今日はもう休むからと言った綱吉くんと執務室の前で別れ、僕は自分の私室へ戻るために廊下を一人で歩いていた。今回の作戦の前に、もう一度ドクターのところへ行って、診察してもらい、薬をもらってこなくてはならないだろう。少しでも綱吉くんの安全が確保できるのならば、多少の苦痛や副作用も僕にとってはどうでもいいことだった。


 ふと、前方の曲がり角のあたりに人の気配を感じた。少々の警戒をしながら歩を進めていくと、案の定、曲がった先の壁を背に、不機嫌そうな暗い顔の男が立っていた。僕は立ち止まらずに奴の前を通り過ぎる。綱吉くんがいないというのに、彼と会話をする意味は全くといって言いほどにない。


 だんっ。と鈍い音がしたので、僕は仕方なく足を止める。振り返ると雲雀恭弥が壁に右腕を叩きつけたままで、僕を暗く燃える目で睨んでいた。



「止まりなよ」



「何か?」



「本当に実行するつもり?」



「我が主がそうおっしゃってますからね」



 片目を細めて、奴は苦々しい顔で僕を睨んでいる目をぎらつかせる。奴が彼の前で浮かべる僕への憎悪――その何倍も濃度のある憎しみの視線に誘われるように、僕のなかの加虐心がざわめいて心を揺らす。僕はそっと舌で唇を舐める。いまここで奴と争いを始めてしまうと綱吉くんに気がつかれてしまう。そうなれば、先に手を出した僕が悪いことになってしまい、彼に嫌われてしまうかもしれない。そう思うと幾分か頭を冷やす事が出来た。

 綱吉くんの前では多少は奴も、僕に対する憎悪を表すのを遠慮をしているのだろう。僕はなんだかおかしくなって笑ってしまった。


 雲雀恭弥は舌打ちをする。



「本当に目障りだね、君って」



「なにをそんなにつっかかってくるんですか? あなたに出来ないことを実行できる僕に嫉妬ですか? あなたもずいぶんと人間らしくなったものですねぇ」



 予想された打撃を受ける前に僕は己の能力を発動させる。雲雀恭弥は目を見開いて振り上げたトンファーを打ちおろすのをやめた。当たり前だ。奴の目に映った僕は、血塗れの沢田綱吉にしか見えなかったのだから。でもためらったのは一瞬で、すぐに僕の幻に惑わされているのだと覚醒し、奴はトンファーを僕めがけてたたき落とす。が、それはもう遅い。僕は数歩離れた場所まで後退し、武器で宙を裂いた愚かな男を眺めた。



「すぐ熱くなるところは直した方がいいですよ。いつか身を滅ぼしますから」



「僕に忠告? ずいぶんと偉くなったもんだね、君」



 トンファーを構えなおし、獣が獲物を狙うようにゆらりゆらりと身体を揺らしながら雲雀恭弥が唸るように言う。僕は片手を胸にそえ、奴が気に障るであろう悠然とした微笑を口元に浮かべてあごを引いた。



「忠告? これは助言ですよ。あなたはいつか、その感情に忠実な働きのせいで多大なる後悔をしますよ。今まで後悔しなかったのは、あなたの心に後悔というキーワードがなかったせいです。でも、今のあなたは、ずいぶんと人間らしくなってきている。もうそろそろ、あなたは自分自身が愚かな人間なのだと自覚するでしょう」



「なにそれ。なんで君にそんなことを言われないといけないの?」



「いくつもの人生を渡ってきた、僕だからこそ分かるんですよ、雲雀恭弥。僕は飽きるほどに人間を見てきた。あなたはその中でも特異な方だけれど、出会った頃よりも今はずっと人間に近づいてきている。――僕はそれが少しうらやましいですよ、僕はいまだにこんなままですし、ねぇ……」



「意味が分からない。気持ち悪いよ、君」



 奴がトンファーを構えたままで動かないのは、再び僕に幻覚を使われることが嫌だからなのだろう。僕自身も使用する幻覚のイメージを強く脳裏に描くので、綱吉くんが血塗れなんてイメージを何度も多用するのは避けたいところだ。


 離れた場所で、僕と奴はお互いに睨みあった。少しだけそうしたあとで、雲雀恭弥は両目を細めるようにして息をつき、トンファーを握っている腕を下げる。何か言いたげに僕を睨みつけたあと、奴は一度だけ天井を見上げて、僕に背を向けて歩き出す。



「作戦の実行は五日後になると思います。――どうせあなたもくるのでしょう?」



 奴は立ち止まらない。
 僕は溜息をひとつついて、片目だけを細める。

 本来ならば奴に譲歩することなどしたくはないのだが、綱吉くんからしてみれば、奴が暴走して一人で行動したりするのは悲しいことだろうから、僕としては彼が悲しがることはなるべく避けたかった。


 胸の奥がちりちりと焦げるような気がしたが、僕は廊下を進んでいく雲雀恭弥の背中に向かって声をかける。



「詳しい事が決定次第、作戦の内容をうちの者に連絡させますから。あとはお好きにどうぞ」



 奴は振り向くことなく、廊下の角を曲がって姿を消した。