『Echo Again ―雲―』






 バスルームから白いバスローブに袖を通して出てくると、薄暗い部屋のベッドの上で点滅する光を発見した。濡れた髪に白いタオルのせたまま、雲雀はベッドに近づいた。ただ金額が高いだけでごてごてした部屋が嫌いな雲雀が泊まるのは、安価のホテルが多かった。出張で泊まることになった部屋にはベッドと簡易的な机と椅子があるだけの、殺風景な部屋だ。寝る場所があれば雲雀はそれでよかった。

 ベッドに放り投げたままのスーツの内ポケットに手を入れて携帯電話を取り出す。ひらいて画面を見てみれば『沢田綱吉』の文字と数字の羅列ある。雲雀は片手で頭にのせていたタオルを肩にかけなおし、電話の通話ボタンを押して耳に添える。

『もしもし、雲雀さん? オレです。――もしかして、なにかしてましたか?』

「いまバスルームから出たとこだけど。――定期連絡までまだ三十分、時間があると思うんだけど、何かあったの?」

 雲雀はベッドにはめ込まれている小さなデジタル時計を見た。
 時刻は十時半すこし前だ。雲雀が定期連絡をいれる時間はだいた十一時前後だった。

 受話器の向こうで、綱吉が困ったように小さくうなった。

『えー、と。……なんか、雲雀さんの声が聞きたくなっちゃって――電話しちゃいました』

「殺し屋はどうしたの?」

『リボーンはいまお風呂です。だから電話したんですよ。――雲雀さんの方は無事に現地に到着したみたいですね』

 雲雀は片手でタオルの端を持って、濡れた髪の滴をぬぐいながら話す。

「車に乗って移動する事くらい、誰だって無事に出来るでしょ。馬鹿にしてるの?」

『え。いや! 馬鹿になんてしてませんて!』

「あそう。そんなに心配しなくても、明日は『無事に』仕事を終わらせて、すぐに帰るよ」

『ええ、そうしてもらえると、オレも安心できます。――どうか慎重にお願いします。今回の相手側に武器を流した人間に吐かせた情報によると、なんだか特異な能力を発揮する薬剤もあったそうなので……。ほんとうに気をつけてくださいね……?』

「君はさ」

『はい?』

「僕が負けるとでも思っているわけ?」

『えっ、違います、そういうことじゃないんです! オレは、ただ――』

「ただ?」

 綱吉は戸惑うようにうめいたあとで、細長く息をついた。

『ただ、あなたのことが心配なんですよ。雲雀さん。お願いですから無理はしないでください。オレの地位や誇りと引き替えにあなたを失うことになんてなったら、オレはもう生きていけませんよ……』

 受話器の向こう側で綱吉は短く息を吸った。それは泣くのをこらえているような呼吸だった。

『どうか、オレのことを少しでも想ってくれるのなら、雲雀さんの生命をいちばんに大事にしてくださいね』

 雲雀は目を閉じて綱吉の顔を思い浮かべる。
 頼りなげに視線を伏せてうつむき、うっすらと唇を噛む様子が、受話器ごしであろうと感じ取れる。

 今すぐに抱きしめたいと思ったが、あまりにも距離が遠すぎる。

 雲雀は短く息をついた。

 受話器ごしに動揺する綱吉の気配が伝わってくる。どうせ雲雀に呆れられたとでも勘違いしているのだろう。どうしてか、彼は雲雀に愛されている自覚が薄いようだった。

 雲雀がどれだけ沢田綱吉に依存し、そして隷属しているのか彼は知らない。
 逆に、雲雀は綱吉に愛されている自覚がある。彼は本当に分かりやすい人間なので、雲雀が何も言わずとも、彼の気持ちはだいたいのところが分かる。耳に寄せる携帯電話、時間よりも早くかけてきた理由は簡単だ。明日の抗争について不穏な情報が耳に入ってきた彼は、きっと四六時中、雲雀の身を案じていたのだろう。そしてとうとう、定期連絡まで待てなかった綱吉は、リボーンがいない隙をついて電話をかけてきたのだ。

