4/ 猫は嫌いだ(媚びるような眼がアイツに似てる) |
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破壊されて大破した噴水の縁からだくだくと水が流れていた。えぐられた芝生や庭木の残骸を押し流すよう流れていた水の流れも、執事に噴水周辺のパイプをすべて閉めるように言っておいたので、もうすぐ止まるはずだ。 今から少し前のことだ。 作業が一段落した綱吉は、椅子を回転させて机に背を向け、ぼんやりと大きな窓越しに太陽光を遮る曇天を見上げていた。獄寺は綱吉がサインをした書類を黙ってチェックしている。執務室には二人以外に人間はいない。大きな椅子に背中でもたれ、綱吉は脱力していた。獄寺がチェックしている書類が終われば、今日のノルマは達成されたことになる。まだ午後五時なので、夕飯の七時までは時間がある。何をしようかと綱吉が思考していると、ぞわりと嫌な予感がして、心臓から指先にまで一瞬で緊張がいきわたった。それは綱吉の意志ではなく、綱吉の本能からの命令だった。なんだろうと、妙な気配に綱吉が顔をしかめていると、突然、メイドが泣きながら執務室へ駆け込んできた。 「六道様が!」 悲鳴のように言った彼女は蒼白の顔でそれだけを言い、わあっと泣き出してしまった。獄寺とスケジュールの打ち合わせをしていた綱吉は「またか」と唸り、獄寺は顔をしかめて「あの野郎」と呻いて舌打ちした。荒んだ目つきをした獄寺が無言のままで部屋を出ていこうとするのを綱吉は必死に止めた。獄寺と骸がやりあった際の被害金額は目を疑うものがある。綱吉が止めると彼は不服そうだったが、執務室にとどまることを了承してくれた。彼自身も、以前の暴れぶりを綱吉にひどく嘆かれたことを覚えているからだろう。心配そうな獄寺を部屋において、綱吉は走って屋敷を飛び出した。 辺りを吹く風に混じっているのは土と緑の匂いだ。 強大な力によって大破した噴水の瓦礫のうえに六道骸がいた。背の高い彼は、まるで彫像のように素晴らしいバランスでコンクリートの瓦礫片のうえに座っている。彼の右手には見覚えのある三又槍が握られており、槍先は地面のほうへ向けられている。 骸は綱吉を見ても表情を変えなかった。 薔薇の庭園は土をえぐられ、まるで子供が無邪気に散らかしたように庭木がめちゃくちゃになっていた。先日、庭師が丁寧に庭木の手入れをしていたことを思い出し、綱吉は苦い顔で息を吐き出した。 「……酷い、有り様」 小さな声で綱吉がうめくと、演技的なくらいに目をまたたかせた骸が首をゆっくりとかしげた。 「おや。ボンゴレ。どうしましたか?」 骸が座っている瓦礫へ近づいていき、綱吉は彼を見上げた。距離にして一メートル強ほど高い位置にある骸の表情は、仮面のように微笑んだままだ。だがしかし、目だけが笑っていない。 目を細めながら、綱吉は口を開く。 「どうしましたか?じゃないよ。あのなあ、おまえ、いくらボンゴレの敷地内のこととはいえ、これだけ破壊の限り尽くしたら、誰かが恐れおののいてオレんとこに来ることくらい、分かるだろ?」 「苛々したんで」 「こういうことをするんじゃなくて、他に何かストレスを解消できるもの、ないの?」 「破壊が一番手っ取り早いんです」 酷薄そうに骸は微笑む。ため息をついて彼から視線をはずし、綱吉は惨状といっても過言ではない辺りの景色を眺めた。 「――片づけ、どうするんだよ」 「犬と千種にやらせますよ。なにも、君の手をわずらわせようだなんて思ってないから安心なさい」 口調だけは穏やかなままだったが、わずかに棘をはらんだ声音で骸が言う。甘い微笑の裏側にひそむ、どろどろとした悪意や殺意がふとした瞬間に垣間見えるような、不快さが綱吉の心を震わせる。 骸と対峙するたびに綱吉はどうしても怯えごしになってしまう。 純粋なパワーゲームならば、綱吉は骸に無惨に倒されることはない。しかし、綱吉は骸が恐ろしかった。綱吉の常識や観念とはまったく違う常識と観念を持っている骸のことが恐ろしくてたまらなかった。彼には彼の正義と理念がある。それを綱吉が否定する権利はない。だがしかし、綱吉は骸のことを見つめるたび、美しく彩られた表面からときおり、幻のようにどろりと溢れ出す悪意と害意にどうしても気分が悪くなって、胸をゆっくりと圧迫されるようだった。 「なにをぼうっとしてるんですか? 殺しますよ?」 まるで戯言のように笑いながら言って、骸は演技的に首を傾げる。 彼と言葉を交わすたび、綱吉は自分自身も何らかの舞台にあがっているような気がしてならなかった。彼との会話にはいつでも緊張がはびこり、相手の演技的な台詞や言い回しのことばかり気になってしまって、綱吉は彼との会話で安らいだことなど一度だってありはしなかった。 「片づけはもう頼んだよ。あとで業者がくる」 「それはよかった。手間が省けましたね」 「修繕費、おまえの給料から天引きしておくからな」 「ご勝手に。ボンゴレから支給される金などなくても、僕は生きていけますから」 嘲笑うように言って、骸は双眸を細めて綱吉を見下ろす。昔から変わることのない、冷淡な眼差しは冷えきっていて、全身で、生命のすべてで、彼が世界を拒絶していることが伝わってくる。 綱吉の生きている世界と、骸が生きている世界は同じはずだ。 綱吉はこの世界が好きだ。 辛いことも嫌なこともあるが、それ以上に幸せなことも楽しいこともたくさんある。 