2/ あの時、素直になれていたら…(いや、きっと何も変わらないか)





 綱吉が正式にボンゴレを継いでから三ヶ月後、とうとうその日がやってきた。


 復讐者達との数十回に渡る交渉の末、六道骸の保釈を取り付けることが出来た。


 ボンゴレは多大な金銭と少々の誇りを失ったが、本当の霧の守護者たる骸をファミリィに迎えることには意味があった。


 そもそも、綱吉は六道骸を復讐者に捕らえられたままにはしておけなかった。中学時代から現在に至るまで、骸はクローム・髑髏の身体に憑依して、事あるごとに綱吉の手助けをしてくれた。彼はいつも言葉少なだったし、綱吉もどうやって彼と接していいか分からなかったため、彼の真意は掴めなかった。そもそも、骸がどうして綱吉のために動いてくれているのかさえ、綱吉には分からなかった。

 マフィアはすべて殲滅してやる。と言わんばかりに憎んでいた彼が、なぜ、マフィアのボスになろうとしている自分を助けてくれるのか。

 聞こうと思えば聞けたにもかかわらず、聞かなかった理由はひとつだ。元は敵だったとはいえ、今では仲間とさえ思っている人間から、もしもの場合でも綱吉自身を否定するような言葉を聞くのは恐ろしかった。

 保釈された骸を迎えにいったのは、リボーンと山本だった。綱吉自身は大事な接待パーティや立て続けにこなさなくてはならない契約書のチェックなどに追われ、骸が霧の守護者として屋敷内でリボーンから組織について教え込まれている間、一度も会う機会がなかった。


 骸が保釈されて五日後、ディナーの時間を削って作業した結果、抱えていた仕事を終えることができた。


 ようやく時間ができた綱吉は骸と話がしたいと思った。
 しかし、思っただけで、行動には移せなかった。
 彼と会って、何を話したらいいか分からなかったからだ。
 それは、骸がクロームの身体に憑依している間と同じ理由がちらつくからだった。
 彼は仲間である千種と犬のために、マフィアに身売りしたようなものだ。綱吉のことも恨んでいるに違いない。そう思うと無意識に胃のあたりがむかむかした。


 もやもやとする気分を振り払うように首を振って、遅めのディナーを食べるために執務室を出て食堂へ向かう。


 時刻はもう夜の十時を回っている。


 コック長には綱吉の分を取り分けておくように伝え、すでに帰宅させている。冷めた料理を提供するなんて!と反論されかけたが、時間外に働いてもらうのは契約違反になると言うと、コック長は渋々と帰っていった。

 ボンゴレの厨房を預かっている彼の作る料理は冷めても美味い。美味い食事は疲れを癒すものでもある。綱吉は骸との会話のパターンをぼんやりと考えながら、廊下を歩いていった。

 途中、角を曲がると、向こう側から歩いてくる黒い軍用ジャンパーを着た細いシルエットに出会う。ふわふわとした黒髪が歩くたびにゆれている。綱吉を見つけた彼は、人なつっこい可愛らしい顔立ちに笑顔を浮かべて両手を広げる。彼は右手に大きな白い封筒を持っていた。


「ツナァ」

「どうしたの、ランボ?」


 抱きついてきたランボを抱き返し、綱吉は彼の顔をのぞく。年齢はようやく十三歳を迎えたランボだったが、体格的にみれば十代半ばよりも成長している。中身は未だに幼さが残っていて、彼と会うたびに綱吉はちぐはぐな印象がぬぐえなかった。


 綱吉と目が合うと、ランボは子供のように笑って歯をみせる。


「ランボさん、ツナが前に必要だって言ってたあの地区の孤児院経営に関するデータ収集して、グラフにまとめておいたぞ! 終わったから、ツナに見せてやろうと思って持ってきたんだ」

