04:顔に触れる










 デイビット・ラグレンシー。
 それがいまの、スカルの名前だ。薄い銀色のストライプの入ったブラックスーツに、濃い青色のデザインサングラス、ワイシャツもサングラスの色にあわせて水色にして、ネクタイは銀灰色と白の細かいチェック柄のものを着用している。持ち物は銀色のアタッシュケースをひとつ、左腕に黒革のベルトの腕時計をはめているだけだ。
 スカルの年齢は十五歳。
 まだスーツを着用するには早すぎる年齢とはいえ、やせ形で背の高いスカルがきっちりとスーツを着込むと、それなりに年上に化けることができる。重ねて、スカルは色のついた眼鏡で目線を隠すため、幼い顔つきを誤魔化すことも出来るため、年齢の詐称についてはすぐに見抜かれるリスクは少ない――はずだ。
 携帯してい身分証は偽造したものだが、一見しただけでは偽造を見抜けない精密さで偽造されたものだ。スカルが信頼している偽造書作りの職人のなかでも特別に素晴らしい出来あがりを見せてくれる職人のものなので、「デイビット・ラグレンシー」は特別な仕事のときに使うようにしているものだ。

 高級感をうたうホテルのロビーに置かれた、上質なソファに身体を預けて膝のうえにアタッシュケースをのせ、スカルはビジネス情報誌を片手に上の空でいた。とはいえ、完全にぼけっとしている訳ではない。今回の仕事の依頼人を考えれば、気を抜けば死ぬ――ことも考えて置かねばならない。ので、スカルはスーツの下に二本のサバイバルナイフを携帯している。拳銃は持たず、目くらましの小型爆弾を袖口と足首にいくつか所持している。襲撃された場合、スカルは勝つことに執着しない。まずは逃げる。その場から命を守って逃亡し、己の生命を守ることこそ、スカルにとっての勝利条件だった。情報の詰まった脳を無事に残さねば、たとえ勝利したとしてもなんの意味もない。

 雑誌を持ったまま袖口を指先でめくり、スカルは腕時計で時間を確認する。約束の時間は一時半、時計は一時二十七分――そろそろ待ち合わせの相手が現れるころだろう。


「待たせたな」


 伏せていた視線を持ち上げて向かい側のソファを見ると、ちょうど黒ずくめの少年が手に持っていた黒い革製の手提げトランクを足下に置いて座るところだった。成長過程とすぐ分かる、華奢なラインの両足を優雅に組んで、リボーンはニィッと口角の片側を持ち上げる。ここ一年で彼の体格は若木のように成長していて、スカルはたまに会うたびに驚いてしまう。二ヶ月ぶりに会ったリボーンは、顔のラインが幾分かシャープになり、顔立ちから幼さがなくなっていた。
 

「時間どおりだ。気にするな」

「で。首尾は?」

「悪くない。ただ、ちょっと諸経費がかさんで、高くついた」


 言いながら、スカルは雑誌をソファの傍らにおいて、膝のうえに置いておいたアタッシュケースの暗証番号を五桁入力し、ケースを開く。そして中にファイリングしてあった資料を向かい側のソファに座っているリボーンへと差し出す。


「どのくらいだ?」

「当初の予定より、二割り増しってとこだ」

「ああ。そのくらいなら予測の範囲内だ」


 スカルから受け取った資料の表紙をめくり、リボーンはざっとおおまかな内容に目を通し始める。うつむいているせいで、かぶっているボルサリーノのふちで、リボーンの表情は見えなくなる。スカルはアタッシュケースを閉じて、両足の間に置いてから、両腕を膝の上に置き、少し身を乗り出すようにして座り直す。


「あんたがオレに仕事を依頼するとはな」


 ふ、とリボーンが口元だけで笑う。
 資料から視線を持ち上げずに、彼は言った。


「おまえはオレのパシリだからオレのために働くのは当然だろ」

「おい……。報酬、ちゃんと振り込まれるんだろうな」

「オレが払わなくても、ツナがちゃんと払うだろ。そんなに構えんじゃねーよ。冗談だろ、冗談」


 スカルは心の中で「あんたが言うと冗談に聞こえねーんだ。ばーか」と思った。瞬間、おまえの心の声などお見通しなのだというように、リボーンが顔をあげてスカルを睨んだ。思わず、顔面を硬直させたスカルだったが、リボーンは怯えたスカルを鼻先で笑って、すぐに資料へ視線を落とし始める。おそらく、スカルをいびる暇があるなら、情報を脳へインプットするほうが有益だからだろう。
 資料を読むリボーンの指先が紙をめくるのを眺めながら、スカルはずっと考えいたことを口に出した。