幸せなこと、 楽しいこと、 骸にとっての世界には『あたたかいもの』などありはしないのだろうか。 彼の瞳のように、美しく冷たいもので、骸の世界は満たされているのだろうか。 ぼんやりとそんなことを考えながら、綱吉は骸のことを見上げていた。焦点はほとんど合っておらず、ただ――骸を眺めて思考していた。 「……なんですか?」 微笑をくずし、骸が不機嫌そうに片眉をはねあげて綱吉を睨み付ける。 「あっ、ごめん、なんでもない……」 首を振って、綱吉は半歩ほど身を引いた。それから失敗したと思った。綱吉が後退するのを見た骸は、うろんそうに綱吉のことを眺めて、双眸を細めたかと思うと――馬鹿にするように口元だけで笑った。綱吉が考えていたことなどお見通しなのだと言わんばかりに、骸はため息をついて「君は本当に愚かですね」と見下すように冷たく囁いた。 綱吉は下がってしまった半歩分、再び踏み出して、骸を見上げる。 「骸は、何がしたいんだよ?」 「破壊したい」 綱吉から視線を外し、投げやりな感じで空を見上げて骸は言った。 「なにを、破壊したいの?」 綱吉の声をきいた骸は、空を見上げていた視線を綱吉のもとへ下ろした。 ふいに、骸が微笑する。 見るものが見とれてしまうほどに好意的で嬉しみに満ちた、ぞっとするほど綺麗な微笑みを浮かべた骸の唇がゆっくりと、まるで呪文を言うように、無声音のままで――動く。 き み を こ わ し た い 瞬間、骸の姿が瓦礫からかき消える。 「骸!!!!」 綱吉は本能が命じるままに額と両手に炎を宿し、身構えて臨戦態勢に入る。刹那、背後に気配を感じて綱吉は前方へ跳んだ。空中で身体を反転させ、ぬかるんだ地面に足をとられつつ、綱吉は着地する。綱吉が立っていた場所へ槍を突き立てていた骸が楽しげに声をたてて笑い、槍を地面から引き抜く。 「ああ、良い顔をしますねえ、ボンゴレ……」 両手で槍を構える骸の瞳に、明らかな殺意と害意が宿る。 「君の全身全霊で、僕を、楽しませてください」 |
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「馬鹿。馬鹿、馬鹿ツナ、馬鹿、馬鹿、極限馬鹿」 「あ。なんか、最後だけ、ちょっと変化球」 執務室の豪奢な椅子に座って軽口を言った綱吉のことを、リボーンは大きな執務机を挟んだところから睨み上げてきた。視線だけで反省をうながしてくるリボーンの圧力に負け、綱吉は力無く笑って頭を下げる。 「……すいません……」 「てめえら二人が大暴れしたら、どうなるかってことくらい、分かってたんだろーなあ、え? ボンゴレ十代目様」 「うっ、ごめんなさい」 リボーンが音をたてて書類の紙束を机においた。それはどれも修繕費に関する報告書だった。骸だけならいざ知らず、綱吉までもが大暴れした庭園は、ボンゴレの歴史上でもあるかないかと言われるくらい破壊――もとい、崩壊してしまった。古株の執事達のなかには卒倒した者がいたくらいだった。骸がボンゴレの庭園から離脱し、ようやく理性を取り戻した綱吉が目にしたのは、ここはいったいどこだ、荒野か?と思うくらいに悲惨な状態の庭だった。頭にのぼっていた血はあっという間に冷え、興奮もびっくりするような早さでひいていった。まず最初に頭に浮かんだのが、ずきずきと痛む自分の身体のことではなく、修繕費のことだったのは笑い話にしかならない。 激しく痛んでいた綱吉の右腕は折れていた。他にも打ち身や擦り傷切り傷など、ささいなものも数えれば全身が傷だらけだったが、もっともたる怪我は右腕の骨折のみだった。綱吉が負傷したことで、獄寺は切腹でもするような勢いで嘆き悲しみつつ、シャマルのもとで手当を受けている綱吉の側で正座していた。何が何でも骸を見つけだして倒すと言い張る獄寺をあの手この手でなだめすかし、綱吉は彼に骸の撃墜を思いとどまらせた。 これ以上、骸がボンゴレという組織に嫌悪感を抱くことは避けなくてはならなかった。彼はいまはボンゴレの守護者として活動することを許されてはいるものの、永久に監獄へ捕らわれていてもおかしくないほどの極悪人なのだ。もしも、ボンゴレという鎖を失ったら骸は再び、暗く冷たい水牢へと戻されるに違いなかった。 綱吉はどうしても、それだけは避けたかった。 遠い昔、綱吉は骸を通じて水牢を疑似体験した。 あそこは冷たい。 そして光がない、闇だ。 あんなところへ、もう二度と、綱吉が知っている人間が閉じこめられるようなことを、綱吉は許さない。 「骸は逃亡して、おまえは利き腕を折る。――馬鹿だろ、馬鹿、ばーか」 半眼のままにひっきりなしに罵ってくるリボーンの声に綱吉は苦笑いをするしかない。三角巾でつりさげられた右腕はギプスで固定されており、普段は感じない重みのせいか、肩が凝っているような気がした。治るまでは二ヶ月かかるかもしれないと聞いたときの獄寺の瞳の憎悪のゆらめきが、時間が経つことによって少しでも収まればいいなあと綱吉は頭の片隅で考えていた。 ふと、呆れたように首をもたげて息を吐いたリボーンは、ボルサリーノの縁で目線を一度隠してから、再び顔をあげて綱吉のことを見た。 「と、まあ、冗談はこれくらいにしといてやる」 「すいません。ほんとに」 綱吉の謝罪を口元で微笑して受け止め、リボーンは口を開く。 「最近、あいつはどうしたんだ?」 「うーん。