3 絶望の鼓動 「午後の分もあと少しで終わりますよ、十代目」 獄寺が両手で書類の束を執務机の端で整理しながら言うのを聞いた綱吉は、 「あ、ほんと? よかったー」 ほうっと息をついて持っていた万年筆を机のうえに置き、左手で右肩を掴んで揉んだ。 間違いがないのか、内容を受理するのか否かを判断しながらの作業は思いの外、頭脳と視力と筆力を使う仕事だった。十代目に就任したころは、こんなにも一日の大半をデスクワークで過ごすことなど予想していなかった。交互に肩を揉み、椅子に座ったままで両手を上へ持ち上げて背筋を伸ばすと、ぱきぱきとどこかの骨が鳴った。 「お疲れですね」 獄寺が苦笑する。 「なにか甘いものでも持ってこさせましょうか?」 「いいよ。おなか減ってないし。――っていうか、獄寺くんこそ、立ちっぱなしで辛くないの? いいんだよ、ソファに座っててくれてさ」 「どうぞ、お構いなく」 にっこりと獄寺が笑うので、綱吉はそれ以上、言葉を重ねることをやめる。獄寺は綱吉に対して『隷属』することこそ信ずる道だと思いこんでいる節がある。綱吉がいくら獄寺を親友として扱おうとしても、彼はそれをやんわりと拒もうとする。一度、そのことでひどい喧嘩をしたときがあったが、結局は今にも自殺をしかねないほどに青い顔をした獄寺に対して非情になりきれない綱吉がおれて仲直りしてしまった。 それからは、獄寺との感情のすれ違いについてはあまり考えないようにしている。綱吉が獄寺を大切に思うのと同じく、獄寺も綱吉のことを大切に思っていることは、彼の綱吉に対する態度ひとつひとつからも感じられる。確かなものがひとつだけあるのならば、これ以上言葉を重ねる必要はない。 かるく息をついて意識を切り替え、綱吉はにっこりと笑う。 「獄寺くん、つぎの書類はどれ?」 「ええと、これですね……、あ――」 クリップでまとめられた数枚の書類の束を持った手を止め、獄寺は書類に目を通し始める。彼から書類を受け取ろうとして右手を差し出していた綱吉は、首をかしげて獄寺の表情をうかがう。 「獄寺くん?」 獄寺は視線を少しだけ下へ向けて何かを短く思案したあとで――、手にしていた書類を綱吉の前にそっと置いた。彼は何かに戸惑うかのように綱吉の視線から視線を外した。明らかに態度がおかしい。綱吉は一瞬だけ、書類に視線を落とす。襲撃。そして相手の三名の殺害。死体の処理。そして――、彼の名前、が――。綱吉は書類から目線をあげ、獄寺の顔を見た。彼は目を伏せて綱吉と目を合わそうとしない。まるで、書類を見た綱吉を目にすることをしたくないかのような素振りだ。嫌な予感がする。綱吉は身体の中央でどくりどくりと動く心臓の在処を嫌と言うほどに意識したまま、唇を震わせて息を吐く。 「ねぇ、獄寺くん」 「はい」 「なんて、書いてあるの?」 獄寺の瞳が綱吉を見た。視線が交わった刹那、彼が抱いている同情と哀切が綱吉の心の表面をつたう。耳のすぐ側に心臓があるかのように、どくどくどくどくと脈打つ音が響く。綱吉は机の上の書類を見ることが出来ない。獄寺は綱吉の視線を受けきれず、わずかにうつむいて唇を噛んだ。 「ねえ、オレ、まだイタリア語がそんなに詳しくは読めない――」 「じゅうだいめ」 綱吉の声を遮って、獄寺は静かに告げた。 「それは、『笹川了平』の報告書になります。あいつが秘密裏に追っていた武器密輸のブローカー連中に襲われて――、致し方なく、奴らを――……」 綱吉は背中からずぶりとナイフを差し入れられたかのような、そんな見えない痛みを感じて歯を食いしばる。机の上にのせていた両手で書類を掴む。指先が震える。殺害。処理。笹川、了平。彼が人を殺した。あの、彼が、人を――。綱吉は書類を掴む手に力を込める。認めたくなかった。書類を視界にすらいれたくなかった。