02:指を絡ませて





 赤。
 血の赤。
 生命の赤。

 学生のうちから何度も何度も何度も見てきた鮮血の赤に、十数年経った今でも慣れることはない。

 死に逝く人の光を失った目と何度視線をあわせてきただろうか。

 昨日笑っていた人間が足下に転がっている現実を何度経験してきただろうか。

 血と硝煙が漂う戦場に何度立ちつくして、周囲に倒れ伏している死体を嘆き悲しんでいても、再びまた同じ場所に立つしかない。



 沢田綱吉が手に入れた場所は、

 絆で結ばれた仲間たちといられる場所は、


 人と人とが争いあい騙しあい殺し合う世界だった。



×××××



 薄暗い地下室の空気は換気が不十分なせいか、空気自体が腐っているかのようだった。調度品など何もない部屋の中央にはみすぼらしい椅子が一脚ある。椅子には男が座っている。後ろ手に両腕を拘束され手錠をかけられ、両足も手錠によって椅子の足に固定されている。

 男の顔は殴られた跡が無惨にのこり、鼻血が頬へとこすれるように伸びていた。着ているブラウン色のスーツも埃と血に汚れてみすぼらしい。断続的に短い呼吸を繰り返しながら、男は瞬きを忘れたかのように綱吉を見ている。濃い青色の瞳は綱吉と視線をあわせ、仄暗い炎を宿していた。

 男と視線を交わしていると、その悪意と憎悪の強さにあてられ、暗闇の中に沈んでいくような気分になっていく。
 右手に握っている拳銃のグリップは、長い時間握りすぎていたせいで、生ぬるく温まってしまっている。しかし、重みだけはいつまで経っても慣れることはなかった。

  憎悪しかない男の両目を見つめて、右腕の拳銃の重みを感じていると、自分は随分と遠い場所まで来てしまったのだと、嫌でも思い知るしかない。

 ふと、背後に控えていた了平が綱吉の肩に手を乗せた。わずかに振り返ると、彼は案ずるように綱吉を見ていた。了平の隣にいるランボも心配そうに綱吉を見ている。

 綱吉は二人に向かって頷いた。
 大丈夫。
 大丈夫。
 大丈夫。
 呪文のように心の中で繰り返して――部屋の中央にいる座っている男と向き直る。

「ミスター・ディンツオ。この抗争に無関係の、オレのファミリィの家族まで殺したことを、多くの生命を奪ったことを、懺悔してはくださいませんか?」

 男は折れた歯を剥き出しにして獰猛に笑う。唾液と血が混じったものが男の口の端から泡となって溢れる。

「懺悔なんてくだらねえ。殺すなら殺せ。俺は後悔なんぞしねえさ、そんな生き方してんだったら、こんな状況になってねぇだろうよ、え、バンビーノ?」

 空気がざわつくのを感じて、綱吉は左腕を上げる。振り向かずとも怒ったランボが空気中の微弱な電気を角に集めていると予測がつく。持ち上げた腕にランボの胸が触れる。彼は不服そうに唇を噛んで綱吉を見た。綱吉は首を振る。

「ランボ。よせ」

 綱吉とランボのやりとりを見て、男は赤黒い唾液を吐き捨てる。男の唾液が綱吉のズボンの裾を汚す。ますますランボは綱吉の前に出ようとしたが、綱吉はそれを強く制した。了平は綱吉の意志を尊重してその場から動きはしなかったが、彼らしくない苛立ったような顔で男を睨んでいる。

 ランボが幸せそうに笑う顔と。
 了平が豪快に笑う顔とが――。
 一瞬だけ、綱吉の脳裏を過ぎていく。

 日だまりのような彼らの笑顔を奪っている現状は、目の前の男のせいかもしれなかったが、彼らをこの場へ導いたのは沢田綱吉だ。一滴の後悔が綱吉の心の縁をたどり、暗い奥底へと落ちていった。
 