オレにも、よくわかんないんだよね。――なんかさ、最近、骸のやつ、すごい苛々してるのが表面化してる気がしてさ。以前はまだ、そういった思惑みたいなの、全部うまく隠してる奴だったのに……」 「そうだな。うまく隠し通して騙し通すのがあいつのやり方だったのにな。最近はどうもあいつらしからぬ行動ばっかりしてやがる。……昔から、オレ達に対して攻撃的だとは思ってたんだが、こうもあからさまな態度には出しやがらなかったってのに。いったい、何に苛立ってやがるのか……」 「クローム達のこともあって、あまりボンゴレ周辺とごたつく訳にはいかないって理解してるはずなのにな。――最近、あいつの周りで何かあった? バジルくんとか獄寺くんから何か聞いてない?」 「ボスのとこに情報がきてねーのに、なんでオレが知ってんだ」 「ボンゴレからの視点でなく、おまえ独自の情報網があるんじゃんか」 「オレが知る限りじゃあ、仕事はちゃんとしてるみてーだったがな。あいつの個人的なところまではオレは関知してねぇぞ」 「そっか……」 「ぐだぐだ余計なこと考えてねぇで仕事しろよ? ボス」 思案にふけりそうになった綱吉を現実に引き戻すようにリボーンが言う。 「利き手が折れてても左手で作業できるだろ? こういうとききのために、オレはおまえのことを両利きにしておいたんだ」 「――……わあ! そうだったんですか、ありがとうございます、先生!」 苦笑いを浮かべて綱吉が棒読みの台詞を言うと、リボーンは皮肉そうに片目を細め、反対側の口角を持ち上げた。 「見積書は獄寺のやつにもう一度検討させておく。そのあとでまたおまえが目を通せよ?」 「うん」 机のうえの見積書を手に取ったリボーンは歩き出したまま停止して、机のうえの万年筆を左手に持った綱吉を振り返った。少年の見た目には不似合いな、様々な深みのある視線を綱吉に向け、リボーンは真剣な様子で言った。 「骸の動向には気をつけておけ。――殺されるなよ?」 彼らしからぬ、優しい忠告に綱吉はあわく笑って頷いた。 「うん。気をつけるよ」 |
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庭園を破壊した事件からすでに二週間ほどが経過したころ、綱吉は片腕で生活することにも慣れてしまっていた。リボーンに鍛えられていたおかげで、左腕で生活することもあまり苦痛ではなかったが、使用出来る腕が一本しかないことはやはり不便なときがあった。 それは着替えだ。 かいがいしく世話をしてくれるメイド達がいることはいるが、幼いころはふつうに育った綱吉にとって、他人に着替えや風呂の世話をされることにはつよい恥ずかしさがあった。 時間があれば獄寺や山本などが手伝ってくれたりもする。しかし、それはそれで、友達を相手に奉仕させている自分自身が恥ずかしくて、最初の何回かはしてもらったものの、それ以後はのらりくらりと理由をつけて、彼らの手助けも遠慮していた。 結局は、いつもの何倍もかけて、着替えたり入浴したりするしかなかった。 「……どうにもならないからなあ……」 私室のリビングルームのソファの近くに立って、綱吉は片腕をつっていた三角巾を首から外し、痛みをはしらせないようにゆっくりとギプスで固定されている腕を動かして、スーツの上着を脱いだ。上着をソファの背もたれへのせ、左手でネクタイの結び目をゆるめて解き、上着のうえへのせる。シャツのボタンを上から二番目まで外してから、綱吉はずっとつり下げていたままの右腕の肘の関節を動かした。まるで油が切れた機械のようにぎこちなく、それでいてゆっくりと右の肘関節を動かしていると――、ふいに室内の空気が動いたような気がした。綱吉はソファの傍らに立ったまま、己の肘を見下ろしていた顔を持ち上げ、何気なく分厚いカーテンが引かれた窓辺へと視線を動かした。 琥珀色のカーテンを背にして、真っ黒なロングコート姿の人間が立っていた。音も気配もなく突然に現れた『彼』に綱吉は驚きすぎて声もあげられなかった。引きつったように息を吸ったまま、肩を揺らすことしかできない。 室内に入室したときには部屋は確かに無人だった。綱吉が上着を脱いでネクタイを外した数分の間、窓もドアも開かず、カーテンすら揺れた気配はなかった。 綱吉が立っているソファーセットが置かれた場所から、左斜め奥の辺りに骸は立っている。舞台の役者がするように、片腕を身体のまえに差し出し、わざとらしく優雅に一礼をすると、彼は微笑んだ。整っている彼の顔の、左目の下あたりに数センチにわたって赤いカサブタが出来ている。しかし、カサブタが出来ていても、彼の美貌には何の損傷もなかった。 「こんばんは」 「……びっくりさすなよ……」 綱吉は小さく呻いて、近づいてくる骸を警戒するように全身に緊張をいきわたらせた。 骸は足音をたてずに近づいてくると、綱吉の上着がかけられているソファに座り、流麗な動作で足を組んだ。 「腕、折れてたんですってねえ」 組んだ足の膝頭に両手をのせ、愉快そうに骸は笑う。綱吉は彼の歪んだ笑みに心がくじけそうになるのを必死に奮い立たせ、冷たく言い放った。 「ああ、そうだよ。きれいに折れてたからくっつくのも早いって。残念だったな」 「それは本当に残念です。それでは、今度はすぐに治らないように粉砕骨折でもしていただきましょうかね?」 骸は楽しげに笑って肩を揺らす。 