01:傷痕に口付けを





 年かさのボスたちとの窮屈な会食を終え、綱吉は周囲の人間に気がつかれないようにそっと息をついた。ようやく慣れてきたイタリア語だったが、時折言い間違いをしてしまい、隣に立っているリボーンが舌打ちする気配に冷や汗が流れた。

 先に退室することを、他のファミリィの人間たちに告げて短い別れの言葉を交わし、綱吉はリボーンと獄寺と共に会食を行ったレストランの個室から出た。
 絵画が飾られている壁に挟まれた細長い廊下を歩いていき、エレベータに乗り込む。綱吉は隣にいる獄寺に視線を向けた。


「今日はこれで終わりだっけ?」
「ええ。今夜の予定はこれで終わりになります。私邸へ戻られますか?」
「そうだね。戻ってゆっくりしようかな」
「分かりました」

 穏やかに笑って獄寺が頷く。

 彼の敬語をどうにかやめさせようとしたころもあったが、獄寺は頑として綱吉に対する態度を変えなかった。獄寺の応対にさざ波のように複雑な思いを抱えつつも、綱吉は半ば諦めの思いを抱えていた。

「ここ数日、他のファミリィとの会合が続いていましたが、どの会合でも十代目は素晴らしかったです。やはり、俺の認めたお人です。」
「イタリア語の発音がなっちゃいねーだろ」

 エレベーターの操作ボタンの前に立っているリボーンが振り返りもせずに言う。

「ガキじゃねーんだ、もっと綺麗に発音しろ」

「リボーンさん、でも、十代目がイタリア語を習得し始めたのは高校の時ですし、まだまだなめらかにいかなくとも仕方がないのでは?」

「ボスがイタリア語に不自由してるなんて、とんだお笑いぐさだ」

「悪かったね。せいぜい精進しますよ、先生」

「今度、言い間違いしやがったらヒィヒィ言うまで追試だからな」


 低く鋭い声音に、綱吉は思わず口の中で悲鳴をかみころす。幼いころからの反射とでもいうのだろうか。リボーンの怒気をはらんだ声をきくと、綱吉はどうしようもなく恐ろしい心地になり、顔が引きつってしまう。心配顔の獄寺が何か言いたげに綱吉を見ていた。綱吉は獄寺に笑いかけて、気を取り直すように前を向く。


 エレベータのドアが左右に開いた。一般客が食事をしているホールの脇を歩いて、レストランの出入り口に向かう。獄寺が胸の内ポケットから煙草を一本取り出して唇にくわえた。室内では火災報知器を気にして火をつけなかったのだろうが、もうすぐ出口ということもあり、彼はライターで火をつける。少しだけマナー違反かと思いつつも、彼が極度のヘビースモーカーなのを考慮して、綱吉はそっと気が付かないふりをして、前を向いた。


 綱吉の数歩前を歩いているリボーンの背中は綱吉と比べると小さい。彼の年齢はまだ十代半ばほどで、ここ数年で見る間に身長も手足もぐんぐんと成長している。彼に買い与えているスーツのサイズも一ヶ月ごとにサイズを測り直して作るくらいだった。細く白い首がスーツの襟元からわずかにのぞいている。

「……っ……?」

 一瞬、綱吉はリボーンの身体に赤い飛沫が散った気がした。目眩のように幻は消えてしまい、先を歩くリボーンに変化はない。

「ねえ」

 綱吉の問いかけに、先を歩いていたリボーンがわずかに振り返る。

「なんだ?」

 問われた綱吉は、口を開いたところで停止する。何かを言おうと思って声を掛けたわけではなかった。なんとなく、呼び止めて彼の顔が見たかっただけかもしれない。怪訝そうに眉を寄せた彼は、綱吉が「なんでもない」と言うと、舌打ちして前を向いた。

「どうかしたんですか?」

 獄寺の問いに綱吉は首を振った。

 レストランのボーイが開いたガラス扉から外へ出た。夜の外気は冷たい。思わず綱吉は首をすくめ――。


 直感だった。


 嫌な予感。



 綱吉は右手を伸ばして。
 リボーンの肩を掴み。
 小さな身体を抱いた。
 驚いた彼が声を上げる前に。
 銃声。
 左肩を貫く激痛。
 刹那。
 ダイナマイトが炸裂する音。
 爆音による耳鳴り。
 火薬が爆ぜた匂い。
 綱吉の腕をはらったリボーンは綱吉をみて大きく目を見開く。