 綱吉もランボも了平も黙っていた。
 男の狂気じみた笑い声が室内に充満していき、空気を澱ませていくばかりだ。
 笑いすぎて咳き込んだあと、再び血の混じった唾液を吐き捨てて男は叫ぶ。

 
「貴様のどこにイタリアの血が流れているというんだ。あまっちょろい薄汚ぇジャッポネーゼがボンゴレの頭になるなんて、この土地が、我々の血が許さねぇ! 俺のファミリィと俺が流した血はこの土地に染み込み、腐っていく死肉が土地の肥やしとなって、未来永劫、おまえを呪うだろうよ!! 成長した俺の息子たちが貴様を殺してくれるさ! 我が血は絶えず、貴様が死ぬまで追い続けてやる!! さあ、俺を殺せ!!」

 拳銃を持つ右腕が震えた。
 椅子をがたつかせ、男は唾液をまき散らして叫んだ。

「殺せえええぇええぇえええええ!!!!!!!」

 短く息を吸って、綱吉は男の背後へ回った。右腕を持ち上げて男の後頭部に突きつける。視線を持ち上げると、ランボと了平が立っていた。彼らは二人とも、綱吉が今からすることから目を背けずにいる。それが何故か綱吉にとっては救いのような気がした。


「残念です。懺悔をしていただきたかった……、少しでもあなたが赦されるように」


 男は聞き取りにくいこもったような声で何かを叫ぶ。綱吉の耳には何を言っているか聞き取れなかった。しかし、それが呪詛が込められた罵声であることくらいは理解できた。


「多くの生命を奪った責任を、あなたの生命で購っていただきます」

「俺を殺しても終わらねえぞ、殺して殺しても貴様を殺すまで『俺達』は現れるぞ!! 偽善にまみれたその手で復讐の連鎖を生み出――!!」


 一発の銃声が鳴り響き、男の頭蓋骨を吹き飛ばして貫通し、床に被弾する。べしゃりと音をたてて脳髄を床にまき散らし、男はがっくりとうなだれるようにして動かなくなる。酸っぱいような鉄臭いような血の香りが、部屋中に拡散していく。死の匂いだ。


 目を背けたくなるような男の傷口からは血が溢れて床に広がっていく。革靴の先が血だまりにふれそうになるのを、綱吉はうつむいて眺めていた。ふいに腕を強く引かれ、横へ移動させられる。白い両手で腕を掴んでいるのはランボだった。彼はもうすぐ二十歳になるというのに、目に涙をためて綱吉を見ている。

 ランボは綱吉と視線が合うと首を振った。そのせいで目の縁から涙がこぼれて、彼の頬を濡らしていく。

 ランボが首を振る理由がいくつか思い当たったけれど、綱吉は黙ってランボの柔らかい髪に鼻先を埋めて目を閉じる。涙は出てこない。指先も震えていない。考えていたよりも心は落ち着いている。ただ無意識に拳銃を握る手に力が入った。手首と関節に残る銃撃の衝撃が身体の奥底に潜む加虐心を震わせている。

 身のうちに潜む獣が牙を剥いてうなり声を上げている。
 今にも暴れ出して何もかも壊してしまいたい衝動をゆっくりと抑えている自分自身を綱吉は感じていた。


「……沢田……」


 言葉と共に、温かな手のひらが背中に触れる。ランボの肩に頭を預けたまま、綱吉は目を開く。了平がすぐ側に立ち、何度も何度も綱吉の背中を優しく撫でる。少しの間だけ、了平の手のひらの温かさに身をゆだねたあとで、綱吉はそっと囁く。


「これで、おわり、ですね」


 ランボが嗚咽を飲み込んで、無理矢理に笑顔を作って綱吉の腕を両手で掴む。


「ボンゴレ……、家に、帰りましょう、すぐ、すぐに――」


「大丈夫。……ランボ、ありがとう」


 右手に握っている拳銃に安全装置をかけて、綱吉は拳銃を腰の後ろのホルスターへ締まった。


 ランボは涙でぐしゃぐしゃの顔を片手で拭って、短い深呼吸をしたあとで、綱吉の手を握った。普段は温かい彼の手は冷たく、わずかに震えている。心優しく、まだ大人にもなりきっていない彼を、この場に導いてしまったのは、他でもない沢田綱吉だ。


