01/それがいたみをともなっても きみがわらってくれるなら










 最近みる夢は、決まって走っている夢ばかりだった。


 等間隔で並んだ外灯に挟まれた、煉瓦のタイルのうえを走っている。辺りは暗く、真っ暗闇で何も見えない。それでも走る。やみくもに走る。息もできないほど、心臓が止まるかと思うほど脈打っていても走る。走る。走る。


 追ってくる「もの」
 迫ってくる「もの」
 山本を捕らえ、食らいつくそうとする――「もの」


 煉瓦のタイルを蹴る、革靴の靴底の音。
 こだまする足音、まるで他人事のような苦しそうな呼吸――、肌のうえをぬるく伝う汗。


 それは迷走で、
 それは逃走で、
 それは敗走だった。










×××××









「おい。野球馬鹿」



 屋上のフェンスに背中を預けて、晴れ渡った空をぼんやりと眺めていた山本の前に獄寺が立った。
 不機嫌そうな顔をしているなあと思ってから、山本はこの場に綱吉がいないから、獄寺の顔つきが険しいことを悟った。

 昼休みが始まってすぐに、校内放送で綱吉は職員室へ呼び出された。
 綱吉は、山本と獄寺に、先に屋上に行って昼ご飯を食べていてと言っていたが、山本も獄寺も綱吉がくるまで昼食を食べるつもりはなかった。
 呼び出された話の内容はどんなものかは分からないが、良いことというよりは、悪いことの確率の方が高いだろう。綱吉が落ち込んでいないといいなあ――などと山本が胸中で思っていることを、きっと獄寺は分からない。

 彼は反応のうすい山本の態度に舌打ちして、乱暴な動作で山本のワイシャツの襟を片手で掴み上げた。


「てめえ、どういうつもりだ?」


「うん?」


「十代目のお心を煩わせるんじゃねえよ」


「は? どういうこった? 俺のことで、ツナが何か言ってんのか?」


 厳しい顔つきのまま、獄寺は何も言わない。
 外国の血を思わせる、綺麗な色の瞳が真っ直ぐに山本を射抜く。

 獄寺はいつだって、真っ直ぐだった。嵐のように荒れ狂う感情そのままの、燃え立つような気迫が山本の本能を刺激してくる。恐怖ではなく、戦いへの高揚が山本の魂を揺さぶる。指先が獲物を求めて動き出そうとしたことにぞっとして、山本はきつく両手を握り込んだ。幸いなことに、獄寺は山本のささいな変化には気が付かない。


「――あのさ、獄寺。言ってくれよ。俺、言われねーと分かんねぇと思うから」


「……俺に面倒なことさせるんじゃねぇよ。クソ野郎」


 言い捨てた獄寺は、山本のワイシャツから手を放した。そして、山本の隣へ立つと、ズボンのポケットから煙草の箱をとりだして、慣れた仕草で煙草を一本とりだしてくわえた。箱をしまい、かわりにオイルライターを手にした獄寺は煙草に火を点けると、ライターをズボンのポケットにしまう。

 彼の喫煙に関して、山本は特に不快感はなかった。彼が煙草を吸う理由は、十代に特有の格好つけたいからとか、悪ぶりたいからという訳ではない。必要なことだから吸っているだけなのだ。

 苛立った気持ちを落ち着かせるように、しばらく煙草を吸っていた獄寺は、半分くらいになった煙草を唇の端にひっかけたまま、ぽつりと言った。



「何か、悩んでんのか?」


「悩み? うーん、……わかんね」


「ぶん殴るぞ」


「うーん。ちょっと待ってくれ。考えてみる」


「……よく考えてから喋れよ」


 それからの数分間、山本も獄寺も口を開かなかった。

 獄寺がしゃがみ込み、短くなった煙草を屋上のタイルに押しつけて消すまで、山本は黙っていた。表面では考えている姿勢をとりつくろってはいても、山本は考えてはいなかった。考えなくても、もう答えはほとんど分かっている。
 触れてはいけないと理解しているからこそ、『そこ』を避けることができる。

 途方もない闇を走る足音。
 走って、走って、走って、
 逃れたいと望んでいる――その『正体』を山本はもう知っている。

 獄寺は、ポケットから取り出した携帯灰皿に吸い殻を捨て、しゃがみこんだまま、山本を見上げてきた。「何か言えよ」と獄寺は片眉をはねあげ、山本を睨め付けた。
 考えているようで、あまり考えていなかった山本は、短く唸ってから、ひらめきに任せて思いついたことを口にした。


「うんとさ……。そんじゃあさ、獄寺に聞くけど――、おまえ、怖いことってある?」


「はあ?」


「怖いこと。なんでもいいんだ。ものでも、感覚でも、なんでも」


「そんなにカテゴリーが広いんじゃ、あるに決まってんだろ」


「どんなの?」


 もう一度大きな声で「はあ?」と声をもらして、獄寺が呆れたように溜息をつく。眉間にできた深いしわに握った拳をあてがい、うつむいた彼は低い声で言った。


「なんで、てめぇにそんなこと言わねぇといけねぇんだよ」


「……俺もな、そういう感じなんだよ」


 額から拳を遠ざけ、再び獄寺は山本を見上げた。


「――ようは、聞かれたくねえってことか?」


「どういうふうに話したらいいかわかんねーからさ」


「だったら、もっと上手く隠しやがれ! 十代目が、おまえが元気がねぇと心配なさってるんだからな!」


「そっか……。ツナ、心配してたんか」


 息を吐き出すと、胸の奥が軋んだように痛んだ。
 なるべく内面を表に出さないように意識していても、完全に『普通』を装うには山本の力量が足らなかったのだろう。普段はめったに山本のことなど心配しないであろう、獄寺までもが探るような目で山本のことを眺めている。彼が不安そうに山本のことを見たことなど、今までなかったかもしれない。

