01/腕枕の温もり なんだか枕が硬いと思って、綱吉は頬の感触を確かめるように、枕に頬ずりをしてみた。やはり硬い。そのうえなんだか奇妙な肌触りがする。綱吉は無意識のままに眉間にしわをよせて寝返りをうつ。 枕は睡眠に重要だと思って、わざわざ専門店に行って――リボーンには散々に馬鹿にされたけれども――綱吉専用に作らせたもので、ふかふかで大きくて寝心地は最高、のはずだ。 どうしてこんなにも寝心地が悪いのだろう。 いぶかしげに思いつつ、綱吉は目を開いた。 「――ん、……え?」 綱吉の視界に映ったのは真っ白なシーツと人間の腕だった。投げ出されている手の大きさや指の節くれだった様子から男性のもだとすぐに分かる。綱吉はとっさに飛び起きて布団をはねのけた、ずきんと腰が痛んで思わず身を縮め、さらにぎょっとする。綱吉はパンツ一枚だった。慌てて周囲を見回せば、ベッドの周りに脱ぎ散らかされたスーツとシャツが二人分。間髪いれずに続く驚きに綱吉は絶句したまま両手で頭を抱える。 なんで! どうして! はあああ!? 音にならない声で絶叫したあとで、ようやくベッドに寝ている人間が――綱吉の頭の下に腕を差し入れていた人間がいるのを思い出して視線を向ける。 めくれた布団から足をだして――案の定、彼もまたパンツ一枚だった――寝ぼけるように唸りながら寝返りをうったのは笹川了平だった。 無声音のままで細長い悲鳴をあげたあと、とりあえず落ち着くべきだと思い、ベッドから降りようとした。刹那、視界に決して見たくないものを入れてしまい、綱吉は新たに激しく動揺してよろめいて転げ落ちてしまった。 したたかに打ち付けた背中や腰の痛み悶絶したものの、目にした事実のほうがよっぽど衝撃的だったので、すぐに立ち上がる。相変わらず腰が痛み、口からでかかった悲鳴を呑み込む。 了平と綱吉が寝ていたその合間のシーツに赤く染みが出来ている。 赤い染み、赤い染み! なんだそれ! そう思ってはいても、口はぱくぱくと動くだけで、いっさい声には出せない。 声に出したが最後、何もかもが現実になってしまうようで恐ろしかった。 綱吉の脳裏に昨夜の出来事が走馬燈のように流れていく。 昨夜は、二週間に及ぶ晴の部隊の地方への諜報活動が無事に終了したことを祝い、了平がおみやげとして買ってきたワインと、綱吉が用意しておいた日本酒とを綱吉の私室のテーブルに並べて、二人きりでグラスを交わしていた。学生時代のことをつまみにして、了平も綱吉も上機嫌のままに次々とボトルを開けたり、一升瓶を飲み干してみたりし、久しぶりに陽気な夜を過ごしていた――はずだった。 綱吉はベッドの傍らに突っ立ったまま、両手で頭を抱えた。必死にどうやってベッドにもぐりこんだのか、もしくはどうしてスーツを脱ぎ散らかしたのかを思い出そうとしたが、ちっとも記憶がよみがえってこない。 「――わあああああ、ちょっと、しっかりしてよ、オレ!?」 混乱の極みに達した綱吉が悲鳴のように叫ぶと、ベッドに寝ていた了平が低く声をあげたあと、起きる兆しを見せる。 「……さわ、だ……?」 ベッドのうえを探るように了平のたくましい裸の腕が彷徨う。なんだかひどく照れくさい思いに心を貫かれ、綱吉は短い悲鳴を喉の辺りでおしころした。 「す、す、すいません――!」 いったい何を謝っているのか自分でも分からないまま、綱吉はシーソーのように勢いよく頭を下げたあと、脱ぎ散らかしていた自分のスーツを両腕に抱えると一目散に寝室を飛び出した。 |
|
××××× | |
