1/ どうして罰は下されたのだろうか(断罪者はオレと同じ顔をしている)






 窓硝子が割れる音で、綱吉の思考が一瞬だけ停止した。


「……っ……!」


 割れた衝撃から少し遅れて崩れていく硝子の破片が、バルコニー側と室内側の絨毯のうえに細かい音を立てて落ちていった。

 目の前に立つ相手の腕によって逃げ場は遮られている。窓側に押さえつけられるように立っていた綱吉は視線だけを動かして、硝子を打ち割った彼の手を確認して、眉を寄せる。鋭い切り口で刻まれた傷口から真っ赤な血が滴り落ちている。綱吉は血を流す手から腕へと視線を動かし、彼――六道骸の顔を見た。女性的とも言える美貌の青年は、凄絶なほど冷たい目で綱吉を見つめている。綱吉は再び彼の手をへと視線を向ける。血は彼の握った指のラインをたどり、執務室の茶色の絨毯に赤い点を生み出していく。

 綱吉は顔をしかめ、骸を睨む。


「骸、おまえっ――」


「もう一度、言ってくれませんか?」


 ひどく乾いたような声音で骸は言う。


「言ってくださいよ。――ねえ」


 綱吉は骸のオッドアイを見つめ返した。硝子玉のように透き通った瞳は、人形の瞳のように美しく、綱吉の姿を表面に映している。綱吉は唇を嘗めて短く息を吸いこんで、彼の視線を真っ向から受け止めたままで口を開く。


「おまえを守護者から、外したいんだ」


 引きつれるように笑って、骸はあごをひく。


「十年前に僕の運命を縛り付けたくせに、今さらなにを言っているんです?」

「ボスの命令を聞けない人間をオレはここに置いておけない」


 びちゃり、と血を流している骸の手が綱吉の頬に触れる。肌に触れる血のぬめりに綱吉は苦い顔をする。骸は血に濡れた綱吉の頬を手のひらで包んだまま、覆い被さるように顔を近づけてきた。


「あのファミリィはあなたを抹殺するために子供を兵隊にしようとしていたのですよ。死ぬに値する塵芥だったんです。ゴミを掃除したことを褒められることはあっても、咎められるいわれはないでしょう?」


 骸の手からの出血が綱吉の頬をたどり、首筋を流れ落ち、スーツとワイシャツの襟元を赤く染めていく。肌を這う生ぬるい血は毒のように綱吉の心を暗く染めていく。


「その情報をつかんだ時点で、なんぜオレに報告しなかったの? 利用された子供達もろとも、すべてを皆殺しにしたことをオレに知られないとでも思っていたの?」


「あなたの敵を排除した僕に非があるとでも?」

「オレの敵の扱いはオレが決める」


 綱吉と骸の怒気を孕んだ視線が交錯する。


「甘いあなたに何が出来るというんです? 時間が許す限り、相手を殺さねばならないのかどうか、異常なまでに調べ尽くしても、どうせ奴らはあなたを抹殺することをやめやしないんですよ? 捕まえても、脅しても、奴らはどぶネズミのようにあとからあとから溢れてくるんです。殺してなにが悪いんです? あなた、マフィアのボスなんでしょう? いつまでその優しさを敵にまで分け与えるつもりですか?」

「おまえだって昔は敵だったろ」

「そう。甘く優しいあなたのおかげで命拾いしたんでしたよね」

「敵であったおまえが変われたんだ。人間には可能性があるんだから、すぐに命を奪ってしまうことだけはやりたくない」

「お綺麗なお言葉に背筋が寒くなりますよ、綱吉くん」


 骸の左右非対称の色の瞳が綱吉を見つめている。まるでアンティークの人形の目にはめ込まれた感情が感じられない硝子玉のような目が、美しい色をたたえている。綱吉は居心地悪くなり、頬を包む骸の手から逃れようと首をひいたが、手はどけられることはなかった。