「おー、ランボ、仕事早いじゃん」

「だろだろ? もっと褒めていいぞ」


 そういってランボは頭をさしだす。


「偉い、偉い! ランボさんは良い子だな!」


 綱吉は右手でランボの頭をわしわしと撫でてやった。指先に触れる柔らかい髪質が、彼の内面をあらわしているようだった。くすぐったそうに笑って、ランボは首をすくめる。


「ツナ、どこかに行くのか? 仕事、終わったのか?」

「ご飯、食べてなかったら食堂に行くとこ」

「ランボさんも食べたい!」

「え、ランボ、食べたんじゃないの?」


 にっこりと笑ったランボは人差し指で自分の鼻先を指さす。


「ランボさん、成長期!」

「……はいはい。分かったよ。もしも、オレの分しかなかったら、半分こしようか?」


 綱吉の言葉にランボが急に大人しくなる。唇を引き結んだ顔は、昔からよく彼が浮かべる「が・ま・ん」の表情だ。

「ツナの分しかなかったらいらない。ランボさん、我慢、する!」

 微笑ましくて綱吉は自然を彼の頭を撫でてしまう。彼のふわふわと柔らかい髪質は、まるで小動物の毛並みにも似ていて指滑りが良い。

「いいよ。二人で食べよ?」

「ツナ、おなか空かないか?」

「オレ一人で食べるの嫌だもの」

「じゃあ、ランボさん、半分だけ食べる」

「よし。じゃあ、一緒に食堂に行こうか」

「うん!」


 少年ランボの手をひいて、綱吉は階下の食堂へ向かった。




×××××



 食堂には数十人が一度に座ることが出来る、白いクロスがかけられた長いテーブルがおかれている。天井から年代物の豪奢なシャンデリアが下がっており、晩餐会などのときにはきらびやかに明かりを灯して来客の目を満足させた。しかし、いまは夜で、晩餐会でもない。
 明かりは左右の壁に等間隔で備えられたランプを模した照明に、ぼんやりと食堂を照らしているだけだ。

 扉を開けてすぐ、明かりがついていることに気が付いた綱吉は、誰かいるのかと思って自然と室内をぐるりと見回した。

 広すぎる食堂の隅――、ちょうどキッチンと食堂とを繋ぐ通路があるあたりに長身の男が立っていた。彼の目の前の壁には、とても大きな有名な画家が描いた宗教画が飾られていたが、綱吉は画家の名前を覚えていなかった。

 人影は綱吉とランボの気配に気が付いて、絵から二人へと視線を向ける。すると彼はゆっくりと綱吉たちの方へと歩き出す。

 それほど明るくない室内でも、近づいてくる彼が誰か綱吉にはすぐに分かった。

 綱吉の目の前まで歩いてきた彼は、左右で色の違う瞳を細めて微笑む。その皮肉っぽい笑い方が、綱吉の記憶の中にいる彼とオーバーラップする。


「――骸……」

「久しぶりですね、沢田綱吉」


 唇に笑みをのせた骸はわざとらしく優雅に会釈をした。目だけがやけに冷酷な感情を宿していて、とても友好的とは言えない雰囲気が骸に漂っている。不穏さを察知したのか、ランボが綱吉と骸の間に割って入った。

 小馬鹿にするように双眸を細めて骸はランボを見下ろす。


「随分とガキくさい騎士をお連れですね」

「ツナ。ランボさん、こいつ嫌い」

「こら、ランボっ」

「僕だって、あなたのように頭の足らないガキは嫌いですよ」


 ランボが素早くジャンパーのポケットから角を取り出すのを、綱吉は腕を掴んで止める。


「ランボ! よせ!」


 動きを止めたランボは不服そうに綱吉を肩越しに見上げる。綱吉が首を振ると、仕方なさそうにポケットから手を出して、ランボは綱吉と向き合うように立った。


「ツナ。ご飯、ここで食べるのよそう? ランボさん、運んであげるから、執務室に行こう?」

「じゃあ、ランボは先に食事を執務室に運んでおいてくれる?」

「なんで?」

「――オレ、骸と話をしなきゃいけないから」

「こいつと話?」

「すぐに行くから」

 微笑んでみせても、ランボは険しい顔のままだった。彼はちらりと骸を見て、綱吉に視線を戻して、心配そうに綱吉の腕に触れる。

「ツナ。大丈夫か?」

「うん。大丈夫。すぐに行くから、ね?」

「ランボさん、戻ってきてもいい? ツナのこと、心配だ」

「平気だよ。オレが強いの、ランボだって知ってるじゃない?」

「それは……そうだけど……」

 うつむいて呟いたランボは、何かを考えついたように小さく声をあげたあと、綱吉を見上げてきた。

「ツナ。携帯電話持ってる?」
「うん。あるよ」

 綱吉はスーツの内ポケットを探って携帯電話を取り出してみせる。ランボは右手を差し出した。

「貸して」
「うん?」


 綱吉の携帯電話を受け取ったランボは、素早くボタンを操作して、電話を綱吉に差し出した。受け取った電話の画面を見ると、リダイヤルの一番最近の番号がランボのものになっている。おそらく一度自分の携帯電話にかけて履歴を更新したのだろう。