 男を殺害したことではなく、ランボの泣き顔に胸をつかれ、綱吉はようやく涙で視界がゆがんだ。唇を引き結んで息をとめ、流れそうになる涙をゆっくりとした瞬きで散らしていく。そのおかげか、涙は流れなかった。


 了平は何も言わずに綱吉の頭を撫でて、力強く頷く。


「帰ろう。――みんなが待ってるぞ……」


 綱吉はランボと手を繋いだまま、先に歩きだした了平の背中を追って一歩を踏み出した。



×××××



 ランチアは一日の業務の終わりに、屋敷の戸締まりのチェックをするために各部屋を見回っていた。

 いくつかの部屋を見回っている途中、扉を開けた談話室のソファに膝を抱えて座っているランボと出会った。彼は泣きはらして赤く縁取られてしまっている両目でランチアを見て、すん、と鼻をすすった。

 彼が泣いた理由をランチアは了平から聞いて知っている。容姿がすでに大人であろうとも、ランボの内面は実に柔らかく傷つきやすく、そして純粋だった。幼い頃から沢田家に出入りし、綱吉に育てられたと言っても過言ではない彼の、その純粋さは綱吉の内面を映し出しているに過ぎない。

 ランチアは部屋に入って、ランボに近づいていった。彼は抱え寄せた膝のうえにあごをのせ、視線だけでランチアを見る。

「こんばんわ。ランチアさん」

「また、泣いたのか」

 すん、と鼻をすすって、ランボは弱々しく笑った。

「どうも俺の涙腺のスイッチは壊れてるみたいです。感情が高ぶるとすぐに涙が出てしまうんですよね、困ったものです……」

 ランチアは右手をランボの柔らかい癖毛に指を差し入れ、何度か頭を撫でた。彼は微苦笑を浮かべて首を縮ませる。

「――ボンゴレはどうした?」

「お風呂に入ったあと、私室に戻られました」

「一人にして平気なのか?」

「俺、側にいたかったんですけど丁寧に断られてしまいました。落ち着いていたようですけど……心配です」

 突然、ノックの音もなく、足音も気配もなく、談話室のドアが開いた。

 驚いたランボがソファから転げ落ちそうになるのを、ランチアは手を伸ばして防いだ。ランボの身体をソファに押し戻し、ランチアは現れた人物へ視線を向ける。
 開いたドアを閉めて入室してきたのはリボーンだった。彼は無表情のままにランチア達の所まで歩み寄ってくると、ランボを睨むように見つめて口を開く。

「――どうだった?」

「始末したよ」

「ツナがやったのか?」

「ああ」

「そうか」

 リボーンは唇の端に歪んだ笑みをのせる。

「ようやくマフィアらしくなってきたじゃねーか」

 ぱり、と空気が割れるような音がしたのと、空気に触れている肌が痺れたのは同時だった。ランチアはランボを見た。彼は泣きすぎて赤くなっている目で鋭くリボーンを睨んでいる。

「リボーン。それはあんまりだ……」

「あぁん?」

「おまえがボンゴレ自身の手で決着をつけろと言ったから、ボンゴレはあいつを撃ち殺したのに……! ボンゴレがどんなに辛かったのか分からないのか?!」

「馬鹿か、てめぇは。オレもおまえもあいつも髪の毛一本から血の一滴までマフィアなんだ。報復するのに手を汚さねーマフィアがいると思うか? 自分のファミリィを蹂躙されたんだから、ボスが手を下して当たり前だろう」