だから綱吉は前を向いていた。 「十代目……」 獄寺が、こわばっていた綱吉の腕に触れる。 「書類が」 文字を読まないようにしながら、綱吉は手元を見下ろす。ぐしゃりと握りつぶされかけた書類を掴む手と、綱吉の腕にそえられた獄寺の手のひらが映る。 「ご、めん……」 謝ったものの、綱吉の指先は書類を握りしめたまま放せなかった。 獄寺は綱吉の腕から手を引く。 「熱い紅茶を用意してきますね」 綱吉の目線の先で、獄寺は深々と頭を下げる。混乱した頭のすみで、獄寺が気を利かせて部屋から退室しようとしているのを理解する。 「ありがとう」 反射的に吐き出された言葉に微笑を返し、獄寺は執務室から出ていった。 綱吉は両手で握りしめている書類を見下ろす。せっかく獄寺が用意してくれた時間を無駄には出来ない。今なら部屋の中で、綱吉は一人きりだ。いま綱吉が手にしている書類は綱吉が一人で読むことがいちばん相応しいはずだ。 一行、一行――。 了平らしい荒い書き癖のあるイタリア語の報告書を読む。心臓は相変わらず、どくりどくりとまるで胸の内側からノックされているかのように力強く脈打っている。しかし心は急激に冷えていくばかりで、すうっと頭から身体の先までの感覚が薄れそうになる。 「……あぁ……」 言葉にならない声を吐息と共に吐き出す。 ぽたり。 書類に水滴が落ちる。 両手できつく握りしめた書類に顔を伏せる。 ぽたり。ぽたり。ぽたり。 唇を引き結んでも目を閉じても後悔しても後悔しても後悔しても――、 「うぅ……、……くそっ、……ちくしょう……」 涙は止まらなかった。 ××××× 了平は深夜、負傷した部下を連れて屋敷へ戻った。脇腹を撃ち抜かれた部下を他の部下に託し、シャマルがいる別邸へ連れて行くように言いつける。部下は腕を撃たれていた了平も共に行こうと言ったのだが、了平は寡黙なまま自室へ戻った。 部屋に入ってすぐに上着を脱ぎ捨て、ネクタイを外しながらバスルームへ飛び込んだ。服を脱ぎ捨てて熱いシャワーを浴びながら了平は目を閉じる。腕の傷口が激しい痛みを訴える。流れ出る赤い血とぞわりとするほどの痛みは生きている証だ。 襲撃の予兆はなかった。同盟ファミリィとの会食――という名前の情報交換のための顔合わせ――が終了し、ホテルの正面入り口へ向かった。ふいに嫌な予感がした了平が前に歩いていた部下を呼び止めると、部下のすぐ近くのショーウィンドウががしゃんと音を立てて崩れ落ちた。了平と五名の部下達は一瞬で戦闘態勢へ移行する。ホテルのロビーが一瞬で悲鳴と恐慌に満ちた。了平は四名の部下に周囲の人間の保護を優先させるように命じ、一人の部下と共に襲撃の相手と向かい合った。相手は六名。拳で反撃するには距離があった。間合いを詰めているうちに流れ弾が一般人に当たる確率が高い。了平は携帯してた拳銃を引き抜いた。銃の扱いは高校時代からコロネロに教えられていた。そのころは本物の銃だとは思わず――ずっとよくできたモデルガンだと思っていた――に扱い方から整備の仕方まですべて出来るようになっていた。拳銃のグリップを強く握った瞬間、了平の脳裏に綱吉の顔がちらついた。刹那、銃を握っていた右の二の腕に激痛が走って我に返る。視界の端で散った赤い血。右手から左手へ一瞬で拳銃を持ち直し、照準を合わせて引き金を引く。すでに意識はほとんどない。コロネロから教えられた通り、条件反射で身体が動く。照準を相手の左胸へ向けて引き金を引く。それを繰り返す。 気がつけば、銃声は止んでいて、相手は倒れていた。 死んで、いた。 バスルームから出て、了平なりに傷口の手当をして――コロネロ直伝の応急処置だ――、バスローブに袖を通し、そのままベッドへなだれ込んだ。 昼過ぎに遅く起きたあとで綱吉への報告書を書き出した。 