「あなたは僕が分からないんですね」

「――なにが……、」

「僕の本当が分からないんですね」


 馬鹿にするような言い方に頭にきた綱吉は吐き捨てるように言った。


「ああ、お前の考えなんて、オレには全く分からないね」


 一瞬だけ痛みを受けたように両目を細めた骸は、吐息だけで笑った。

 なぜ笑ったのか分からなかった綱吉が問いかけようとして開いた唇に、骸の唇が触れる。

 とっさに頭を引こうとしたが時は遅く、骸の手が綱吉の後頭部を掴み、些細な抵抗はすぐに押さえ込まれた。唇をこじあけるように舌が侵入してくる。どうにか歯を噛みしめて口内への侵入だけは阻止しようとしたが、指の腹で首筋をなであげられて思わず力がぬけた歯の合間にぬるりと舌が入り込む。押し返そうとすればするほど、骸の舌はうねうねと動き、綱吉の抵抗する気力を奪っていく。

 気がついてみれば、綱吉は間近にある骸の顔をぼんやりと見返していた。唇が唾液で濡れている、無意識のまま綱吉は唇を嘗めた。

 骸は狂気的な笑みを浮かべて首を傾げる。


「思い知りましたか?」

「――どういう、つもり?」

「僕はあなた以外の人間なんてどうだっていいんです。生きようが、死のうが、苦しもうが興味はない。あなたを脅かす人間なんて皆殺しにしてやりたいんです。あなたに触れる人間だって本当は殺してやりたいくらいだ」


 言い捨てた骸は、言葉が出てこない綱吉を見て、嘲笑うかのように片眉を持ち上げる。


「分からなかったんですか?」

「………………」

「残酷な人ですね。僕はとうの昔からあなたを心の底から慕っていたというのに、気づくこともなかったんですね。ボンゴレの超直感でも気がつけないとは、よほどあなたは僕のことなどどうでもよかったんですねぇ」

「おまえ、オレを、好きなの?」

「好き? 僕の感情を表す言葉としては不足ですが、おおむね、そういった感情ですよ」

「いつから? いったい、いつから……?」

「さあ、僕もよくは覚えてません」


 骸は肩をすくめたあと、にっこりと仮面をかぶるかのように綺麗に微笑した。


「ねえ、綱吉くん。僕を守護者から外したって、そんなものに意味はありませんよ。守護者だから側にいるわけじゃありませんし、守護者だからボンゴレのために働いているわけじゃないんです。僕はね、綱吉くん、あなたことしか考えてないんですから。別に守護者という肩書きを失おうと、僕はあなたの側から離れるつもりはないし、あなたを脅かす者を排除することはやめませんよ。それがどういうことか分かりますか? いま僕はボンゴレという鎖につながれた飼い犬ですが、あなたが僕の首輪を外すというのなら、自由になった僕はあなたの邪魔になりそうな人間を片っ端から殺して回りますよ。いまはね、これでもね、自重してるんですよ。積み上がっていく屍の量にあなたが怯えるんじゃないかと思ってね。その鎖をあなたは外すんですか? ねえ、綱吉くん」

「……どうして、子供まで、殺したんだ?」

「おや。答えをはぐらかしましたね」

「どうして、子供まで――」

「あの子供達は、科学班によって『沢田綱吉を殺すことこそ幸福になれる道だ』と、脳をいじられていました。彼らはあなたをあらゆる手段を使ってあなたを殺すことを意識に刻まれていたんです。同情をして彼らを保護し、ある程度治療をして生き延びさせても、彼らはやがてあなたを殺す衝動を抑えられなくなる。トロイの木馬のように、ひそんだ殺意が目覚め、やがてあなたを追う暗殺者になる」