いちいち数は数えていないが、もうすでに十回は越えているだろう溜息をついて、了平は談話室の扉を開けて中をのぞいた。 談話室に設けられた上質のソファに座って、ローテーブルひろげた大量の書類と格闘していた山本は、――テーブルには書類の他にグラスに注がれた赤ワインとボトルが二本のっていたりしていたが――了平を見てニィっと人懐っこく笑った。ボールペンを持ったままの右手をひらひらと顔の横で振る。 「おー、了平さん。おつかれさまー」 「どうしてこんなところで仕事をして居るんだ?」 「なんか、自分の部屋でやってっと、逆に集中できなくってなー。広い場所っていうか、ここのが落ち着くんだ。で、――了平さんはどーしたんだ? 休養日のはずだろ? ビリヤードでもするんなら、俺、相手してやろうか?」 「いや……、遊びに来た訳じゃないんだ。沢田がどこにいるか知ってるか?」 「ツナ? ツナならいま、外に出てんじゃねーかな? 新しく同盟に加わったファミリィのボスと懇親会でビーチでバカンス、だった気がすっけど?」 「そうか……」 思わず沈んだ声を出してしまったことをごまかすように、了平は慌てて表情をとりつくろうが、すでに遅かったようで、山本は少しだけ珍しそうな目で了平を見たあと、彼らしい悪意のない笑みを浮かべて、くっくっくと喉のあたりで笑う。 「珍しいなァ。了平さんがそんな顔をしてるなんて。――立ちっぱなしでいんのも何だから、こっち来て座んなよ」 握っていたボールペンをテーブルのうえに放り投げ、山本が手招く。どうやら了平の来訪をきっかけに資料とのにらめっこを放棄したようだった。仕事の邪魔をしてしまったとは思ったが、朝から綱吉に徹底的に避けられ続けていたせいもあり、誰かに話を聞いてもらいたいと思っていたところだった。とはいえ、すべてを話して相談できるはずのない内容を愚痴る訳にはいかない。 山本が座るソファの反対側のソファに腰をおろし、了平は身体を沈めるように嘆息をした。 「……実は朝から沢田に避けられていてな」 グラスの赤ワインをぐいっと飲み干して、山本は顔の片側だけで笑った。 「ああ、あれはやっぱり、了平さんのこと避けてんだ。朝食んとき、なんか不自然に席立ったなーとは思ってたんだけど。――避けられてるって、何かしたん?」 了平はあいまいに笑って、肩をすくめた。 起きてみたら綱吉の寝室のベッドにパンツ一枚で寝ていて。 そのうえ、ベッドには乾いてしまった赤いシミが残っていて。 部屋中にころがっていたアルコールの空き瓶と脱ぎ散らかされた洋服の類。 そして、ぼんやりとしていて思い出せない昨夜の出来事――。 いったい何があったのかと、綱吉に聞きたくて了平は着替えをすませたあとで、急いで食堂に向かった。リボーンや他の守護者たちと食事の席についていた綱吉は、了平の姿が見えると「ごちそうさま!」と食べかけの朝食を前に不自然なタイミングで立ち上がって、調理場の方へ――食堂の出入り口に了平が立っていたためだろう――脱兎のごとく走り去ってしまった。その後、執務室にいっても彼は何かと理由をつけて部屋を出ていってしまうし、しばらくすると館のどこかにいるはずだというのに、彼の姿を見つけることが出来なくなってきた。 昨日まで長いこと職務中だったため、了平は今日と明日は休養日だった。今日一日、これといってする予定などなかったので、むきになって綱吉を追いかけ回していたのだが――昼過ぎになってようやく馬鹿なことをしていると自覚がめばえてきて落ち込んできていたところだった。 そして、記憶がないにせよ、パンツ一枚、シーツに赤い染み、というキーワードから連想されることをとぼけるつもりはない。 ただ、了平が考えていることが事実だとすれば――。 「ツナと了平さんが喧嘩とか? あんまり想像つかねーなァ」 呑気な山本の声音に了平はハッとしてうつむき気味だった視線を持ち上げる。山本は口元だけで笑っている。了平も似たように笑って、頷く。 「まあ、……そんなところだ」 「喧嘩ねぇ。――いったい何があったての? 昨日はものすっごい上機嫌で酒盛りだ!って二人で盛り上がってたのに」 「それは、そうなんだが……」 酒盛りの後が問題なのだ、とは言えず、了平は苦笑して言葉を濁した。 