彼が本当に楽しそうに笑うのを見て、綱吉は心が締め付けられる。怒りよりも悲しみが先に綱吉の心を揺さぶり、荒々しく振り回す。 「いったい、なんなんだよ! おまえ、最近、変だぞ!」 まるで綱吉の激昂など羽毛のように軽いものとでも思っているのか、骸はうすく微笑むばかりで何も答えない。少しの間、彼が何かを話すのを綱吉は待ってみたが、骸は何も言わなかった。 綱吉は目を伏せて気分を落ち着かせてから、骸の目を見た。出会ったときとなんら変わりのない、人間のものとは思えないほど美しく綺麗な色あいの瞳が綱吉を見上げる。骸の容貌だけを眺めていると、とてもではないがあらゆるものが破綻した人間には――人間だということすら危うい存在ではあったが――見えなかった。二週間前、激闘のすえ、綱吉の利き腕を折って逃亡した人間にも、見えなかった。 「……最近のおまえ、なんでだか分かんないけど、オレを痛めつけることで何かを発散してるみたいだから、オレはそれでいいやとは思ってるけど……。他のみんなに、無差別に攻撃するようだったら、オレはおまえのことを真剣に考えないといけなくなるだろ? もっと、いろいろ自重してくれよ……」 「おや? ボンゴレは、僕のことを真剣に考えていなかったんですか?」 「真剣に考えてない訳じゃない。おまえについて考えてることはたくさんあるよ。――おまえこそ、真剣に考えてるのか?」 「は? なにをです?」 「……自分の、これからのこと、とか」 「くはっ、何を言うかと思えば! 他人の心配をするくらいなら、自分の心配をしたらどうです?」 瞬間、ソファから立ち上がった骸が間合いをつめ、綱吉の首へ片手を伸ばしてきた。あらかじめ嫌な予感がしていた綱吉は、彼の腕から逃れるように後方へ跳び、体勢を低く保って骸を睨み付ける。 「だから、やめろって、そういうの」 二メートルほどの距離をおいて、骸は綱吉と対峙する。綱吉を捕獲できなかったことが不満だったのか、骸は不機嫌そうに眉をひそめた。 綱吉はギプスが巻かれた右腕をだらりと脇にたらし、左手を身体の前にして、注意深く骸の動きを観察する。彼は直立したまま、綱吉のことを見ている。相変わらず、その瞳に浮かんでいるのは仄暗いどろどろとした悪意しかない。 まるで底のない闇と対峙しているようだった。綱吉は足先から脳天まで痺れるような恐れが突き抜けていくのを感じた。 「オレはおまえと戦いたくないんだ」 「それなら今すぐに僕にその身体を明け渡しなさい」 「それは出来ない」 綱吉の拒絶に骸はおおげさな身振りで肩をすくめ、落胆のパフォーマンスをした。 「なら、仕方ない。僕が僕の望みを叶えるためには実力行使しかないでしょう?」 「オレの身体をのっとって、それでどうするんだ?」 「君の権力と能力を使用して、手っ取り早く世界を破滅させます」 「それが終わったら、どうするの?」 「は?」 綱吉の問いかけに、骸はぽかんと口を開いて停止する。 「世界中の人間が苦しんで、死に絶えていって、――おまえはそのあとで、どうするの?」 「さあ? そうなってから、考えたらいいんじゃないですか?」 「壊して失ってしまったら、後悔しても取り戻せないものがあるって、おまえ、分かってるの……?」 ふいに骸が声をたてて笑い出す。 ぞっとするほど、狂気が染みこんだ笑い声だった。 「さすが、ドン・ボンゴレ! この僕に説教ですか? たった二十数年生きたくらいで、この僕に忠告をしようってんですか? くはははは、なんて、おろかな!」 背中をまるめてひとしきり笑っていた骸は、片手をあげて振った瞬間に、ぴたりと笑うのをやめた。まるで笑うスイッチがオフになったかのように、綱吉の目の前に立っている骸の顔から表情が消える。美しいがゆえに、生命的でない骸の顔立ちに浮かんでいるのはわずかな嫌悪と侮蔑だった。 綱吉がのばした手を骸はことごとく払いのける。 彼は綱吉が差し出すものを一瞥しただけで否定する。 綱吉だって人間だ。 あまりにも拒否され、否定され続ければ、悲しみも増すし、理不尽な怒りさえ感じてしまう。だがしかし、綱吉が苛立ち、怒ったとしても、骸は傷ついたり悲しんだりはしない。きっと喜ぶだろう。そんな想像が一瞬にして綱吉の脳裏に浮かんで消える。 骸と出会ってからの数年間で、綱吉は一度だって彼のことが分かったような気分になったことはない。 理解できない。 わからない。 その繰り返しばかりだった。 同じ人間同士で、年も近いはずなのに、 どうしてこんなにも自分の気持ちが伝わらないのか――。 急な悲しみに胸をつかれ、綱吉は唇を引き結んで、弱音を吐き出してしまいそうなのをこらえた。そんな綱吉の些細な変化を骸が見逃すはずはなかった。 落ち込んでいる綱吉が傷つくと理解したうえで、骸は優しい顔をして、首をかしげた。 「どうかしましたか?」 「……骸は好きなもの、ないの?」 「君が苦しむ顔を見るのは好きです」 「そういうんじゃなくて……。ああ、もう、いいや……」 「なんですか? 思わせぶりに言いかけてやめないでください」 「……オレは、おまえのこと嫌いじゃないよ? 好きになれとは言わないけどさ、もう少し、仲良くしてくれるとたすかるんだけど……」 「君と仲良く? 友達ごっこでもしたいんですか?」 「友達ごっこでもいいよ。オレはおまえと、もっと、ふつうの関係になってみたいんだ。