 獄寺と目が合う。
 山本は笑って、彼の視線を受け止める。


「ツナにも、おまえにも、悪いことしちまったなあ」


 獄寺は笑わなかった。わずかに視線をそらし、何かを思案したように沈黙し――、彼は短く息を吐いた。


「野球バカ」


「うん?」


「それで? おまえは何を恐れてるんだ?」


「――獄寺には教えてやんない」


 分かりやすいくらいに怒気に顔を歪め、獄寺が山本に掴みかかってくる。背中がフェンスに接触し、ぎしりと軋んだ音をたてた。


「てめえ、果たすぞ!」


「大丈夫だって。ツナにも教えないから安心しとけって」


「そういう事じゃねえだろ! てめえ、いい加減に――」


 その時、屋上へ続く、鉄製の重たい扉が甲高い錆びたような音をたてて開いた。ひょっこりと顔を出したのは、弁当の包みを片手に持った綱吉だった。彼の姿を素早く確認した獄寺は山本のワイシャツから手を放し、小走りに近づいてくる綱吉に向かってかるく頭を下げた。


「山本! 獄寺くん! お待たせ! ごめんね」


「いいえっ、十代目、お疲れさまでした! ささ! どうぞ! お座りになってください」


 獄寺が手のひらでさししめしたタイルのうえへ、綱吉は素直に座りこんだ。その近くへ獄寺が座り、屋上のタイルの上に放置されていた、彼の昼食であるコンビニの袋を手元へ引き寄せる。

 心地の良い風が吹いて、綱吉のやわらかそうな、生まれつき色素のうすい髪がふわふわと揺れる。山本や獄寺よりもだいぶ小柄な体型からは想像もつかない力を、綱吉が持っていることを山本は指輪を巡る戦いによって知った。綱吉が立っている場所、そしてこれから立つことになるであろう場所も――知った。そして、山本自身が立っている場所も明確になった。

『おまえは生まれながらの殺し屋なんだぞ』

 甲高い子供の声が山本の鼓膜のなかで反響したような錯覚がした。
 くらくらと、目の前がくらんでいくような気がして、山本は目を閉じて息を吐き出す。


「――やまもと?」


 瞼を持ち上げると綱吉の大きな瞳が山本を見上げていた。ちらりと獄寺を見れば、彼は不機嫌そうに山本を睨んでいる。先ほど彼と会話をした内容を思いだし、山本は笑顔を浮かべて綱吉の側に座った。


「わりぃ! ちょっと、ぼーっとしちまった」


「馬鹿、野球馬鹿。てめぇは一生ぼーっとしてろ、馬鹿」


 呻くように言って、獄寺が顔をしかめる。その態度がおかしかったのか、綱吉がわずかに吹き出して、クスクスと笑い出す。その笑顔を見ているだけで、重苦しかった心が軽くなるのを山本は感じた。


 綱吉の目と山本の目が合う。

 照れたようにはにかんだ彼に笑顔を返しながら、山本は暗闇に続く扉から目を背けた。





×××××





「十代目ェ、俺、嫌っすよ。ご一緒に下校させてくださいよォ」


 子供が拗ねるような口調で言って獄寺が唇を突き出す。

 時刻はすでに下校時間を過ぎている。ほとんどの生徒はすでに教室を出ていってしまい、残っている生徒ももうすぐ身支度を終えて教室を出ていきそうだった。

 綱吉は椅子に座ったままで、目の前に立っている獄寺を見上げた。


「駄目。獄寺くん、先生から呼び出されてるでしょう? ちゃんと話して誤解をといておかないと駄目だよ。待っててあげるからさ」


「待ってるだなんて! 駄目です! 俺ごときのことで十代目の大切なお時間をいただくわけには! どうぞ、お帰りください!」


「……でも」


「大丈夫です。ちゃんと、先公と話つけてきますから!」


「喧嘩しにいくんじゃないんだけど――」


「ご心配なく!」


 満面の笑みで綱吉の言葉をさえぎった獄寺は、頭を下げてから姿勢よく立った。


「じゃあ、いってきます!」

「うん。いってらっしゃい。また、明日ね」

「さようなら、十代目」

「バイバイ、獄寺くん」


 獄寺は教室を出るときにもう一度振り返って、綱吉に向かって一礼してから廊下へ姿を消していった。獄寺に向かって振っていた手を下ろし、綱吉は鞄を探って携帯電話を取り出した。

 電源をいれてメールのチェックをして、よく見ているサイトをチェックした。

 ぼうっと携帯をいじっているうちに、気が付いてみれば教室には誰もいなくなっていた。
 どこか違う教室からか、生徒達が騒ぐ声が聞こえてくる。教室棟とは違う棟から、ブラスバンドの部員が練習している管弦楽器の音や、校庭で部活動に励む運動部のかけ声が混じり合いながら、綱吉の耳に届いてくる。


「あー……、なんか、久しぶりに一人だなあ……」


 携帯電話を鞄のなかへ戻し、独り言をつぶやいて、綱吉は椅子から立ち上がった。午後の日差しが斜めに教室に射し込んでいて、眩しいくらいだった。学校の正面の校庭ではサッカー部、陸上部、野球部が活動している。なにげなく、綱吉は野球部のほうを眺めて、山本の姿を探した。教室にいる綱吉から見ると、校庭で活動している人間は相当小さく、見分けがつきにくい。しかし、綱吉は、同じような練習着に身を包んでいても、山本のことを見つけることが出来た。長身で黒髪な生徒は他にもいたが、綱吉にはそれが山本だろうと分かった。

「山本だ……」

 山本の近くにいるだけで、綱吉は守られているような気がしてならなかった。実際に守られたことなど少ないにせよ、山本武という人間は不思議なほどに包容力のある人間だった。彼は上級生からも下級生からも好かれ、いつだって彼の周囲には人だかりが出来、明るく楽しい時間がいつでも山本のまわりを囲んでいた。

 指輪を巡る戦いに巻き込まれた際も、山本はいつだって山本だった。
 それがどんなに綱吉の心を救ってきたか、きっと彼は知らない。

 綱吉がどんなに抗おうとしても、どんなに拒否をしても、もうすでに綱吉の目の前には開かなくてはいけない扉が用意されている。それがいつでも綱吉の心を苛んでいた。口では「嫌だ。絶対にならない」と言ってはいたものの、――綱吉のなかのほとんどの部分は、すでに自分が歩くべき道を知っていた。