「――むごいことを」


 呟いた綱吉は、脳裏にひらめいた事柄に驚いて目を見開く。
 骸は興味深そうに綱吉の顔を見つめている。


「もしかして、おまえ、――自分のことを、思い出したの?」


 ひどく汚いものを見たかのように、骸は片目を細めて鬱屈そうに顔をゆがめる。


「そういう事にだけ直感がひらめくだなんて、ずいぶんと便利な直感力ですね」

「……骸……」

「昔の記憶は嫌な記憶ばかりで思い出したくもありません」

「おまえが今回のことで昔のことを思い出したのだとしても……、どんな理由があろうと皆殺しは許せない」

「皆殺しにすることが一番の解決策だったんですよ」

「オレが子供のことを知れば、必ず子供を保護するとでも思ったの?」

「ええ。甘いあなたのことですからね。子供を殺すことはない」

「その子供達は脳をいじられ、オレを殺すことしか考えられなくなってるんだろ?」

「ええ。そうです」

「オレを殺さないとどうなる?」

「あなたを殺さないという選択肢は彼らにはあり得ません。一度、脳に刻み込まれた情報を消去する方法はない。彼らは死ぬまで、あなたを殺すことに囚われ続け、あなたを殺すことでしか生きる意味など見いだせなくなる」

「オレは誰にも殺されるつもりはない」

「そう言ってくださると、僕としては少々安心しました。あなたはあまりにも自分自身の存在価値を過小評価してますからね。――では、綱吉くん。あなたはそんな可哀想な子供を殺せますか?」


 綱吉は答えられない。
 本当ならばボスとして「殺せる」と答えるべきで、迷うべきことではない。
 しかし、綱吉は何も言えなかった。
 骸は満足そうに微笑んで頷く。


「そう。あなたは殺せない。だから僕が殺す。それでいいじゃありませんか?」

 頭のどこかで火花が散った気がして、綱吉は骸の胸ぐらを片手で掴んで激高する。

「そんなのいいわけないだろう!! オレを馬鹿にするな! オレだけが、オレだけが手を汚さずにいるなんて、そんなのおかしいだろ!? おまえだけが血塗れになるなんておかしいだろ!? こんな怪我までして馬鹿じゃないのか!?」

「……ああ、これですか……」


 割れた硝子で作った傷がある右手を顔の横まで持ち上げ、骸は皮肉っぽく唇に笑みをのせる。


「ようやく、傷の心配をしてくれましたねぇ」

「ふざけるな! オレを馬鹿にするのもいい加減に――!!」

「誰も馬鹿になどしてませんよ。落ち着いてください。あなたがあまりにもきれいに怒るものだから、おかげで僕は頭が冷えてきましたよ」


 骸は未だに血が流れる手を、赤く濡れている綱吉の頬に寄せて、特徴的な忍び笑いをもらす。


「僕だけが汚れるとあなたは思っているかもしれませんがね、僕は自分が汚れているなんて自覚はありませんよ。だからあなたが気に病む必要はない」

「そんなのオレがオレを許せない!」

「それはあなたの都合でしょう? 僕には無関係です」

「オレがおまえに何をしたっていうの? オレにそんなに尽くしたって、オレはおまえを――」


 すべてを言い切ってしまえば、骸がまた豹変するような気がして、綱吉は言葉をきった。 しかし、骸は仄暗い笑みを表情にのせる。


「おまえを愛せない? とでもおっしゃるつもりですか?」

「……そうだよ。オレは、おまえをおまえと同じように愛せはしないと思う……」
「それもあなたの都合
であって、僕には関係ありません。僕はあなたを愛しているし、あなたの側で生きていたいし、あなたを守りたいんです。それくらいいいですよね? それとも僕は死んだ方が良かったですか? 十年前の、あの日に――あなたの手で殺されていた方が良かった?」

「あのとき、おまえを殺していたら、オレはオレじゃないだろ」

「そう。その通り。あなたがあなたであるから僕はこうして生きながらえ、あなたによって浄化された魂はあなたを求めてやまない……」


 骸は綱吉の両肩に両手をのせ、まるで子供がするように、綱吉の首筋に顔を伏せる。彼の黒髪が綱吉の首をくすぐる。血の匂いに鼻の感覚は麻痺してしまい、目につく赤だけがやけに鮮明だった。肩にのせられた傷ついて赤く染まっている骸の手を眺めながら、綱吉は口を開く。