「――おまえが、……リボーンが言わなきゃ、ボンゴレは自分で撃つなんて言い出さなかったのに……。俺が殺したのに、ボンゴレが撃つことはなかったのに……!」

 リボーンはランボの呟きを一笑する。

「だからてめぇは馬鹿で阿呆なんだよ。そうやって、てめぇの手を汚させる方があいつの誇りが許さねーだろうよ。誰かの手を汚すくらいなら自分の手を汚す。おい、アホ牛、よく思い出してみろ。自分の手を汚せないから人の手を汚すことをあいつがすると思うのか? オレは優しいから最前の策をとったまでだ。あいつがあいつ自身の手で引き金を引く理由を、人間を殺す理由を、オレが命じることで作ってやったんだ」

 低く笑って、リボーンは片側の口角を上げる。

「『ファミリィの仇はボスであるおまえの手で行え。おまえがあいつを撃ち殺せ』ってな」

「……リボーンは、酷い奴だ……」

 ランボは低く唸って膝の上で両手を強く握り込んだ。
 
「どうして、ボンゴレは――……」

 そこで言葉をきって、ランボは再び膝を抱えて、膝頭に顔を伏せる。わずかに肩が震えていたが嗚咽は聞こえてこなかった。

「あぁん? ツナがどうかしたのか? え?」

 意地悪そうにリボーンが言う。
 ランボは何も答えずに黙ったままだ。

 ランチアにはランボの言いたいことがなんとなく理解できた。

 沢田綱吉がリボーンを特別扱いし、彼を『愛人』としていることは、ボンゴレの内部でもごく一部の人間にしか知られていないことだ。綱吉とリボーンとの間に流れているものが何なのかはランチアにも理解ができなかったし、ランボも同様なのだろう。彼らは光と闇ほどに違いすぎる。綱吉の持つ優しさはリボーンがもつ冷酷さと奇妙なほど正反対だ。

 だからこそ、綱吉はリボーンを求め、リボーンは綱吉を求めるのかもしれなかった。

 ランボが涙を浮かべた目に必死に敵意を浮かべてリボーンを睨んだが、彼は見下げるようにランボに視線を向けて鼻から息をつく。

「今回の件についての報告書をまとめておくように了平に伝えておけ。あほ牛よりは了平の方がうまくまとめるだろ」

 納得のいかないランボが声をあげようとするのを鋭い一瞥で制して、リボーンはランチアを見る。

「事が片づいたし、屋敷の警備ランクをすこし下げても問題ないだろ」

「分かった。手配しておこう」

「おまえもこれで、多少は安心して庭いじりや掃除人に専念できるだろ?」

 リボーンは少年らしからぬ皮肉さをのせて笑う。ランチアは彼の皮肉を受け流して口元で笑う。

「ああ、そうさせてもらう。――今日は帰らないはずじゃなかったのか?」

 昨夜遅く、同盟ファミリィのキャバッローネのボス、ディーノから連絡が入り、リボーンは殺し屋としての依頼を請け負うことになった。通常の倍の支払金を積まれたことと、連絡を聞いた綱吉が、依頼を受けるように促したことで、リボーンはノーとは言えない状況になってしまったのだ。
 彼はまだ夜が明けきらないころに屋敷を出た。仕事内容から考えても二日から三日はかかるだろうと、彼はボンゴレに関する仕事からは外されていた。急いで帰ってくる必要はなかったはずだ。