「それ、右手に持って話してて。――もしも、こいつが何かしたら、ランボさんのこと呼んで」

「――うん」


 あまりにランボが真剣だったので綱吉は頷いた。


「分かったよ。ありがとう」


 綱吉に向かって愛らしく微笑んだランボは、一瞬で笑みをひるがえし、ひどく荒んだ目で骸を睨んだ。


「おまえ、ツナに何かしたら許さないからな……!」

 骸はランボの態度に片目を細めただけで何も言わなかった。

 ランボはキッチンに入って行き、すぐに出てきた。用意されていた食事を大きな銀のトレイにのせ、綱吉と骸の横を通って――途中で綱吉と視線を合わせてランボはまだ不満そうな顔をしていたが――食堂から出ていった。


 ランボの姿が見えなくなってから、骸は吐息で笑って唇の片側を持ち上げる。


「随分と可愛らしい騎士様ですねえ。僕が何をしたって言うんでしょう?」


 綱吉は右手にもっていた携帯電話をとじてスーツの内ポケットにしまう。ランボの心遣いは嬉しいが、骸が襲いかかってきたとしても、綱吉は充分に応戦できるだけの自信がある。むしろランボと骸が戦うことのほうが心配だった。

「ランボはおまえのことが怖いんだよ」

「この僕が? なぜ? あの子供とはあまり関わり合いになってないと思いますが?」

「……ランボはランチアさんになついてるから……」

「ああ――、そうですか、それで……」

 気を悪くすることなく、逆に笑いながら骸は一人で何度も頷く。

 綱吉はジッと骸を見た。

 六道骸が目の前にいることを確認しながら、綱吉は記憶に残る彼との符合を探していた。


 艶やかな黒髪も。
 左右で色の違う、硝子玉のような瞳も。
 攻撃的な微笑も。
 人を嘲るような視線も。
 昔となんら変わっていない様子だった。

 違っている事といえば、彼の身長と艶やかな黒い髪が伸びていることと、真っ黒なスーツを着ていることだけで、あとは何もかも六年前と同じだ。


 確かに骸が目の前にいる。

 何故だか、その事実だけで。

 綱吉は泣きたいような気持ちになった。



×××××



 話がある。
 と、言っていた彼は、黙ったまま突っ立っている。呆けているのか、それとも言葉を思案しているのか――とはいえ思案しているような顔つきではなさそうだった。沈黙に意味はないだろうとふんで、骸は話を切り出す。

「で、話って何ですか?」

 小さな声で「うん」と言って、綱吉は右手でくしゃりと前髪をかきあげる。昔と変わらない癖毛の髪は柔らかそうに彼の額に戻っていった。

「……おまえ、オレに、なにか言いたいこととか、あったりしない?」

 ああ、と声をもらして、骸は仮面のように作り笑いを浮かべた。

「あの胸くそ悪い場所から出していただけて、とても感謝しています。ありがとうございます。ドン・ボンゴレ」

「いや、そんなのは、どうだっていいんだ。違くって……。なんて言ったらいいんだろう……」

 再び、綱吉は黙り込んで、骸へ視線を注いだまま動かなくなる。


 いったい、なんだというのだろう。


 苛立ちが静かにわきあがったが、口にはしなかった。


 骸はボンゴレの守護者で、綱吉はボンゴレのボスだ。


 骸を金と権力で骸をあの難攻不落の牢獄から助け出したのは綱吉だ。


 千種と犬とも再会が出来た。彼らは冷遇されることなく、ボンゴレの組織の一端を担い、充分な働きを行っているようだった。彼らの様子を見て、綱吉の父、家光との約束が果たされていたことを、骸は充分に感じた。