「馬鹿野郎が!!」

 甲高いリボーンの怒声が耳元でしたが、痛みでよく聞こえない。

「十代目!?」

 地面に膝をつくと、獄寺がすぐ側に跪いて控えていた。

「相手は?」
「しとめました。十代目、傷は!?」
「だいじょ、ぶ。――たいしたこと、ない」

 スーツの襟元を乱暴に掴まれて首が絞まり、笑おうとしていた綱吉は苦痛に眉を寄せる。怒気でゆがんだ顔でリボーンが叫ぶ。

「なにしてんだ!! 馬鹿が!!」

 綱吉は答えるかわりに、口元に笑みをのせる。リボーンは舌打ちして、綱吉の頬を拳で殴った。肩の痛みのせいで、頬の痛みはまったくといっていいほど感じなかった。

「なにしてるんですか!? リボーンさん!」

 獄寺がリボーンの手首を掴んで、二発目を打とうとしていた手を止めた。リボーンは短くイタリア語で呪いの言葉を吐き捨て、スーツを脱いで丸めて綱吉の傷口に強く押しつけた。

 獄寺が携帯電話で病院に連絡するのを聞きながら、綱吉は歯を噛みしめる。何か掴まるものを探すように地面のうえを彷徨って動いてた綱吉の手を、冷たい小さな手が掴む。

 リボーンは怒り顔のままで綱吉の手を強く握った。綱吉もリボーンの手を掴みかえす。それだけで、死ぬような痛みにさえも耐えられそうだった。

「怪我、ない?」

 鼻筋にしわをよせたリボーンが「馬鹿野郎」と低く吐き捨てる。


 その横顔を眺めながら、綱吉は早く救急車が来ないかと思って目を閉じた。




×××××



 目が覚めてみると、日付が変わっていたうえ、すでに日が暮れていた。

 使い慣れたベッドに寝かされていることに、綱吉は幾ばくか安堵した。一度は病院に運ばれたものの、おそらくはその後、私邸に運ばれたのかもしれない。

 不特定多数の人間がいる病院よりは私邸のほうが警備もしやすい。

 綱吉のベッド脇の椅子に座っていた獄寺は、目覚めた綱吉が言葉をはさむ瞬間を与えずに、綱吉を守れなかったことへの後悔やどんなに心配したかなど、様々な言葉を投げかけてきた。あまりに勢いがあるので、綱吉は途中で相づちを打つのもやめてしまったが、切々とした獄寺の文句は絶えなかった。そろそろ聞き飽きたと思い、綱吉が獄寺の話をとめようとしたとき、ノックもなく扉が開いた。

 立っていたのは小柄なヒットマン――リボーンだった。彼は壮絶なほどに不機嫌な様子を辺りにまき散らしながら室内に足を踏み入れる。とっさのことで獄寺の溢れるような言葉もぴったりと止んでしまった。

 リボーンは足音もなくベッドに近づいてくると、冷えた目で綱吉を見下ろしてきた。あまりに威圧的な視線に綱吉の視線は負けてしまい、白いベッドカバーのうえを彷徨う。


「リボーンさん、十代目が目を――」
「覚ましたんだろ、外にまでおまえの声が聞こえてたぜ。――ちょっと外せ」
「は?」
「退室しろって言ってんだ」

 低く重い声でリボーンが言う。

「行け」
「しかし――」

 早抜きされた銃が獄寺の眉間に突きつけられる。

 獄寺は不服そうに顔をしかめたが、椅子から立ち上がった。

「では、十代目。失礼します」

「心配かけたね、ありがとう。獄寺くん」

 微笑んで首を振った獄寺は頭を下げたあと、何か言いたげにリボーンと視線を交わしたが、発言することなく静かに退室していった。


 リボーンはうつむいて立っている。彼の視線はボルサリーノの縁にかかり、表情のほとんどを見ることは出来なかった。何も言わずとも、彼が怒っていることは長年の経験から感じられる。