 彼は片側の口角だけを皮肉っぽく持ち上げると、片目を細める。

「あんなクソみてーな依頼に時間かけるほど、オレは暇じゃねーんだ。なんだ? 帰ってこないほうがよかったか?」

「いいや。そんなことはないが――」

「話はもうねぇーよな? じゃあな」

 リボーンは右手をあげて二人の視線を振り払うようにして、部屋を出ていった。


 しばらくして、ランボがおおげさなくらいにため息をついて、頭をもたげた。


「ボンゴレはなんであんな奴を好きなんだろう……」


 思わず口からこぼれてしまったのだろう。言ったあとでランボは後悔するように舌打ちをして、ランチアの反応を伺うように見上げてきた。

「……ランチアさんも、そう思いませんか?」

 眉を寄せて小さな声で言って、ランボは膝を両腕で抱える。溜息をついて彼は口を開く。

「俺だったら、ボンゴレのことを大事に大事にするのに。リボーンはボンゴレのことを時々ひどく嫌ってるんじゃないかって思うことがあるんです」

 確かにリボーンの態度や言葉の端々には、好意だけではなく、悪意すら感じるようなものが混じっていることがある。しかし、ランチアには彼が綱吉を嫌っているとは思えなかった。

 本来、愛情というものはランボが思っているように美しく綺麗なものではない。複雑でもっと泥臭くて少し目を離しただけで色も形も変わってしまうものだ。『これが愛です』とわかりやすく示すことが出来ない。

 身体的に成長しているにせよ、ランボの精神ではまだ彼らの関係を理解できないのだろう。見上げてくるランボの肩に手を置いて、ランチは口元をゆるめる。

「嫌っているなんてことはないと思うが――。彼は彼なりに、ボンゴレを大事に思っているんだろう」

「そうは見えません」

「それぞれに愛し方があるんだ」

「ランチアさんは?」

「うん?」

「ランチアさんだったら、大事な人を傷つけることを平気で口に出来る?」

 ランチアは考えたあとで首を振る。

「平気で口には出来ないな。でも、相手にとってそれが必要なことであれば、心を鬼にしてでも口にしなければならないかもしれない」

「……大事な人が泣いても?」

「泣いても、叫んでも――だ。誰かが言わなければならない事があるのならば、出来るなら、俺自身の声と言葉で相手に伝えるだろう。そして、大事な人がそのことで嘆き悲しんで泣くのなら、泣きやむまで側にいよう」

「ふぅん……。ランチアさんの愛し方は俺とは違いますね……」

 自分で言い出したことだったが、愛し方という単語に、ランチアは急に照れくさくなって苦笑する。ランボはランチアの答えを頭の中で反芻しているのか、ぼんやりと視線を絨毯におとしている。ゆるくウェイブするランボの黒髪を右手で撫でると、彼は顔を上げてランチアを見た。

「おまえはおまえの愛し方でいいんじゃないのか?」

「そんなものでしょうか?」

 不安そうなランボの側頭部をかるく拳でこづいてランチアは頷く。

「俺はおまえの愛し方を悪いとは思ってない。そう、気分を落ち込ませることはないぞ」

「そう、ですかね?」

「今日のことは了平から聞いたんだが――。リボーンが溢れさせたボンゴレの悲しみを、銃撃の現場にいたおまえは、その両手ですくいとったんだろう。それはボンゴレにとっては、とても大きな心強さだったと俺は思う。おまえはおまえらしく、彼の隣に立てばいいじゃないか。おまえとリボーンとの感情表現の違いを比べても意味はないぞ」


「……ランチアさん」


 ランボはランチアを見上げている双眸を細めて、彼の気性と同じく、やわらかく笑った。


「ありがとう。元気が出てきました」

「さあ、早く部屋に戻って休むんだ。明日も仕事だろう」

「ええ。なんだか、愚痴みたいなの、聞いてもらえてよかったです」

「何かあったら相談してくれ。俺に出来ることなら何でもしよう」

 ソファから立ち上がったランボは、ランチアと肩を並べて片目をつむる。

「今度、ゆっくりお酒でも飲みましょう。美味しいところを山本から教えてもらっておきますから」

「ああ、楽しみにしている」

 ランチアは微笑んで頷いた。



×××××



 真っ暗にした寝室のベッドに身体を横たえて、綱吉は目を閉じていた。時折、夜風で窓ガラスが震える音だけが、暗い室内に低く響き渡る。

 人を殺した感触がまだ身体の芯に残っているかのように、眠気はいくら経ってもやってこなかった。しかし、反対に頭が冴えているということもない。


 どのくらいそうしていたのか、時間は分からない。


 物音がした訳ではなかったが、妙な予感を感じて綱吉は目を開き、ベッドの上で体を起こした。寝癖の付いた髪を右手でおさえて直していると、ふいに寝室の扉が音もなく開いた。リビングの明かりが暗い部屋に閃光のように差し込む。綱吉は目を細めて顔を背けた。