 ほんの少しの恩は感じている。


 その恩に免じて、骸は彼が喋りだすまでは黙っていようと思っていた。

 しばらくして、綱吉は骸に近づいてきた。手を伸ばせば触れる距離まできた彼は、

「なぁ、おまえの顔に触ってもいい?」

 と、ねだるように言った。

 ぼうっとしていた骸は、思わず彼の言葉に反応するのが遅れてしまった。


「は?」


「あ、いいや。忘れて、いまの」

「触る? この僕に?」

「だから忘れて。いまのなし!」

「――触りたければどうぞ。どうせこの身は、あなたのものなんですから」


 眉をよせたまま、困っているような照れているような複雑そうな顔で綱吉は首をひねる。
 骸は右手を胸元にそえて微笑んだ。


「あなたの金と名声によって僕は自由を得たんです。あなたに逆らうつもりはないですよ。千種と犬にもよくしていただいたし、好きなように使ってくださって結構です」

「……そんな台詞、笑って言うなよ……」

「なんで、あなたがそんな悲しそうな顔をするんですか?」


 骸の問いに綱吉はわずかに首を振っただけだった。純粋さがまだ残る瞳が骸を見上げてくる。六年前に比べて身長が伸びた彼だったが、骸の成長と比較すればそれはわずかなもので、彼と骸の身長差は手のひら一つ分くらいはありそうだった。


 綱吉は意を決したように唇を引き結んで、両手を持ち上げた。


「じゃあ、触るぞ?」


 骸は動かずに、彼の両手の手のひらが頬に触れるのを見守った。綱吉の手は女の手のように柔らかくはなかったが温かい。骸の輪郭をなぞるように手のひらは動く。彼の視線は骸の顔に注がれている。綺麗すぎるその両目を潰してやりたい衝動が一瞬だけひらめいて消えていく。

「これでなにが分かるですか?」

「え、いや……。別に、何も」

 そういって彼は微苦笑を浮かべて、両手を引いた。
 触れることに何の意味があるのか。
 骸には分からなかった。

「僕もあなたに触れても?」

「あ、うん」


 ぎこちなく頷いた綱吉は、両手を身体の脇にそろえて、背筋を伸ばす。


 愚かな男だ。


 嘲笑いながら、骸は両手で綱吉の首を掴んだ。
 彼は驚いて両目を見開いて骸を見上げる。
 その両目に昔見た恐怖の色はない。
 骸の中で形容しがたい苛立ちのようなものがわき上がってくる。


「ドン・ボンゴレともあろうお方が油断のしすぎでは?」

「――冗談だろ?」


 首を掴まれたまま、綱吉は真っ直ぐに骸を見上げる。


「オレを殺すつもりなら、今までだって出来たはずだもの。ここでいまオレを殺しても意味はない」

「こうして生身のまま、あの牢獄から僕を解き放てるのは、十代目となったあなただったから、あなたを利用していただけですよ」

「じゃあ、オレはもう用なしなんだ」

「そうですね」

「で、オレを殺すの?」

「マフィアは嫌いです」


 骸は両手に力を込める。息がつまった綱吉は苦しさに目を閉じて顔をしかめる――が、それだけで腕を振り払おうとも骸を突き飛ばそうともしない。彼の両手が骸の腕に触れる。強く掴む訳でもなく、あがく訳でもない。


 何を考えているのだろう。
 気持ちの悪さが胸のあたりにこみ上げてくる。
 このまま括り殺してしまえば、その疑問は永遠に解けない。


 骸は手から少しだけ力を抜く。
 かろうじて息ができるようになった綱吉は、咳き込みながら目を開いた。


 おかしなことに殺されかけているはずの彼の目には怯えが浮かんでいなかった。
 骸は苛立ちを隠すこともなく表情にのせて呻く。


「なぜ、抵抗しない?」


「骸はオレを殺さないよ」


「……は?」

「殺したりしない。手、離して。少し苦しい」


 そういって彼は骸の腕をかるく叩いた。

 彼の両目に初めて闘志のような色がのる。骸が本気で殺そうとすれば、力の限りの抵抗をするという意志表示だろう。いまの綱吉と戦って勝てる見込みは本気を出したとしても半々くらいだ。


 綱吉を本気で殺すには、舞台も状況もお粗末すぎる。


 骸は両手から力を抜いた。
 綱吉はうつむいて咳き込んだあとで、一歩ほど後退して微笑んだ。

「ありがとう」


 先程まで自分の首を絞めた人間に笑いかける綱吉の心境が読めず、骸は不可解さに任せて右手で髪をかきあげる。


「気持ち悪いんですよ。なんでそんなに簡単に他人を信用するんです?」

「簡単じゃないよ。ずっと考えていただけだよ。オレとおまえって、いったいどんな関係なんだろうって。オレのなかで、おまえって、仲間でも友達でもないカテゴリーにいるんだよな。これは一緒に戦ってきていて思っていたことだけれども、骸って、自分が悪魔みたいに装っているけど、本当は優しい人間なんじゃないのか? オレってそういうの、直感で分かるんだよ…………。おまえは本当に救いようがないほどの悪人ではないって。信じるのだって、おまえと過ごしてきた年月で充分だよ。おまえはオレがおまえを裏切らないかぎり、きっと裏切らないでいてくれるって」