書いているうちに、綱吉に帰宅を知らせていないことに気がついたが、了平から彼へ連絡することはためらわれた。 報告書は早々と書き上がった。冷静に書きつづった文章が自分で書いたもののように思えず、了平は笑ってしまった。人を殺した次の日に笑っている自分が信じられなかった。けれど、了平は生きている。だから笑いもすれば怒りもし、泣きもする。それが生きているということだ。 覚悟。 そんなたった二文字に込められた思いを噛みしめながら、了平はバスローブからスーツへと着替えた。 きっちりとスーツを着込み、書類を持って執務室の近くまで歩いていったが、どうしても三部屋ほど手前で足が止まってしまって動かない。どうしたものかと立ち往生をしていると、 「なにしてんだ」 背後から声がかかった。 振り返ってみると、トランクを片手に提げたリボーンが怪訝そうな顔をして了平の近くへ歩み寄ってくるところだった。 「そんなとこにでかい図体で突っ立ってんじゃねーぞ」 「すまん」 じぃっと黒い瞳が了平の姿を眺める。綺麗すぎる顔立ちの子供――というとリボーンは絶対零度で怒るのだが――は、了平の顔から憔悴と動揺を見てとったのか、鼻から息をついて片目を細める。 「平気か?」 「――何がだ? 俺はいつも通り元気だぞ?」 「そうか。ならいいさ」 肩をすくめたリボーンは、了平に向かって右手を差し出す。了平が首をかしげると、彼は唇の片側を持ち上げた。 「それは、提出しておいてやる。感謝しろよ」 「――すまない」 了平はリボーンの手にクリアファイル入りの書類を渡した。ざっとファイル越しに書類に目を通したリボーンは、綺麗な黒い瞳で了平を見上げた。 「誰だって、初めてってやつがあるもんだ。それを避けて通れねー道ってもんが、これからだっていくらだって出てくるんだ。――おまえが、……いや、おまえらが生きようとしてる世界がどんなとこか、わかっただろ?」 「覚悟はしていた」 「そうか。でも、『覚悟』はしていても、『理解』はしてなかったんだろう」 「――そうなんだろうか? よく、わからんな」 「覚悟して理解して――、どうだ? 後悔したか?」 感情の読めない黒い瞳が了平を見ている。リボーンが無表情でいると、よけいに人形めいた印象が強くなる。了平はリボーンの瞳の中に己自身の存在を感じた。 覚悟して。 理解して。 後悔した? 了平は息を吐き出したあとで、――右手の拳を胸元へ添える。 「あいつの隣に立つことをどうして後悔する必要がある?」 リボーンはニヤッと笑って片目を細める。 「――合格だ」 「それは極限によかった」 リボーンはひらひらと書類を顔の前で揺らす。 「これを読んだら、うちの馬鹿生徒は落ち込んで泣いてぐだぐだになっちまうだろうからな。ちゃんとフォローしとけよ」 「おまえがやらないのか?」 「なんだ? オレにゆずってくれんのか?」 「……まさか。ゆずらんぞ」 「だろーな」 吐息だけで笑って、リボーンは足を進め出す。 「チャオ」 了平はリボーンの歩く先にある執務室のドアを眺めた。 逡巡のあとで、了平は執務室に背中を向ける。 まだ綱吉に会うことはできない。 いつも通りの了平に戻るまで、まだ時間が必要だった。 ××××× 負傷をした部下を見舞ったあと、シャマルのところへ行って傷の具合を看てもらった。彼は了平の応急処置を一応は褒めたが、「怪我をしたらすぐに見せに来いよ」と言った。昔は男を看るのを嫌がっていただろうにと了平がもらすと、シャマルは笑って言った。俺の雇い主はドン・ボンゴレだからな。可愛いハニィちゃんと遊ぶのにはお金が必要なんだよ、と。 シャマルは消毒やガーゼなどの処置セットを紙袋へいれて了平に手渡し、「三日後にまた来い。その間に具合が悪くなるようだったら面倒くさがらずに来るんだぜ?」