 闇を知り、闇に染まることへの抵抗感がうすらいでいくにつれて、綱吉は山本の柔軟な思考や朗らかな性格に触れていると泣きたくなるような感覚がした。

 優しさ。穏やかさ。親愛。力強さ。希望。勇気。意志。ひたむきなほどの、真っ直ぐさ。

 綱吉がこれから失うかもしれない『もの』を山本はすべて持っている。


 野球部は数名に別れて走り込みをしている。綱吉は黙ったまま、山本の姿を目で追っていた。――ふと、走っていた山本の身体がふらっと傾いで、


「え?」


 そのまま、受け身をとらずに地面へ前のめりに倒れ込んだ。


「山本!?」


 すぐさま、野球部員達が倒れた山本のところへ駆け寄っていく。
 山本は倒れたまま動かない。

 頭から足下へかけて全身の血が落ちたように綱吉は動けなかった。
 震えるように頭を振って、停止しかけている思考を再開する。

 綱吉は身をひるがえし、机のうえの鞄を掴んで教室を飛び出した。





×××××





 おぼろげに意識が戻りつつあっても、なかなか山本は瞼を持ち上げることが出来なかった。頭のなかに靄がかかって何もかもが曖昧になっていて、自分が生きていることさえあやふやに思えた。

 頭が痛むのを感じながら、山本は瞼を持ち上げた。顔面を動かすと額や頬に違和感がある。ガーゼを貼られているようだったが、鏡を見ていないのでよく分からなかった。

 目は開いても、意識が周辺を認識するまで数秒ほどかかる。カーテンで間仕切りされた狭い天井が見えると思っていた視界に、誰かの顔が映り込んでくる。色素のうすいふわりとした髪、そして男にしては大きめな琥珀色をした目が心配そうに山本のことを見下ろしてくる。


「山本?」


「――つ、な?」


 山本が意識を取り戻したことを知った綱吉が、あからさまなくらいにホッとした様子で微苦笑を浮かべた。山本は、枕のうえにのっている頭を動かして、ベッドのかたわらにおいてある丸い椅子に座った綱吉のほうを見た。


「気が付いた? 気持ち悪くない? 大丈夫?」


「ここ、どこ?」


「保健室。……山本、部活中に倒れたんだよ? 覚えてない?」


 目を閉じて、意識を失う前のことを思い出す。柔軟を終えたあと、五人ずつで並んで走り込みを始めて、五往復ほどしたあたりで、急に意識が暗転した。転んだ痛みなど感じる間もないほどあっけない気絶だった。


 閉じていた目を開き、山本はベッドのかたわらにいる綱吉を見た。彼は目が合うと微笑んで首を傾げる。


「倒れたときのことは覚えってけど……。どうして、ツナがここにいんの?」


 山本の問いかけに、綱吉は照れくさそうに笑って首をすくめた。


「あー……。たまたま、山本が野球してるなあって、見てたんだよ。そしたら、山本が倒れて、びっくりして走っていったら、顧問の先生が山本のこと保健室に担いでってさ、オレが付きそうって言ったんだ。……もう、一時間ちかく眠ってたよ」


「眠って、た?」


 右手を持ち上げて目元に触れようとして初めて、山本は自分の右手を綱吉が握りしめているのに気が付いた。


「……手?」


 小さく声をあげ、綱吉が顔を赤くした。


「あっ、……これ……。なんか、山本が苦しそうにしてたから、オレ、思わず掴んじゃったんだけど……。気持ち悪いよね、いま離すから――」


 綱吉の手が離れる前に山本は彼の手を握りしめた。びくっと肩を揺らして、驚いたように綱吉が山本を見る。それでも山本は手をゆるめなかった。


「……山本?」


「えーっと……。あのさ、ツナがよければ、もうちっと、このままでいてくれねーかな」


「うん? 別にいいけど……、なんか、照れくさいなあ」


 山本の笑顔に押し切られ、綱吉は手を離すのをやめた。綱吉の手のひらは山本のものよりも一回り以上も小さい。まるで年下の弟の手を握りしめているようだった。それでも、そんな小さな手のひらに触れていると、山本は己の心が優しい気持ちで満たされていくのを感じていた。


「山本ってさ、寝不足だったりする? シャマルがね、山本、あんまり寝てないんじゃないかって言ってたんだ。……最近、山本、食欲もないみたいだし……。体調悪いの?」


「うーん……、どうだろう……」


「一度、病院に行って看てもらったほうがいいよ」


「うん。……そうすっかな」


 夢見が悪く、寝付けなくなってしばらく経っている。どんなに表面を取り繕おうとしても、精神的にも肉体的にも限界がきているに違いない。まばたきをするたびに、正体不明の存在が山本に向かって腕を伸ばしている幻が瞼の裏に残像として浮かび上がってくる。走っても走っても走っても――、きっと『あれ』はいつか山本に追いついてしまうだろう。


「ねえ、山本……」


 綱吉の静かな声で、山本は沈みかけていた意識を覚醒させる。無意識のままに険しくなってしまっていた山本の顔を覗き込みながら、綱吉は山本の手を握る手に力を込めて、真摯な眼差しを浮かべる。


「山本さ、いま、苦しかったり辛かったりすることあったりしない? オレ、何か出来ないかな、山本のために……」


「俺の、ため?」


「うん。オレ、山本が辛そうだったり、苦しそうだったりんするの見てるの嫌なんだ。……オレ、すごい頼りない奴だとは思うけど、オレなりに、山本のために何かしたいって思うし……、ぶっちゃけ、獄寺くんのほうが頼りになるとは思うんだけど――」


「けっこう心配かけちまってたんだな。ごめんな、ツナ」


「山本が謝ることないよっ。オレがかってにウザい感じに心配してるだけだからさ」


「ウザくないって。――ありがとな、ツナ」


「ありがとうって、オレ、何にもしてないよ?」


 困ったように眉を寄せ、綱吉が首をひねる。
 山本はベッドで寝返りを打ち横になり、綱吉のことを眺めた。あいかわらず、綱吉の手は山本の右手の中にある。温かい手のひらは泣きたいくらいに優しく山本の手を包んでくれている。



「あのさ――。ツナは、怖いことってある?」


「え? 怖いこと? ……あー……、いっぱいあるかな」


「たとえば?」


「たとえばー? えっと、まず、大型犬が怖いでしょ。高いところもあんまり好きじゃないし、暗いとこも怖いから苦手だし――。怖い、怖い……、ああ! リボーンとか、すっごい怖いかな。あいつ、怒るとちょう怖いし。怒るといえば、母さんが本気だして怒ったときも怖いしなー……って、なに、笑ってんの、山本」