「ま、早く仲直りできっといいな」 了平の複雑な胸中を察してか、それとも山本らしい深く考えないスタイルを貫いたのか、彼は爽やかに言った。追求されなかったことに了平は静かに安堵する。 「ああ、そうだな」 ぼんやりと今後どうするかを頭のすみで考えながら、了平は答える。 避けられ続けようと、いったい昨夜なにがあったかは知る必要がある。 たとえそれが最悪の事態を招くことであったとしても、目を背けることはしたくはない。 惑いそうになる心を掴むように、了平は膝においていた両手の拳を握り込む。 「――あ!」 ふいに山本が声を上げたので、了平はびくっと肩を揺らしてしまった。 彼は了平の視線を受けると、にぃいと悪戯っ子のように笑う。 「俺、いいこと思いついちった。ちょっと待っててくんね?」 「え、……ああ」 了平が頷くと、彼はスーツの内側から携帯電話を取り出して、誰かにコールを始める。 「あー、獄寺ァ? ちょっと聞きてーことあんだけど、え、切るなよ、聞けって。あのさ、ツナってさ、今日の夜ってなにか予定あった? ――うん、うん……、そっか、分かった。――え? あー、ちょとなー、気になって聞いたんだ、それだけ、え、なんだよ、怒るなよ、じゃあ、仕事中悪かったなあー」 獄寺との通話を切ったあと、山本は再び誰かにコールを始める。なんとなく了平は次の電話の相手が予測出来て、くすぐったいような気持ちになる。 「――あ。ツナ? いま平気か? うん、今夜さ、予定あいてるよな? うん、獄寺から聞いたんだ、うん、うん、そっか、九時からならあいてんのな? じゃあ、ちょっと話してーことあるからさ、執務室で待ってるわ。――うん、分かった。じゃあな」 携帯電話をスーツにしまいながら、彼は言った。 「九時に執務室だって」 「うん?」 「ツナ、九時には戻れるって言ってたから、了平さん先に執務室で待ってりゃいいよ。それなら話できっだろ?」 山本が綱吉に電話をした時点で予測がついた出来事だったが、「はい、そうですか」ですませられる訳はなかった。 「それではお前があとで沢田に怒られるだろう、騙したことになる」 了平が苦い顔で呟くと、山本はそんな了平の危惧を吹き飛ばすくらいの明るい笑みを浮かべて、手のひらを身体の前でひらひらと振る。 「まあ、卑怯だとは思うけどさ、避けてんのも、避けられてんのも辛いんじゃねーかな? 騙したな!ってツナに怒られたら怒られたで、あとでちゃんと謝るさ。だからさ、了平さんはツナと思いっきり話し合って、んで、仲直りしちゃいなよ、な?」 「山本……。――すまない。正直、助かった。このままではいけないとは思っていたんだが、どうにも避けられてしまってな……」 「いいっていいって。了平さんが元気ねーとさ、やっぱりうちんなか暗い感じすっからさ」 「ありがとう。山本」 「夜まではゆっくり休んでなー。昨日まで大変だったんだからさ」 「ああ……、そうしたいところだが――。とりあえず気を落ち着けるために、そこらを走ってこようとは思ってる」 「休養日だってのに、ランニング? ははは、了平さんはほんと身体動かすの好きだねー」 「身体を動かしているときは、よけいなことは何にも考えなくなるからな」 了平はソファから立ち上がって、右腕を持ち上げて拳を握って突き出す。 「何もかも悪い方向に考えてしまいそうな今の俺には、そういう時間が必要なのかもしれん」 「まあ、うん――。身体を動かしてる間は何にも考えないとか、そういうの俺も分かっけどね。――俺だったらバットの素振りとかなんだろうし、な」 ソファに背中をうずめて山本は吐息で笑い、右の拳を了平に向かって突き出す。 「了平さんの、健闘を祈る――!」 了平は突きだしていた右腕を胸にそえて不敵に笑む。 「そうだな。正々堂々、闘ってやるさ」 |
|
××××× | |
