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「僕は反対」
しんとした室内に響いた雲雀恭弥の硬い声音に、綱吉くんは少しだけ胸を痛めたように眉を寄せる。執務室でいつも座っている上等な椅子に姿勢よく座り、綱吉くんは机を挟んだ先に立っている奴と僕を上目遣いに見て、少しだけあごをひいて、視線を机のうえに落とす。
ホテル前での襲撃事件後、僕らは警察署に連れて行かれた。綱吉くんと雲雀恭弥は三日ほど留置場で過ごし、僕は怪我の治療のために警察病院に軟禁されたのち、保釈金の支払いの確認がとれたため、三人とも保釈された。僕の怪我は三日で完治するような者ではなかったが、ボンゴレの専属医であるドクター・シャマルによって――それなりに大金を積んで治療してもらったのだが――、痛覚を遮断した状態にしてもらっている。このことは綱吉くんには内緒で、ドクターも口外しないことを約束してくれている。その分の謝礼金として支払いしているのだから、黙っていてもらわねばお金を渡した意味はない。
今日で五日目――。
僕らは三人でドン・ボンゴレの執務室に集まって、マフィアらしくいつものように人殺しの相談をしているところだった。
重たい空気をかき回すように、綱吉くんの視線が奴と僕の間をゆっくりと行き来した。奴に戻りかけた視線が僕を見て止まる。彼が僕を見ているという愉悦を感じながら、僕は優しく微笑んでみせる。僕の微笑をもってしても、彼の気分は晴れないのか、落ち込んだ様子で机へと視線を落とす。
「どうして君がそこまでしなきゃならないの? さっさと蹂躙して終わらせようよ」
綱吉くんは下げていた視線を持ち上げ、真っ直ぐに雲雀恭弥を見た。その瞳にはボスたる意思が宿り、普段の綱吉くんの目線と比べれば、幾分か強い力があるようにみえた。
「いいえ。それは出来ません。あくまもいくつか証言があるだけで、物的証拠は何もないんです。疑わしいというだけで処理してしまうには、まだ材料が足りません」
昔の彼からは想像もつかない、きっぱりとした声音は聞いていると心地がよい。高すぎることもなく、低すぎることもなく、よどみも迷いもなく、彼は言葉を続ける。
「そもそも、あのホテルの前でオレを銃撃したのは、『クスリの売買に関することを、これ以上嗅ぎ回るのはよせ』という警告だったはずです。ボンゴレの守護者が警護についているところを襲って、オレのことを殺せると思ってるのだとしたら、それはずいぶんとお粗末なファミリィだということです。その程度のファミリィならば、少し餌をまいておびき寄せてしまえば、向こうからぼろがでるはずです」
「だからって、わざわざ拉致されるの? 君は自分の力を過信しているんじゃあないの?」
「過信かどうかはわかりませんけれど……」
言葉をきった彼は、僕を見て少しだけ微笑んだ。
「骸が上手くやってくれると信じてますから。物的証拠をそろえ、ファミリィのボスの口から真意を聞くことが出来れば、オレも決断します。――これ以上、オレの目の届く範囲で子供にクスリを売るような奴を野放しにはしません」
綱吉くんの愛らしい微笑に微笑を返し、僕は右手を胸に添えてうなずく。
「ええ。綱吉くんの計画どおり、良い操り人形をご用意してみせますよ。笹川良平のおかげで相手方の資料がありますから、できるだけ人形を増やしておけば、不測の事態にはならないでしょう」
そっと隣を伺ってみると、奴は酷く不快そうに眉をよせ、僕を見て片目を細める。どう好意的に見ても、奴が僕をよく思っていないことは明白なくらい表情に出ている。綱吉くんは困ったように僕と奴とを見比べて、なんと声をかけようか迷っているようだった。
僕は左足を引いて、奴のほうへ体の向きを変え、唇に優越をのせて笑みを浮かべる。
「僕が綱吉くんに信頼されていることがそんなに気に入りませんか? 雲雀恭弥」
動きは一瞬。