 雲雀は彼に愛されている自覚を手に取るように感じながら口を開いた。

「ねえ、綱吉」

『――は、はいっ』

 返事をする声が震えている。
 学生のころ、雲雀が名を呼ぶと、彼はよく気をつけの姿勢をして、怯えた眼差しを向けてきたものだ。

 それがいまでは、真っ直ぐに雲雀を見るようになって――、あまつさえ雲雀のキスを受け入れるようになった。

 人生というものはよくわからない。

 雲雀は笑いをかみころしながら続ける。

「僕は必ず明日のうちに帰るから安心していていいよ。どんなものが相手でも、僕は決して負けやしないし、まして死んだりなんてしないから」

『……雲雀さん……』

「あのね、綱吉。君は僕を支配しているのだと自覚したらどうなの?」

『し、支配、って、そんな……っ』

「僕はいつだって君のために動いているし、君のためにならば僕の誇りなんていくらだって捨てて敗走しようと構わない、それくらいの覚悟で僕はいるんだ。君の愛が僕を支配しているということを君はもっと自覚するべきだ」

『い、いきなり、なんなんですか……? あ、あれ? そんな話をしてたんでしたっけ?』

「君が余計な心配してるようだからリップサービスしてみた。――元気出た?」

 ぷは、と吹き出す音がして、綱吉が声をたてて笑い出す。雲雀もつられて目を細めて笑う。

『……ふふ、お心遣いありがとうございます。元気、でてきました』

「そう。よかったね」

 はい、と笑いながら綱吉は返事をする。

 雲雀は彼が「はい」と真摯に返事をするのを聞くのが好きだ。思わずゆるみそうになる顔を無表情に保ち――誰が見ている訳ではなかったが――、薄暗い部屋のなかでスピーカーごしに聞こえる綱吉の声に聞き入るように目を閉じる。

『愛してます、雲雀さん。どうか無事に帰ってきてくださいね』

「――僕に無傷で返ってきて欲しい?」

『え、もちろん無傷で帰ってきてくれたらすっごく嬉しいですよ!』

「じゃあ、怪我なく帰ってこられたら君を好きなようにしていい、って言って?」

『え、え…っ?』

「さあ、言ってごらん。綱吉」

 「あー」だの「うー」だのとうなっていた綱吉は、雲雀が返事を待っているのを悟ったようで、意を決したように息を吸い込んだ。

『雲雀さんが、無傷で帰ってこられたら、オレのこと、好きに、して、いいです、よ?』

「疑問系なの?」

『うっ、好きにしてください』

「記憶がとぶくらい、してあげるからね。覚悟してるといい」

『うあ、え、雲雀さん、冗談ですよね?』

「僕が冗談を言う人間?」

『いいえ、言わない人だと思ってます。……次の日の仕事に影響がでない程度で、お願いします……。もー……、恥ずかしい……』

 真っ赤な顔をした綱吉がまぶたの裏に浮かぶ。
 キスがしたいな。
 そう思って目を開いても部屋に彼はいない。
 少しだけ、寂しいなあと思って、自嘲気味に笑う。

「明日、君を抱くために無傷で帰るから安心してまっていて」

 わずかに綱吉が笑う吐息がスピーカーごしに聞こえてくる。

『オレを抱くとか、そういうのはおいといて、――たとえ無傷じゃなくても、どんな怪我しても、雲雀さんが生きて戻って来てくれるのなら、オレはそれで幸せなんです……』

「綱吉。僕が帰る場所はいつだって君がいるところだよ。君がいないところへ行くつもりはない」

『雲雀さん……』

「会えない夜がこんなに寂しいなんて思わなかったよ。すぐにでも君に会いたい。会って抱きしめたいよ」

『オレもです。……雲雀さんのこと抱きしめたい……』


 雲雀は愛しい人を思い浮かべて、出来るかぎり優しい声音で囁いた。


「愛してるよ。綱吉」



《愛を知った孤高の獣は気高き獅子の息子のためにその牙を剥き出しにて世界と戦う》





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