穢れることなき王冠を










 草地に片膝をついて身を低くし、暗い夜の闇のなかに溶けこむように、ゆっくりとゆっくりと呼吸を繰り返す。身を潜めた庭園の茂みのなか、見回りの人間が小さな携帯ライトで辺りを照らしながら通り過ぎていくのを目線だけで追う。


 間抜けな男は僕『達』に気がつくことなく、この場から離れていく。見つかったとしても、瞬殺する予定だったので、多少は残念といえることかもしれない。ここ最近は情報収集に身を費やしていたせいか、しばらく血の臭いを嗅ぐ機会がなかった。遠い昔のころは、まるで体臭のように血液の匂いに包まれていたというのに、ずいぶんと清廉な生き方になってきたものだ。とはいえ、いまだに人の命を奪う仕事からは逃れられてはいなかったのだが。

 僕がひかえめに微笑むと、少し離れた場所で同じように身を茂みに潜ませている雲雀恭弥が煩わしそうに息をついた。僕はあえて聞こえないふりをして周囲へと注意をはらう。それが気に入らなかったのか、奴は舌打ちをして、少しだけ僕のほうへ身を倒す。



「ねえ、いつまでこうしているつもりなの?」



 低い声音で囁いて、奴が不機嫌そうに目を細める。



「いい加減、突入したっていいんじゃないの? あの程度の人数なら余裕で片づけられるでしょ」



「まあ、まだ待っていてください。まだ“合図”がありませんから」



 僕の言葉に奴はひどく嫌な顔をしたあとで、僕から顔を背けて屋敷のほうへ視線を向けた。

 奴が僕の言葉を無視して勝手に動かないのは、綱吉くんが今回の指揮権をすべて僕に与えると宣言したせいだった。

 ドン・ボンゴレ直々の命令は、守護者の僕等でさえ逆らう権利は全くない。もしも、勅命を受けた指揮官たる僕の命令に違反をすれば、いくら守護者といえど、彼から処罰を受けねばならなくなる。ようするに、奴はいま、僕の下僕であるとも言える。そんなことを口にすれば、たちまち一撃とんでくるのは目に見えているので、僕はそっと心の中でほくそ笑むに止めた。

 奴は瞳だけを動かして僕を見た。冷酷な光しか宿していない瞳は漆黒色で、どこまでも硬質な眼差しをたたえている。



「綱吉になにかあったら許さないから」



 思わず吐息で笑い、僕は双眸を細める。



「あなた、馬鹿なんですか? 綱吉くんがあんな普通の人間どもに殺されるとでも?」



「なにが起こるか分からないじゃないか」



「信頼してないんですねえ」



 奴の瞳が鋭く細められ、右腕がベルトに装着しているホルスターからトンファーを素早く取り出す。金属音をたててトンファーが伸び、切っ先が僕の目の前へ突きつけられる。それでも僕は何の抵抗もしない。もしも奴が僕に殴りかかったとすれば、あとで彼に咎められるのは奴自身だ。たっぷりと余裕をこめて微笑むと、奴はひどく苛立った燃えるような目で僕を睨んで唇を噛んだ。



「怒らないでくださいよ。ここでやりあったら、綱吉くんがわざわざ拉致された甲斐がなくなってしまうじゃあないですか。重要なのは、あの男の口から確固たる証言が漏れるのを聞くことなんですから。――大人しくしていてくださいよ、そのぐらいできるでしょう、我々は親愛なるドンの飼い犬なんですからね、待てと言われたら待つものですよ、――わん!」



「どうして君と仕事をしなきゃならないんだろう……、咬み殺したい」



 トンファーを下げて、奴は呻くように言う。



「それはそれは、すいませんねぇ。綱吉くんにぜひにとご指名をいただいてしまったからには、六道骸、生命にかけても命令を実行しなくては!」



「黙ってよ。鬱陶しい」



「最初に喋りだしたのはあなたじゃあないですか」



 奴は何かを言いたげに僕を見たけれど、結局、何も言わずに僕から視線を逸らした。いつもならば殴りかかってきても不思議ではない彼の大人しい態度――普段から比べれば赤ん坊のように扱いやすい――におかしさがこみあげてきて、僕の顔は緊張感もなくゆるみっぱなしだ。だいたい、もうあの男の周囲には僕の『人形』が数多く配置させているのだから、綱吉くんの身に何かが起こることはないはずだ。というか、僕がそんなことをさせる訳はない。


 あの子を害するものは、なんであれ、すべて滅ぼす事を僕はためらわないのだから。


 口元に微笑をうかべ、僕は双眸を細める。


「もうじき、ですよ。今夜には終わります。そう言う風に“彼”を使って誘導していますから――」



「君ってつくづく、人間じゃないよね」



 忌々しげに顔をゆがめ、雲雀恭弥は吐き捨てるように言った。



「お褒めの言葉、ありがとうございます」



「本当に不快極まりない、君って存在は。死んでくれない? すごく目障り」



 出会ったころから何度言われたか分からない、お決まりのフレーズを言って、奴は苛立ちに顔をゆがめる。あのころから比べ、僕も奴も年をとったものだったけれど、いくら年月を重ねようともやはり気にくわないものは気にくわない。昔のように憎しみや嫌悪を剥き出しにしていると、彼が怯えたり心配するので、僕はうまく装うことをしているけれど、奴はそんなことはお構いなしに、未だに僕への不快をあからさまにしている。奴よりは僕の方がずいぶんと表向きは大人しくなったものだけれど、身のうちにひそむ憎悪の強さは昔よりも増している。


 彼に愛され、彼を愛している奴を、憎まずにいられるはずはない。


 それでも彼の幸せを祈る僕にとっては、奴を殺してしまうことはできない。奴を殺せば彼は悲しみ、僕を恨むことだろう。彼に恨まれては生きていけない。彼に見限られても生きていけない。彼の側にいることで満足しようとしている自身のいじらしさを、きっと彼は知ることはない。思いもしないし、考えもしない。でも彼はそれでいい。僕のなかの彼への愛は僕だけが知っていればいいことで、彼は僕に信頼と親愛を寄せてくれるだけでいい。いまのところは、いまのところは――と言い聞かせながら、もうすでに何年が経っただろうか。おそらくは、これからもずっと変わらないだろう。

 僕にとっては彼がすべてで、実のところ、奴のことなどどうでもいいに等しい。だから奴の不遜な態度も笑って許すことができる。僕は寛容さというものをこの十年近くの年月で実に深く学んだのだと自分でも思う。


 不機嫌そうな雲雀恭弥の双眸を見つめ、僕はありったけの余裕をこめて綺麗に微笑を返す。奴は酷く醜いものでも見たかのように深く眉間にしわを刻む。



「くふふ。その言葉、そっくりそのまま、あなたにお返しいたしますよ、雲雀恭弥」