そりゃあ、おまえにとっちゃあ、オレは憎きマフィアのボスだし、ダメでグズなオレの配下に無理矢理なるようにし向けられた訳だし……、疎まれたり憎まれたりされんのは当たり前なのかもしんないけど……。どうしたって、オレはおまえのこと放っておけない訳だし。こうやって憎しみあったり、苛立って話したりするの、オレはもう疲れたよ」 「――……ふつうの関係というのは、他の守護者と君の関係みたいなことを言っていますか?」 綱吉は骸の顔を見ていられなくて、彼の足下あたりを眺めていた。 きれいに磨かれた黒い革靴の先には汚れはない。 「まあ、そうだね。そんな感じ」 「嫌です」 言った途端、骸が間合いをつめてくる。綱吉が身構える前に骸の手がギプスに包まれている右腕を掴んだ。加減を知らない彼の手がギプスの上から綱吉の腕を強く握りしめてくる。雷に打たれたように綱吉の神経に鋭い痛みが走った。痛みに対して反射的に身体をすくませて動けなくなった綱吉の顔へ、骸の顔が迫る。 驚いて目を見開いた綱吉の唇に骸の唇が触れた。生ぬるい彼の舌がこわばった綱吉の唇をなまめかしく舐めあげ、わざとらしく音を立てて唇が離れていく。 「む、く……」 綱吉が唾液に濡れた唇を震わせると、 骸は喉のあたりにからまるように笑い、オッドアイを愉悦に細める。 「大丈夫ですか? 僕が何をしたか分かってますか? 君に、キスしたんですよ?」 骸の突飛な行動と右腕の痛みで綱吉の思考は停止してしまう。 何かを喋ろうとしても、骸の唾液で湿った唇が震えるだけで、何も言えなかった。 再び突然に、骸の手が綱吉の折れた右腕をギプスのうえから強く握りしめてくる。耐え難い痛みに綱吉が身体を震わせて歯を食いしばると、骸はますます目を輝かせるようにして笑う。 綱吉の心も、身体も、骸に対して寒気を覚えた。 こわい。こわい。おそろしい。 りかいが、できない。 すぐにでも、大きな声で悲鳴をあげ、その場から逃げ出したかった。 だが、綱吉が逃げたところで、骸は嬉々として追ってくるだろう。 逃げることは逆効果だ。 そして、骸の狂気を受け入れることもまた、綱吉には出来ない。 綱吉には守るべきものがある。 もちろん、骸自身も、その守るべきもののなかに数えられている。だがしかし、彼は信じないだろう。決して認めはしないだろう。 逃げることも、受け入れることも出来ない。 結局は、――対立し、戦うことしか、出来ない。 軋むほどに奥歯を噛みしめ、綱吉は身体の内側で暴れる感情を沈める。痛みからくる生理的な涙を流しながら、綱吉は骸のことを睨み上げた。 「……ああ、ボンゴレ。素敵な顔ですね……」 綱吉の表情を眺めた骸は両の口角をゆっくりと持ち上げていき、うっとりとするように艶やかに双眸を細めた。 |
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「手を、離せ」 「嫌です」 骸は綱吉の腕を握る力を弱めたものの、離しはしなかった。唸るような声を口のなかでくぐもらせ、綱吉は骸のことを強く睨み付けてくる。その間も、形のよい目の縁から涙が盛り上がっては流れていく。悲しみでなく、苦痛からくる綱吉の涙に骸は快楽にも似た背筋が震える思いだった。 「さっきのは、何なんだよ?」 「くだらないガキと同じ扱いだなんて、反吐が出ます。僕が欲しいのなら、もっとつよく求めてくださいよ」 「ふざけるな!」 「友達ごっこより、恋愛ごっこのほうが楽しそうじゃありませんか?」 「オレは男だ……ッ、っ、うぐ」 声を荒らげようとした綱吉の首を骸は片手で掴んだ。加減などせずに一気に締め上げると、彼は喘ぐように唇を震わせ、大きく目を見開いた。 「うるさいですよ。あまり騒ぐと、喉をつぶしますよ」 悔しげに顔をゆがませた綱吉は、自由になる左手で首を絞めている骸の手首を掴んだ。力任せに引き剥がそうとする綱吉の右腕をひねりあげると、彼は電流のようにはしった痛みに身体をびくりと揺らして抵抗をやめてしまった。 小柄な彼に似合いの、小さめの唇が酸素を求めて、か弱く震える様を眺めていた骸は、吸い寄せられるように彼の顔へ顔を近づけた。半開きで震える唇にキスをして、悪戯に舌をすいあげれば、締め上げられている綱吉の喉の奥から微かに「あぁ」と声が漏れる。 骸の腕のなかで、綱吉は抵抗することもなく、泣き濡れた目をして震えている。 高笑いしたい衝動をゆっくりと息を吐くことでおさえ、骸は恐ろしいものを目にしているように瞬きを忘れてしまった琥珀色の瞳を、吐息がかかるほどに近い位置でのぞき込んだ。 「ねえ、ボンゴレ。君は僕に何を望もうとしてるんですか? 僕のことを疎ましいと思いながらも、どうしたって君は僕のことを見捨てることができない。君の優しさはどこまでも愚かで残酷ですね。君は僕のことを救うつもりですか? 僕に手を伸ばし続けていれば僕を救うことが出来るとでも思っているんですか? 僕の表面しか知らない君にいったい何が救えるというのか。僕は、君の従順な犬になんてなりませんよ? それでも僕のことをあやふやに信頼して側におきますか? ――ああ、すみません。これでは喋れませんでしたね」 気道を閉めていた手の力をやんわりと抜くと綱吉が激しく咳き込んで身体を揺らした。首から手は離さず、いつでも絞めることができるのだと綱吉に分かるように、適当に力を込めていた。 唇の端から唾液を細く垂らして呼吸に喘いだ綱吉は、伏せていた目に燃え立つ意志を宿して、鼻先が触れ合うほどに近づいている骸の顔を睨み付けた。 