 綱吉の真っ直ぐな視線の前に顔をさらしていたくない。
 骸は引きつれるように笑って片手で顔を覆う。


「ずいぶんと甘い考えですね。吐き気がします。先程の僕の所行を見て優しいなんて言葉を言うなんて頭がおかしいんじゃありませんか?」


「そうかもね、おかしいのかもしれない。……でも、オレはおまえを敵だとは思ってないよ」


 骸はわざと綱吉から視線を外す。
 胸のあたりがざわついて、ひどく落ち着かない。苛立ったように自分が右手の人差し指で親指の爪をはじいていることにすら、遅れて気がつくほどに冷静さが欠け始めている。


 これ以上、綱吉を視界にいれいていたくなかった。

 ひどく苛々する。

 掴みかかって殴り倒し、泣き叫ぶまで痛めつけてしまいたい。そう思うだけで実行に移すだけの意欲はない。以前の自分ならば、なんの罪悪感もなくやっていた所行が、幻のように脳裏に浮かんで消えてゆく。





 数十秒の沈黙のあと、綱吉は短く息をついて言った。


「指輪。どうする?」


 綱吉の言葉に、とっさに骸は彼の方へと視線を戻してしまった。
 彼は静かな表情で続ける。


「霧の守護者の指輪、牢獄から出てすぐにクロームから譲り受けたって聞いたけど、――本当にオレの守護者になってくれるの? だって、マフィアのぼすの守護者なんて、おまえやりたくはないだろ? オレ、リボーンに言って、おまえを守護者から外すことも出来ると思う。だから、おまえが嫌なら守護者を降りてくれても構わない」


 唇から自然と笑いがこぼれる。


「僕は用なしですか?」


 思わず卑屈に笑ってしまった自分自身に骸は驚いた。
 守護者を外されれば晴れて自由の身となる。
 マフィアの犬にならずにすむというのに。


 骸は指輪をしている左の中指を意識する。


 妙な指輪だった。


 クロームの右手の薬指にはめられていた指輪を指にすることなどできないと思っていた骸が気まぐれに指にはめてみると、指輪はすんなりと指にはまった。


 クロームの手と骸の手はふた回りほど大きさが違う。指の太さなど当然違う。だというのに、指輪は骸の中指にぴったりだった。


 それはおそらく、どの指にはめたとしても、丁度良い大きさなのだろう。


 気味の悪いマフィアの指輪が骸の左手にはある。


 綱吉はしばらく考えるように黙りこんだあと、静かに口を開く。


「そういう意味じゃない。オレはこの十年、おまえに助けてもらった。その行為に報いるために、オレはオレの権限と金を使って、おまえを自由にしたんだ。だから、骸のこれからは骸が決めていいよ」


「僕が――?」


「千種と犬、それにクロームも、今はボンゴレの仕事を請け負ってもらっているけど、それもおまえが望めば、降ろさせてやることもできる。でも、イタリアのマフィアを襲撃するのだけは、よして欲しい。そうなるとオレの立場がないしね。――ただ、四人で暮らしていく分には、必要な仕事とかも紹介できると思うし――」


 思わず骸は吹き出す。そして、おかしさに任せて声をあげて笑った。彼の口から出てきた『くだらない』提案は、骸の思考では絶対に考えつかない事ばかりだった。


 千種と犬とクロームと共に――普通の人間のように仕事をして、帰るべき家に帰り、食卓を囲む。そんな事を想像してみると、またおかしさがこみ上げてくる。人と関わりあって給金を稼ぐ仕事も、帰るべき家も、あたたかな食卓も、一度も巡り会ったことのない骸にとって、それはマッチ売りの少女が炎のなかに見る幻影よりも現実感のないことだ。


