3/ 僕の事を好きなんて、そんな、まさか(落ち着け自分、これは罠だ!)





 早足の足音が近づいてくるのを聞いて、ランチアは軍手をはめている手をとめた。

 足下にある使い古された鉄のバケツには、散り際の薔薇の花を手折ったものが積み重なっている。庭木の手入れは地味な作業だったが、ランチアは嫌いではかった。

 鉄製の植木鋏を持つ手を脇に降ろし、近づいてくる足音の方向へ顔を向けていると、薔薇の生け垣の曲がり角から、オフホワイトのスーツの上下に赤地に細く黒い縦線が入ったシャツを着た沢田綱吉が現れる。

 彼は落ち着き泣く辺りを見回し、ランチアを見つけると走り寄ってきた。その顔はわずかに紅潮してせっぱ詰まっているようだった。

「ランチアさん! ちょっと匿ってください!」

「どうした、ボンゴレ」

「骸がオレの仕事の邪魔ばっかするんですよ、もー頭にきて!」

 綱吉は両手で頭を抱える。おおげさなリアクションは、彼が幼い頃からの癖のようなものだった。

「あいつ、任務があったんじゃなかったのか? 確か、夕刻までかかるはずだと――」

「それが、思いのほか順調に契約が進んじゃってもう帰って来ちゃったんです」

 うなだれた綱吉は間延びしたため息をついて、両腕を下ろして背中を丸める。そうすると小柄な彼の身体がよりいっそう小さく見える。ランチアはわずかに口角をもちあげて苦笑する。

「まあ、そう、邪険にしないでやってくれないか」

「ランチアさんは人が良すぎます。よく、あいつのことフォローできますね、オレなら絶対にできないと思うのに……」

 不服そうに呟いて、綱吉はランチアを見上げてくる。
 六道骸によってランチアが負った傷は、ランチア自身にも計り知れないほどの深さがある。いくら年月が過ぎようとも過去が変わることがないように、ランチアの骸に対する思いは、他の誰にも理解が出来ないほどに複雑に入り組んでしまい、それは死ぬまで払拭できないであろうとさえ思える。

 案じるような綱吉の視線にランチアは微苦笑でうけとめて、首を振る。

「許してる訳じゃないさ。今でも時々、憎らしくてたまらないときだってある。でもな、ボンゴレ。憎しみってのは持続するには相当なエネルギーが必要なんだ、俺はもう憎んでばかりの人生は嫌だと思ってる。だから、許す許さないじゃなくて、憎むのをやめただけだ」

「やっぱり、ランチアさんはいいですね、大人だなぁ……。そういうところにすっごく憧れますよ。骸のああいう態度に怒ってるようじゃあ、オレまだまだ子供なんだなぁ……。いつまでも今のランチアさんのままでいてくださいね、オレの唯一のやすらぎ……!」

「ボンゴレは俺を買い被りすぎだ。能力でいえば、骸のほうが上だろう?」

「確かに戦闘能力の差とかでいったら、そうかもしれないですけど――。あいつ、もー、ほんと鬱陶しいんですよ!」

「……まあ、あいつも……悪気がない、とは言えないが――」

「いいんですよランチアさん、あんな奴のフォローしなくて!」

 拳を握って叫ぶ彼の様子に、ランチアは思わず吹き出してしまう。綱吉は下唇を噛んで低くうなって再びうつむいてしまう。

「いったい、何をしたんだ、あいつは」

 聞いてくれますか?とでも言いたげに、綱吉がランチアをすがるように見た。ランチアが頷くと、綱吉はため息を長々とついたあとで話始めた。

「あいつ、オレが仕事している最中、もう甲斐甲斐しく手伝ってくれるんですよ。それはいいんですよ、あいつ、性格はあんなだけど仕事するのは有能なんで。でも、手伝ってくれてる間中、ずっと、ずぅっと、好きだの、愛してますだの、可愛いですね、とか、もーほんと聞いてるこっちが胸焼けおこすくらいの勢いで口説いてくるんですよ」

 骸の様子が容易に想像できて、さらにおかしさがこみ上げてくる。綱吉が顔をしかめてランチアを睨んだ。ランチアはとっさに笑みをかみころしてみたが、どうにも緊張感のない顔になってしまう。