「ツナは怖いもんがいっぱいあって、大変なのなー」


 子供のように唇を噛んだかと思うと、綱吉はぶっきらぼうに口を開いた。


「そういう山本の怖いものってなんなんだよ!」


「んー、俺かあ? そうだなー、俺は……」


 山本が恐ろしいと思っているものは、綱吉と過ごしていくにつれて、日に日に増えていくばかりだった。それは綱吉自身に関することが大半だったが、彼と一緒にいることで増えていく『もの』もあった。

 山本武の恐怖のほとのどは、いまや沢田綱吉に関すること以外にはなくなっていた。

 綱吉はすねたような顔で山本の答えを待っている。
 おそらく、『自分自身』が答えになるとは思っていないような顔だ。

 山本は綱吉の手を優しく掴み返し、かるく上下に揺すった。


「俺が怖いって思ってんのはさ、この手がなくなることが怖いかな」


「手? って、これ? オレの手ってこと?」


「そう。ツナの手が俺の手を掴んでくれなくなるのが、怖いかな」


「……なにそれ、変なの……」


 納得してないかのように呟いてから、綱吉は微苦笑を浮かべてあごをひいた。


「そんなのが怖いって言うのなら、オレ、いつだって山本の手ぇくらい、握ってあげるよ?」


 他愛のない言葉でしかなくとも、山本は嬉しくてうれしくて、泣いてしまいそうな自分を誤魔化すために思いきり笑顔を浮かべた。


「ははは、そっか。そりゃあ、いいや」


「……も、訳わかんないなー、山本ってば」


「ツナのおかげで、元気がでてきたのなー」


「あ、そう。……だったら、もう帰ろうか? 顧問の先生も、起きたら今日は帰るようにって言ってたし……、起きられる?」


 綱吉が山本の手を離す。山本は名残惜しいと感じながらも、彼の手を離した。綱吉は山本がベッドから起きあがるのに手を貸そうとしたようだったが、山本自身はそれほど重病でもなかったので、一人で起きあがった。

 ベッドの脇を見てみれば、部室に置いてきたはずの鞄と部活用具がきちんとそろえて置かれていた。


「着替え、どうする?」


 山本のかたわらにいた綱吉が首をかしげる。重ね着をしている練習着よりは、制服のほうが窮屈ではない。


「着替えてくわ。――ツナ、ちょっと待っててな」


「うん。じゃあ、保健室の前で待ってる」


 鞄を抱えた綱吉は、間仕切りのカーテンを片手でめくって、ベッド側から保健室側へ出ていった。

 足音が遠ざかり、スライドドアの開閉音がする。

 山本は一人になった空間で深く呼吸してから、鞄のうえにきれいに畳まれた制服を手にとって着替えを始めた。







×××××





 部活の練習着から制服に着替えた山本と肩を並べ、綱吉は並盛中学校の正門を出た。山本は勉強道具などが入った鞄の他に部活用のディパックとバットケースを持っていた。見るからに重そうな荷物だというのに、山本はそんなことを感じさせないように颯爽と歩く。

 一時間ほど前に貧血で倒れた人間とは思えない笑顔を浮かべてはいるものの、顔色が若干悪いように見えるのは綱吉の気のせいなどではないだろう。

 受け身を取らずに地面へ倒れ込んだせいで、山本の額と頬には擦り傷が出来てしまい、いまは白いガーゼがあてがわれている。痛々しいと思いながら、綱吉はちらちらと山本のことを見ていた。そんな綱吉の思いをよそに、山本は明るい調子で口を開く。


「そーいや、獄寺はどうしたんだ?」


「獄寺くんは先生から呼び出し。――この前、ほら、獄寺くんが一人で帰ってたらさ、黒曜の子と喧嘩ぽくなったときがあったって、話したでしょう? 黒曜中の生徒がうちの中学の子カツアゲしててさ、それを止めたってやつ。それがさ、黒曜中の奴らが逆に獄寺くんの方がカツアゲしてたんだとか言い出したらしくて――、くわしいこと聞きたいって言うからさ。……獄寺くんに助けてもらったのが、うちの中学の一年で、これはもう、名前が分かってる子だったんだけどね。その子も呼び出されてたみたいで、獄寺くんと一緒に先生に事情聞かれてるんだと思う」


「そっかー。災難なのな、獄寺」


「ほんと、災難だよね。人助けして、逆に悪人にされちゃうなんてさ」


「そーだな。あいつ、けっこう、悪ぶってるとこあっけど、根は優しいよなあ」


 クスクスと笑いながら山本が言う。
 彼の元気そうな表情を眺めていても綱吉は山本が無理をしているように見えた。校庭で山本が倒れたシーンが脳裏によみがえってきて、落ち着かない気分になる。


「――ねえ、山本、具合、ほんとうに平気?」


「平気だって。家に帰ったら無理しねーで、寝るようにすっからさ」


「……山本、最近、顔色悪そうだし、ぼうっとしてること多いし……。眠れないのも、なにかあるの?」


「うーん……」


 曖昧な返事をして、山本が困ったように笑う。綱吉の心が確かに痛んだ。彼はいつだって、自分のことを話したがらない。どうでもいいことは話すくせに、確信に触れるようなことは意図的にとさえ思えるくらい、うまく隠してしまう。

 だから、彼がほんとうに追いつめられ、絶望に落ちるまで誰も気がつけない。

 屋上から飛び降りようとした山本は、その前に一度だけ、綱吉にSOSを送ったことがあった。綱吉はSOSに気がつけなかったことを、未だに悔やんでいた。あのとき、なにか気がつけたら、なにかを言えたのなら、山本は屋上から飛び降りようなんて考えなかっただろうと思えるからこそ、後悔していた。

 あれから綱吉は、山本のささいな変化を見逃したりしないように、彼のことをずっと眺めてきた。だから分かってしまった。山本はまた、何かを悩んでいる。それが何かは綱吉には分からない。しかし、今回、山本を苦しめている元凶は、野球が出来なくなると恐怖した屋上ダイブのときよりも、最悪のような予感がしていた。あのときよりも強く、深く、山本は『何か』に囚われようとしているように見えた。

 急に悲しくなって、綱吉は子供のように泣いてしまいたくなった。山本のように人に好かれ、人に必要とされる人間に、必要とされたいなんておこがましいのかもしれない――という思いが綱吉の心を痛いほどに刺激してくる。それでも、どんなにおこがましくても、綱吉は山本のためになにかしたいと強くつよく思っていた。