「あやふやが嫌なら、オレにおまえのこと、しっかり信頼させてみろよ」 かすれた声で綱吉が言う。 「何を言ってる? あやふやが嫌なのは君だろ?」 「『あやふや』って言ったのは骸だろ? おまえ、オレに信頼して欲しいの?」 「君、ちゃんと耳で僕の言葉を聞いてますか? 誰が誰に信頼して欲しいと言いましたか?」 骸が突き放すように微笑んで言葉を投げつけると、綱吉は唇を震わせるように息を吸って――、言いかけた言葉を口のなかで溶かしてしまった。 ほんの少しの間、骸と綱吉は互いに黙り込んで、視線を交わし合った。 綱吉のまつげが涙に濡れていた。頬にも幾筋もの涙のあとが残っている。首を掴んでいる骸の右の手のひらは、綱吉の首の温度、肌の下で脈打つ彼の鼓動を感じていた。どくどくと脈打つ血流が、綱吉が生きていることを骸に伝えてくる。 「骸は」 強い風でも吹いたらかき消されてしまうほどに微かな声で、綱吉は言う。 「骸は、オレが憎いの?」 骸のなかの加虐心を煽るのが綱吉はとても上手い。彼がどうすれば最大に傷つくか、骸には簡単に思考できた。偽善者で、どこまでも偽善者な綱吉の思考は、理解はできないが、想像はつく。 黙り込んでいる骸のことを、綱吉は頼りなげに見上げている。骸の答えなど分かり切っていても、綱吉は骸の口から聞くまでは受け入れられないのだろう。 もしも――という可能性にすがって、希望を持つことがどんなに愚かなことなのか。 マフィアの世界で生きるようになっても、彼は思い知ることが出来ていないようだった。 「君が、憎い?」 囁くように言って、骸は冷たい言葉とは裏腹に、優しく微笑をして綱吉を見つめた。 「どうしてそんなことを聞くんです? 僕に好かれたいんですか? 誰も彼もが君のことを好いているなんて思い上がりもいいところだ。君はなんですか? 自分が誰からも好かれるとでも思ってるんですか? 自意識過剰も甚だしい」 さあっと綱吉の顔から血の気と共に表情が引いていく。骸が掴んでいる綱吉の喉が引くついたのが手のひらから伝わってくる。 「おや、すみませんね。傷ついてしまいましたか?」 眉間に深いシワを寄せた綱吉は目を閉じて、何かを耐えるよに唇を引き結んだ。 そして数秒後、彼は目まぐるしい感情をすべて消した、温度の感じられない瞳で骸のことを睨み上げた。 「――離せ」 彼が放った闘志が骸の闘争心を震わせた。 綱吉はときおり、別人のような顔と表情をするときがある。それは昔、彼の家庭教師が銃弾によって無理矢理に引き出していた彼のもう一つの可能性ともいえる、そんな人格だ。二重人格というわけではなく、綱吉は二つの顔を自在に操ることができるようになっている。いま、骸の目の前にいるのは綱吉ではなく、ボンゴレという血脈の子孫だった。 「離せ。骸」 無感情な声音には圧倒的な威圧が込められている。 離さないのならば実力行使も辞さない。綱吉の瞳がそう訴えていた。 仕方なく、骸は両手から力を抜いた。 綱吉は右腕をかばうように身体へ引き寄せ、骸から距離をとるように離れようとする。 「もう、今日はおまえと何も話したくない、出ていって――」 離れようとする綱吉の腕を掴み、骸は強く引いた。逃れようとした綱吉だったが、骸に手を引かれるとは思わなかったのか、よろめいて転びそうになる。骸は体勢を崩した綱吉の身体を背後から抱きしめた。 「なにっ、すんだ、よ!」 狼狽えたように綱吉が暴れ出す前に骸は鋭く囁いた。 「好きですよ。綱吉くん」 逃れようとする綱吉の身体を抱きしめて、色素の薄い髪の合間からのぞく耳へ声を注ぎ込む。 「僕と仲良くしたいんでしょう?」 「それと、これは、違う!!」 暴れようとする綱吉の両腕を封じるように、腕のなかへ閉じこめて、骸は身体を震わせる綱吉の耳へ甘くあまく言葉を流し込む。 「僕のことを嫌いじゃあないんでしょう? だったらいいじゃないですか。愛してると言ってあげてもいいですし、キスもしてあげますよ? 君のことを抱きしめて、甘い言葉を囁いて、優しくしてあげますよ?」 綱吉が身をよじって、肩越しに骸のことを見る。混乱しているのか、綱吉は怒っているのか泣いているのか、よく分からない顔で骸のことを睨み付けてくる。濡れたままのまつげが見開かれた目をふちどって、震えていた。 「オレはっ、おまえにそんなこと望んでない!」 「僕はね、『綱吉くん』。君の嫌がる顔が好きだと言ってるじゃないですか。――そんな顔をされると、たまらなくなる」 くくくくく、と喉のあたりで笑った骸は、口を開いて舌を出す。ぎょっとして綱吉が暴れ出そうとして、ゆるくくつろげられたワイシャツの襟元から綱吉のうなじがあらわになる。 「はなせ……ッ、――っああぁあああぁあっ!」 綱吉の首の付け根に骸は噛みついた。肉を噛みきってしまっても構わないと思って、骸は思い切り綱吉の肌に噛みついた。ぶつり、と肌に歯が食い込む感触がして、甘く苦い血の味が舌先に感じられた。腕のなかの身体がびくっと大きく震えて硬直する。骸の顎の力では生きている人間の肉を噛みきることはできなかった。 湿った音を立てて骸は綱吉の首筋から口を離す。ねちゃりと音をたてて歯を遠ざけると、傷口からみるみるうちに赤い血液がもりあがり、綱吉の肌を伝って流れ落ちていく。骸の歯形のかたちについた赤い傷痕に舌をはわせると、綱吉の身体がのけぞるように震えた。 