「なあ。――その案件、もう少し探ってやろうか?」

「ん? なんだ? ご奉仕してくれんのか?」

「誰が無料でやるといった。こちらが提示した情報に見合う報酬をもらえるのならば――依頼を続行する用意はある。どうする?」

「きな臭いのか?」

「医療系の技術開発に力を入れているファミリィは、例外なく、人体実験に手を出している場合が多い。その際、実験対象となる被験者に自ら望んでなるか、それとも強引に拉致されて被験者となりうるのか、それは分からないが――。必ず開発した新薬を『人間』に試したくて行動を起こす。……行動を起こされてからよりは、行動が起きる寸前で排除したほうがいいんだろ?」

「そうだ。見せしめの効果がなきゃ意味がねえ」


 声を低めて言って、リボーンは膝のうえで開いていた資料の表紙を閉じる。そして、綺麗と賞賛するに相応しい容貌に似合いの、かたちよい唇に獰猛そうな笑みをのせて、白い歯をわずかに見せる。


「ボンゴレだってしょせんはマフィアだ。なにも正義面してマフィアの世界を踏み荒らすつもりはねぇぞ。ただ、オレ達を、――ボンゴレを慕ってくれる街の人間を不幸にする奴らを根絶やしにするだけだ。悪が悪を喰らって何が悪い。喰らわれるのが嫌なら、悪になんてならねーで、お日様のしたでぬくぬくしてろって話だろ?」

「――ある意味、あんたらに狩られるよか、警察に掴まった方が幸せだろうな」

「警察は何も、生命や誇りまで奪いはしねぇもんな」


 言いながら、リボーンはスカルから受け取った資料のファイルを、持ってきた黒い革製の手提げトランクのなかへしまう。


「えげつないな。相変わらず」

「えげつねーのは、オレじゃなくて、ツナだろ」

「ボンゴレがか? ……まあ、ボンゴレはある意味、えげつないっていうより、存在があらゆる意味でジョーカーすぎて……。コメントに困るな」

「エースで、キングで、時々クィーンにだってなって見せて、さらにジョーカーだなんて奴。オレは初めて見たぞ」


 片手を持ち上げて左右に振りながら、リボーンは笑う。
 スカルもつられて笑いながら、息をつく。


「ジャックがいれば、ストレートフラッシュだな」

「――ジャック(騎士)ならいっぱいいるだろ?」


 リボーンは自分のことを指さし、その指をスカルへ向ける。スカルは苦笑して肩をすくめた。確かにドン・ボンゴレ、沢田綱吉の名の下に組みする騎士ならいくらでも――誇張表現でなく、いくらでも、なのだから恐ろしい――存在する。

 さらに重ねるようにリボーンが何かを言おうとした瞬間、彼は開きかけた唇を閉じて、スーツの内側のポケットに手を入れて小さな携帯電話を取り出した。

「わりぃな」

 短く断りをいれて、リボーンは電話に出た。
 二言、三言、言葉を交わしたリボーンの表情がサッと陰り、険しいものとなる。途端、スカルは心臓を射抜かれたかと思って胸を押さえた――理由は簡単だ、リボーンが抑えきれなくなって一時的にもれた殺気にあてられて、身体がすくんだのだ。不測の事態だという予感がスカルのなかを過ぎる。

 電話を切ったリボーンにスカルはおそるおそる声を掛ける。

「どうした?」

 握りしめていた電話をスーツの胸ポケットに入れ、リボーンは足下のトランクを掴んで立ち上がる。めらりと燃え立つような殺気を冷静な表情のしたに器用に隠してはいても、リボーンの瞳には激怒の雰囲気が浮かんでいる。


「スカル。おまえ、今日、バイクか?」

「あ、ああ。通り沿いに停めてある」

「オレを乗せて、ルドルリア病院に連れて行け。場所は分かるか?」

「あ、ああ。ここから二十キロくらい先だろ? どうかしたのか?」


 まるでおまえが仇敵だとでもいうように、リボーンが冷酷な目線でスカルを見る。見えない圧迫感のせいで息苦しさを感じながら、スカルは彼が話し出すのを待った。時間にして数秒の沈黙だったろうが、漆黒の冷たい眼差しに睨まれていたスカルには永遠に思えるほど長かった。


