたれに身体をもたれるようにして座った。足の痛みはもうほとんど感じない。そのかわりに頭のなかがぼんやりとしてくる。
「雲雀さん」
「――なに?」
普段通りの無表情の雲雀だというのに、彼が泣いているように思えて、綱吉は強く強く彼の手を握った。
「……雲雀さんがいてくれて、よかった……」
雲雀は何かを言おうとして口を開いたが、結局は何も言わずに綱吉の手を強く握り返す。愛しい人の手の力強さを感じながら、綱吉はそっと目を閉じた。
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