 短く息をついて、綱吉はそっと言葉を差し出す。


「……怒ってるね」
「怒らないとでも思ってんのか?」


 声音と共にリボーンの右手が綱吉の左肩を掴んだ。ガーゼや包帯ごしに、彼は容赦なく縫い合わせたばかりの傷口に指を食い込ませる。あまりの痛みに綱吉の呼吸は引きつった。

「ひっ、……痛ッ!! 痛いって!!」

「痛ぇだろ。撃たれてんだからな」

「なんだよ! オレはおまえが危ないって思ったから――!」

「馬鹿野郎!!!」

 リボーンの怒声に綱吉は反論しかけた言葉を失ってしまった。
 彼の両目が射抜くように綱吉を睨んでいる。闇色の瞳の奥に一瞬だけ怒りによる炎が垣間見えたような気がした。

「それはおまえの仕事じゃねーだろ。おまえは守られるべきであって、守る側じゃねーんだ。自分の価値と存在の意義をもう一度教え込んでやろうか? ええ? ドン・ボンゴレ!」

 肩の痛みから反射的に涙が目から溢れる。そのほとんどが痛みからのものであったが、綱吉は怒り心頭しているリボーンの様子に感涙している部分があることを少しだけ理解した。
 舌打ちした彼は綱吉の肩から手を引いた。その指の腹には赤い血が付着している。肩口を見下ろしてみれば、少しだけガーゼや包帯を通して赤い血が滲んでいる。遠慮も戸惑いもなく傷口を握る彼の本気さに、綱吉は思わず苦笑してしまう。

「すんごい、怒ってるね、リボーン」

 リボーンは厳しい顔つきのままで唸るように言う。

「殺してやりたいよ、おまえを」


 激しい感情を剥きだしにしている彼を見つめ返し、綱吉はきっぱりと言い切った。

 
「オレ、悪いなんて思ってないからな」


 リボーンは鋭く両目を細め、冷え冷えとした表情で綱吉を睨む。


「――なんだと?」

「悪いなんて思ってないよ。誇らしいくらいだよ。オレは怪我をしたかもしれないけど、おまえが無傷でいてくれたんだもの。それで満足。……すんごい、痛かったけどね。傷はじきに治るだろうし、相手は獄寺くんが討ち取ってくれたし。いいじゃない、今回の件はそれでおしまい」

「いっぺん、撃ち殺されて生まれ変わりたいらしいな、ダメツナ」

「好きな奴をこの身で守ってなにが悪いの?」


 綱吉の言葉にリボーンは眉間にしわを寄せて、大きなため息をおとした。


「――そういうとこが馬鹿だって言ってんだよ、バカツナ」

「駄目だの馬鹿だの言い過ぎじゃないの? リボーン、って――、え?」

 喋っている綱吉のベッドに膝で乗り上げ、リボーンは両手を綱吉の寝間着にのばして、ボタンを外し始める。

「ちょっと、こら、やめろって! おまえ、病人に、なにするつもりだっての!」

「抵抗すんな」

 低く呟いて、リボーンの手が左肩の傷口を掴んで指先で強く押した。それだけで綱吉は呼吸が止まりそうなくらいの痛みを感じて、悲鳴を口の中でかみ殺す。

「ヒッ……、ぃい、痛ッ……!」

 綱吉の上着をはだけ、胸や肩に巻かれている白い包帯が露出すると、リボーンは動くのをやめた。彼はじっと綱吉の包帯を見下ろして沈黙し、何かを考えているようだった。綱吉はその間、じんじんと熱を持ち始めた傷口の痛みを意識しないように、リボーンの顔を見つめて彼のことだけを考えていた。

 撃たれた瞬間、怒るだろうとか、文句を言われるだろうとかいう考えはまったく思い浮かばなかった。
 ただ守らなければいけないという使命感のようなものに身体が支配されていた。

