イタリアへ渡る、旅立ちの日。 その日の朝、奈々の手作りの朝食で、沢田家の面々は全員で食べる最後の朝食を食べた。子供達も奈々も明るくふるまってくれていたが、前日の夜、子供達が奈々に抱きついて泣いていたことを綱吉は知っていた。生涯の別れではないにせよ、簡単に逢えるような距離ではなくなるのだ。綱吉が寂しいと感じている何倍も、子供達は寂しいと感じているだろう。 朝食を終えた綱吉とリボーンは二階にある綱吉の私室へ戻った。奈々達は綱吉達を送り出すために、家の外で待っている。家光がレンタルしてきた小型バスで、空港へ向かう手配が整えられ、獄寺、山本、了平の三名は自宅にてバスの到着を待っている状況だった。守護者ではあるものの、ランボはまだ幼いことを理由に、日本の沢田家に残ることになっている。せめて中学を卒業するまでは学校に通った方がいいだろうという、綱吉の考えを九代目がくんでくれた結果だった。 必要なものはすべて、事前にイタリアで綱吉が住むことになっている本邸へと航空便で送られることになっている。 だから、綱吉の荷物は、高校時代に使い古したショルダーバッグがひとつだけだった。財布とパスポート、簡単な着替えと筆記用具しか入っていない。とても外国へ行くような荷物ではない。綱吉は昨夜からほとんど眠っていなかった。無理もないはずだ。日本の土地を離れ、遠い土地へ行き、今まで誰もがやり遂げなかったことをやらなくてはいけない。重圧を感じていないといえば嘘になる。 ぎゅっと握りしめた右手の中指で、大空の指輪が光る。左手の親指にはまっている指輪は、未来の綱吉がリボーンへ手渡したペアリングの片方だった。薬指にはめていても抜け落ちてしまうので、左手の親指にはめることにした。流線型の彫り物が施された指輪に綱吉は誓っていた。 『あなた』のようになれるように、オレは、頑張ります。 大空の指輪のような伝統も伝説もない、ただの指輪だが、綱吉にとっては、己の未来を指し示すための羅針盤のように思えた。 「準備は出来たのか?」 指輪をしている手を見下ろしていると、片手にトランクを提げたリボーンが近づいてくる。 「うん。荷物は全部、送っちゃったからね。――持っていくのは、これだけ」 多少、すっきりとしてしまった自室を眺め、綱吉は隣に立ったリボーンと目を合わせる。 「鞄ひとつか」 「身軽だよね」 リボーンが「そうだな」と相づちをうち、綱吉の部屋を眺めた。 綱吉が成長し、今までの人生を過ごしてきた部屋を今日、出ていく。子供の時からずっと刻まれてきたたくさんの思い出、さまざまな記憶、去来するセンチメンタルな感情が綱吉の心を揺らし、あやうく涙腺を刺激しそうになる。 ゆっくりと息を吐き出して、綱吉はこみあげてきそうになった涙を散らした。 「ここに残していくものは多いかもしれない」 「ああ、そうだな……」 「でもきっと、向こうで得るものは少なくないって、そう思えるんだ」 リボーンの黒い瞳が綱吉を見上げてくる。 綱吉は彼の瞳を見つめた。 「たとえ、オレの行く先が悪夢だらけの世界だったとしても、おまえがいてくれるんなら、倒れないで、立ち向かって行けそうな気がするんだよね」 「どうしてだ?」 「センセイに、無様なところ見せたら、オレ、殺されちゃうでしょう?」 「そうだな、殺したくなるかもな」 「だろ? だからオレは、おまえが側にいる以上、立ち向かって戦って、勝つしかないんだよねえ」 笑いながら、綱吉は片目を細める。 たとえ、どんな壁が立ちはだかったとしても、戦い、乗り越えていける。 そんな気持ちにさせるだけの、魅力と意志がリボーンの瞳から伝わってくる。 綱吉はありったけの愛情を込めて、リボーンへ微笑みかけた。 「さあ、オレとおまえで新しい世界を作りに行こう」 リボーンは声をたてて笑い、トランクを持っていないほうの手で綱吉の腰を叩いた。 「世界を作るか。……まあ、頑張ってくれよ。ボンゴレ十代目」 「ちゃんとサポートしてくださいね、センセ」 後ろから鉄拳が飛んでくる前に、綱吉は荷物を肩から提げて部屋を出た。背後で舌打ちがしたが振り返らず、綱吉は廊下を歩いて階下へ行くために階段へ向かった。 綱吉は一人ではない。 リボーンがいて、 親友達がいて、 頼れる先輩達もいる。 一人でないのなら、綱吉は負ける気がしなかった。 「オレとリボーンとで、世界を、変えてやる」 不敵に笑って、どこかに存在するかもしれない神様に向かって宣戦布告をして、綱吉は階段を降り始めた。 |