「骸」

「なんでしょう?」


 綱吉の首筋から顔をあげ、骸は綱吉を見下ろす。感情の読めないオッドアイが無機質な宝石のようだった。


「誓って欲しい」

「お言葉によるかもしれませんね」

「誓ってくれるのなら、オレはおまえを一生、側に置くよ」

「それは魅力的なご提案ですねえ。で、なにを宣誓するんです?」

「オレが言ったことには絶対服従すること。これが守れないのならば、オレはこの場でおまえを殺すことだっていとわない」

「――僕を、殺す?」


 吐息で笑って、骸は双眸を細める。


「できるんですか、あなたに?」

「オレはボスだ。組織の不安材料は捨て置けない」

「不安材料? ひどい言いぐさだ」

「オレは組織のトップに立ち、すべての人間の誇りと生命を預かり、ファミリィを平穏に保たなくちゃならない。お前だけを例外的に自由な立場にはしておけない。――オレに従えないのなら、オレを忘れてどこへでも行ってしまって構わないよ。そのかわり、決してボンゴレの前には二度と現れないで」

「ますます酷いことを言う……」


 低く呟いて、骸は綱吉から身体を離した。腕を伸ばせば届く距離をおいて立った骸は、傷ついた右手を胸にそえて、あごをひく。


「服従を誓えば、僕は一生、あなたの下僕でいられると?」

「下僕じゃない。ボンゴレの守護者だ」

「同じことです」

「オレには……、おまえに手を伸ばした責任がある。こうなったら一生でもいいから、おまえのこと、背負ってやったって構わない」

「くふふ。なんて嘘つきな人だ」

「うそじゃない」

「あなたが約束する未来が嘘か本当かは、あなたにすら分からないじゃないですか。不確かな約束をちらつかせるよりも、もっと有効な手段があるでしょう?」

「……どんな手段だって、いうんだ?」


「あなたを僕にください。そうすれば、僕はあなたに永遠に跪き、愛と忠誠を誓いますよ」


「馬鹿なこと言うな」

「真剣ですよ、僕は」


 骸はおおげさな様子で肩をすくめたあと、優雅な仕草でその場に片膝をついた。まるで主の前で忠誠を誓う騎士のように、彼は片手を胸に添える。


「あなたが僕のものになるというのなら、僕は下僕だろうと奴隷だろうと構いませんよ。呼び名などどうでもいい。あなたが手に入るのなら、僕はあなたに隷属しても構わない」

「……骸、おまえ……」

「愛しているんですよ。綱吉くん。あなただけが大事で、あなただけが大切で、あなただけが僕の現実なんです。あなたを失う恐ろしさを僕は日々感じているんですよ。あなたを失ったら僕は生きていけやしない……」

「わけ、わかんない、よ」

「いい加減、わかりませんか? 僕以外の誰かをあなたが愛そうと、僕はあなたを愛することはやめないでしょう。あなたが僕を嫌ったとしても、僕はあなたを愛するでしょう。これってなんでしょう? 僕にもよくわかりません。恋なのか、愛なのか、執着なのか、信仰なのか、異常なのか……」


 黒髪の合間から、綺麗なオッドアイが綱吉を見上げている。まるで迷子のような視線に、綱吉はこみ上げてきた複雑な思いを消化しきれず、唇を噛んだ。

 彼を嫌ってはいない。

 頼りになる仲間だとも、痛みや喜びを分かち合う家族だとも思っている。

 今回のことも、彼が綱吉に報告をしたとしても、綱吉が手を下すことを躊躇しているうちに、結局は骸が相手を皆殺しにして事は収束しただろう。彼を責めているというよりも、非道になりきれないままでマフィアのボスをしている綱吉が自分自身を許せないだけだ。

 目の前に跪いている骸――綱吉へ好意を寄せている人間――を、きれい事をならべて利用していることが許せない。

 目元に力をいれないと、泣き出したくなりそうだった。昔から綱吉の涙腺は弱い。恐ろしさや辛さから泣くことは減ってきたが、不甲斐ない自分自身への悔しさから泣くことが最近では増えるようになってきた。