 綱吉は歩くのをやめて立ち止まった。


「オレじゃ、頼りにならない?」


 半歩ほど遅れて山本も立ち止まる。
 彼は困ったように笑って、持ち上げた片手で短い前髪をかけあげた。


「あー……。そういう訳じゃねぇんだ。ツナには、あんまり迷惑かけたくなくって」


「迷惑なんて! そんなことないよ。山本が何か苦しんでるんだったら、オレ、そういうの、ほうっておけないよ……」


「……ツナ……」


 戸惑ったように綱吉の名を呼んだ山本の表情が強ばったかと思うと、一瞬で鋭く変化する。刹那、彼は肩にかけていた部活用具入れと勉強道具の入った鞄をすぐに手放して地面へ放り、肩にかけていたバットケースの蓋をひらき、低い体勢を保った。

 驚いて振り返った綱吉の目に、二人の男が映る。
 夕日が沈み、紺碧の空が頭上に広がりつつある路地に、男が二人立っていた。
 片方は青龍刀を持ち、もう片方はサイレンサーのついた拳銃を両手で構えている。

 綱吉の喉からは悲鳴は出ず、空気が弱々しく漏れただけだった。



『ボンゴレ。十代目だな』



 ボンゴレ――とだけしか聞き取れなかったが、彼等の標的が綱吉だということは分かった。とっさに綱吉は周辺へ視線を巡らし、どこかにリボーンがいないかと探した。が、それほど都合よく彼がいるはずはない。

 拳銃を持った男が照準を合わせるように構え直す。綱吉が身構える前に、バットケースから山本のバット――刀を引き抜いた山本が男めがけて猛進する。まさか、まだ子供にしかみえない山本が武器を持っているとは考えていなかったのか、驚いた男が山本に向けて数発発砲するものの、山本は停止しなかった。
 山本は大きく水平に刀を凪ぎ、まず、二人の男をそれぞれから引き離した。返す刀の切っ先を銃を持った男の腕めがけて振り上げる。男は慌てて身を引いたがもうすでに遅い、ぶっつりと嫌な音をたてて男の腕が切り裂かれ、赤い血が噴き出した。山本は動くのをやめない。斬られた腕にあっけにとられていた男の後ろ首へ足首をひっかけて、そのまま地面へ顔面を叩きつける。大きくアスファルトのうえで上体をバウンドさせた男は動かなくなる。

 片足を引いて思いきり低い体勢をとった山本は、血と油に濡れた刀を両手に構え、仲間が瞬時に倒されて気押されている青龍刀を握りしめた男と対峙した。青龍刀を持った男は、山本と目を合わせると、少年と呼べる相手に浮かべるには不似合いな、余裕のない顔つきを浮かべ――、山本に向かって突進していった。


「山本!」


 綱吉が叫んでも山本の目線は迫り来る敵しか見ていなかった。振り下ろされる青龍刀を刀の刃で受けて滑らせて相手の勢いをころす。男はすぐに刀を引き、再び山本めがけて刀を振り下ろしてくる。山本は両手で構えた刀で男が振り下ろす青龍刀を受けながら、立ち位置をかえて反撃のチャンスをうかがっているようだった。一瞬、青龍刀を刀で受けきれず、相手の刃が山本の右の二の腕を切り裂く。瞬間、山本の瞳が闘争の炎にゆらめくように煌めく。刀同士を幾度か打ちあわせて火花を散らせた刹那、山本は左足を軸にして身体をひねって回転し、男の身体の前面を下方から上方へ向かって逆袈裟懸けに刀を振りきった。男は後方へ逃れようとしたようだったが避けきれず、耳障りな音をたてて布地が裂ける音とともに、赤い飛沫が空中へ飛び散った。どしゃりと男の身体が地面に仰向けに倒れ込む。

 荒い呼吸を繰り返しながら血塗れの刀を片手に、山本は倒れた男の足下に姿勢よく立った。彼の頬を赤い滴が伝いおち、あご先からぽたりと地面へ落ちていく。

 ふいに、まるで、神懸かりがとけた殉教者のように山本の目がみるみるうちに見開かれたかと思うと、――彼はゆっくりと顔を動かして、綱吉を見た。

 山本の瞳が綱吉を見た瞬間、綱吉は息の根が止まったかと思った。

 山本の顔が絶望的すぎて、いまにも、血にまみれた刀を己の首へ押し当てて引いてしまうそうなくらい、絶望的すぎて――、綱吉は何の言葉も言えなかった。

 開いた唇からは息が漏れるばかりで、想いは声にならなかった。
 何も言えない自分自身がはがゆくて、綱吉は山本へ近づこうと踏み出した。 

 しかし、綱吉が近づこうとすると、山本は焦ったようによろめきながら綱吉と距離をとるように後ろへ下がった。片手に赤い刀を握ったまま、彼はもう一方の手のひらで顔面を押さえ、唸り声のようなものをあげて俯いてしまう。


「俺……、俺――」


 ぶつぶつと何かを言っている山本の左肩の付近に、あきらかに返り血でない赤い染みが出来ているのに気が付いて、綱吉はすうっと血の気が引いていくのを感じた。左肩の傷は刀ではなく、最初の銃撃によって出来た傷に違いない。綱吉には医学の心得はまったくない、早く手当をしなくては、何らかの重大な後遺症でも残ったら、綱吉は悔いても悔いても悔やみきれない。

 山本が後退するより早く、綱吉は彼のもとへ駆け寄った。それでも離れようとする山本の刀を持っている腕にすがりついて、綱吉は彼の目を見上げる。まあるく見開かれた山本の瞳は怯えていた。綱吉と目を合わせた瞬間、山本は引きつったように息を吸って、首を振った。何を否定したのかは分からなかったが、綱吉は山本の腕を両手で掴んで絶対に放さないように力を込めた。


「怪我ッ、怪我してる! 山本、血がッ」
「――うるせーな。落ち着け、バカツナ」


 甲高い子供の声が頭上から振ってくる。山本に身を寄せたまま、綱吉が近くの塀の上を見上げると、そこにリボーンが立っていた。彼の肩には黄色い小さな鳥が――ヒバードがとまっている。彼の姿を見た途端、その場で膝から崩れ落ちそうになるのを、綱吉はすんでの所でこらえた。