「あいつがボンゴレのことを好きなのはもう周知の事実だったが、そこまで酷いのか」

「笑わないでくださいよー、オレにとっては結構問題なんですよー」

「どうして? いつものように受け流せばいいじゃないか」

 ランチアの問いかけに綱吉は微苦笑を浮かべる。

「――ねえ、ランチアさん。刷り込みって信じますか?」

「刷り込みって……。まさか、ボンゴレ――」

 一抹の不安を確定させるように、綱吉が「だって!」と声を上げて片手をめちゃくちゃに振り回しながら叫んだ。

「毎日、毎日、毎日! あいつの唯一の長所の、あの綺麗な顔に微笑うかべて飽きることもなく好きです、愛してます、あなただけです!だなんて言われ続けてみてくださいよ。それが一週間とか一ヶ月じゃないんですよ? 年単位なんですよ? あ、オレも好きかもって思わない方がおかしくありません?」

「お、落ち着け。ボンゴレ。あいつはボンゴレの口から「好きだ」なんて聞いたら、それこそ歓喜の歌でも歌い出す勢いではしゃぎ回って、すぐに辺りにふれ回るぞ」

「うぅ。正直、もう自分の気持ちが分からないんですよ。好きだとは思うんです。あいつ、見た目だけは綺麗で格好いいし、最近は一緒にいるとどきどきするし、触れたいとか、き、キスしてもいいかな、とか、思ちゃうようになってて――、それって恋ですよね? あ、あいつと恋人、ですか? うん、恋人になるっていうのは、想像つかないっていうか――」

「好きだ、愛していると言われて、それを受け入れるということは『恋人』になるということだろう。慎重に考えた方がいい」

「骸かー、骸なぁ……。同じ男だったら、ランチアさんみたいな人のがいいですよー、オレ」

「どうして、俺なんだ?」

 唐突に話の矛先がランチア自身にむいたので、思わずあごを引いてしまった。彼は純粋な憧れに満ちた眼差しでランチアを見て、愉快そうに双眸を細める。

「格好いいし、優しいし、気遣いもできて、おおらかだし、いざってとき英雄みたいに助けてくれるし! すっごく素敵だと思います」

 あまりにも真っ直ぐな好意にランチアは頬が熱くなるのを感じた。

 ボンゴレの屋敷でとりあえずは『執事』という役目を与えられてからは、仕事に就く以前よりも人から褒められる機会が飛躍的に増加した。
 ランチアは元から気配りや周囲を見渡してバランスを調整することには向いていたので、屋敷の色々な人材の配置や各への仕事の割り振りなどもうまくやっている自信はある。
 仕事仲間達に褒められ嬉しさを感じることはあったが、ランチアを本当の意味で生き直させた綱吉に褒められることは、最上級の幸福だった。


「褒めても何もできないぞ」

「だって本当のことですから」

 はにかんだ綱吉の表情が、突然に一瞬で凍り付く。ランチアが何かを言う前に、綱吉はランチアの横を駆け抜けて、薔薇の生け垣のカーブの向こうへ姿を消した。

 タイムラグは数十秒――。

 綱吉が現れた生け垣の角と同じ場所から、六道骸が姿を現した。彼はランチアを見つけると舞台俳優のように両腕を広げて近づいてくる。

「ランチア! こっちに綱吉くんがきませんでしたか?」

「いいや。来ていないな」

「うーん。じゃあ、裏庭の方ですかねえ」

 深刻な様子で骸が呟くので、ランチアは険しい顔で問いかけた。

「どうかしたのか?」

「それがですね、先程連絡があって、リボーンが怪我をしたんですって。すぐに病院に向かおうとしてるんですが、綱吉くんも同行したいだろうと思って捜してるんです」

 ランチアは声を失って、とっさに綱吉が駆けていった方向を振り返ってしまった。

「嘘!? リボーンが?!」

 悲鳴に近い声を上げて、綱吉が生け垣のカーブから走り出てくる。綱吉は骸に駆け寄って、その胸ぐらを両手で掴んで揺すった。

「ねえ! 大丈夫なの!? リボーン、死んだりしないよな!?」

 青白い顔をした綱吉を見て骸は素晴らしい笑顔を浮かべた。

 瞬時にランチアは彼が嘘をついたのだと理解する。それは綱吉も同様だったようで、彼は骸の胸ぐら突き放して、ランチアの側まで後退する。

「ぐ。最悪、おまえ、嘘ついたな!」

「ほら。早く執務室に戻りましょう?」

「やだ!」

 叫んだ綱吉がランチアの背後へ隠れるように下がる。

「ランチア、どきなさい」

 骸は笑っていたが、それは見せかけに過ぎないのをランチアはよく知っている。
 しかし、背後にいる綱吉を、いまの骸に差し出すのはためらわれた。
 綱吉もランチアも動かないのを見て、骸は好意的な笑顔をひっこめて、冷えた瞳に歪んだ笑みをのせて低く囁いた。