「ツナが負傷した」


 リボーンへの恐怖ではなく、喪失を予感させる恐怖にスカルは血液の温度が下がった気がした。とっさに足下に置いておいたアタッシュケースを掴んで、スカルはソファから立ち上がり、ホテルの出入り口に向かって歩き出す。もちろん、リボーンもスカルの隣に並んで早足で歩き出す。


「容態は?」


 リボーンは何も答えず、早足をさらに早めて駆けだした。
 背筋から首の後ろをかけのぼっていった悪寒の冷たさにスカルは唇を噛み、きれいに磨かれた床を革靴で蹴って走り出し、先を行くリボーンの跡を追った。






×××××





「――少々お待ち下さい。案内の者をこちらへ寄越しますので」


 丁寧にお辞儀をしてから、若い女性の看護士が病室から出ていく。綱吉は「はい」と素直に返事をして、ベッドに座ったまま彼女を見送った。
 処置室を経て、案内された個室は通常の個室の何倍も広い場所で、要人用だとすぐに分かるような豪華な作りだった。病室というよりは、ホテルの一室に近い作りだ。だがしかし、ドアの近くにあるスイッチ類や、ベッドの近くに設置されている緊急コール用のスイッチなどで、ここが病室であるとささやかながら主張してくる。そして、いつになっても慣れることのない、消毒薬の匂いが充満しているなかで、リラックス出来るはずもない。

 綱吉は両足にスリッパをはいて、ゆっくりと床を踏みしめながら立ち上がる。びりびりと足先から奇妙な痛みというか、しびれがやってきて、綱吉はすぐに歩き出せなかった。部屋の壁にかけられた、鏡へとゆっくりと綱吉は歩いていった。両足の怪我はそれほど酷くはない。腰から上の右半身の怪我の程度のほうが深刻だった。

 壁かけの鏡の前に立って、綱吉は己の顔を見た。分厚く包帯を巻かれ、首から三角巾でつっている右腕ではなく、左腕を持ち上げて、鏡に映っている自分の顔に触れる。

 顔面の右半分はほとんどガーゼに覆われ、白い包帯が頭と顔を覆うように巻かれている。かろうじて左目と頬、口元のあたりがのぞいているだけで、ほとんどミイラ男みたいな有り様になっている。思わず綱吉は苦笑してしまう――が、筋肉が動いている感覚はなかった。医師に麻酔をかけてもらったおかげで、涙が出っぱなしだった激痛は止んだものの、顔面の感覚すらも失ってしまっていた。笑っている鏡のなかの顔が自分のものでないような、奇妙な感覚が綱吉のなかにうまれる。


「ドジったよなあ。ほんと」


 呟いて、苦笑する。

 ――と、廊下を駆けてくる足音がして、綱吉は病室のスライドドアへと視線を向ける。途端、予感が的中したようにドアがノックもなく、勢いよくスライドして開く。立っていたのは、これも綱吉の予測通りに、リボーンだった。彼は無言のままに綱吉のほうへ近づいてくる。その背後から、スーツ姿の背の高い痩せた男が病室に入ってきて、綱吉は一瞬驚いた――が、それがスカルなのだと理解した瞬間、すぐに笑顔を作って無事な左手を顔の横まで持ち上げて左右に振る。


「――あっ。リボーン。ほんとに来たんだ。それに、スカルまで! ひっさしぶりー」


 陽気に声をかけた綱吉の態度に、スカルは病室に入って数歩のところで歩みを止め、分かりやすく眉間にしわをよせて嘆息した。


「……負傷したわりに、元気じゃねーか……」

「ん? ああ。ちょっとねー、馬鹿やっちゃってさ」


 ガーゼに隠されていない左目でウィンクをして、綱吉は笑う。すぐ近くまで来たリボーンが睨むように見つめているのを横顔で感じながら、綱吉はスカルと視線を交わらせて喋った。


「会食が終わったレストラン出ようとしたらさあ、硝子のドアの寸前で転んじゃって、ドアに顔面からつっこんじゃってさあ。ちょっと切れただけで、おおげさに血ィでた程度だったんだけど、一緒にいた獄寺くんが悲鳴あげて、オレはいいって言ってんのにここに担ぎ込まれちゃったんだよ。おおげさだよねー、みんな」