豪奢なシャンデリアが天井から吊り下がっている屋敷の玄関口で、護衛についてくれていた雲雀と雲の部隊の人間達に早々に挨拶をして別れ、綱吉はみっともないと思いつつも――リボーンがいたらボスとしての威厳がねぇと言って睨まれただろう――駆け足で二階にある執務室へ向かった。すれ違った幾人かのメイドたちは、廊下の端に寄って微笑んで一礼をする。彼女たちに笑みを返しながら通り過ぎて、やがて執務室のドアにたどり着いた。 大きく息を吸って吐いて、呼吸を整えたあと、綱吉は執務室のドアを勢いよく開けて中に入った。 「やまもとー、ごめんっ、遅れて! 夕食とったレストランでばったりディーノさんに会っちゃって話し込んじゃったんだ! ほんとごめ――え……ッ?」 ふいに横側から腕を掴まれ、そのまま部屋のなかに引き込まれる。数歩、よろめくように部屋の中央へ進んだ綱吉がドア側へ視線を向けると、笹川了平が執務室のドアの前に立ちはだかるようにして立っていた。ぎょっとした綱吉はふらりと後ろへ二歩ほど後ずさって――、執務室におかれているソファに足がぶつかり、小さく悲鳴をあげてしまった。 了平は綱吉の態度に少し困ったような顔をして、右手を持ち上げて頭をかく。 「りょ、へ……さ……ッ――!? え、山本は? え、え?」 綱吉は浮かべていた笑みをこわばらせ、一瞬だけ停止していた思考をフル回転させる。まもなく、山本が了平のために策略したことにすぐに思い当たる。うつむいて額をおさえ、綱吉は小声でうめくように言った。 「山本のやつっ、騙したなっ」 「――山本を責めないでやってくれ。あいつは困っている俺を見かねて手助けをしてくれただけなんだ」 綱吉の言葉に了平は申し訳なさそうに眉尻をさげて言った。いつもの彼らしくない、覇気のない声音に、綱吉は避け続けていたことへの自己嫌悪で胸が痛くなった。己の恥ずかしいという気持ちばかりが先走って、避けられ続けた相手の気持ちに気がつけないでいたのだ。 綱吉は唇を引き結んで了平の足下のあたりを見ていた。羞恥のためか真っ直ぐに彼を見ることはできない。 「沢田。頼む。逃げないでくれ」 そう言って、了平がゆっくりと前進してくる。思わず綱吉は両手を身体の前に突きだして、首を左右に思い切り振った。 「か、かんべん、してください……ッ! オレッ、いま、了平さんのこと、まともに、みらんないんですよ……ッ」 綱吉と一メートルくらいの間合いをあけ、了平は立ち止まった。綱吉は突きだした両手の先にある了平の顔をみることができず、うつむいて了平の足下のあたりを見ていた。 「昨夜のことなんだが――、俺、は――」 妙な沈黙がおりる。 了平は言葉の続きを言わない。 綱吉はおかしいと思って、視線をふっと持ち上げて、了平の顔をうかがって息をのむ。 綱吉と同様に顔を火照らせていた了平は、綱吉と目が合うと、恥じ入るように視線を惑わせながら、短く息を吐いて、何かをふりきるように首を左右に振ったあと、真っ直ぐに綱吉を見た。 感情が込められた意思の強い了平の瞳は、いつも真っ直ぐに綱吉を見る。マフィアという職業には決して彼の気性には向いていないであろうに、了平は文句も弱音も吐かず、いつもにこにこと笑い、ファミリィにのしかかりそうになる影をかき消すように、確かな存在感を有して綱吉の傍らに立っていてくれる。 勇ましく、そして優しい眼差しに、幾度も助けられて支えられてきたことを思い出し、綱吉は胸が熱くなるのを感じた。 「俺は、沢田にとんでもないことを、して、しまったのだろうか?」 「……え……」 了平の言葉を頭の中で反芻するのに数秒。 綱吉は思わず了平に突進して、その胸ぐらを両手で掴み上げた。 「えぇぇえぇ!? 了平さんも覚えてないんですか!?」 「も? ということは、沢田、おまえも何も覚えていないのかっ?」 動揺したように了平がうめいて、綱吉の顔をのぞき込んでくる。