「ランチア、綱吉くんから離れなさい」

「嫌だ。オレはまだランチアさんと話すことあるから、骸は先に戻ってて」


 綱吉の言葉に骸の顔から笑みが消える。


「なんです、それ」

「言葉のまんまだよ」


 ランチアを挟んで、綱吉と骸が睨みあう。


「落ち着け。二人とも」

 とっさに両手を持ち上げて、ランチアは骸の注意を引こうとしたが、彼は綱吉を睨んだまま固定したように視線を動かさない。短く息を吸って、ランチアはその場で右向け右をして、左右に綱吉と骸を位置するように立った。綱吉が戸惑ったようにランチアを見上げてくる。

 綱吉を見下ろして、彼が言っていた言葉を思い出す。
 好きかもしれない。
 骸を愛する人間など出てくるはずはないと思っていた。
 『あれ』はこの世界の人間には決して理解できない存在だろうと。
 常識も既成概念もすべて通用しないかわりに、いろいろなものが破綻している存在。
 誰もが手に余る存在を、綱吉は受け入れようとしている。
 沢田綱吉という人間に六道骸が惹かれてやまない理由が、ランチアは何となく分かるような気がした。

「ボンゴレ。こいつはちょっとおかしい奴だ」

「ランチア、喧嘩うってますか?」

 近づいてこようとする骸を視線で制する。

「骸は少し黙っていてくれ」

 険しい顔のまま、骸は立ち止まった。
 ランチアは綱吉に視線を戻して続ける。


「――ボンゴレ、俺はこいつとは短いつきあいじゃない。誰も信じていない奴の言葉のほとんどはその場限りに使い捨てのようなもので、ボンゴレが思っているよりも『言葉の意味』は込められていない。しかし、その骸が飽きることもなく言い続けた言葉にだけは、俺は意味があると思う。それだけは嘘ではないと思う。――だから、ボンゴレの想いもきっと間違いではないと……」

 綱吉は黙ってランチアを見上げている。

「二人で何の話をしているんです? 苛々するんですけど」

 不機嫌さを隠しもせずに骸が低く囁く。
 震えるように息を吐いて、綱吉がランチアの前へと歩み出た。骸は綱吉が自分と向き合ったことで多少は機嫌がなおったのか、わずかに微笑を浮かべる。

「――骸」

「はい」

 彼がどういう反応をするのか興味があったランチアは、骸へと視線を向けた。

 綱吉は一度、唇を噛んだあとで、意を決したように言う。




「オレ、おまえのこと、好きなんだけど」




「は?」

 骸は聞こえた言葉が理解できないかのように息を吐いて首を傾げる。

 ランチアは思わず綱吉を見る。

 彼もランチアと同様に予測できなかった骸の反応についていけず、ぽかんとしている。

「あぁ! もう驚かさないでくださいよ!」

 ぱちん。と両手を叩いて、骸はこらえきれなくなった笑いを漏らしながら話し出す。

「なに馬鹿なこと言ってるんですか、綱吉くん! あなたが僕のことを好きだなんて! そんなことあるわけないでしょう?」

「ちょ、なに、それ……」

「待て、骸――」

「まったく。そんな冗談を言ってまで仕事をさぼりたいんですか? まだまだ執務室にはあなたが目を通さないといけない書類があるんですから、早く戻って仕事してくださいよね!」

 にっこりと笑った骸は、語尾を強調するように綱吉を指さしたあと、手を振って立ち去っていった。


 呆然としていたランチアは、隣に突然と現れた熱気に驚いて息を呑む。興奮した綱吉の手から身体に巻き付くように半透明な炎が蛇のようにのたうっている。骸が消えていった道の先を睨んで、彼は両手を強く握り込んだ。

「信じ、らん、ない!!!」

 綱吉の近くにあった生け垣の葉や花から水分が蒸発し、たちまち変色して干涸らびて丸まっていく。

「お、ちつけ、ボンゴレ! 薔薇が焼け焦げる!」

 ランチアの声で綱吉が正気を取り戻すと、炎と熱は一瞬で消え失せる。変色した葉と花も気になったが、まずは綱吉だった。彼は憤った怒りをどこにぶつけていいか分からず、握った拳を身体の脇で震わせていた。噛みしめた歯ときつく閉じられた目が彼の感情の波を表している。

「少しここで待っていろ。骸を連れてくる」

「オレはもう知りません!」

 歩きかけたランチアは立ち止まって、慌てて彼の方へ引き返す。
 綱吉は興奮して真っ赤になっている顔を悔しげにゆがめ、骸が姿を消した方向を見ている。まったくと言っていいほどランチアを見ていない。