奴の右腕がしなるように動いて、ベルトに付属しているホルスターから伸縮する金属製のトンファーを取り出す。刹那、僕も右腕を身体の前へつきだし、いつものように三つ又の槍を取り出す。がいん、と固い音を立ててトンファーと槍とが衝突し、かるく火花が散った。
「やっ、やめてください!」
席を蹴るように経った綱吉くんが、机の横を回って、僕の槍と奴のトンファーとを手で掴んで、間に割るように立った。彼の瞳に見つめられた僕は、すぐに槍を消失させる。綱吉くんは片手にトンファーを握りしめたまま、奴を見た。奴は綱吉くんをちらりと見たあとで、僕を激しく睨んだ。睨んだところで射殺せる訳でもあるまいに、奴は唇を引き結んで僕を見た。おそらくは嫉妬の類の感情なのだろう。僕はますます愉快になって、小さく声を立てて笑ってしまった。すこしぎょっとしたように綱吉くんが僕を見たけれど、一度ほころんでしまった口元は元には戻らない。
「やめてください、と綱吉くんが言ってますよ」
奴は僕から視線を外し、彼を見た。彼は僕に背を向けているので表情は分からない。奴は冷えびえとした凛とした瞳で、トンファーを握りしめたままの彼を見下ろす。
「僕が反対しても君は実行するの?」
「――はい」
綱吉くんの言葉を聞いた途端、奴はトンファーを引いて、そのまま二歩ほど後退した。彼と奴の間に見えない壁のようなものが出現して、通っていた何かが断絶したような気配がし、室内に緊張が走った気がした。
「分かった。好きにすればいい。僕も好きにさせてもらう」
素早くトンファーをしまうと、奴は僕らに背を向けて執務室のドアへ向かう。
「雲雀さん!」
綱吉くんの声に振り向きもせず、奴はドアから出ていってしまう。追いかけようと数歩進んだところで、彼は諦めたように立ち止まった。長く息をついて、片手で顔を覆ってうつむく。
彼の肩が小刻みに震えだしたら、僕はすぐにでも抱きしめてしまおうと思っていたのだが、残念なことに彼はうつむいた姿勢のまま動かなかった。泣くためによく震えていた身体は、今はただ、何かに耐えるように動かないでいる。微動すらしない背中に、まだ華奢で小さなころの彼を思いだして、僕の胸は甘く痛んだ。
「……ハンカチ、お貸ししましょうか?」
彼はゆっくりと深呼吸をしたあとで、僕と向き直るように立ち位置を変えた。僕と視線をあわせると、彼は吐息をひとつついて、少しだけ頭を右へかたむける。ふわふわとした癖毛の先がやわらかく揺れた。
「オレ、間違ったこと言ってるのかな?」
「僕には何とも言えませんよ。正しさも間違いも、己のなかにあるもので、他人と比べることこそ愚かなことです。綱吉くんが正しいと思っているのなら、それを貫けばいいだけですよ。なによりボスであるあなたがよく考えたうえでの決断なのですから、そこまで引け目を感じることはありませんよ。――そう、気を落とさないでください。僕は必ず、あなたの役にたってみせますから」
「うん……、ありがとう、骸」
微苦笑を浮かべて、綱吉くんはうつむく。髪の色と同じく、色素の薄いまつげがふせられる。愛しい。そんな気持ちが心の奥底から湧きあがってくるように溢れてくる。
「抱きしめてあげましょうか?」
僕の言葉に彼はきょとんとしたあとで、「は?」と吐き出した息で反応する。
「落ち込んでいらっしゃるようでしたので、僭越ながら抱きしめて慰めてさしあげようかと思いまして――」
「遠慮します、そのままで、そのままでいてください」
両腕を広げて近づこうとした僕に向かって両手をつきだして、彼は首を振る。苦笑する綱吉くんの顔から、奴の行動によって傷ついた色が薄くなる。あんな人間のために彼が悲しい顔をするのは腹が立つ。彼が笑ってくれるのならば、僕はどんな道化になってもいいと覚悟して側にいるのだから、彼が笑ってくれないと意味がないも同じだ。
「おやおや。残念です」