「リボーン!」


「近所を妙な奴らがうろついてやがるって、雲雀から連絡があってな。見に来てよかったな、これは」


 ちらりと綱吉達の足下に倒れている男達へ視線を移し、リボーンは言った。


「殺したのか?」


「こっ、ろ……ッ」


 絶句した綱吉に目もくれず、リボーンは身軽そうに塀の上から地面へ降り立った。倒れて動かない男達に近寄り、もみじのような手のひらで男達の首筋に触れてから、彼は立ちあがった。


「安心しろ。死んじゃいねえ。――あとのことはオレと雲雀に任せておけ。てめーらはとっととここから姿を消せ」


「小僧、オレ……」


 山本の虚ろな声に、綱吉は呆然とした。
 彼の、弱々しい声音など、綱吉は聞いた事がない。両手で握りしめている山本の腕に身を寄せたままで、綱吉は山本を見上げた。しかし、山本は今にも泣きだしそうな顔でリボーンを見つめている。リボーンと山本の間で、無言のままに、見えない何かがやりとりされるのを綱吉は感じた。 
 リボーンは口元だけで笑い、そして山本は、安心したように短く息を吐き出して、泣きそうな顔に無理矢理に笑みを浮かべた。


「山本。話はあとで聞いてやる。――とりあえず、おまえはツナと一緒に『ホワイトローズ』に行ってろ。あとで、着替え、持っていってやる」


「……『白薔薇』ってなんだよ、リボーン」


「うるせーぞ。――山本、行け」


「ツナ。行こう」


 すでに刀からバットへ戻ったものを握りしめ、山本が綱吉のことを見下ろしてくる。その瞳からは修羅の色はもう消えていた。普段の山本の顔をして、山本はそこにいた。綱吉はぞっとして息をつまらせる。

 いったい。
 いつから。
 山本は――、己の中の闇と戦っていたのだろうか。


「……山本……」


 山本は困ったように双眸を細めると、やんわりと綱吉の手から腕を引き抜いた。荒々しく拒否をされた訳ではなかったが、再び山本の腕を掴む気力が綱吉にはなかった。山本は放置されたままだった鞄の近くへ歩いていき、赤く汚れたままのバッドをバッドケースにしまった。そして部活用の肩掛け鞄からタオルを取りだして、肌に散った血を拭った。汚れたタオルを再び鞄につめた山本は、かけ声をかけながら鞄を持つと、立ちつくしている綱吉を見た。

 彼は今にも崩れ落ちそうな微笑みを浮かべて、綱吉のことを手招いた。
 そこにはもう、刀を握っている彼の姿はなかった。


「場所、知ってんだ。行こう、ツナ」


 綱吉が黙って山本に近づいていくと、彼は少しだけ綱吉のことを眺めてから、リボーンのほうへ顔を向けた。



「小僧。ごめんな」


「謝んな。――あとでな」



 片手を上げて左右に振ったリボーンは、綱吉達に背中を向ける。


「そんじゃ、行くか」


 いつものように、
 おそろしいほどに、いつものように明るく言って山本が歩き出す。


 綱吉は何も言えないまま、喉のあたりにわだかまるすべての言葉を飲み込んで、一歩を踏み出した。






×××××





 人目を避けて薄暗い路地を歩き続けて十数分後、山本と綱吉がたどり着いたのは、ごく普通のマンションだった。オートロックの機械の前に立った山本は、鈴のついたキーチェーンを鞄から取り出し、鍵を差し入れ、暗証番号の数字キーを押した。自動ドアが開いたのを確認してから山本は機械から鍵を抜き、綱吉を視線で招いてマンションのホール内へ進んでいく。入ってすぐのホール横に設置されているエレベーターに乗り込むと、山本は五階のボタンを押す。


「こんなとこ、あいつ、借りてたんだ」


 綱吉がぽつりと言うと、山本は「うん」と頷いた。


「俺に教えてくれたのは、『白薔薇』と『黒百合』、『赤椿』の三カ所かな。全部、学校周辺のとこだった。もしかしたら、もっと広範囲に、いろいろな部屋、借りてんのかもな」


「オレ、知らなかったよ、あいつがこんな風に部屋借りてるなんて。赤ん坊でも、借りられるもんなのかな」


「そのへんは、小僧のことだから、うまくやってんだろうな」


「うん。そうかもね……」


 他愛のない会話をしている妙な雰囲気に綱吉は息苦しさを感じた。二人とも話したいことはもっと別のことだ。

 エレベーターが五階に到着する。山本は迷うことなくエレベーターホールから扉が連なる廊下を歩いていき、五○七号室のドアの鍵穴に鍵を差し入れてドアを開けた。山本は先に綱吉のことを玄関に入れてから、彼も玄関に入った。玄関脇のスイッチで、奥の部屋へ続く廊下の照明が灯った。
 細い廊下の右手は小さなキッチンがもうけられ、左側はおそらくはバスルームになっているようだった。どこにでもあるような、典型的な1Kの部屋だ。

 綱吉は靴を脱いで、スリッパにつま先を入れてフローリングの床を歩いて奥の部屋を目指した。山本は鞄やバットケースを玄関横に置いて、何も持たずにスリッパを履いて綱吉のあとをついてきた。

 薄暗い室内の入り口で、照明のスイッチを探して辺りを見回した綱吉の顔の横から山本の手がのびて、壁際のスイッチを押した。急に点灯した照明のせいで綱吉は目を細め、――驚いて息を呑んだ。

 部屋の壁という壁には息苦しいほどに棚が設置されていた。一方の壁際の棚にはありとあらゆる銃火気が整然と並べられ、もう一方の壁際の棚には同じ背表紙の分厚いファイルが整列していた。ブラインドは下まで下げられていて外の風景は見えず、棚以外の家具といえば、廊下側の壁際に大きめなソファがあるだけだった。
 部屋には生活感はなく、物騒なものしかない倉庫でしかなかった。

 綱吉は思わず室内を観察するように眺めていたが、ふいに山本の存在を思い出して室内を見回す。山本は真っ白なソファに身体を沈み込ませるように座って目を閉じていた。綱吉が近づいていくと、彼は目を開いたが、何も言わなかった。