「信じられない、信じられない、最悪!」

「あいつは混乱してるんだ」

「いいですよ、ランチアさん! あんな奴のことなんか――!!」

 叫んで頭を振った綱吉の肩をランチアは掴んだ。
 急な接触に驚いた綱吉が、ようやくランチアを見た。
 見開かれた目の縁から一筋だけ涙がこぼれた。綱吉は悔しそうに舌打ちして、その涙をすぐに右手で拭う。

「聞け、ボンゴレ」

 ランチアはすこし背中をまるめ、綱吉の視線と視線をあわせる。彼は複雑そうな顔で唇を噛んで、ランチアを見つめ返した。


「俺は長いこと、おまえたち二人を側で見てきた。骸が飽きもせずに、ボンゴレのことを好きだと繰り返すのを見ていて、ようやく奴も『人間』になったんだと思ったんだ。おまえが骸を『化け物』と呼ばれた存在から『人間』に変えようとしているんだ。……正直、まだ骸を許せはしないが、『あれ』が明るい道を歩けるようならば、その方がいい――」

「なんであなたは、そこまで優しいんですかっ」

「……すまない」

「ああ……! もう! ランチアさんが謝ることはありませんよ……、あの馬鹿がいけないんだ!」

 吐き捨てるように叫んで、綱吉は片手を額に当てた。

 ランチアは何も言わず、彼を見守った。

 綱吉はしばらくそうして目を閉じていたが、長々と息を吐いてから、額に添えていた手を下ろす。

 苦笑というよりは、照れくささを紛らわすように笑いながら、綱吉はランチアを見た。


「……すいません……」

「いいや、落ち着いたのならよかった。――ここで待って……、いや、ボンゴレは執務室に戻っていろ」

「え、嫌ですよ。骸と顔あわせたくありませんって」

「あいつは執務室には戻っていない」

「……なんでそんなことが分かるんですか?」

「実はな、長年操られていたせいか、つよく意識すればあいつの居場所はなんとなく俺には分かるんだ。だから安心して部屋に戻って仕事を続けていればいい。あいつのことは俺に任せてくれ」

 綱吉は心底不思議そうな顔でランチアを見上げてくる。


「ランチアさん、なんでそんなに骸のことを気にかけるんですか?」


 初めて聞かれた問いではなかった。綱吉以外の守護者や、事情を知る数少ない人間たちからも、ランチアは問いかけられることが多々あった。

 何故、骸を気にかけているのか。

 どうして憎んで恨んで、消していまいたいと思わないのか。
 
 
 ランチアには分っていることがある。


 ボスに拾われてきたオッドアイの美しい子供と出会った。
 彼は我が儘ひとつ言わずによく笑い、ファミリィの人間たちに可愛がられた。
 もちろん、ランチアも彼の面倒をよく見たり、時々は遠い場所へ連れて行ったりもした。
 六道骸は確かに愛されていた。
 しかし、惨劇は起きた。
 骸は、愛を与えてくれた人間すべてを殺しても涙ひとつみせなかった。
 
 愛を知らない。
 愛を理解できない。
 それは人を信じることが出来ないことを同じだった。
 人間もそこら辺にある物と同じなのだろう。
 壊れても他にいくらでもある――。

 偽の六道骸を演じさせられている時、ごくまれに骸の思考が流れ込んでくることがあった。日々において彼の思考は実に残酷で冷淡なもので、とうてい人間とは思えないものばかりだった。
 しかし、ランチアには不思議に思うことがあった。
 どうして骸は犬と千種を連れているのか。
 利用するためだと言ってはいるが、そもそも人を一切信じない骸が誰かと行動を共にし、命令を下すという話はおかしいはずだ。

 孤独が寂しいことを骸は知っている。
 独りがどんなに辛く苦しいかを骸は知っている。

 そう考えると、ランチアはどうしても心底骸を憎むことができなかった。
 どんなに極悪非道な行いをしていようとも彼が人間であるならば、生きているうちにいつか、なりふり構わずに他人を求めることが出来るようになるかもしれない。そうすれば、彼は悪魔から人へと変化できるのではないだろうか。
 そんな夢想がランチアの中にはあった。

 ふと思い出す骸の姿は、いつも、いつも――初めて出会った時と同じ、幼い子供の姿をしている。だからどうしても、ランチアは骸を見て見ぬ振りができない。



「ランチアさん……?」



 黙り込んでいたランチアの腕に綱吉が触れた。

 ランチアは微苦笑をうかべて綱吉を見下ろす。


「……俺は、あいつがガキだったころから知っているだ。どんなに残忍で冷酷で化け物のような奴でも、幼いころを知っているとな、……どうにも本気で恨んだり憎んだりがな、できん……」