僕が両腕をおろすと、彼はそっと息をついて、執務室の一角にあるソファに近づいていき、肘掛けのうえに腰をおろした。僕もわずかに移動して、彼の側に立った。ちょうど彼の頭が僕の胸のあたりにある。やわらかい髪がふわふわと揺れる。触れてみようかと僕が手を持ち上げる前に、綱吉くんの視線が僕を見上げた。何か言うのだと思って黙っていると、数秒間の逡巡のあとで、綱吉くんは口をひらいた。
「……骸はさ、雲雀さんのこと嫌い?」
「はい。嫌いです」
「あ、そう……」
僕のきっぱりとした答えに、脱力するように彼は肩を落とす。
「向こうだってそうだと思いますけど」
「まぁ、うん……そうかもしれないけど、さ。――どうして、二人は仲良くなれないのかなあ?」
「……それ、本気で言ってますか?」
「え、本気もなにも。疑問に思わないほうが変だろ? おまえと雲雀さん、すごく仲悪いじゃないか。おまえの場合、他のみんなに対してはわりと友好的なのに、雲雀さんにんだけ、やけにつっかかるじゃない? そんなに雲雀さんのこと、気にくわないのか?」
真面目な顔をして綱吉くんは言う。
「そりゃあ、雲雀さんはふつうの人よりもすごく怒りっぽいけど、でも、いい人なんだよ? いや、骸もさ、いい奴だとは思ってる。思ってるんだけど、なんで二人はさ、すぐに喧嘩になっちゃうわけ? ふつーに会話してると思ったら、すぐに武器とりだすし! もう、ほんと訳わかんない……」
「はあ……」
独り言のような彼のつぶやきに、曖昧に吐息で相づちを入れながら、僕は思わず乾いた笑いが顔に浮かんでいくのをありありと感じた。
彼の鈍感さは身にしみて分かっているものの、ここまで露骨な表現をしている雲雀恭弥や、うまく隠し通して奴を憎しんでいる僕について、ここまで理解していないとは思っていなかった。妙に勘のいい殺し屋の彼には「おまえら、いつまもガキみてーなことしてるんじゃねぇ」などと揶揄されたりもし、山本には「ツナって、あんたと雲雀が鞘当てしあってるの、まだ気づかないん?」などとのんきに言われたりもしているというのに――。
ふと、彼が僕を見た。
どうしようもないおかしさをこらえきれない僕の、だらしなくゆるんだ顔を見た綱吉くんは、不機嫌そうに目を細めて僕を睨んだ。
「なんだよ、……その笑みは――」
「分からないんですねえ、ええ、分からないままでいてくださって結構ですよ。その方がいいんですから。あなたは、ぼやーっとしていればいいんです」
何度かかるく頷いた僕の態度をとがめるように、彼は鋭い目で僕を睨む。同じ年頃の男性よりも作りが大きめの目は、童顔の彼の表情をより子供っぽく印象づけるには十分だった。いまにも頬をふくらませそうな雰囲気の彼を見下ろしていると、本当に愛らしくて抱きしめたい衝動にかられる。が、そんなことをして、無駄に彼を困らせるようなことはしたくはないので、微笑むだけにとどめた。それが気に入らなかったのか、彼はうろんそうに僕を見上げて息をつく。
「馬鹿にしてるだろ」
「いいえ。滅相もない。愚かな人だと哀れんでるんですよ」
無言で右足を持ち上げた彼の蹴りが届く前に、僕はその場から一歩後退する。蹴りがはずれた彼は、ち、という舌打ちとともに足をおろし、半眼で僕を睨む。
「すみません。遊びすぎました」
両手を顔の横にあげて謝罪すると、彼は睨むのをやめて、へなへなと背中を丸めるようにして盛大に息を吐いた。
「うん、……うん、そうだよね、おまえって、ほんとさ――」
相変わらずの台詞を吐いて、綱吉くんは顔をあげる。呆れたような顔で僕を一瞥したあと、またひとつ息をついて、片手で額をおさえてうつむく。
「雲雀さんが、あのファミリィを単独で潰しにいくとは思ってないけど……。気になるから、よく見ていてもらってもいい? って、おまえに頼んだらだめかな? 雲雀さんのこと嫌いだもんな……」