痛みからか、それとも快感からか、綱吉は鼻からぬけるような嬌声のようなものをあげた。途端、己のあげた声で羞恥を感じたのか、綱吉の頬が赤く染まるのが背後から彼を抱擁している骸の目にも明らかに映った。 「これが僕の愛の証ですよ。――この跡が消える前にまた来ます。そして、また君の身体に愛の証を刻んであげますよ」 「ふざ、け、ん、な!」 「好きですよ。綱吉。君のことが好きだ。僕には君しかいない。君だけが僕のすべてだ。愛してる。君が望むのなら、僕はなんでもしてあげましょう。君は僕の特別だから優しくしてあげてもいい。君がどろどろに溶けてしまうくらいに愛してあげます。可愛いかわいい僕の綱吉。僕には君だけだ、君がいなくなったら僕はきっと辛くて死にたくなるでしょうね。――好きですよ、大好きです、だから僕のことを愛しなさい、――綱吉」」 「やめろ……、やめてくれ……っ、……やめ、て……」 切れ切れに、懇願するように言って、綱吉は弱々しく首を振る。色素の薄い、やわらかそうな綱吉の髪が骸の目の前で揺れる。彼は抵抗らしい抵抗はせず、ただ静かに、骸の腕のなかで顔を伏せて大人しくしている。骸に噛みつかれた痛みを感じているはずの彼が大人しくしている理由など骸には分からない。 綱吉の肩が震え出す。 泣いているのかと思って、骸が後ろ側から綱吉の表情を伺うように顔を覗き込むと――、怒りをはらんだ綱吉の瞳と視線が絡む。しかし、いくら怒気をはらんでいるとはいえ、彼の瞳は今にも泣きそうだった。泣き濡れた瞳であらわされた怒りなど、あってないようなものだ。 「君はいつだって、自分自身に好意を寄せる人間に甘い。そういった自覚、ありますか?」 「うるさい……、黙れ」 普段の綱吉からは考えられないような低く強ばった声で綱吉が言った。 他の人間達には決して見せないような彼の一面を、骸は目の前にしていることになる。それだけで骸の顔には喜悦が浮かんでしまう。無差別に優しさを振りまく、偽善者な綱吉の仮面をはがすことは、骸にしか出来ないことなのだと思うと快感で背筋がぞくぞくした。 「つなよし」 ねっとりとした甘さを含めた声音で骸が言うと、綱吉は嫌悪と戸惑いが滲んだ顔で肩越しに骸を睨んでくる。 「僕の愛に溺れて君なんて死んでしまえばいいのに」 綱吉は眉をひそめただけで何も言わなかった。 次の間、綱吉は明らかな拒絶を表すように、思い切り身体を揺すりだした。骸はたやすく抱擁という名の拘束を解いて、綱吉から数歩ほど離れる。 骸の腕から解放された綱吉は、左手で首筋の傷口に触れ、赤く染まった手のひらを見て舌打ちした。それでも、骸の所行に対して、綱吉は声を荒らげることはなかった。首筋の傷口を左手で押さえた綱吉は、ただ静かに、それでいて信じがたいものを眺めているかのように複雑な顔をして骸を見つめている。怒り、戸惑い、悲しみ――それらが合わさりあい、綱吉の表情をかげらせていた。しかし、彼の瞳は絶望はしていない。まだ、彼の瞳には消えることのない、暁のような強い意志のひかりが宿っている。 「くはは! どれだけ僕のことを知れば君は絶望してくれるんでしょうかねえ?」 「オレは、たとえ絶望したって、おまえのことは見捨てたりしない」 妙に落ち着いた、きっぱりとした声で綱吉が言う。 なんて愚かな。 なんて偽善的な、男だろうか。 骸はぞくぞくと背筋が震えるのを感じた。 「それはそれは! 同情ですか? なんとお優しいんでしょうか! さすがドン・ボンゴレ!」 「同情じゃないって言っても、どうせおまえはオレを信じたりしないだろ?」 「ご期待に添えずに申し訳ありませんが、僕に人を信じるという概念はありません。僕からひとつ忠告してあげますけど、簡単に他人を信じるのはよしたほうがいい。さもなくば、君はいつか己の甘さによって死を招きますよ」 綱吉は一度、ためらうように部屋のすみへ視線を投げたが、すぐに骸を見た。 「もし、オレが自分の甘さで死ぬはめになっても、オレは構わないよ。オレはオレでしかないから、他の誰かみたいには生きられないから」 綱吉はそう言うと、顔を伏せてしまう。やわからい癖毛が彼の目元をおおってしまい、表情がよく分からなくなる。 骸は、どう言い表していいか分からない、苦痛のようなものが身体の内側から響いてくるのを感じて唇を噛んだ。骸の口の中にはまだ、綱吉の血液の味が――彼の生命の味わいが――、かすかに残っている。 もしも、綱吉が、己の浅はかな行いによって死ぬことがあったら、骸は嘲笑うだろう。 だから言ったでしょう? 僕の忠告を無視した罰だ。無様ですね。 そう言って、死体を見おろして嘲笑えばいい――はずだ。 だがしかし、脳裏に浮かんだ仄暗い想像は、予想外に骸の気分を悪くさせた。 「……骸?」 いつの間にか、伏せていた顔を持ち上げた綱吉が、不思議そうな顔で骸のことを見つめていた。 「せいぜい、殺されないように頑張ってくださいね」 骸は自分がどんな顔をしているか分からないままに、綱吉に背を向けてテラスのある窓辺へ近づいていった。 「おまえに殺されないようにってこと?」 「そうですよ。僕にも、他の誰にも殺されたりしないでくださいよね。――君の身体は僕のものなのだから」 クスクスと笑いながら、骸は分厚いカーテンを片手で引いて、現れた大きな窓の鍵を開いて、ガラス戸を押し開いた。ざあっと冷たい風が室内に向かって吹き込んできて、琥珀色のカーテンを波うたせた。 