 綱吉が何かを言いたげに結んでいた唇を開こうとするのを、ランチアは首を振って制する。



「俺のことは今はどうでもいい。――ボンゴレ、あいつを見捨てないでやってくれないか?」


「――見捨てるも、なにも……。もう、慣れっこですよ。いちいちあいつの突拍子もない発言に怒ったりしてると馬鹿みたいですし……、って言いつつ、さっき怒っちゃいましたけど。でも仕方ないじゃないですか。まさか、あんな反応するとは思ってなかったんですから……」


「発言を撤回したりはしないんだな」


「うーん。……とりあえず、骸の本心待ちってことにしておきます。っていうか、ほんと、あいつって、訳わかんないよなぁ……。本当にオレのこと、好きなのかな?」


「好きだと思うぞ」



 かるく吹き出して、綱吉は肩を震わせるようにして笑う。



「ランチアさんにどうして分かるんです?」



「分かるさ。――ずっと側で見ていたんだからな」



 ランチアは、ずっと抱えていた確信に形を与えるようにゆっくりと言った。



「骸がおまえを見るときの目は、確かに『人間』の目だからだ」





×××××





 執務室に戻る綱吉を手を振って見送ったあと、ランチアは目を閉じて額の中央に意識を集中させた。見えない糸のようなものがふわりと感覚のなかに降りてくる。それを意識のなかで掴んで、ランチアは目を開ける。これでだいたいの骸がいる位置は予測が付いた。

 薔薇の生け垣に挟まれた道を何度か左右に曲がりながら歩いていくと、庭園の中央に位置する大きな噴水がある広場に出ることができる。

 噴水のへりに両手をついた骸の後ろ姿を見つけ、ランチアは短く息を付いた。
 足音を消すこともなくランチアが近づいていっても、骸は振り返りもせずに噴水の水のせせらぎに顔を映したままで動こうとしない。

 ランチアは彼が何かを言い出すのを待ってみた。

 しかし、その背中は振り返ることもなく、まるで石像のように固まってしまっていた。
 呆れをこめた息をついて、ランチアは右手でうつむきかけた頭を支える。

「……なにをしてるんだ」
「あっち行ってください」
「ボンゴレは執務室に戻ったぞ」
「そうですか」

 相変わらず骸は振り返らない。

「……………………」
「……………………」

 ランチアは彼の顔をのぞき込もうと、三歩ほど近づいて彼の右側に回り込む。すると彼はランチアの視界に顔をさらすのを嫌がるように、噴水のへりから両手を離してランチアに背中を向ける。

 一瞬だけ視界をかすめた彼の頬が赤かったような気がして、ランチアは微笑ましさから思わず笑みを浮かべてしまう。

「照れているのか?」
「消えてください」

 ランチアの声音に笑みがふくまれていることを敏感に察知した骸は、片手で顔面を押さえるようにして舌打ちをする。

「僕の目の前から消えてください。じゃないと、痛い目にあわせますよ?」

「――骸」

「消えろと言っている!」

 人を馬鹿にしたような慇懃無礼な態度をやめて、珍しく激昂する彼の様子にランチアはますます戸惑う。


 悪魔だ。
 怪物だ。
 化け物だ。


 数多の罵詈雑言にその身をさらし、すべての言葉を嘲笑してきた彼が、ある青年のたった一言に激しく動揺している。

 人間の言葉でこれほどまでに心を乱されている六道骸をランチアは見たことがない。言い表せない感慨のようなものがランチアの胸に溢れる。ランチアでさえ、心のどこかで六道骸は人間ではない、なにかほかの生き物なのだと思っていたのだが、目の前で必死に混乱している心の手綱を制御しようとしている青年は、ただの恋心に振り回されている人間にしか見えなかった。

 彼はいま、確かに人間だった。

 立ち去らないランチアに業を煮やした骸は右腕を持ち上げて、ひらりと空中を舞うように動かす。刹那、三つ又の槍が彼の手に現れる。とっさにランチアの中で長年培ってきた経験から反射的に入ってしまう戦闘のスイッチがオンになる――が、一瞬でそれを解除する。

 槍を持つ手がかすかに震えている。

 骸が本気で攻撃をするのならばすでに仕掛けているはずである。それをしないということはただの脅し、もしくはパフォーマンスにすぎない。

 ランチアは近づくことも立ち去ることもしなかった。
 ただじっとその場に立って、槍を持ったまま立ちつくしている骸の背中を見ていた。

 初めてあった頃、骸はランチアの腰ほどの身長だった。あまり食生活が豊かではなかったのか彼の身体はやせ細っていた。ファミリィのみんなは、彼にたくさんの食べ物とお菓子を買い与えては、彼が照れたように笑って礼を言うのを楽しみにするようになるのに時間はかからなかった。結婚など簡単に出来ない――いつ死ぬかわからないからだ――ファミリィの男達にとって、拾われてきた子供は、何のつながりがなくとも、みんなの子供だった。