「おい。リボーン先輩、どういうことだ、あんたの態度じゃ――」
「ちょっと、てめーは部屋の外に出てろ」


 表情を引きつらせて喋っていたスカルの声を、徹底的に無視して、リボーンが高圧的に命じる。さすがに頭にきたのか、スカルが厳しく顔をしかめてリボーンを睨む。


「あ?」

「いいから出てろ。少ししたらオレも行く」

「取り込んでるようなら、オレは帰るが?」

「帰るな。いろ」


 リボーンの声音には「否」を許す余地など含まれていない。スカルは少しの間リボーンを睨んでいた。リボーンもまた、スカルのほうを向いている。表情は限りなく無表情なのに、リボーンの瞳に浮かんでいる怒気は青白く燃える炎のような熱さがあった。スカルは舌打ちしてから、目元を隠しているサングラスの位置を指先で直すようにして、「分かった」と言い、病室から出ていった。

 スライドドアが閉まるのを横目に見ながら、綱吉は壁を背にして立った。目の前に立っているリボーンが、かたちのよい綺麗な黒い目で綱吉のことをまっすぐに睨み付けるように見つめてくる。

 ここ数ヶ月間で、リボーンの身長や体格はめきめきと成長している。少し前まで綱吉のことを見上げていた彼の視線の位置が、いつの間にか高くなり、あと少しでもうほとんど同じ目線になりそうなくらいだった。

 目線の位置に、すこしのくすぐったさを感じて、綱吉は微笑んでしまう。そんな綱吉の仕草に、リボーンが気分を害したかのように、おおげさに眉をしかめた。麻酔のせいで顔面の筋肉の感覚がなくて、ちゃんと笑えているのかどうかさえも定かではないが、綱吉は自分がちゃんと笑えているイメージを頭のなかで描きながら、感覚のない顔で笑う。


「なに、スカルのこと脅してんの?」

「なに、嘘ついてやがる」


 低い声で言って、リボーンが綱吉の左腕を掴む。


「立ってるんじゃねぇ。身体に障るだろ。座ってろ」

「心配しすぎだよ」

「うるせーぞ。言うとおりにしろ」


 嘆息をひとつついてから、綱吉はリボーンに左腕を引かれてベッドまで連れ戻された。看護士が立ち去った時と同様に、綱吉はベッドに腰掛ける。その前にリボーンが立ったので、綱吉は自然と立っているリボーンを見上げる形になる。不機嫌そうな顔で唇を引き結んだリボーンは、綱吉と目が合うと、険しい顔をした。そして、持ち上げた左手で綱吉の頭に包帯ごしに触れる。ますます、怒りたいのか、泣きたいのか、よく分からない顔で、リボーンが歯を噛みしめたのが、ぴくりと動いた彼の口元の皮膚の動きで分かった。綱吉は側頭部を包むように触れているリボーンの手に頭を預けながら、目を閉じる。


「なんで、スカルまで連れてくるんだよ。あいつにまで、心配かけちゃうだろ」

「あいつのバイクでここまで来たんだ。仕方ねーだろ。――で、眼球は無事なのか?」


 無事な左目を開いて、綱吉はリボーンを見る。左目はちゃんと彼の姿を映している。問題なのは――右目だった。


「目にはね、入らなかったと思うんだけどね……。獄寺くんが精密検査してくれって言うから。これからちょっと、また検査室に行かないといけないみたいだよ。破片とか、とっさに炎で防ごうとは思ったんだけど、さすがに爆発の早さより早く動くの、オレには無理だったみたい」

「狙撃に関する調査はどうしてる?」

 茶化すように言った綱吉の態度をまるきり無視して、リボーンは質問をした。綱吉はおどけるのをやめて、溜息をついてから現状を説明する。


「爆発物の破片はすべてジャンニーニのところのラボに運ばせたよ。狙撃手関係は骸に連絡とって、霧の部隊に一任してある。情報収集と情報操作に関してはあそこが確実だから」

「そうか」

「オレを狙撃するよりも、オレの近くの爆発物を狙撃するなんて、よく考えたもんだよね。『自分が狙われている』より、『自分の近くの物体が狙われている』ほうが、オレの超直感にもひっかかりにくいからな。――よく、考えたもんだ」

「感心することか」


 吐き捨てるように言って、リボーンが片目を細める。リボーンの指先が動いて、包帯とガーゼに包まれた綱吉の右顔面に触れる。分厚いガーゼと麻酔のせいで、彼に触れられている感覚は綱吉にはない。それでも、左目に映る彼の仕草が優しくて愛しくて、綱吉は左手を動かして、まだ少しだけ華奢なリボーンの左手に手を重ねる。