と言いながら送り出してくれた。 丁重に礼を言って了平はシャマルの診察室を出た。 シャワーで洗い流せきれていないものが、まだ自室のなかにたゆたっているような気がして、部屋には戻りたくなかった。了平は表玄関を目指して歩き、見張りの番をしている雨の部隊の青年達の敬礼にかるく笑いかけ、玄関を出て庭園へ向かった。 薔薇の垣根を歩いて行くと、その先には大きな噴水がある。了平は噴水のへりに寝転がって、傾き始めた空を眺めていた。ときおり鳥が鳴く声や風が吹いて木々がさざめきあう音がのどかに響いてくる。 風の音と柔らかい午後の日差しを感じながら、了平は目を閉じた。昨夜のことではなく、ずっとずっと昔の――まだ中学生だった頃の自分のことや仲間のことや、沢田綱吉のことを思い出す。そんなことをしているうちに、了平はうとうととしてしまった。 肌寒さを感じて気がついてみれば、日は暮れていて、空は紺碧となっていた。腕時計を確認すると時刻は八時を過ぎていた。屋外で四時間ほども寝ていたことに驚いて、了平は噴水のある広場から薔薇の垣根を抜けて屋敷へ戻った。 屋敷の入り口の見張りの人間は嵐の部隊の人間だった。了平と年が変わらなさそうな金髪にたれ目の青年と、三十代後半くらいの赤髪であごひげを生やした男は、玄関から入ってきた了平を見た一瞬で、警戒を解いて表情をゆるめた。 ボンゴレの屋敷の見張りは通常二人で事は足りる。なぜならば、広大なボンゴレの屋敷を取り囲んでいる塀の外と内は、厳重のうえに厳重を重ねた警備設備に取り囲まれており、侵入者があればたちまち発覚するように出来ているのだ。本来ならば表玄関にも人間の見張りなど不必要であったが、生きた人間の目は時に機械には分からないものを感じる時がある。 そのため、二十四時間いつでも表玄関付近には二名から五名ほどの人間が常駐して見張りをしているのだった。 「あ。笹川さーん。おかえりなさーい。仕事だったんですかァ?」 へらりと金髪の青年が笑う。 青年を睨み付けつつ、赤い髪の男がかるく頭を下げる。 「すいません。礼儀がなってない奴で」 「いいんだ。俺ごときにかしこまる必要はないぞ」 「いいえ。笹川さんは守護者で、俺達は構成員にすぎませんから」 「あはっ、先輩――うぎゃ!」 赤髪の男は何か言おうとした金髪の青年のすねを片足で蹴った。青年は足を抱えるようにして座り込んで男を睨みあげた。 「ちょ、痛いですよっ!」 「ああん? 何、言おうとしてたか言ってみろ」 「え、――えーと……」 へんにゃりと笑って、青年は言った。 「先輩が敬語使ってるの似合いませんねえ――って」 赤髪の男が呆れたように溜息をついて瞳をぐるりと回す。その隣で悪びれた様子もなく青年は笑っている。了平の目の前にいる二人は、嵐の部隊の構成員のなかでも、腕のたつ人間なのだとランボから聞いたことがある。彼等の間に流れている空気が、了平や山本達、守護者の間に流れているものと似ているような気がして、了平は自然と微笑みを浮かべる。 「――あ、引き留めてしまってすいません。どうぞ」 赤髪の男が頭を下げる。 慌てて金髪の青年も頭を下げた。 「ありがとう」 了平は笑顔を作って二人に挨拶をして立ち去った。 そろそろ綱吉が了平が書いた報告書を目にした頃かも知れないと思い、了平は執務室へ向かった。左腕に発砲による衝撃が残っているような気がして、右手で二の腕のあたりを揉む。発砲による腕へのダメージはない。あるとすれば、精神的な打撃だ。 階段を上って執務室へ向かったが部屋には鍵がかかっていた。少しためらったあと、了平は綱吉の私室へ向かった。深呼吸をして部屋のドアをノックしたが返事はない。 「沢田?」 声を掛けてドアノブをひねってみても、部屋には鍵がかかっていた。思い当たる場所といえば談話室しかない。