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「ちゃんとサポートしてくださいね、センセ」 歌うように言ったかと思うと、綱吉はさっさと身を翻して部屋から出て行ってしまった。殴るタイミングを逃してしまったリボーンは舌打ちし、持ち上げていた手を下ろした。 「世界を、変える……か」 呟いて息を吐き出し、リボーンはワイシャツの襟元に指先をさしいれ、細い銀の鎖をに指先をひっかけた。微かな音を立てて引き出された鎖の先には、銀色の指輪が光っている。未来の綱吉から譲り受けたペアリングの片方だ。リボーンの指はまだ細く、指輪をするには適していない。奈々からネックレスチェーンを一本譲り受け、リボーンは指輪をペンダントトップにして首にかけた。そのことを、綱吉はまだ知らない。 鎖の先で揺れた指輪を親指と人差し指ではさむようにして持ち、リボーンは顔の前へ持ってくる。内側の文字はもう幾度となく眺め、そのたびにリボーンは胸の奥に甘い痛みのようなものを感じては目元を細めてしまう。 「たとえ、おまえのこれからの生きる世界が、どんなに悪夢のような世界だとしても、オレが変えてやる」 静かに囁いて、リボーンはつまんでいた指輪を口元へ引き寄せ、冷たい銀色の指輪にキスをした。 「おまえが泣くような世界なんて、オレが全部ぶち壊してやるさ。なあ、ダーリン」 一人で満足そうに微笑み、リボーンは指輪をもとのようにシャツの内側へ戻した。 窓ガラスを通して、玄関口が騒がしくなった気配が伝わってくる。おそらくは階段を降りていった綱吉が、玄関口に集合している沢田家の面々と顔をあわせたのだろう。 リボーンは綱吉の部屋の戸口に立って、もう一度室内を振り返った。 綱吉と過ごしてきた数年間がリボーンの心に浮かんで、すぐに幻のように消えていった。彼と過ごした期間は五年になるかならないかの、その程度だ。しかし、リボーンはこれから先、どれだけでも綱吉と過ごす事が出来る。五年、十年、十五年、人生が終わるそのときまで、綱吉の側で生きることだって出来る。 「……生涯を捧げるってのも、面白いかもしれねぇよな」 誰に言うでもなく呟いた独り言から遅れて、リボーンはクスクスと笑いだした。お気に入りのボルサリーノのうえから頭をおさえうつむき、リボーンは綱吉の部屋に背を向ける。 そしてリボーンは、騒がしくも明るい笑い声が絶えそうにない、沢田家の玄関へ向かって歩き出す。 世界がどんなに悪夢に満ちていようとも、沢田綱吉にしかない、彼の炎の輝きさえあれば、世界はどんなふうにも変えていけると信じて、リボーンは階段をゆっくりと降りながら口元に嘲笑を浮かべる。 どこかにいるはずの、この世界の神よ、覚悟しておけ。 あんたがあいつにどれだけの試練をしむけようとも、 オレが側にいるかぎり、あいつは決して膝をおるようなことはしない。 そして、オレがそんなこと、させやしない。 階段を降りきった玄関先、扉が開いた先にランボに腕を掴まれている綱吉の背中が見えた。あたたかく優しい家庭で育った彼らしい、やわらかい雰囲気が彼のまわりに生まれている。 リボーンが目にして、経験してきたマフィアの世界には存在することすらない、優しくて弱くて儚い光景が目の前にあった。 『オレは自分で選んだんだ』 綱吉が笑っていった言葉を思い出す。 その言葉を信じれば、リボーンは楽になれる。 彼をマフィアのドンにした罪悪感から逃れる事が出来る。 だからリボーンはその言葉は信じない。 彼が許そうとしても、リボーンは絶対に自分を許さない。 リボーンの一生をかけてでも、綱吉の側で生きて、彼の生き様を見守ることでしか、彼の人生への責任の取り方をリボーンは思いつかなかった。 「綱吉」 小さく声にだして、名を呼ぶ。 微かな呼びかけだったというのに、長年リボーンによって鍛えられて気配に敏感になった綱吉が、ランボの頭を撫でながら家屋内へ振り返った。リボーンを見つけた彼は明るく笑うと、片手を持ち上げて、リボーンを手招く。 「リボーン!」 はじけるような笑顔とのびのびとした綱吉の声音に触れると、リボーンは何度だって、生き返るような心地がした。 「リボーン! なにしてるんだよ、こっち来なよ」 身体の中心から伝わってくる心地の良い波紋がリボーンの心を揺さぶる。 「……ツナ――!」 心が命じるままに綱吉を両腕に抱きしめるために、リボーンは階段を駆け下りて、笑顔を浮かべている綱吉めがけて――走った。 |
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【黄昏に沈むセピアの箱庭】×【HAPPYEND】 |