「やっぱり、寝られねーのか」

 来訪者にある程度予測をつけていた綱吉は、かけられた声音に自分の感が当たったことを悟った。彼は扉に背中を預けて立っている。ようやく強い光に目が慣れた綱吉は、腕を組んで立っているリボーンへと視線を向けた。

「寝ようとはしてるんだけどね……」

「いつまで経っても殺しに慣れねーやつだな」

「眠れない方がいいんだ。慣れたくないから……。っていうか、どうかしたの? おまえ、今日は帰ってこられないはずじゃなかったのか? 突然、ディーノさんから依頼があって数日は戻らないって、ランチアさんから朝に聞いてたんだけど……」

「朝一の飛行機に乗って、目標がバカンスしてる海岸に行って、一発で撃ち殺してまた飛行機に乗って帰ってきただけだ。くだらねー仕事にいちいち時間かけてやってられるか」

「よく、すぐに目標を見つけられたね」

「オレの情報網は優秀な連中しかいねーからな」

 リボーンは口角をあげて笑った。その笑みが実に彼らしくて、綱吉はつられるように笑う。

「ご苦労様。早く帰ってきてくれて嬉しいよ。おそくなっちゃったけど、おかえり。リボーン」

 そう言って綱吉が両腕を広げると、リボーンは扉から背を離して、ゆっくりとベッドまで近づいてくる。彼は無言のまま、綱吉に背中を向けてベッドに座る。綱吉はまだ成長過程にある彼の身体――あと数年で綱吉の身長を追い抜きそうな勢いで彼は成長している――を後ろから抱きすくめ、その頭に頬を寄せる。わずかに硝煙の匂いが鼻先に感じられ、鼻の奥がむずむずとした。


 腕の中の存在を愛しさをこめて抱きしめる。

 人を殺した夜の彼は優しい。

 いつもは甘えようとする綱吉の腕を突っぱねて鼻で笑ったりする。そうしないのは、彼なりの不器用な優しさなのかもしれなかった。

 リボーンを抱きしめている腕は、まだ命を奪った衝撃が残っている。記憶も鮮やかに思い出せる。広がった血の形も、鼻腔を刺激する臭いも――生々しいほどに覚えている。


 リボーンの胸の前で組んだ綱吉の手にリボーンの右手が触れた。彼の冷たい指先が綱吉の手の甲に触れる。彼は綱吉の身体に体重を預け、されるがままにされている。ふと、リボーンが顔をあげて、綱吉の顔を見た。


「泣いたのか?」


 綱吉は首を振る。


「泣いたのはランボだよ。あいつ、大丈夫だった? まだ泣いてなかった?」


「オレに泣かされそうになってたがな」


「ええ? まったく、……幼なじみなんだから仲良くしなよ」


「ちっとも年上らしくねーうえに、事あるごとにわんわん泣く奴と仲良くなんて出来るか。虫酸がはしる」


「それは言い過ぎだよ。オレはあんなふうに泣けるランボのこと、好きだけどなぁ。ああやって、声をあげて泣けるなんてこと、もうオレ、忘れちゃった……」


「……あほ牛のことが好きだって?」


「イイナァって思ってるってことだよ。なに? やきもち?」


 リボーンに冷たい目で睨まれたので、綱吉は苦笑して黙った。彼は不機嫌そうに息をついた。華奢な肩がわずかに下がる。


「おまえもあいつみてーに泣きてーのか?」

 綱吉は首を振る。

「……いや、誤解しないで欲しいんだけど、オレは別に泣きたい訳じゃないんだ。ただ、オレのために――、オレの代わりにランボが泣いてくれるから、なんだか救われてる気がするんだよね……。オレはこういうやりとりが繰り返されるうちに、泣くこともなくなってきちゃったし……。今でも辛いし怖いし嫌だけど、様々なものを背負う覚悟のが強いから、泣いたりはしないよ。泣きたいんじゃなくて、泣けないんじゃなくて、泣かないようになっただけ――」