仕方がないので了平は談話室へ向かった。ドアには鍵がかかっていなかったが、室内にはランボと山本、それとそれぞれの部隊の人間が集まってカードゲームをしているようだった。無邪気な様子でランボが了平が誘ってくれたが、了平は笑顔でそれを断った。ボンゴレの屋敷には無数に部屋があるので――了平の知らない秘密の部屋もあることだろう――、無作為に部屋をあたってみても探し出せるという保証はない。 談話室から離れて歩いてみたものの、了平は廊下の途中で足を止めた。 さて。 どうしようか。 携帯電話で呼び出すことは簡単だったが、顔の見えない状態で話はしたくはなかった。 考え込んで動けなくなってしまった了平の方へ歩み寄ってくる人物がいた。細身の身体にブラックスーツを身にまとった雲雀が颯爽と歩いてくる。その肩にはちょこんと黄色くて丸いものが乗っている。雲雀になついてる鳥――、ヒバードだ。雲雀の肩にのって、器用に羽の手入れをくちばしで行っている。 「何してるの?」 了平の近くで立ち止まった雲雀は、無表情のままで了平に声を掛ける。一瞬、リボーンの姿と雲雀の姿が重なる。見た目は一切、似ているところなどない彼等だったが、まとっている雰囲気は同じような色をしているように了平には思えた。 「沢田を見かけなかったか? ……会って話をしないといけないんだが、姿が見あたらなくてな」 「話?」 「大事な話なんだ」 そう。 と小さく呟いて、雲雀は双眼を細め、口角をわずかに持ち上げて微笑んだ。 「君、人を殺したんだってね?」 「――ああ」 「なんだか、変な感じだよ。君みたいな人間が『こっち側』の世界で生きてこうなんてさ、辛くないの?」 「辛くないなんてことはない。今でもすごく、気分が悪いぞ」 「じゃあ、なんで、君はここにいるの?」 「沢田がここにいるからだ」 了平のよどみのない答えに雲雀は表情ひとつ変えないで興味なさそうに「あ、そう」と言うだけだった。 「雲雀は何故ここにいる?」 「それって君に話す必要があるの?」 「うーん。そういわれると、ないような気もするな」 雲雀は唇だけで微笑する。細長い指先を肩に乗っているヒバードの頭に寄せ、かるく二回ほど叩く。 「綱吉を捜すんだよ」 雲雀の言葉にヒバードは小さな目を瞬かせ、ぴぃ、と一声鳴いた。羽をひろげて飛び立ったヒバードは了平の頭のうえで丸く旋回したあとで、ぽふんと了平の頭のうえに乗った。 「それ。貸してあげる。もしかしたら、連れてってくれるかもしれないよ」 「すまない。恩にきる」 「別に。――いまの綱吉の扉を開けるのは君の言葉だけだろうからね」 「ありがとう」 「謝るのも礼を言うのも間違いだよ」 「では、何が正解なんだ?」 「……教えてあげない」 艶やかに笑って、雲雀は了平をおいて歩き出す。すると、了平の頭のうえにのっていたヒバードが小さな翼を広げて飛び立った。そして雲雀が行く方向とは逆へ飛んでいく。了平はふわふわと廊下を飛んでいくヒバードを追いかけながら、何度も考えた言うべき事、伝えるべき事を繰り返し思い返していた。 ××××× 綱吉は重厚な本棚が並べられた書庫の隅で膝を抱えて座っていた。明かりはつけていなかったが、誰かが引き忘れたカーテンの隙間から月明かりが室内に注がれている。やわらかい月光の光に照らし出された、古い書物の背表紙をぼんやりと眺めていた。何も考えていないような、それでいて必死で何かを考えているような、どちらともいえない感情が綱吉の胸元辺りに渦を巻いてたゆたっている。了平に伝えるべき言葉を、口にすれば、それはとても陳腐でありきたりなものになってしまう。そんなありきたりで陳腐な言葉だけでは到底足りない。綱吉は膝頭に顔を伏せる。物音はしない。ぐるぐると過去と現在の思い出が脳裏に巡る。 