「痛みは?」

「薬が効いてるから痛くはないし、感覚もないよ。オレ、どんな顔してる? 変じゃない?」

「傷は、残るのか?」

「さあ? どうだろう。ドクターとは、獄寺くんが話してたみたいだけど、オレは別に興味ないよ」

「なに言ってやがる? 顔だぞ? 傷跡が残ったら……」

「生命を奪われた訳じゃないなら、どうだっていいよ。オレは」


 素っ気なく綱吉が言ったことが気にくわなかったのか、リボーンが驚いた顔をして、すぐに渋面を作る。綱吉の顔に触れていた手を下ろして、ぎゅっと手を握り込んだ。綱吉も持ち上げていた手をおろしてベッドのシーツの上へ置く。
 リボーンは憤りが全身を駆け抜けるのを待ったかのように数秒間黙り込んでから、からみつくような視線で綱吉のことを睨んだ。


「おまえがどうだってよくても、オレは嫌だぞ。おまえの顔が傷つくのは」

「うん? おまえって、そんなにオレの顔好きだったっけ?」

「愛してる奴の顔に傷がつくのなんて、誰だって嫌に決まってるだろうが。バカ野郎」


 声を低めて呻くように言って、リボーンは指先でボルサリーノの縁を掴んで顔を隠すようにうつむいてしまう。


「リボーン」


 綱吉は左腕をリボーンに向かって伸ばす。
 帽子の縁を持ち上げたリボーンが、伸ばされている綱吉の手を見て、ぴくりと目元を細める。


「リボーン、こっち、来て?」


 手をひらひらとさせて綱吉が言うと、リボーンは帽子を掴んでいた手を下ろして、綱吉の方へを歩み寄ってくる。開いていた腕の中にリボーンの身体が収まるのを待ってから、綱吉は片腕をリボーンの背中に回した。数ヶ月でどんどん成長していく彼の背中に手のひらで触れながら、わずかに香水の香るシャツの胸元に鼻先を埋める。数日ぶりに嗅ぐ、リボーンの香水の匂いが綱吉の安堵感を刺激する。痛みに呼応するように流れた涙とは違う涙が溢れてきそうになって、綱吉はゆっくりと息を吐き出した。それから、リボーンの胸元から顔を上げて彼を見上げる。リボーンは両手で綱吉の頭を包むように、そっと触れていた。漆黒の、どこまでも深い闇色の瞳が包帯だらけの綱吉の顔を見下ろして、苦痛そうにゆがむ。綱吉はリボーンの背中に回していた手で彼の肩を掴んで引き寄せ、目を閉じる。一連の仕草ですでに流れを理解していたのか、リボーンは自然な仕草で綱吉の唇に唇を寄せる。綱吉が口を開くと、当然のようにリボーンの舌が侵入してくる。キスの主導権はほとんどリボーンが保有していることが多い。綱吉は時々鼻で呼吸をしながら、角度を変えて求め合うようにキスを繰り返した。

 名残惜しそうに離れていった唇を合図に、綱吉は目を開ける。美しいと評されるにふさわしい美貌の少年は、黒い瞳に憂いと怒りを混じらせて、綱吉のことを間近から見つめてくる。彼は親指の腹で綱吉の口元を拭うと、その指を口元へ運んで舌先で唾液を舐めとたった。その仕草の艶めかしさに、綱吉は身体を奥がじわじわと熱を持ち始めるのを感じて、己自身に呆れた。襲撃され、負傷したにもかかわらず、性的に興奮してしまう男の性からどうにか目をそらしながら、綱吉はリボーンの腰の裏に手をおいて、背筋を伸ばして立って彼の顔を上目遣いに見上げた。

「唇が残っていれば、キスができるだろ?」

 リボーンは唇を忌々しげに歪めただけで何も言わない。


「おまえ、物騒なこと考えてるだろ」
「……………………」

 リボーンは綱吉の視線を真っ向から受けて、唇だけで笑う。何かを企んでいる顔だ。浅く息をついて、綱吉は首を左右に振った。


「駄目だぞ。言っておくけど、単独行動は禁止だからな。今回の狙撃に関する情報はまだ収集中だし、同じような手口で守護者達が狙われている可能性だってあるんだし」

「オレは一流の殺し屋だぞ? おまえみてーなドジはふまねえ」

「リボーン」


 多少厳しめに名を呼んで、綱吉は彼の腰に回していた左手で、リボーンの右手首を掴む。少年と青年の合間の、骨張った手首を手の中に納めて、綱吉はきっぱりと言う。


「オレのためにそこまでしてくれるのは嬉しいけど。ボスとしてのオレの意見はちゃんと考慮して欲しい。いまのおまえは、冷静じゃないよ。そんなんじゃあ、外で待たせてるスカルにも気がつかれちゃうと思うよ」