「そういや、最近は泣いてねーな。前はびーびーよく泣いてやがったのに」


「うぅ。そんなに泣いてたかなあ」


「あんな性格で、ドンになれるなんて思っちゃいなかったんだがな――」


 突然、綱吉の腕のなかでリボーンが身体を反転させた。急に向き合うことになって、綱吉は思わず抱擁をといて密着していた身体を少しだけ離す。彼は闇色の瞳で綱吉をじぃっと見つめてくる。表情は特に浮かべていない。無表情の彼の顔を見つめていると、マネキンのようにバランスのよく整っている顔だなぁという感慨がいつも思考を過ぎていく。


 少年と青年との間の年齢の、危うい美しさを秘めたリボーンの顔と瞳が、綱吉は好きだ。


 綱吉は黙ってリボーンの両目を見つめ返す。


 見つめ合うその時間だけは耳鳴りのようにこびりついている罪悪感を忘れられる。


 リボーンの右手が動いて綱吉の頬に触れる。相変わらず彼の指先は冷たい。綱吉は目を閉じた。指先は頬を滑り、唇に触れる。身体が近づく気配がしたあとで唇にやわらかいものが触れる。濡れた舌が前歯の隙間に入り込み、すぐに綱吉の舌をとらえる。互いに唾液が混じり合うことすらいとわずに、何度も角度を変えながらキスを繰り返す。


 人を騙して、人を欺いて、人を利用して、人を殺すことを教えてくれたのも、

 世界中の人間に否定されても、否定できない愛があることを教えてくれたのも、

 キスとキスの合間に呼吸するタイミングを知った相手も――。


 綱吉は唇をあわせながら目を開く。

 彼はキスの最中もほとんど目を閉じることはない。

 リボーンの瞳が綱吉の瞳と合う。

 彼は少しだけ意地悪そうに笑った。


 綱吉はキスの余韻にひたりながら、背中を丸めてリボーンの細い肩に頭をあずける。彼は綱吉の髪を片手でもてあそびながら、こめかみに音を立ててキスをおとした。綱吉は思わず笑ってしまう。


「ずいぶんと甘やかしてくれるね」


「よくやったからな」


「ご褒美?」


「キスごときで満足か? え、ボス? ご褒美はもっといいものが欲しいんじゃねーか?」


 いやらしく笑って、リボーンは舌で下唇を舐める。綱吉は動悸があがるのがありありと分かった。唾液でぬれた彼の唇から視線を外せない。


「ばか……人のこと、煽るなよ」

「興奮してんだろ」

「なんだよ、その根拠のない断定は――って」

 片手で自分自身のネクタイをゆるめながらリボーンは、もう一方の手を綱吉の胸に当てる。焦る綱吉の顔に息がかかるほど顔を近づけ、リボーンは声をひそめて囁く。

「人を殺した夜ってのは興奮して眠れねーんだよ。思いっきり暴れて気絶しちまえば、良い夢みられんぜ」

「あ、ほ、か! 気絶するほどやったら気がおかしくなる!」

 綱吉の胸元をはい回ろうとしたリボーンの手を押し返そうとするが、彼はがっちりと綱吉の手を、指と指を組み合わせるように掴んでしまう。振り払おうにも強い彼の握力には勝てない。掴んだ綱吉の手を自身の口元に引き寄せ、リボーンはわざとらしく音を立ててキスをする。