その眼差しに嘘がないことはすぐに分かったが、問題の解決にはならなかった。了平の胸ぐらを掴んだまま、綱吉はぐらぐらと混乱している事実をたてなおそうと一人でぶつぶつと言葉を繰り返す。 「え、え? ちょっと待ってください。二人とも記憶がないって、それって、なんかもう、絶望的っていうか、サイアクっていうか――! こっ、この腰の痛みの理由が、不明って、そんなっ、なに、えー……ッ!?」 「腰の、痛み――? やっぱりあのシーツの赤いものは――」 了平が囁くのを聞いて、綱吉はさらに頬が熱くなり、鼓動がむやみに跳ね上がるのを感じた。 「あ、いや……、その、ですねッ――」 突然に了平に両肩を掴まれ、綱吉は心底驚いて身体を硬直させてしまった。 「沢田!」 「はいぃ!」 「俺も男だ! 責任はとる! この先、一生、おまえを大切にするぞ!」 了平に掴まれている肩から熱がじわじわと綱吉の身体に広がっていく。綱吉も男なので、了平のことが嫌ならば当然、その両手を振り払うこともできた。が、綱吉はしなかった。少なくとも綱吉は、了平の馬鹿がつくほどわかりやすい性格や、綱吉ですら先読みができる発言の数々や、しなやかに鍛えられた肉体や側にいるだけで安心する存在感が好きだった。 好きだった。 ふいに湧きあがってきた感情を押さえ込むように、綱吉は短く息を吐いて顔を伏せる。 極度のアルコール摂取によって心の奥底に抱えていた感情が表面化して、昨夜の事態を引き起こしたのかもしれない。高鳴りすぎて痛くなってきた心臓を抑えるように右手を胸にそえ、綱吉は弱々しく首を振った。 「ああ、やっぱりそっちの方向へ行くんですね、っていうか、やっぱりそれなんですかね! ああああ、なんで覚えてないんだ! いや、覚えてたって困るけど! 覚えてないってのがもっと困るよ! えーッ、弱る、弱るよ……ッ」 「……沢田……」 唐突に、了平が優しく綱吉の名前を呼んだ。綱吉はびくりと体を震わせてしまう。たった一言のなかに凝縮された甘い響きを感じた気がして、ぞわりと背中のあたりを熱いものが滑り落ちていく。 了平は綱吉の肩の上から手のひらをどけて、一歩ほど身を引いた。 「沢田。――顔をあげてくれないか……?」 胸を押さえたままで細長く息を吐いて、綱吉はゆっくりとゆっくりと伏せていた顔を持ち上げた。学生のころから綱吉よりも了平のほうがずいぶんと身長が高かった。その差は縮まないままだったので、現在も綱吉は了平の顔を見上げるしかない。精悍な面構えという言葉が似合う顔には、真剣な表情がうかんでいる。 「了平、さん」 ふ、と表情をゆるめて了平が笑う。 「俺はおまえのことを大事に想っている。この気持ちだけはいつだって、どこにいたって胸に抱えて生きてきた。酒に酔ったうえでの行為だなんて、きっかけは最悪かもしれないが、俺は――」 綱吉は胸をおさえていた右手に力を込める。 期待してしまった言葉を、了平の唇が言ってしまうのを止めるために、左手が震えるように動いた――、が、腕は動かずに指先が震えただけだった。 「俺はもうずっと前からおまえを抱きたいと思っていたんだ。だからもしかしたら、酒の勢いをかりて、ことにおよんでしまったのかもしれん……。男に言い寄られて気持ち悪いだろう。そうならば言ってくれ。もう二度と口にしないし、必要以上におまえに近づくのも控えよう」 「そんな、気持ち悪いだなんて……! 思いませんよッ」 綱吉が首を振ると、了平は嬉しそうにあけすけに笑った。子供のような笑顔が綱吉の胸をうつ。 「本当か? ならば触れてもいいか?」 「え、あ……、触るぐらい、いいですけど……」 綱吉が頷くと、了平は先ほど退いた分の距離を一歩でつめて、手を伸ばして綱吉の頬に触れた。熱い指先が綱吉の頬から耳元、顎のラインをたどるように動く。彼らしくない、艶めいた指先の動きに、綱吉は思わず首をすくめて唇を舐めてしまった。 