 綱吉は鞄をソファの傍らに置いて、棚に救急道具か何かがないか探した。棚のいちばん下の端に白い箱に近づき、引き出して中身を確認すると、案の定、救急道具が入っていた。両手で箱を持ち上げ、綱吉はソファに座っている山本の前まで運んでいった。


「手当てするから、シャツ脱いでよ、山本」


 フローリングの床に両膝をついて、身体の横に置いた箱のふたを開けて、消毒薬や包帯を取り出しながら綱吉は言った。

 山本は服を脱がなかった。

 開いた足の膝のうえに両腕をのせて背中を丸めた彼は、鋭い目つきで綱吉のことを見た。思わず、綱吉は持っていた包帯を手から落としてしまった。ころころと音もなく包帯はフローリングの床のうえを転がって、どこかへいってしまう。


「ツナ。俺のこと、怖くねーの?」


「え……?」


「俺、人を殺そうとしたんだぞ?」


 抑揚のない山本の声音が、冷静すぎる山本の態度が、綱吉の神経を逆撫でた。身体の奥が熱くなる衝動そのままに綱吉はありったけの感情を込めて叫んだ。


「馬鹿なこと言うな! 怖くなんてない! 山本はオレのこと守ってくれようとして戦ってくれたんだろ!? なんで怖いなんて思うんだよ!」


「俺は人を殺す」


 綱吉の激昂をもってしても、山本の冷静さは揺るがなかった。綱吉は首を振った。山本の膝に両手ですがって、首を振った。「やだ、いやだよ、いやだ」と繰り返すことに意味がないことも分かっている。息をつめて、涙をこらえようとしても無駄だった。伏せた視線の先が潤んで歪んでいく。言葉は喉にからんで声にならない。


「人殺しになる。間違いなく、そういう人間になる。――小僧にも言われたんだ。俺は産まれながらの殺し屋で、小僧と出会って、自分の魂の色と形を知っちまった。だから、俺に残されている道は、稀代のシリアル・キラーになるか、一流の殺し屋になるか、そのどちらかしかねぇってな……」


 きつく目をつぶって涙の膜をとりさり、綱吉は顔をあげて山本の顔を見た。泣いている綱吉を見た山本の目元がぴくりと動いた。険しい顔をした山本は、右手を持ち上げかけたが、――結局は動かすことなく、息を吐き出しただけだった。


「俺は、きっと、近いうち――」


 綱吉は何かを言おうとした山本の身体にぶつかるようにして身を寄せ、彼の胴に両腕を回した。フローリングの床に膝立ちになり、ソファに座っている彼の腹部へ額を押しつけるようにして、両腕に力を込める。


「ツナ……」


 戸惑ったような山本の声音がした。室内にはいって、初めて聞いた感情的な彼の声に、綱吉の涙腺は再び決壊しそうになる。歯を噛みしめて涙をこらえ、綱吉は息を吸い込んで、切実な想いが少しでも伝わるようにと、ゆっくりと言葉を選びながら口にした。


「怖くなんてないよ。だって、山本だもん。オレの友達で、親友の、山本なんだもん。怖くなんてない……、お願いだよ、山本、そんな……、そんな悲しいこと――」


 嗚咽に引きつりそうになった言葉をきり、震えるように大きく呼吸をして、綱吉は続けた。


「ねえ、山本。今からでも遅くないと思う。今ならまだ『戻れる』んじゃないかな。……山本、オレから離れたほうがいいよ。オレはたぶん、どんなに抗っても、用意されている『椅子』に座るしかなくなる。嫌がっても泣いても、きっと、そうなる。そうなったら、もう、山本も逃げられなくなるから、だから――!」


「ツナは、俺のこといらないの?」


 まるで親に見捨てられてしまった子供のように、呆然とした声音が綱吉の頭上から振ってくる。綱吉は山本の胴に腕を回したまま、寄せていた身をわずかに離し、山本の顔を見上げた。彼はソファに両手を投げだし、眉間に深いシワを刻んでいる。綱吉は首を振って、彼の制服をかきむしるように掴んで叫んだ。


「いらないとか、そういうんじゃない! このままオレといたら、山本はマフィアになるしかなくなっちゃうじゃないか! 今ならまだ間に合うよ、オレからリボーンに頼んでみるから――」
「やめてくれ!」

 山本の叩き付けるような声音に驚いて綱吉は目を見開く。
 彼はきつく目を閉じて、激しく頭を振って、両手で顔を覆った。

「俺が、おまえの側にいられる理由を、おまえがとりあげないでくれ!」


「……やまもと……」


 両手で顔面を覆った山本の口元が苦しげに引きつったを見て、綱吉は胸が苦しくなって、呼吸がうまくできなくなりそうだった。顔を覆っている山本の手のひらへ綱吉は手を伸ばした。綱吉よりも大きな手の甲に手のひらを重ねる。そうしてからようやく、山本の手が震えていることに綱吉は気がついた。乾いた返り血が付着した山本の手の甲に手のひらを重ね、綱吉は彼の顔へ顔を近づける。


「だって、山本、オレ、山本が苦しんでるのを……、好きな人が苦しんでるの、見るの嫌だよ」


 顔から両手を外した山本が、今にも泣きそうな頼りない顔で綱吉のことを見下ろしてくる。


「俺だって、ツナが苦しんでの、見ない振りはできねーよ」


 力なく膝のうえに投げ出された山本の両手を綱吉は握った。緊張のせいか山本の手はひどくこわばっている。ここではないどこかへ行ってしまいそうな、山本のことを『ここ』へつなぎ止めておきたくて、綱吉は彼の手をきつく握りしめる。


「……だって、他に、どうしたらいいのか……、オレ、わからないよ……」


 山本は唇を引き結んで、しばらく黙っていた。

 タオルでぬぐったが、山本の頬や首筋にはまだ返り血のあとが残っている。銃弾がかすって出来たであろう、彼の肩口の傷口が綱吉は気になって仕方がなかった。しかし、綱吉は手当のことを言い出す気にはなれなかった。彼は何かを考え、何かを言葉にしようとしている。山本の言葉をいま聞けるのは綱吉しかいない。だから綱吉は、山本の手を握りしめて、黙って、彼の言葉を待った。