 年若いランチアにとっては子供というよりも、年の離れた弟のようだった。

 利用され、利用され、利用されつくされた。
 憎らしい。殺してやりたい。と思ったことは何度もある。
 それでもランチアは骸から離れることはできなかった。


 動かない背中に、いつか見た子供の背中が重なる。


 遠くの空を眺めて、ぼんやりと風に流されてちぎれていく白い雲を眺めていると――骸が振り返った。右手にもったままの槍の切っ先を地面に向け、無表情なままにランチアを睨む。朱と蒼色の瞳には、ランチアや犬、千種にしか見せない残忍で冷酷な光がほんのりと宿っている。


「――落ち着いたか?」


 ランチアの言葉に何の反応も見せない。
 宝石のように無感情な瞳がランチアを見ている。


「どうしてそんなに動揺する必要がある? 喜ぶべきなんじゃないのか? おまえはずっとボンゴレのことが好きだったんだろう? なんであんなことを言う。彼はとても怒っていたし、……悲しんでいたぞ」


 少しだけ骸の目もとが動いたが、彼は表情を変えなかった。


 一呼吸したあとで、女性的なほどに整った顔立ちには冷酷な眼差しを浮かべ、世界を拒絶するように彼は切れ味鋭くランチアを見る。

「そんなの、どうやっって信じるんです? あの子はきっと僕が可哀想になってあんなことを言い出したんですよ? そのうち僕のことなんかいらなくなって、鬱陶しくなって、遠ざけたくなるに決まっています。僕はそんなことになったら耐えられない、きっと彼を殺してしまう――」

 言葉をきった彼は狂気にゆがんだ顔を片手で押さえる。
 指の隙間からのぞく彼の顔は張りついたように笑みをうかべていた。


「……いつもの強引さはどうした?」


 ランチアが差し出すように言うと、骸は顔面から手を離して、いつものように特徴的な含み笑いをしてあごをひいた。

「もともと好かれていないことは分かっていましたから、なんの期待もしてなかったんですよ。自分の気持ちしか確かなものはないし、それだけは真実なんですから、それを僕が口にすることはよかったんです。だってそれだけは不変だと分かってますからね……、ああ、どうしたら……、僕はどうしたらいいんですか? どうしてあの子はあんなことを言ったんです? 僕はあんな言葉、望んじゃいなかったのに――」

「本当に?」

 ランチアの言葉に引かれるように骸がランチアを見た。
 彼の顔から微笑みが消えて表情がなくなる。

「本当に望んでなかったのか?」

「どういう意味ですか?」

「あんなにも愛を口にしていて、ボンゴレがおまえを愛することを望んでいなかった訳はあるまい。おまえは期待していたんだ。呪文のように愛を囁き続けながらボンゴレが手を伸ばしてくるのを待っていたんだろう? どうして伸ばされてきた腕をとらない?」

「だからさっきも言ったでしょう!」

 大仰な仕草で両腕を広げて骸は叫ぶ。

「僕は『終わる』ものなんて欲しくないんです! いつか綱吉くんが僕から興味を失って、僕の気持ちを裏切る日が来るなら、ずっと適当にあしらってもらっていたほうがましでしたよ!」

「そうか。ならそう伝えておこう。その方が俺はいいからな」

 骸は短く息を吸って、呼吸を止めた。
 今日、何度目かは忘れたが。
 透き通った硝子玉のような瞳がランチアを見る。
 驚きに震えるように彼の目がゆっくりと見開かれる。

「ランチア、あなた、まさか――」

「ボンゴレを慕っているのがおまえ一人だと思ってる訳じゃないだろう? おまえは不変が望みなんだろうが、俺はそんなものよりもボンゴレが欲しい。たとえいつか終わりがこようとも彼に触れて彼を愛すことを選――」

 風が唸る音さえ耳に届くには遅い。
 一瞬の反応で身体に引き寄せた腕に激痛。空気が避ける音が遅れて届く。続いて腕に深く刺さる三又の槍のいちばん右端の刃を視認する。傷口と刃の隙間から血が溢れてシャツを濡らしていく。両腕で槍を掴んで構えている骸の頭が、ランチアの肩のあたりにあった。ランチアは無事な方の手で骸の肩に触れる。彼は今し方、目が覚めたかのようにハッとして、戸惑ったようにランチアを見た。