 骸は跪いたまま、吐息で笑う。


「そんな顔をしないでください。利用したくなるじゃあないですか」

「骸、おまえ、なんで、そんな……」


 骸は硝子で傷つき血塗れの右の手のひらを上向け、綱吉の前に差し出した。


「ねえ、綱吉くん。あなたの手をとって、泣いて縋ってもいいですか? あなたの手の甲にキスをして、永遠の忠誠を誓えば僕を愛してくれますか? できることならば、僕はあなたに嫌われたくはないし、あなたに愛してもらいたいとさえ思っているんです。そのためならば、どれだけ血にまみれようと、苦境に立とうとかまいません」

「――それで骸は幸せなの?」

「綱吉くんと共に在ることができるのならば、僕はそれを幸福と呼ぶでしょう」


 綱吉は弱々しく首を振る。

 骸は微笑したまま、綱吉の言葉を待っている。


「どうして、オレを好きになんてなるの?」

「それは僕にも分かりません」

「そんなきっかけ、今までのどこにあったっていうの?」

「さあ、どこだったんでしょう」

「どうして、オレなの?」

「――そうですね……しいて例えるのであれば、僕が罪であなたが罰だから、ですかね」

「骸が罪で、オレが罰? 罰って、骸の罰がオレ? なに、それ?」

「僕はあなたと出会う前に多くの罪を犯しました。その罪を断罪し、罰を与えたのがあなた。あなたは僕の罰であり、僕の救いなんです」

「……オレはべつに、おまえになにもしてないよ」

「僕が勝手にあなたに救われただけですよ」


 綱吉は差し出されたままの骸の右手を見下ろす。傷ついた血塗れの右手を見つめていると切なくて、苦しくて、綱吉は唇を噛んだ。


「あなたが僕のものになるというのなら、宣誓しましょう」

「オレはボンゴレのもので、誰のものにもなれない」

「では言い方を変えましょう。――哀れなあなたの下僕のために、あなたに触れて、あなたにキスをして、あなたを愛することを許してはくれませんか?」


「骸は……、ずるい。――オレが、そんな話を聞いたら、おまえを、切り捨てらんないって、分かってて……」


 骸は真っ直ぐに綱吉を見上げている。

 整った顔立ちには柔和な表情が浮かんでいて、人外の能力を用いて数十人を皆殺しににした人間だとは見えなかった。

 綱吉はいつだって、骸の微笑によって押し流されてしまう。彼の真意はもっと暗く深いところにあって、綱吉には到底知ることはできない。
 綱吉は、得体が知れないと分かりつつも骸を切り捨てることができなかった。少年期に回りからダメツナと呼ばれ、押さえ付けられた経験からか、一度繋いでしまった手を離すことの方が綱吉にとっては大いなる恐怖だった。

 骸は手を差し出したままの形で、綱吉の右手を待っている。


「おまえの愛は重すぎるよ」


 骸は双眸を細め、蠱惑的に微笑む。

 綱吉は、ためらいながら右手を差し出した。

 指先が骸の手に触れる。

 骸は愛おしそうに綱吉の手をとると、




「六道骸は沢田綱吉に隷属することを誓います」




 囁いて手の甲に唇で触れる。

 口角を持ち上げて笑んだ骸は、すっと立ち上がって、いきなり顔を近づけて綱吉の唇にキスをした。避けることも出来たキスを受け入れたのは、めまぐるしい感情のやりとりで疲弊したせいにして、自らを納得させた。
 綱吉は執務室に置かれたソファの肘置きにくずれるように座った。