「……骸」


 笑い続けている骸を案じるように綱吉は名を呼ぶ。


 骸は綱吉を睨みつけながら、口元にだけはっきりと分かる程の侮蔑の笑みを浮かべる。


「なにをいまさら、そんな幻想みたいなことを! 過去を忘れて暮らせるとでもお思いですか? この血みどろの手で真っ当な金銭を稼いで生活しろと?」

「そりゃあ、忘れられるはずはないだろうけど、でも――」

「馬鹿にするのもいい加減にしてくれませんか?」

「おまえはマフィアを憎んでたじゃないか」

「ええ。憎いですよ」

「そんなおまえに、オレの守護者になれなんて、言えないじゃないか」

「その議論はもうすでに十年前にもした覚えがありますけれど?」

「おまえ、言っただろう。千種と犬を人質にされて仕方なくって。だから、いまもう一度言うんだ。自由の身になった六道骸に、オレは聞きたいんだ……」


 綱吉は骸を見つめる。
 骸は耳をふさいで目を閉じてしまいたかったのに、綱吉の視線から視線を外せなかった。


「ボンゴレの――オレの守護者になってはもらえないかな?」

 骸はまっすぐな彼の目から視線を外せないままに、うめくように声を絞り出す。

「あなたの下僕になれと?」

「違う。仲間になって欲しいってことだよ」

「仲間? もしも守護者になったら、あなたと僕の関係の名は『隷属』なんじゃあないんですか?」

 綱吉は苦い顔でうつむいたあと、わずかに息を吐いて顔を上げる。

「確かに守護者になることは、オレに隷属することかもしれない。否定はしないよ。でも、オレ自身はそうは考えていない。オレはね、みんなに後ろに控えていて欲しいわけじゃないんだ。オレと肩を並べていてもらいたいし、たまには背中を預けてみたいって思ってるんだ」

「僕に背中を預けるつもりですか?」

「預けてもいいと思ってる」

「馬鹿じゃないんですか?」


 吐き捨てるように言って、骸は右手で顔を覆った。綱吉の視線を見ないようにしながら低く吠える。


「僕はあなたを一度殺そうとした人間ですよ? 今でもあなたの身体を狙っているというのに、よくもそんな甘い事を言えますね!」


「そう簡単にのっとられやしないよ、オレ、強くなったし」


「――ずいぶんと傲慢になりましたね」


「身近にいい手本がいるからね」


 小さく笑って、綱吉は肩をすくめる。骸の脳裏にまだ少年でしかない、彼の元・家庭教師の顔がよみがえってすぐに消える。


「決めるのは骸だよ。オレは提案するだけ――、明日の夜まで時間をあげるからよく考えてみて。迷うようなら時間を延ばしても良いから……、よく、考えてね」


「馬鹿じゃないんですか」


「あいにくと馬鹿なんだと思う。リボーンにも言われた。でも、オレはおまえを信じてるよ。おまえはずっとオレを助けてくれた――。口ではいろいろと言っていたけど、オレには十分なくらい、よくしてくれた。信頼するには十分だったよ」


「……くだらない……ッ」


 骸が嫌悪感をあらわに呟いて首を振るのを見て、綱吉は少しだけ寂しそうに目を伏せる。


「おまえは嫌だったのかもしれないけれど、オレはおまえとこうしてまた出会えてよかったって思ってるよ」


 沈黙が息苦しくて、骸は綱吉に背中を向けた。
 これ以上、綱吉を視界に入れておけなかった。


 出会えて良かった。


 彼の口からこぼれた言葉に涙が出そうになったことなど、勘違いにすぎないと必死に自分自身に言い聞かせる。現に骸の目に涙など浮かんではいない。


「じゃあ、オレ、行くね。ランボが待ってるし……。明日の夜、またここで会おう? そのときに返事を聞かせて欲しい。――またね、骸」



 骸は足音が遠ざかっていくのを背中で聞いた。


 再び、食堂には骸が一人きりになった。


 耳が痛いほどの静寂が部屋の隅々にまで満ちている。


 左手の中指にはめた指輪に右手で触れる。


 見えない何かに抑圧されるかのように、骸は苦しげに息を吐き出した。




「馬鹿じゃないのか、彼は――」




 苛立ちに任せて中指から指輪を引き抜き、右手に握って拳を振り上げる。


 そこで骸の動きは止まってしまった。


 指輪を握り込んだ右手を顔の横に持ち上げたまま、悔しそうに顔をゆがめる。



 捨ててしまえば楽になれるのに。



 指輪が手のひらに食い込むほどに強く握りしめて拳をテーブルに叩きつけた。



 痛みとともに胸の内に広がった想いの名前を骸は知らない。





『End』