 ランチアは、どちらかといえば苦笑に類する笑みを骸に対してうかべる。

「馬鹿だな。おまえは」

 骸は唇をひらいて何かを言おうとしたようだったが、顔をそむけて舌打ちをした。

「誰にも盗られたくないないんだろ? もっとシンプルに考えるんだ。おまえはボンゴレが好きで、ボンゴレもおまえを好きになったんだ、それがすべてだろ?」

「僕を、試しましたね……?」

「難しく考えすぎなんだ、おまえは。どうしてそんなにねじ曲がったように考える?」

 これが性分なんですよ、と囁いて、骸は槍をランチアの腕から引き抜いた。痛みで思わず息がつまる。骸は手のひらを返すようにして槍をどこかへと消滅させるとすぐに、自らのネクタイを両手でほどいて、ランチアの上腕のあたりにネクタイを巻いてきつく結んだ。出血はあらかた止まったが、やけるような痛みは続いている。
 通常の人間には決して耐えられないであろう痛みでも、ランチアには耐える事が出来た。これはひとえに、偽の六道骸を演じていた際に会得してしまった、痛みに対する我慢強さからくるのものだった。どんなに痛みがあろうと苦痛があろうと、骸はランチアの身体を自在に動かした。気が遠くなるような痛みのなか、延々と生きている人間を殺し続けたこともある。

 そんな夜を思えば、片腕ひとつの痛みくらい、ランチアにとってはささいなものでしかなかった。

 傷口から流れる肌を伝って指先にまで到達する。ランチアの無骨なてのひらに細い線となってはしる赤い滴を眺め、骸は愉快そうに両目を細める。


「わざと怒らせて襲わせて――。あなた、マゾなんですか?」


「痛みに慣れさせた奴に言われたくはないな」


 ランチアのつぶやきにサディストは残虐そうに笑う。


「ああ、あなたの血はなんて赤いんでしょうね。――久しぶりに見ました……」


 うっとりと骸は囁いて、ランチアの指先からしたたり落ちる血を眺めている。
 人間が人間だと、生きているのだと、やはり彼にはまだ『理解』はできていないようだった。骸自身もそして相手も、同じ赤い血が流れていることすら分からないような、血に飢えた瞳をした――人の形をしたもの。


 今の六道骸にとって、生きているものは、『沢田綱吉』以外、いないのだろう。
 

 ランチアと視線をあわせた骸は、ふいに微笑した。それは彼がよく被っている仮面のような笑顔だ。どうやら時間が経過してきたことで、骸の中の精神的なブレが修正されたようだった。


「そんな顔で見ないでください。同情も哀れみもまっぴらごめんです」

「誰も同情なんてしていない」


 ふぅん、とまったく信じていないように息をついて、骸はランチアから離れていった。そして噴水のへりに腰をおろして、ノーネクタイになった襟元に指先をすべらせて、なにげなく襟のかたちを整える。


「ランチア。――僕はあらゆる種族のあらゆる人々を見てきました。その誰もが僕の表層だけを撫でては消えていくんです。どの人々も僕の内側に触れることもなく、あっという間にいなくなっていく。繰り返し繰り返し、生命は生まれ死んでいくというのに、僕の記憶は死ぬこともなく、衰えることも、消えることもなく、世界を漂っているんです。誰一人として僕を真っ直ぐに見る人間はいなかったのに――彼は――」


 いつの間にか骸の顔から微笑が消えている。少しだけうつむいている彼の顔から微笑の仮面がはずれ、年相応の『青年』の戸惑いのようなものが表情に浮かぶ。


 ランチアの視線に気がついた骸は、一瞬で仮面をかぶりなおして、おどけるように片目を細める。


「不思議な人ですよね、彼は」


「……俺のような奴を拾って雇うし、おまえのような奴を平気で味方にしてしまうしな」


「でも、僕は信じられません」



 奇妙なほどに微笑んで、あっさりと骸は言う。


「信じることなんて出来ません」


「……骸……」


「彼のことが好きです。この気持ちは自分のものだから信じられます。でも彼が僕を好きだという気持ちは信じられません」


「好きな人間のいうことを信じてやれないのか?」


「好きだからこそ信じられません。人の気持ちほど移ろいやすく、不確かなものなんてありませんから」


「じゃあ、どうするんだ? ボンゴレはおまえを受け入れようとしているのに」


「……そう、ですね。受け入れてくれるのならば受け入れてもらいましょう」


「――言っていることが、なんだか矛盾していないか?」


「矛盾しているでしょうね。僕だって、よく分かってませんから」


 骸は、くふふ、と笑って双眸を細める。肩を振るわせる彼の艶やかな黒い前髪が頬あたりでさらりと揺れる。


「言葉を信じていなくてもキスはできますし、触れあうことだってできますしね……。ああ、そうですね、そう思ってしまえば簡単かもしれません。最初から信じていないんですから、それなら傷も浅くすむでしょうしねえ」