右足を照らす側へ踏み出し、骸は室内にいる綱吉を振り返った。 綱吉はソファの傍らに立っていた。 首筋から流れる血で白いワイシャツの襟を赤く染めた彼は、怒りたいのか、泣きたいのか、どちらか分からないような顔で骸のことを見ていた。骸のことで、もっと綱吉が怒ったり泣いたりすればいいと思った。四六時中、骸のことばかりを考え、苦しみ、もだえていればいい。そうすれば、きっと綱吉は――、 「…………………」 骸は静かに動揺した。 骸の表層に変化はない。ただ、骸の内側が大きく揺れた。 四六時中、骸のことばかりを考えていればいい――、などという思いの溢れる根源にあるものが何なのか。冷たい水が急に肌の上を伝い落ちたかのように、骸は驚きに打ち震えた。 何を馬鹿な!と嘲笑する自分と、 目をそらせ!と怒鳴った自分と、 可哀想に……と哀れんだ自分が、同時に骸のなかで口々に話し出す。 うるさい。だまれ。 骸のなかのもっとも中核の奥底深くに存在する『骸』が冷徹な声で言い放つと、ほかの『骸』達は仕方なく口を閉じた。 再び、骸の内側が静かになる。 『骸』は、ゆっくりと瞬きをしてから、もう一度、沢田綱吉を眺めた。 もう、骸のなかに動揺はなかった。 沢田綱吉は、マフィア界でも有数のボンゴレのボスだ。 骸が憎むべき、マフィアの世界でも、尊い血統を継いだ生粋のマフィアだ。 それ以外でも、それ以下でもない。 利用価値はあれど、彼に欲して欲しいなどという感情を抱く相手ではない。 綱吉が怪訝そうに眉を寄せ、何かを言おうと息を吸い込む。綱吉の唇が開く前に骸は彼から目をそらし、 「さようなら、ボンゴレ」 囁くように言って、テラスへ踏み出した。 「骸――、」 背後から綱吉が駆け寄ってくる気配がしたが、骸は振り返らずにテラスのてすりへ飛び乗り、そのまま宙へ身を躍らせた。 |
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「さようなら、ボンゴレ」 囁くように言った骸の表情が、やけに寂しそうに見えた。綱吉の首筋に噛みつき、狂った微笑を浮かべていた先ほどとは、まるで手のひらを返したかのように、雰囲気ががらりと変わっていた。骸がとても不安定な性格をしていることを綱吉は重々承知している。不安定でいて複雑で、まるで猫のように気まぐれな彼の態度に、綱吉はいつだって振り回されるばかりだった。 「骸ッ、ちょっと、待てよ!」 ためらいもなくテラスへ出ていってしまった骸を追って、綱吉は早足でテラスへ向かう。綱吉の声が届いたはずだというのに、骸は振り返る素振りすら見せずに照らすを歩いていき、軽い動作でてすりの上へ移動すると、宙へ跳んだ。綱吉の私室から地面まではかなりの高さがある。ざあっと顔から血の気が引くのを感じながら、綱吉はテラスへ慌てて飛び出して、てすりに飛びついて下をのぞき込んだ。 不思議なことに見下ろした視界のどこにも、六道骸の姿はなかった。暗闇のなかのせいか、豪奢にととのえられている庭園のどこにも、彼の気配は感じられない。 「……むくろ……」 小さく名前を囁いて見ても、夜の闇には何の変化もなかった。 綱吉の髪を揺らすように、夜気のなか微風が吹き抜けていく。テラスのてすりに両腕でもたれ、綱吉は重ねた両手に額を寄せて目を閉じる。 熱をもつ首筋の傷が痛みとは違う、妙な感覚でうずいていた。気持ちの悪さ、嫌悪の感情がつよくて、ほんの小さくうずいているものがなんなのか、綱吉には分からなかった。 閉じた瞼のうらに、六道骸の顔が浮かぶ。 嘲笑、苛立ち、侮蔑、怒り――、いまのところ、骸が綱吉に向けてくる素直な感情たち。 優しい微笑と甘い声――、わざと使用することで、綱吉が傷ついたりするのを楽しむための仕草。 『さようなら、ボンゴレ』 そう言った骸の表情は、嘲りや侮蔑のものではなかった。 彼は、何かほかのことが言いたかったように、綱吉には見えた。 だから引き留めようとしたのに、骸は行ってしまった。 綱吉が苦しむ顔が見たいと言い、 恋愛ごっこをしようと提案して、 吸血鬼のように首に噛みついて、 最後に、思わせぶりな視線を残して消えてしまう。 じくじくと首筋の傷口が痛む。 左手で首の傷をおおって、綱吉は深くため息をついた。 骸が言葉通りに、歯形の傷が治るころに姿を現すのだとして――、綱吉はいったい彼とどうやって相対すればいいのか分からなかった。 綱吉のことなどお構いなしに、自分勝手に、めちゃくちゃに振り回すだけ振り回して、骸は姿を消してしまった。己の感情と欲求に素直な彼の行動と言動を、綱吉は理解することができない。まるで猫のように気まぐれさが骸にはあった。相手をしても、相手をしなくても、結局は『猫』様の機嫌次第で綱吉が痛い目をみたり、苦しんだりするしかないのだ。 綺麗な紅と蒼の宝石のような瞳をした真っ黒な毛並みの猫が――いや、猫と言うよりは、猫科の獰猛な獣が甘えた声で鳴く。そんな空想をひとり思い描いて、綱吉は引きつった顔で笑った。 「……オレ、猫って、わりと好きだったんだけど……、嫌いになりそうだなあ……」 背中を丸めててすりにもたれ、左手で頬杖をついて呟いた綱吉の独り言を聞く者は誰もいなかった。 |
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【END】 |