「あいつが何に気が付くってんだ?」

「オレのこと好きすぎて自分を見失いそうになってるリボーンに」

「あ? ……ふざけるなよ」


 舌打ちをして、リボーンは綱吉の手を振りほどき、すぐに右手で綱吉の顔を包むようにそっと触れる。壊れ物にでも触れるように触れて、リボーンは目元を引きつらせた。


「おまえをこんな状態にさせた奴をオレの手で殺せないなんてそんなの拷問だ」


 かすれるような声で言って、リボーンがきつく目を閉じる。震える黒く長いまつげの様子に、綱吉は胸をつかれ、泣いてしまいそうになる。が、涙は流せない。涙腺を刺激しないようにそろそろと息を吐き出してから、綱吉は閉じられたリボーンの目元に指先でそっと触れる。ふわりと音も立てずにリボーンの瞼が持ち上がり、漆黒の瞳があらわになる。綱吉は黒い瞳から目を離さずに言った。


「狙撃手を探し出して殺しても仕方がないだろ。まずは狙撃手を捕縛。背後関係を洗い出してから――、対処はそのあとで決める。それがオーソドックスなやり方だろ? そう教えてくれたのは、おまえじゃなかったっけ?」

 リボーンは黙っている。
 綱吉は続けた。

「オレは生きているよ。生きているからこうしておまえと喋って、笑えるんだ。それのどこが不満? 顔に傷が残るのなんて、どうだっていい。死んだら何もかもおしまいなんだ。おまえを抱きしめることもできない。キスもできない。そんな地獄と比べたら、オレをこんな目にあわせた奴を殺せないことなんて、どうだっていいじゃない。ね?」

「……つな……」

 つぶやくようにリボーンが綱吉の名を呼ぶ。ずぶり、と心のどこかに何かが刺さって苦しくなった気がして、綱吉は震えるように息を吐き出した。たぶん、リボーンが今の綱吉と同じ怪我をしたのなら、綱吉もまた、今のリボーンのように憤慨し、独断専行で事を運ぼうとするに違いない。でも、そんなときはきっと、リボーンが綱吉を叱りつけ、軽率な行動をするなと戒めてくれるだろう。

 綱吉はリボーンの右頬を左の手のひらで包むように触れて、戸惑うように揺れている漆黒の瞳を見つめる。


「しっかりして。オレの殺し屋。おまえがおまえを見失わないで」


 目を伏せたリボーンは、一呼吸分の間をあけて、再びまぶたを持ち上げる。


「――誰が誰を見失ったってんだ?」


 唇の両端を持ち上げてリボーンが不敵に笑う。いつも通りのシニカルさを上手にリボーンがまとうのを見届けて、綱吉は彼の顔から手を引こうとしたが、流れるような動作でリボーンの手に手をとられてしまう。すくいあげるように掴んだ綱吉の手を己の口元へ導いて、リボーンはにやりと笑った。


「分かった。単独行動はしねーぞ」

「約束だかんね?」

「ああ。約束だ」


 言い終えたリボーンは、握っている綱吉の手の甲にキスを落とす。キスされた手を身体のほうへ引きよせ、綱吉は怒りと動揺をねじ伏せた黒ずくめの恋人を見上げて、苦笑する。


「なんか、信用できないな」

「どうしてだ?」

「……怒りようから察して、絶対に引き下がらないと思ってたんだけど」

「引き下がって欲しくないのか?」

「いや。大人しくしてて欲しいです。っていうか、大人しくしててよ? ね? 約束だからな?」


 言葉を重ねる綱吉に頷きを返しながら、リボーンは近づいてきて、包帯に覆われている綱吉の右目のあたりに唇を押し当ててる。両腕で頭を抱えられてしまった綱吉の目には、リボーンのスーツの胸元と細い首筋しか見えない。