了平の鍛え上げられた拳は、普通の男性の手よりも少しだけごつごつとしている。大きな手のひらが綱吉の頬をすっぽりと包み込む。了平の手の動きにうながされるように綱吉は、了平の顔を見上げる。 彼は艶めかしく笑って、綱吉の鼻先に鼻先を近づけて、ほとんど触れあうような距離で囁いた。 「キスをしても、いいだろうか?」 「そ、……そんなこと、聞かないでください……」 「おまえの嫌がることはしたくない」 聞きようによっては相手を挑発しているような台詞だったが、了平はいたって真剣な態度で綱吉の答えを待っている。彼は本当に綱吉が嫌がることをしたくないだけなのだ。 くそう。ずるい。と内心で罵って、綱吉は両手で了平のスーツを握りしめた。 彼はスーツを握った綱吉の両手を見下ろして、ますます嬉しそうに双眸を細めて笑う。こんなにも分かりやすく好意を示されて良い気分にならない人間はいないだろう。無骨な指が綱吉の後ろ髪や耳元をくすぐる。甘やかなものが心の奥から広がってくるのを感じながら、綱吉は目を伏せる。 「いい、ですよ」 ふ、と笑った了平の吐息が綱吉の唇をくすぐる。やわかいものが唇に触れ、そして湿ったもの――舌が綱吉の口の中を確認するように侵入してくる。思わず身をひきかけた綱吉の身体を了平の腕が抱擁する。息をするように一度唇を離し、再び深く唇をあわせる。唾液が混じり合う音がかすかに、それでいて大きく綱吉の耳に届く。 「ずっと、――ずっとこうしたいと思っていた」 陶酔するようにつぶやいて、了平は綱吉の顔に頬をすりよせる。甘酸っぱいような、胸を締め付けられるような言葉に、綱吉は目を閉じる。理由などわかりきっている涙がこみあげてきて、それを必死に押しとどめるために、綱吉はゆっくりと了平の首筋に顔をうずめて、そろそろと両手を大きな了平の背中に回した。 了平は力強い両腕で綱吉の身体を抱きしめ、片手を優しく綱吉の髪にさしいれて、何度も何度も愛おしげに頭を撫でる。 「ようやく手に入ったんだ――。おまえのことを、ずっと愛していた。これからも愛していく、ずっと、ずっと――」 少しだけ身を離して、綱吉は了平を見上げた。 了平も綱吉を見下ろす。 二人がどちらともなく、顔を近づけていった瞬間――、 気配もノックもなく、扉が勢いよく開いた。 驚いて身をすくませた二人は、抱き合った姿勢のままで扉の方へ顔を向ける。 同じく、驚いた様子だったリボーンは目を見開くだけに反応を止め、持っていた資料の束を取り落とすような無様な真似はしなかった。 慌てて了平と綱吉が身を離しても時はすでに遅い。 リボーンは、ひどくニヤニヤと笑いながら、二人の横を通り過ぎて執務机のうえに持っていた資料をおいて、窓際近くで部屋の中央にいる綱吉たちを振り返った。 「よう、ボス。ずいぶんとスキャンダラスな愛人つくったもんだな」 「男として責任をとるのは当たり前のことだ!」 「責任?」 拳を握って叫んだ了平の言葉に、片側の眉をはねさせてリボーンが呟く。綱吉は慌てて了平とリボーンとの間に割って入って両手を振り回した。 「ちょ! なんてことを!! いや、リボーン、なんでもないから、なんでもないから!」 「だがしかし、沢田。言っておいた方がいいだろう? こいつはおまえの家庭教師だったのだから」 「いや、いやいやいや! 黙ってていいですから! 俺達、男同士なんですからっ、そんな堂々と愛を宣言するなんて――」 「俺は沢田が好きだということは誇らしいことであって、堂々と宣言していきたいと思っていたんだが……沢田は違うのか?」 「そんな、だって、男同士で、マフィアで、ボスと守護者で、ええ? オレ、……オレッ……!」 両手で頭を抱えてしゃがみ込んだ綱吉がくらくらしていると、リボーンがすかさず近づいてきて右腕を振り上げ、 「お、ち、つ、け」 綱吉の頭をリズムをつけて四回、加減もなく平手で叩いた。