「ちょ、ねえ、やめろって……っ」

「何度だって飽きるくらいに愛してやるし、泣いたってやめてやらねーし、オレ以外のこと考えられなくしてやる。辛いのも怖いのも何もかもオレが忘れさせてやる。今夜だけ、オレの前でだけは、ただの沢田綱吉に戻ってもいいぞ」

「……リボーン……」

 指を絡めて握った手に綱吉は力を込める。

 リボーンは息を潜めるように綱吉を見つめている。胸を突かれたような表情が彼の顔に一瞬だけ浮かんで、すぐにわざとらしい皮肉っぽい笑みにすり替わる。

「オレは弱音を聞いてやることも、マフィアをやめさせることも出来ない。これからだってファミリィのためならおまえを傷つけることも平気でやらせる。それでもおまえは、オレを――」

「愛してるよ」

 ゆるみかける涙腺をどうにか誤魔化しながら、綱吉はリボーンの額に口づける。


「大丈夫だよ。恐れないで。大丈夫。……リボーン。愛しているからね。どんなに傷ついたとしてもオレはおまえから離れない、離れたりなんかしない。オレは自分で選んでこの場にいるんだ。傷なんてついたってすぐに治してみせるから、そんなに心配するなよ」


「……ツナ」


 握った手を強く掴んで、綱吉はリボーンの目をまっすぐに見る。


「オレの名前、呼んで」


 リボーンは短く息を吸った。


「――綱吉」


 彼の声の響きが、特別な波長だったかのように、綱吉の胸を貫く。

 綱吉の右の目の縁から涙が一筋こぼれていった。

 リボーンは涙が溢れそうだった綱吉の左目の脇にキスをした。

 
「オレを信じてよ、リボーン。オレはおまえが思っているほど弱くないからさ。おまえが必要だと言うのならオレはなんだってやってみせるよ。――オレの可愛い殺し屋さん、だから不安がらないでいつも通りのおまえでいてよ、ね?」


 綱吉がそっと囁くと、リボーンはようやくいつもの彼らしい意地の悪そうな笑みを浮かべる。


「オレが欲しいか? ツナ」


「欲しいよ。ご褒美、なんだろ? 出し惜しみしないで、早くちょうだいよ」


「――いらねーって言ったってやめてやらねーからな」


 低く囁いたリボーンが綱吉の首筋に顔をうずめる。痺れるような痛みとともに首筋にキスマークが刻まれる。

「いらないなんて言うつもりないよ」

 甘やかな痛みに酔いしれながら、綱吉はベッドに仰向けになる。


 繋いだままだったリボーンの手は、綱吉の体温を奪って冷たさを失っていた。温かくなった彼の手を握りしめたまま、綱吉は片手でボタンをはずしていくリボーンの髪に指を差し入れて、その様子を眺めていた。


 絡んだ指先から想いのすべてが伝わらないことを知っていても。

 触れあった場所から生まれる想いは確かに綱吉の胸の中にあった。




 彼が言うことはマフィアとしては正しい。

 オレはマフィアのボスだから、オレは彼の言葉を受け入れる。

 彼の言葉に傷つくことはあっても、彼のことを嫌うことは出来ない。


 リボーンの言葉を思い出す。

『それでもおまえは、オレを――』

                              嫌ったりはしないのか?


 と、言葉は続いたのかもしれなかった。


 最強の殺し屋がオレの愛を失うのを恐れてすがろうとするなんて――!。

 彼に愛されている自覚がじんわりと身体の隅々にまで広がってゆく。

 それはひどく心地がよい。


 愛しているよ。



 オレの可愛いヒットマン。

 
 今日もよく無事に帰ってきてくれたね。

 オレが人を殺した夜だから、急いで帰ってきてくれたんだろう?

 ああ! なんて愛しいんだろう。

 愛しているよ、愛している、おまえが望むのならば、修羅の道でも構わない。


 シャツの合間からあらわれた綱吉の肌に唇をよせるリボーンを見つめながら、心の中でそっと囁いて、綱吉は微笑した。



『End』