「……おまえ、それは絶対に、誰の前でも口にするなよ」


「くふふ。もうランチアの前で言ってしまったじゃあないですか」


「俺は他言しない。出来るわけがない。――やっぱりお前は――」
「最悪、ですか?」

 ランチアの言葉を代弁したあとで、骸は右腕を胸に添えて首をかしげる。道化には似合いの仕草だった。

「でもね、ランチア。僕はこれでも変わったんです。前だったらこんなに相手に譲歩しませんでしたよね、あなたなら分かるでしょう? 僕は彼がいればきっと、もっと『人間』に近づけるのかもしれない。ああ、それは、なんて――……、素晴らしいことなんでしょう……! くふふ!」

「――骸……、」

 ランチアが言葉を発するために息を吸い込んだ刹那――、

「――ランチアさん!?」

 背後から悲鳴のような声があがって思わず振り返ってしまう。骸が噴水のへりから立ちあがるのが、動かした視界の端に一瞬だけ過ぎる。

「ボンゴレ」
「綱吉くん」

「なにしてんの!? 骸!! あああ、ランチアさん、それ、傷、傷っ!」

「執務室に戻ったんじゃなかったのか?」

 表情を強ばらせた沢田綱吉がランチアの元へ駆け寄ってくる。ネクタイの巻かれたランチアの右腕を見つめて顔をしかめたあと、跳ねるように顔をあげて綱吉は骸を睨みつけた。

「部屋に戻ろうとしたんですけど、やっぱり気になって……。骸、おまえ、ランチアさんになんてこと――!」

 ランチアの服を掴んで綱吉は激昂する。「それほど深い傷ではない」とランチアが綱吉に伝えるために口を開こうとしたが――。いつの間にか近づいてきていた骸が、綱吉の前で華麗に跪いたため、ランチアは発言するタイミングを失ってしまった。

 ランチアと同様に骸の行動に面食らった綱吉は、振り上げた怒りの矛先を見失い、唸るように息を吐き出して肩を落とした。

「……いったい、何のつもりなんだよ!?」

「好きです」

「ちょ、……なっ……!?」

 綱吉は息をつまらせて咳き込み、ふらりと上体を揺らす。ランチアはその背中に手をあてて、彼がよろめいて倒れそうになるのを防いだ。

「先程はすみませんでした。急なことで動揺してしまったんです。――僕はあなたのことが好きなんです。お願いです。もう一度、僕に手をさしのべてもらえませんか?」

 芝居がかったように骸が右腕を綱吉の前に差し出す。

「僕はあなたがいないと生きていけないんです。お願いです。僕を愛してもらえませんか?」

「う、ぅう……」

 短くうなり声をあげながら、綱吉は骸を見下ろしている。
 整った風貌と甘い声音、そして舞台俳優のような大げさな演技が、彼の美貌をさらにひきたて、まるで幼子が寝物語に聞くおとぎ話の王子のような有様だった。

 骸の本質的な部分がまだよく分かっていない綱吉は、彼がデコレーションした外面に目を奪われ、赤くなった顔を恥じるように視線を彷徨わせている。

 骸の視線が一瞬だけランチアを見た。

 ランチアには、綱吉に余計な事を言うなと彼が念を押したように見えた。ランチアはわずかに口角をあげる。言える訳がない。綱吉と骸の感情の抱え方はまったく違う。おそらく綱吉は骸に信じてもらえていないことを知れば、ひどく傷ついてしまうだろうし、骸は綱吉がどうして傷つくのかが『理解できない』だろう。

 片手でランチアの腕に触れたまま、綱吉の右腕が動いた。

 さしのべられた骸の手のひらのうえに、おずおずと指先を乗せる。

 優しく綱吉の手をとって骸は嬉しそうに微笑んだ。
 つられて綱吉も戸惑ったように微笑する。

「……嘘、じゃないんだな?」

「ええ。あなたのことが好きなんです。僕はあなたが欲しいんです。それは嘘じゃありません。信じてください――」



 真摯な眼差しを綱吉に向けて、六道骸は整った顔立ちに優しい微笑をうかべる。







「僕はあなたに嘘をついたりなんてしませんよ」













 大嘘つきめ!












 心の中で呆れるように罵って、ランチアは目の前の二人から視線を外して空を見上げた。






【End】