痛みで現実に戻ってきた綱吉は、羞恥と痛みとどちらで潤んだか分からない目で了平を見た。彼は少しだけ戸惑ったように口元だけで笑った。 傷つけてしまった。 舞い上がっていた気持ちが急降下して、腹部の辺りに重たくのしかかる。とっさに立ち上がった綱吉が、了平に手を伸ばそうとした瞬間、リボーンがおおげさにため息をついて綱吉を睨んだ。そのあとですぐに了平へも不機嫌そうな視線を投げる。 「まだ酒がぬけてねーのか、阿呆ども。おまえらはしばらく断酒しろ、そうじゃねーと、どっちかが怪我すっぞ。ったく、素面のときも人の話きかねーのに、酒入るともっと人の話きかなくなるしな。」 「え、――何の話?」 「昨日の夜のこと、覚えてねーのか?」 綱吉が了平を見ると、了平も綱吉を見ていた。綱吉はリボーンへと視線をもどし、詰め寄るようにして彼に迫った。 「覚えて、ない、って? え、リボーン、なにか知ってるの!?」 ますます呆れたというように、リボーンは目線をぐるりとわざとらしく回転させたあと、嘆息をして肩をおとした。 「昨日の夜にな、すこし報告してーことがあって、おまえの私室に行ったんだ。了平が帰ってきてて酒盛りしてんのは分かってたからな。それで行ってみたら、おまえらなんでか知らねーけど、パンツ一枚になっててな、なにしてんだ?って聞いたら、ボクシングって言ってな、……笹川もツナも本気でやってるようじゃなかったみてーだが、どっちも相当酔っぱらってて、人の話聞きやしねーし。――オレにも飲めっていって、二人で阿呆みてーに俺のグラスに注いで陽気に笑ってやめねーし、ほんと人の話きかねーよな、おまえら。それでまた思い出したように殴り合い始めて――、オレが来て一時間するかしねーかのうちに、オレが見てる前でおまえら二人とも絨毯のうえでぐーぐー寝ちまいやがったんだ。風邪ひくと面倒だから、オレがベッドに放り込んでやったんだ。感謝しろ、馬鹿野郎どもめ」 「え、ちょ……、じゃあ、腰が痛いのって――」 動揺して声が震えている綱吉を哀れそうに眺め、リボーンは言った。 「おまえが自分でドロップキックしようとして床に叩きつけられてのたうち回ってたんだぞ?」 「ば、……馬鹿じゃないの……」 「馬鹿だろ、馬鹿。本当に救いようがねーな。馬鹿。この馬鹿」 冷たい眼差しと、容赦のない言葉の連打に、綱吉は言葉を失っていたが、ベッドに残っていた赤い染みのことを思い出してハッとする。 「じゃあ、シーツのシミは?」 「はあ? 染み? ありゃあ、酔っぱらったおまえが、ジャグリングするんだって言って、赤ワインのボトルを放り投げたときに出来たんだぞ、……そもそもボトル一本でジャグリングなんぞ出来るわけねーんだけどな」 「……赤ワイン……」 「はあん? まさか血だとでも思ってたのか? めでてーやつらだな、臭いか色で気付けよ。……おまえら、仮にもマフィアやってんだろ? ああ?」 「ご、ごもっとも、ですね!」 段々と不機嫌になっていくリボーンに、へらりと笑みを返して綱吉は頷いてみせる。突き刺すように睨んでいたリボーンも、長々と息をついてボルサリーノのふちを指先でなぞって持ち上げる。 「昨日のことはこの際どーだっていいが、鍵もかけねーでいちゃつくのだけはやめておけ。ドンが男の守護者とできてるなんて噂が広がんのだけは勘弁してくれよな」 「――ああ、そうだな」 とっさに言葉が出てこない綱吉に変わって、了平が実に落ち着いた様子で答えた。彼は平静を装っているようだったが、綱吉には少しだけ哀しそうにみえて胸が痛んだ。 「おまえら二人、しばらく禁酒しろ。あんな醜態、部下にでも見られたら最悪だ。分かったな」 人差し指を突きつけてリボーンが語尾を強めて言った。 「はい」 「ああ」 綱吉と了平が頷くのを確認したリボーンは「資料、目ぇ通しておけよ」と言って、さっさと部屋を出ていってしまった。 