「なあ、ツナ」



 普段の彼からは想像できないような、静かな、水面にひろがる波紋のような清らかな声音で、山本は言う。


「俺、苦しいの、平気だから」


「……平気って、なんだよ……っ」


「おまえのために、苦しくなるのは、平気だから。心配とかしなくていいから」

 そう言って山本が微笑むのを見て綱吉は頭の中が真っ白になった。心が苦しくて痛くてたまらなくなって、綱吉は泣きながら叫んだ。


「なんだよそれ! 勝手だろ、そんなの、平気なわけないだろ!」


 綱吉の言葉を聞いた山本はまるで刺されたかのように激しく顔をしかめた。


「俺はッ! ツナに手ェ離されるほうが、よっぽど辛いんだよ!」


 引きつれた悲鳴のような声で言った山本がきつく目を閉じて身体をぶるりと震わせた。

 しばらくして、こわばっていた身体から力をぬいた山本が目を開いた。綱吉と目を合わせると、彼は困ったように目をふせてから息を吐き出した。


「怒鳴って、わりぃ……」


 綱吉は首を振った。綱吉よりも一回り以上も大きな山本の手のひらは優しいほどに温かい。野球一筋だった彼の手のひらは節くれだっていて、ひ弱そうな綱吉の手とはくらべものにならないほどに立派な手だった。

 うつむいて、綱吉は山本の手を眺めた。親指の腹で山本の手の甲をなでると、彼の手の甲へ綱吉の涙がぽたりと一滴こぼれ落ちた。


「……ごめん、ごめんね……。オレと出会わなきゃ、きっと、山本は――」


「ツナと出会えなかったら、俺はきっと今ごろ、最悪だったって言い切れると思うぜ。――なぁ、ツナ。顔、あげて?」


 優しい言葉に導かれ、綱吉は顔をあげた。

 少しだけ涙に潤んだ目をして、山本は綱吉のことを見下ろしていた。

 泣かないで。
 泣かないで、山本。

 声に出したつもりだったが、綱吉の唇からは嗚咽混じりの吐息しか漏れなかった。

 山本は綱吉と目が合うと、穏やかに微笑んだ。

 素直な感情を吐露したせいなのか、山本の表情は何かを許された人間のように、開放的に見えた。そこには、屋上からダイブしたときの切実な絶望感は、もうなかった。


「――きっと運命なんだ。ねえ、ツナ。だからさ、お願いだから、繋がせて」


「つなぐ?」


「おまえと、俺の、運命を、繋がせて? 俺の手、離さないで?」


 繋がれた両手をかるく持ち上げて、山本が首を傾げる。
 綱吉は繋がれた両手を見おろす。

 かすれた返り血が付着したままの山本の両手。
 そして、その手を握っている、汚れのない、綱吉の両手。

 今はまだ、綱吉はリボーンなしでは戦うことが出来ない、無力な少年でしかない。だがしかし、近いうち、綱吉自身も己の手を血で汚すことになるだろう。
 そして、そのころには、山本武も野球のバッドではなく、刀を握って綱吉の傍らに立っているだろう。

 手を離せばいい。
 酷い言葉を投げつけて、最低のことをして、山本に嫌われてしまえばいい。
 そうすれば、いまここで、山本と綱吉の運命は切れる。
 そうすれば、山本は――。

 頭のなかでは分かっていても、綱吉は両手から力を抜けなかった。
 手を離すことも。
 山本に嫌われることも、――出来なかった。

 好きで、大好きで、憧れている相手を失いたくなかった。
 好きで、大好きで、憧れている相手のためを思えば、手を離したらいいことくらい理解してるのに、出来なかった。


「ばかだ……」


 己の感情を優先して山本の手を離せない綱吉も、
 綱吉の側にいることで苦しむことが分かっている山本も、――愚かだった。


 閉じた目の縁から涙がこぼれていく。噛みしめた唇から嗚咽が漏れ、無意識のままに肩がびくりびくりと跳ね上がる。情けない。悲しい。苦しい。辛い。どうして好きな人が不幸になると分かっているのにどうすることもできないのだろう――、吸い込んだ下唇を強く噛んで綱吉は嗚咽をこらえる。

 ふいに、綱吉の手から片手をぬきとった山本の指先が、綱吉の顎に触れる。導かれるように伏せていた顔を持ち上げると、彼は困ったように笑って首をかしげた。


「ツナ。あんまり強く噛むと、唇が切れちまうぞ?」


 唇を開いて、息を吐くと、また涙が出てきた。濡れた視界の向こうで、山本が苦笑する気配がしたが、綱吉の目にはよく見えなかった。


「ばかだよ、……山本は、ばかだ」


「ばかでも、なんでもいい。――ツナの側にいられんなら、俺はそれでいい」


 あまりにも山本が満足そうに笑って言うので、綱吉は脱力してしまった。嗚咽で肩を揺らしながらも、笑ってしまう自分のちぐはぐさがおかしかった。


「……やまもとは、ばかだ……」


 泣きながら笑った綱吉の顔を眺めて山本は優しげに双眸を細める。綱吉と片手を繋いだまま、山本はソファから身体を浮かせて、綱吉と同様にフローリングの上へ膝をついた。互いに床に膝をついて向き合う。


「ツナ」


「うん?」


「俺、ツナのことが好きだ」


 まっすぐに綱吉の目を見て山本が言った。
 素直な言葉だな、と綱吉は思った。
 山本の視線と同じく、まっすぐで素直で、なんのうらおもてもない、きれいな感情。

 綱吉は山本の黒い瞳から視線をそらさずに、
 つないだ手のひらの温かさを感じながら答える。


「オレも。山本のこと、好きだよ」


「そっか……。そんじゃあ、俺達、両想いだな」


「うん、両想いだね――」


 綱吉が最後まで言い終える前に、山本の両腕が綱吉の背中に回った。綱吉も山本の身体を抱くために両腕を持ち上げ、そして彼の制服を両手で掴んだ。鼻先に、わずかに血の匂いが香ることから綱吉は意識を遠ざける。


 心がどれだけ軋んだとしても、
 失えないものを両腕に抱きしめて、
 綱吉は目を閉じた。
































「それが痛みをともなっても、君が笑ってくれるなら――俺は何度だって心を殺せる」




















「それが痛みをともなっても、君が笑ってくれるなら――オレは誰よりも強くなるよ」




























「「だから、おれと、一緒に、生きて」」


























【End】