ドアが開く音がした。 伏せていた顔をあげると、本棚の影から何か小さなものが空中をふわふわと飛んでくる。月光でそれがヒバードであることを認識した綱吉は、少しだけ笑んで、右手を差し出した。綱吉の手の甲にヒバードはとまった。 「どうしたの? おまえひとりなのか? 雲雀さんと一緒じゃないの?」 手の甲にとまったヒバードの頭を指先で撫でていると、本棚の影からぬうっと人間が現れる。綱吉はそれが雲雀と思って、立ち上がろうとした。が、現れたのは笹川了平だった。膝から力が抜けて立てず、綱吉は両手を床についた。綱吉の手から飛び立ったヒバードは了平のすぐ近くを横切って飛んでいってしまう。綱吉は了平の顔を見られない。視線は彼の足下を見ている。了平の足は止まっている。綱吉はいつでも走り出せるように次第に体の重心を移動させ始める。 「さわだ」 いつもならば嬉しいはずの了平の声音も今は鋭く綱吉の心をえぐる。ぞわりとした感覚に突き動かされるように綱吉はもつれるように立ち上がって駆け出そうとした――が、思ったように足に力が入らずに転びかけて本棚に肩をぶつけてしまう。 「逃げるな!」 一瞬で間合いをつめた了平の左腕が綱吉の腕を掴んだ。 「逃げないでくれ。頼む」 了平の手のひらが強く綱吉の腕を握る。洋服ごしに伝わってくる了平の手の熱さに綱吉は様々なものが心の奥からあふれ出してきて、こらえられなくなった。まず涙が出てきた。子供のようにぼろぼろと泣きながら、綱吉は書庫の絨毯の上にくずれるように座り込んだ。 「――ご、ごめんなさい」 了平に掴まれていない方の手で顔を覆う。混乱した頭の中で、組み立てていたはずの言葉が瓦礫となって崩れていく。指先から次第に熱が冷えていくのを感じながら綱吉は引きつった嗚咽をかみ殺すように唇を結ぶ。 「オ、オレ、なんて、謝ったらいいのか……。いや、謝って許されたいなんて、どんだけ最悪なんだろ……、違うんです、謝るだけじゃなくて、……オレ、もう、ほんと……、ごめんなさい、……ごめんなさい、オレ……」 「沢田」 了平は絨毯に片膝をついて跪くと、綱吉の顔をのぞき込むように背中を丸める。綱吉は首を振りながら了平の視線から顔を隠すように俯く。 「沢田。おまえのことを抱きしめてもいいだろうか?」 優しい声と素直な了平の言葉に、綱吉の目尻からは涙が溢れてくる。 「おまえを、抱きしめてもいいか? 沢田」 「え」 「言葉はいらないんだ。なんにもいらない。ただ、おまえを抱きしめさせてくれ」 「だっ、だめです! そんなの、だめです……ッ」 綱吉は首を振る。 「オレ、非道いことを」 身体をよじって逃れようとしても、了平に腕を掴まれているので逃げることは出来ない。綱吉は了平から顔を背けて、ぎゅっと目を瞑った。いまの綱吉ならば、了平の腕を力ずくで振り払って逃げることが出来るだろう。本気を出せば綱吉は守護者の誰よりも強い。だというのに、綱吉は了平の腕が振り払えなかった。暖かで優しくて何もかもを包んでくれる腕を――、自分からは振り払えなかった。 心臓の音が伝わってしまうかのような沈黙のあとで、了平は綱吉と視線を交わすように絨毯に片膝をついた。 「つなよし」 めったに呼ばれることのない名前を呼ばれ、綱吉は思わず視線を了平に向けてしまった。彼は綱吉と目が合うと、にっこりと笑った。 「なにも怯えることはないぞ。綱吉。オレは今、おまえのことを極限に抱きしめたいんだ」 「りょうへいさん……」 「さあ、抱かせてくれ」 綱吉は首を振った。 駄目だ。 ここで了平の優しさに身を任せたら、これから先、綱吉は了平の優しさに寄りかかって生きていくしかなくなる。 「でき、ま、せん……。オレにそんな資格――」 「綱吉」 少しだけ強い響きで了平が綱吉の名を呼んだ。 