「ちょっと、……なに?」

 左手でリボーンの胸をかるく押す。それでも彼は綱吉の頭を抱えている腕を解こうとはしなかった。

「リボーン?」

「おまえが生きてるってのを確かめさせろ」

「なんだそりゃあ……」

「生きててくれよ、ツナ」


 水滴が落ちるようにそっと頭上から落下してきた言葉を受けて、綱吉は抵抗するのをやめた。


「オレはまだ、生きてるおまえと見たいものがたくさんあるんだ。だから、死ぬな」


 リボーンの胸元に額を寄せたままで、綱吉は目を閉じた。


「おまえを残して逝くなんて、未練がありすぎて、オレ、死ねないよ」

「そうか」


 クスッと笑う声が綱吉の耳に届く。
 

「そうか。死ねないか。そりゃあ、いい」


 楽しそうに言うリボーンの声が、触れあった肌から伝わってくるのを感じながら、綱吉は左手を持ち上げて、ぎゅうっとリボーンの身体を片腕で抱きしめた。





×××××





 スカルが病室を出て、きっかりと二十分後。
 スライドドアを開けてリボーンが廊下へ出てきた。病室の壁を背にして立っていたスカルを見たリボーンは、視線で歩き出すように示しながら、病院の廊下を歩き出す。


「待たせたな」

「で? オレを待たせていた理由は? オレも暇じゃないんだが」


 歩きながらぶっきらぼうに問うと、リボーンはにやりと笑う。病室に駆け込んだ時とは別人のような有り様だったが、そこを指摘するほどスカルは馬鹿ではない。指摘したが最後、徹底的にいびられるのならば、沈黙を守るべきだ。


「そうか。なら、おまえの時間を買ってやる。いくらだ?」

「……………………どういう意味だ?」

「わざわざ説明させるな。時間が惜しい。どうせ、オレとツナの話は聞いてたんだろ?」


 スカルは思わず表情にのぼってしまいそうだった動揺をすんでのところでねじ伏せた。確かに、スカルは病室のドアを閉め切らず、ほんの少しだけ開いておき、人間の声の波長にあうように調節したイヤホンをしたので――、室内の会話はすべて聞いていた。だがしかし、何も興味本位で聞いていた訳ではない。情報を収集することこそ、スカルの能力を最大限に引きだすことだからこその、行動だ。

「――オレがそんなことをするとでも?」

 数秒の間をあけてしまってから、スカルは己の失態を心の中で罵った。
 リボーンは何もかもお見通しだと言わんばかりに、愉快そうにスカルを横目に見て歩く。

「咎めるつもりはねぇぞ。価値があるかも知れない情報を収集しないほうが馬鹿だからな。――で? どうする? 依頼は受けるか?」

 聞き耳を立てていたことを否定しても無駄だと思い、スカルは舌打ちして意識を切り替える。ドン・ボンゴレたる沢田綱吉が襲撃されたとなれば、裏社会でもそれに伴い、相応の動きが予測される。いち早く情報を仕入れるには、リボーンの依頼を受けて、ボンゴレ内部の動きの情報を手に入れたほうが手っ取り早いだろう。


「急な依頼は割り増しするぞ。オレだって、身体が空いている訳じゃない」

「いくらでも好きなだけふっかけろ。結果が出れば構わねーさ」

「そうか。少し待ってくれ」


 スカルはスーツの内側のポケットに入れて置いた携帯電話を取り出して、補佐を任せている部下の一人にメールを書く。頭のなかにあった三日間の予定を四日後以降に振り分けること、その振り分け方を簡単に羅列した文章を作り、メールを送った。送信画面を確認してから、携帯電話をもとの場所にしまう。

 右手の指を三本たてて身体の前に差し出して、その指ごしにリボーンを睨んで、スカルは言った。

「――三日だ。とりあえず、三日間だけの時間を確保した」

「そんだけありゃあ、オレにも、おまえにも充分だろ」

 クスっと意地悪そうに笑って、リボーンが片目を閉じる。リボーンがかなり上機嫌でいる様子が肌で感じられて、スカルはぞくぞくと悪寒がした。彼が上機嫌なときほど、ろくなことにはならない。主に、彼以外の連中が、ろくなことにならないのを、スカルは嫌というほど知っている。その火の粉が自分にはかかりませんように――と祈りながら、スカルは隣を歩くリボーンへ声をかける。


「それで? 現状での最新情報は何処に集まってる?」

「現状での最新情報は獄寺が把握してるだろ。どうせ、ツナの主治医んとこで、ツナの負傷について聞いているに決まってる。主治医と獄寺が話してる部屋の位置は、前に来たことがあって知ってるんだ。いま、そこに向かって歩いてる。あいつをとっつかまえて必要なこと聞き出せ。そんで、うちの霧の奴よりも早く、狙撃した奴を見つけだせ」