 あのまま、撃たれて死んだとしたら、彼はどうするのだろう。

 疑問に思ったが、口にすることは出来なかった。
 もし、彼が撃たれて死んでしまい、残された時の心情を考えるととても口にできない。



 どのくらい沈黙していたかは定かではないが、そっとリボーンが口を開いた。



「おまえが撃たれて、オレが平気だとでも思ってんのか?」



「ううん……、思ってないよ。オレだって、リボーンがオレをかばって怪我でもしたら、死にたい気分だもの」


「――それが分かっててやんのか?」


「だって身体が動いちゃったんだから仕方ないだろ」


「金輪際、オレのことかばうなんて真似するんじゃねーからな。もしもやりやがったら、オレはお前の前から消える」


 とっさにリボーンの腕を右手で掴んで綱吉は言った。


「え、それは困る。やめてよ。嫌なこと言うの」

「おまえの身体に傷を作る原因になるくらいなら消えた方がましだ……っ」


 言い切った語尾のアクセントがわずかに揺れる。普段の彼らしくない喋り方に、綱吉は胸が締め付けられて苦しくなった。


「……わかった、わかったよ! もうしない。絶対にしない。だから、もう怒んないでよ。なんか悲しくなってくるから……っ」

「悲しめばいいだろ。人がどれだけ――」

 そこまで言いかけて、リボーンは口を閉ざす。

 綱吉は掴んでいるリボーンの腕を引いて、彼の身体を引き寄せた。リボーンは抵抗しない。彼の細い腰に両腕を回して、胸元に頬を寄せる。彼の規則正しい心音が聞こえてくる。とっさの綱吉の行動にも動揺しない心音が少しだけ憎らしかった。

 温かな子供の体温に身を任せ、綱吉は目を閉じる。

 リボーンの腕が綱吉の頭を抱えるように動いた。
 彼の指先が優しく綱吉の髪に差し入れられる。

「心配、してくれたんだ」

「するか。急所は外れてる」

「ああ、そりゃあ、残念だなぁ」

 クスクスと笑いながら、綱吉はリボーンから離れた。彼も腕をゆるめて綱吉を解放する。

「痛むか?」

「痛み止めが効いてるから、そんなには。あー、でも、誰かさんがさっき乱暴にしたから、ちょっと痛いかもね」

 胴に巻かれた包帯を眺めてたリボーンが、そっと綱吉の方へ体を倒す。


「え」


 リボーンは綱吉の左肩に――赤く血が滲んだ場所に――唇を寄せる。
 綱吉は息を潜めて彼の所行を見守った。

 リボーンの目線が綱吉と合う。

 互いに引き寄せられるように唇をあわせる。
 彼の唇はすこし冷たかった。



 唇を離したリボーンは、大きなベッドの端に腰掛けて、綱吉の手を握った。唇と同じく、冷たい手の親指の腹で、綱吉の手の甲を優しく撫でる。その仕草だけで、綱吉の表情は自然とゆるんでしまう。

「柄にもない、ロマンティックな態度は怪我したオレへのサービス?」

「血をみたせいで興奮してんのかもな」

「ヘンタイ!」

「ガキに欲情してる大人が何を言ってんだ」

「あー……それは言わない約束でしょう」

 綱吉は肩をすくめて苦笑いを浮かべる。
 リボーンは綱吉の左肩の傷をじっと見つめた。

「消すなよ、この傷」

「うん。消すつもりはないよ。――もしも、遠い未来、オレが死ぬときがきても、この傷跡さえあれば、オレはきっと幸福なまま死んでいけるから」
「誰が死なすか」

 間髪入れずに言うリボーンの方へ体を傾け、彼の肩に頭をよせて綱吉は甘えるように言う。

「守ってくれる?」

「当たり前だ」


「ああ、でも、ひとつだけ」

 リボーンと間近に視線を交わし合いながら、綱吉は微笑する。

「オレをかばっておまえが死んでしまうようなことがあったら、その場でおまえがオレを殺してね」
「馬鹿言うな」

 鼻筋にしわを寄せて、リボーンは吐き捨てる。

「おまえをかばって守ったオレがおまえを殺してどうする?」

「オレはおまえと一緒に逝きたいんだけどなぁ」

「そんなのオレが許さねー。後を追って自殺なんかしやがったら、あの世でもう一回殺してやる」

「ちぇ――、り」

 文句を言おうとした綱吉の唇をリボーンはふさいだ。
 
 綱吉は瞼を伏せて、不機嫌そうな彼のキスに、ありったけの愛をこめて答えた。



『End』