「キスをしても怒らないんですね」

「おまえの相手してるうちに疲れちゃったよ」

「おやおや、色気のない」


 骸の手が綱吉のシャツの襟元にかかる。綱吉は彼の手を片手で強めに振り払った。


「キス以上は駄目」


 それでも骸が手を伸ばしてくるので、綱吉は彼を睨んだ。


「絶対服従」

「――ひとまず、今日のところは引き下がってあげましょう」


 両手を顔の両脇に持ち上げ、骸はあごをひいた。右手は流れ出た血が乾いて赤黒くなっていた。綱吉は立ち上がって、机の下に収納してある救急箱――よくリボーンに返り討ちにされたランボが駆け込んでくるので置くようになった――を取りに行く。


「手当してやるから、そこに座って」

「くふふ。お優しいですねぇ、ボス」


 皮肉っぽく笑って、骸はソファに座った。
 救急箱をソファに置き、先ほどと同じくソファの肘掛けのうえに腰を下ろして、綱吉は骸の右手の傷の手当てを始める。


「骸」

「はい」

「確かに言ってたとおり、オレを愛するのはおまえの勝手かもしれないけど、オレはおまえをおまえと同じようには愛せないと思うよ」

「べつに構いませんよ。同じように愛して欲しいなんて望んでませんし」

「……それで骸はいいの?」

「僕は愛されたいよりも愛したいんです。だから今のところは充分です」

「ん――、いまの、ところ?」

「いまのところです」

「――え。ちょっと。ねえ! なに、企んでるの?」

「いろんなことを」


 にっこりと笑う彼を睨んで、綱吉は低く突き刺すように囁く。


「絶対服従」

「いつまで、それ、効き目持つか楽しみですねぇ」

「……骸、やっぱりおまえは最悪だ」

「お褒めいただき光栄ですよ、ボス」

「腹立つなぁ、ほんと」


 綱吉のつぶやきはほとんど口のなかで消えてしまった。ガーゼをのせた傷ついた手に綱吉が包帯を巻いていく様子を骸は眺めている。

 思い通りにならないと駄々をこね、虚勢を張り、最後には泣き落とし。
 まるで子供である。

 呆れたように息をついたあと、綱吉は自然と笑いがこぼれてしまった。


「硝子、あとでランチアさんに言って直してもらってよね。もちろん、硝子代は骸の給料から差し引かせてもらうからね」

「ええ、ええ。硝子代なんてもの、払って差し上げますよ。僕は綱吉くんを手に入れたんですから」

「だから、オレは誰のものにも――」

「僕が勝手に言ってるだけですから、気にしなくていいですよ」

「気に、するよ」


 綱吉は苦笑いで嘆息する。

 骸を倒したのも、骸がのばした手をとったのも、綱吉自身である。彼が綱吉に執着していることは、実は綱吉は知っていた。家庭教師からも忠告されていたし、獄寺からは幾度と無く骸を遠ざけるように言われていた。それでも骸を側においていたのは、やはり自分を好いている人間を無下にはできない気持ちからだった。

 その甘さが、骸の行動や思いを助長させたともいえるだろう。

 綱吉は過去の自分の所行を自分自身によって断罪されているような気がして、こっそりと微苦笑をうかべる。


「僕に好かれてしまったんですからね。いろいろと諦めていただかないといけないかもしれませんねえ」


 悪戯っぽく笑って、骸は右目をつむった。

 綱吉は、決してゆるがない彼の態度に根負けして微笑を返した。


「――おまえがそんなんじゃあ、オレは降参するしかないじゃないか」

「そうですね。降参してくださって結構ですよ。大歓迎です」


 嬉々として組んだ手をあごに添える骸の態度に、綱吉は失笑する。


「嫌だよ。そう簡単に捕まってやらない」

「ええ、それでもいいですよ。僕は獲物を追うのも得意なんですから」


 忍び笑いをして、骸は綱吉のスーツの襟元を掴んで、強めに引いた。鼻先が触れ合うほどに顔を近づけ、骸はひそやかに囁く。


「必ず、僕の愛に目覚めさせてさしあげますよ。――愛しい愛しいご主人様」


 艶やかに微笑む骸をまっすぐににらみ返し、綱吉は不敵に笑う。


「――やれるもんなら、やってみろ」









『End』