「駄目だなんてことはないですよ。僕はいつだって綱吉くんのために働くことをためらったり迷ったりしませんから。なんなりとお申し付けくださいませ――、ご主人様」
「もう、やめろよな。そういうの。恥ずかしいよ、なんか照れるしさ――」
片手を振って苦笑いを浮かべる綱吉くんの前に、僕は大仰な仕草で絨毯のうえに片膝をつき、右手を胸にそえて、左手を彼へと差し伸べる。
「あなたの命令に従うことこそ、わたくしめの最高の喜悦にございます、マイ・ゴッド」
僕が微笑んで双眸を細めると、彼は照れくささと呆れが混じり合った吐息をひとつついて、微苦笑を浮かべた。
彼は右手を持ち上げると、僕の手のひらのうえにのせ、かるく握った。彼の手のひらは温かく、そして僕の手よりも一回りほど小さい。
「まだ怪我が完治していないんだから無理だけはするなよ?」
「ええ、しませんよ」
「…・…そうやって即答されると、嘘くさいんだけど」
「ひどいですね。信じてください。僕はいつだって、綱吉くんの命令ならば、どんなことであろうと実行するんですから。たとえば、あなたが僕に死ねというのなら、いますぐここで死んでみせても構いません」
彼の手を握る手に少しだけ力を込める。彼は僕の決意の言葉を聞いても、冗談として受け取ったのか、あわく微笑んだままで驚いた様子もない。
「また、そういうこと言うんだから……」
愛しているんですよ。
手のひらから伝わってくる温かな彼の体温を感じながら。
言葉にすることは決してないであろう言葉を心の中でそっと囁く。
「骸」
綱吉くんは僕の手のひらから手を引いて、琥珀色の瞳で跪いたままの僕を見下ろす。マフィアのボスという立場にいながら、彼の瞳が曇らないのは、ひとえに彼に従属する我々守護者の尽きぬ忠誠心と勤勉な態度のたまものだ。
綺麗な瞳が僕を見て、少しだけ心配げに憂いをうかべる。
「本当は、怪我をしてるおまえに頼みたくはないんだけれど、今回のことはおまえにしか頼めないからさ……。無理させてるオレが言うのもおかしいけど、きついんだったらきついって言って欲しい」
僕は黙ったまま微笑む。
彼は唇をぴくりと動かしたあと、少しだけ考えたように黙って――口を開く。
「骸はオレのこと好き?」
「ええ。好きですよ。雲雀恭弥は嫌いですが」
「あ、そう」
呆れたように彼が笑う。
綱吉くんの笑顔を見ていると、僕は心が躍るような気持ちになる。僕の言葉、僕の仕草で、彼が少しでも笑って、楽しい気持ちになってくれればそれでいい。どんな道化師にだってなれるような気がする。
「それじゃあ、おまえが好きな、オレからのお願いね。――オレはね、骸。おまえが怪我をしてるのに無理をして痛い思いをしたり苦しがってたりしたら、すごく胸が痛むよ。だから、駄目なときはちゃんと駄目って、言えよ? オレだっておまえの力になりたいって思ってるんだからさ」
彼の唇から紡がれる言葉の一言一句が僕の胸を震わせる。まるで『人間のように』、『人間になれた』かのような錯覚が僕のなかに満ちる。
「骸?」
知らぬうちに目を閉じて、彼の言葉に酔いしれていた僕は、彼の呼び声で正気にもどって、彼の顔を見上げた。
僕と目が合うと、彼は「分かったの?」と言って悪戯っぽく片目を細める。
僕は跪いたままの姿勢で彼を見上げ、そして幸福感に満ちた顔でゆっくりと頷きながら口を開く。
「僕は幸せ者ですねえ」
「ん、……は? え、――オレの問いに関する答えがそれなの? 分かりました!とかじゃないの? なんだよ、それっ」
うめくように言ったあと、面白さがツボにはいったのか綱吉くんは身体を反らして、声を上げて笑い出す。
室内に彼の笑い声が響くのを心地よく感じながら、僕は立ち上がった。
雲雀恭弥が残していった不穏さなど、いまの執務室にはひとかけらも残っていないことに、僕は満足して唇を笑みの形に歪めた。
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