了平の真摯な瞳が綱吉を見つめる。 「俺は今日になって、ようやく理解した。これから先の将来、俺よりもおまえのほうが数多くの咎と罪を背負って行くのだろう。そうならば、俺はおまえの咎も罪もすべて分けて欲しいと思っているんだ。おまえは一人じゃない。もちろん、俺も一人じゃない。俺にはおまえがいるし、おまえには俺がいる。なあ、綱吉。お前を抱きしめる資格を、俺にくれないか?」 「……ひとりじゃ、ない?」 「そうだ。俺がいるぞ。極限にずっと一緒だ。何が邪魔をしようとも、俺はおまえの側を離れたりせんぞ!」 そう言って、朗らかに了平が笑う。 何度も何度も、暗い闇の中にいるときに、助けられてきた了平の笑顔だ。あんなにも胸を締め付けていた罪悪感など忘れて、綱吉は無意識のままに了平に両腕を広げて飛びついてしまった。抱きしめてしまってから気がついても遅い。了平のがっしりとした腕が綱吉の背中に回されて、今さら綱吉が身を離そうとしても無理だった。了平が嬉しそうな顔で綱吉の顔を眺めている。それだけで、どうしてか綱吉は嬉しくて嬉しくて――拒絶や後悔などかけらもない了平の顔を眺めていると嬉しくて――、ぎゅっと目を瞑って涙を流した。すると了平が困ったようにうなって、苦笑をする。 「泣くな。泣かれるのは苦手なんだ。――笑ってくれ」 武骨な了平の指先が綱吉の目元を何度も優しく拭う。綱吉は引き寄せた右腕の袖で目元をつよくぬぐって、大きく深呼吸をした。了平は綱吉の背中に腕を回したまま、微笑んでくれている。 昨日彼は人間を殺した。 それは事実。現実。真実。 沢田綱吉がドン・ボンゴレとして、これからどれだけの咎をどれだけの罪を背負うことになるのか、綱吉自身にも分からない。 笹川了平が晴の守護者として、これからどれだけの咎とどれだけの罪を背負うことになるのかも分からない。 それでも。 それでも――。 綱吉はドン・ボンゴレとして生きていかねばならないし、了平は晴の守護者として生きていかねばならない。 逃げ道など、とうの昔に見失ってしまった。 ならば前に進むしかない。 了平の指先が、あやすように綱吉の後頭部の髪をすく。綱吉は片手を了平の顔にそえた。彼は綱吉のてのひらに顔をすこし寄せ、やさしくやさしく笑う。 「笑ってくれ。――つなよし」 甘くねだるように囁く了平の言葉が、ゆっくりと綱吉の身体に響いていく。 「了平さん……」 「ああ」 「――好きです。大好きです。……ありがとうございます……」 涙で濡れた顔のままで綱吉は懸命に笑顔を浮かべる。了平は「ああ、知っているぞ」と言って笑い、綱吉の後頭部に添えていた手を少しだけ引いた。鼻先が触れ合うほどに近い場所で見つめ合い、どちらともなく笑う。 ありがとうございます。 ほんとうに。 ありがとうございます。 綱吉は声には出さずに、何度も何度も繰り返す。 彼に会えた事も彼が綱吉を選んでくれた事も、なにもかもに感謝したい気持ちでいっぱいになる。 「愛して、います」 「俺も極限に愛しているぞ」 了平の手が綱吉の頭を引き寄せる。了平の顔が近づいてきたので綱吉は目を閉じる。唇にやわらかい感触がして、すぐに離れていく。 二十歳も半ばになろうとしている人間に対して言うべきでない言葉だったのかもしれないが――、了平は子供のように無邪気に笑った。両腕で綱吉のことを抱きしめて、了平は綱吉の髪に顔を寄せる。 「……りょうへいさん……」 声に出さずに名前を呼んで、綱吉は両手で了平のスーツの背中を握りしめる。了平の首もとあたりに顔をよせて目を閉じる。 腕の中にある確かな温もりを失わずにいられた幸福をかみしめながら、綱吉は両腕に力を込めた。 |
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【END】 |