「霧……か。思ったんだが――、霧の守護者が動いてんなら、それでいいんじゃないのか?」

「あいつに手柄なんてたてさせるか」


 個人的な何かがあるのか、声を低めてリボーンがうめくように言う。思いだしてみれば、六道骸とリボーンは沢田綱吉という人間を挟んで、敵対しているような関係だった。それはもう、ずっと昔からの構図で、たぶんおそらく、これからも決して変わることのない構図だろう。

「そんなに六道骸が目障りなのか?」

 スカルの問いかけを鼻先で笑って、リボーンが片目を細める。言葉にして答えることすら嫌なのだろう。スカルは苦笑いを浮かべて肩をすくめながら――、綱吉がリボーンに「単独行動、独断専行は禁止」と言っていたことを思い出した。綱吉は再三にわたって、リボーンに動くなと指示をした。が、リボーンはまるっきりそんな彼の言葉を無視して行動を起こそうとしている。いくらなんでもまずいのではないかと不安に思い、スカルは病院の廊下の角を半歩先を行くリボーンのあとについて右に曲がりながら言った。


「リボーン先輩。あんた、ボンゴレから単独行動禁止って言われてたなかったか?」

「単独じゃねぇぞ。おまえが一緒だ。ついでにコロネロの奴にも連絡いれるか」

「……ものは言い様だな。あとでボンゴレに嘆かれるぞ」

「平気だろ。嘆いたって怒ったって、あいつはオレのこと好きだからな」

「たいした……、自信だな……」

「おまえもオレも無傷で、結果を出しゃあ、あいつも文句なんて言えねぇだろ」


 あっさりと言い放つリボーンには躊躇いも迷いもない。もう誰も彼を止める事は出来ないだろう。そもそも、スカルには彼を止めるだけの理由もちからもない。彼に求められるままに素直に協力することこそ、スカルの被害を最小限に抑えることに違いなかった。


「面倒な頭脳戦は全部てめーに任せてやる。思う存分、えげつねぇ能力、発揮しやがれ」

「――なんでもアリか?」

「相手の生命を奪わなければ、なんでもアリだ」


 白い歯を見せるようにして獣のように笑って、リボーンが片目を細める。
 それに応じるように、スカルはフッと息を吐いてから、表情を引き締めた。


「そうか。なら、久々に本気を出して追いつめるか。オレもボンゴレのへらへらした平和面が気に入ってたからな。あいつの顔に傷なんてつけた奴に手加減なんて必要ないよな。――そうか、なんでもアリか……、どうしてやるのが、いちばん、いいかな……」


 ぶつぶつと言いながら、どうすればいいかとめまぐるしく思案を始めたスカルの横で、リボーンが愉快そうに声を立てて笑う。スカルが不思議に思って彼の顔をサングラスごしに見ると、リボーンは一差し指でスカルのこめかみを指さしながら、にやりと笑う。


「オレやツナのえげつなさなんて、おまえのえげつなさに比べたら、子供みてーなもんだろうな」


 確かに――そうかもしれない。
 と、心の中で苦笑して納得しつつ、スカルは持てるだけの知識と情報を総動員して、今回の襲撃犯達をどうやって追いつめ、生かしたまま地獄のなかを出来るだけ長くのたうち回らせることができるのかを真剣に考え始める。すでにいくつかのパターンを思いついたが、まだまだスカルにはぬるく思えた。沢田綱吉を傷つけたには軽い罰にしかならないだろう。相手がドン・ボンゴレと知っての愚行ならば、しかるべき罰でなければならない。

 スカルが真剣に地獄のような制裁を考えだしたのを察したのか、隣を歩くリボーンが楽しげに短く口笛を吹く。目線だけを動かして隣を見ると、リボーンは片手でボルサリーノの縁に触れて、獣のように歯を見せるようにして笑っていた。そうとう上機嫌で、そうとう怒っていて、そうとう攻撃性を秘めた瞳が、まっすぐ前を向いて、そこにいもしない敵を睨んでいるようだった。


「――ツナの顔に傷なんてつけやがって。自分がしでかしたことに絶望しながらてめぇの血反吐のなかでたっぷりとのたうち回らせてやる」


 怨嗟のこもった台詞を言った、天使のような容貌に悪魔のような表情をうかべた少年が、喉にからまるように笑う気配が隣から伝わってくる。スカルは早く事態を終結させてとっととカルカッサに戻りたいな――と思ったが、恐ろしくて口には出せなくて、そっと息を吐き出すだけに、とどめた。












【END】