残された綱吉と了平は、互いに微妙な距離をおいて立っていることを嫌でも意識するしかなかった。 綱吉に限って言えば、了平との関係を隠しておきたいと言ったことで、了平を傷つけてしまったと思っているので、了平の方を見る事が出来ないでいた。互いの気持ちを確認したそのすぐあとで、こんなにもすれ違ってしまったことがショックで仕方がなかった。 「……はぁ……」 我知らず嘆息したあとで、慌てて片手で口元を覆う。とっさに了平を見た綱吉の視線と、彼の視線がばちりと合う。 「えっと……、へへへへ」 綱吉は笑ってみた。 了平は少しだけ迷ったあと、笑った。 微笑むのを迷った時間の理由は、綱吉が口にした言葉――堂々と宣言する事は出来ない――という言葉に少なからず傷ついたからだろう。 少なくとも、綱吉にとって、ボンゴレのボスにとって、了平との関係は秘密にしておくべきことだった。立場と威厳と地位のために。そのために失われていくものがどんなに貴いものだとしても、綱吉にそれをすくい上げる手はない。 沈黙することが、生来真っ直ぐな生き方をしてきた彼を悲しませ、傷つけることだとしても――、綱吉はそれしか選べない。 了平にそっと近づいていって、綱吉は彼の前に立った。 「了平さん」 うん?と了平は答え、綱吉の言葉を待つように黙っていた。 綱吉は両手をのばして、了平の頬を包んだ。彼は少しだけ目を細めて、綱吉の手のひらを受け入れる。指のはらで彼の頬を撫でた。熱をもった肌に触れると、もっと触れたいと欲望がわきあがってくる。 了平の右手が綱吉の顔に触れる。綱吉の手が了平の頬を覆うだけで精一杯だというのに、了平の手は綱吉の顔のほとんどを覆ってしまう。大きな手のひら、力強い肉体の存在感、そして見上げた先にある彼の笑顔――。 「愛してます。了平さん。――嘘や秘密が嫌いなあなたに、オレはそれを強要させてしまうことになってしまうけれど……、オレはあなたに側に居て欲しいんです。……ごめんなさ――」 謝罪を口にしようとした綱吉は、言い終わらぬうちに了平の逞しい胸板に視界を覆われてしまった。太い腕が綱吉の背中に回り、痛いくらいに抱きしめられる。 「い、いたい、です、よっ、了平さん……ッ」 「なにを謝ることがある」 綱吉の身体をかき抱いた了平は、腕をゆるめると、綱吉の顔を覗き込んだ。綱吉が大好きな明るく前向きな、輝くような笑顔を浮かべた了平の顔が目の前にある。極度の安堵感から思わず綱吉は身体がふわっと軽くなったような気がした。 「配慮が足りなかったのは俺のほうだ。すまない。おまえはボスなのだものな。守護者の、それも男の俺とのことなど、大っぴらに出来るはずはない。――沈黙することくらい、嘘をつくことくらい、なんだっていうんだ! おまえが俺のことを受け入れてくれると言うのならば、どんな苦悩だって耐えてみせるさ! 沢田、おまえさえいてくれれば、俺はどれだけでも強くなれるんだからな」 「了平さん……」 「これからもよろしくな。沢田」 きれいな歯並びを見せるようにして笑い、了平は首をかたむける。 綱吉は彼の腕のなかに抱かれたまま、つられるようにして笑う。 「ええ。そうですね。よろしくお願いします」 「夢のようだ。沢田が俺の腕のなかで笑っているなんて……」 思わずといったふうに呟いた了平の様子に綱吉は軽く吹き出してしまった。 「あはは。夢じゃあ、ありませんよ。――じゃあ、とりあえず、もう一回、ちゅーでもしておきましょうか?」 綱吉が片目をつむっておどけると、了平は今更ながらに顔を赤くして、「いいのか?」と遠慮がちに囁いた。綱吉が頷くと、彼は子供が喜ぶように顔をほころばせる。 吐息が触れあうほどに互いに顔を近づけて見つめ合う。 「大切にするからな。沢田」 「――オレも。大切にします、了平さんのこと」 二人は同じようなタイミングで微笑みあうと、ゆっくりと数センチの距離を縮めてキスをした。 |
|
【End】 |