1 悲しい喧騒














 教会の鐘の音が空高く、どこまでも鳴り響く。



 神父の祈りの言葉が終わると同時に、十数羽の白い鳩が檻から放たれる。複数の羽音がすぐに遠のき、澄み渡った美しい空へと飛び立っていく。


『彼の魂が天上にあらせられる我らが父の御許にて安らかにあらんことを』


 神父が胸元で十字をきる。
 式の参列者達も、リボーンも、了平も――、そして綱吉も同じように胸元で十字をきる。


 教会の鐘が鳴り響いている。


 ロウランドの墓標の前に背中の曲がった白髪の彼の母親が立ち、寄り添うように黒いベールで顔を隠した彼の妻が立っていた。妻は腹部辺りがふんわりとした喪服を着用していて、一目で彼女が妊婦であることが分かる。顔を両手で覆う年老いた母親の背中を、黒い手袋をはめた妻の手がゆっくりと撫でている。
 妻の横には、彼の上司だった笹川了平が腕を組んで立っている。彼は俯いていない。墓標を真っ直ぐに見つめている。その横顔は凛々しく引き締まり、涙が目元から流れることはなかった。怒りも憎しみもない。静かな弔いの雰囲気が了平の横顔にそっと降りている。
 彼の母親、妻、了平の周囲には、たくさんのボンゴレファミリィの関係者が輪を描くように立っている。


 綱吉は輪から離れた場所にいた。
 墓標のある場所から少し離れた、墓地のシンボルともいえる大木の近くに立っていた。種類など分からないが、樹齢が百年以上前だということくらいしか綱吉には分からない。ざわりざわりと風で揺れる枝の葉がこすれあう音が、まるで人々のざわめきのようだった。さざめき合う音が綱吉を責め立てる声音のようにも聞こえる。ちりちりと頭の奥が焦げていくような痛みとも熱ともとれないものが生まれてきて、綱吉は眉間にしわをきざむ。

 隣に立っていたリボーンが綱吉の視線に気がついてボルサリーノの縁の下から綱吉を目を合わせた。彼は何も言わずに静かに目を伏せる。綱吉はゆっくりと息を吐いて、周囲に視線を巡らせる。

 墓標を囲むボンゴレファミリィの面々を中心とした四方には、三十名を越える人間が綱吉を守るために様々な位置に散っていた。どこにどういった名前の人間が配置されているのか綱吉は知らない。

 もしも、この場所で抗争が始まって、誰かが命を落としたとして――。
 綱吉が命を落とした人間の名前を知るのは執務室の椅子に座った時だ。

 綱吉は空を見上げて目を閉じる。


 いままで何度、聞いただろうか。
 これから何度、聞かねばならないのか。


 最後の鐘の音が余韻が限りなく高い空へ昇っていく。


「おい。帰るぞ」

 リボーンの冷静な声音に綱吉は目を開く。

「うん」

 答えたものの、綱吉は歩み出そうとしない。ボスが動かないことを不思議に思ったファミリィの面々の足が止まりだす。リボーンは舌打ちをして、綱吉の腕を掴んだ。

「しゃきっとしろ。ドン・ボンゴレ」

 綱吉の目はリボーンを見ずに、墓標の前でか細い肩を震わせて泣く老婆をとらえる。これまでも何度も何度も見てきた光景だ。いま、綱吉の周囲にいる人間すべてには、彼等や彼女たちを産んだ母がおり、父がいる。息子がいて娘がいる者もいる。いつ死んでもおかしくない彼等には家族がいる。
 責められたこともあった。
 嘆きをぶつけられたこともあった。
 遺体すら家族の元へ返す事が出来ず怨まれたこともあった。



 どれだけの力が手に入れば、誰ひとりとして取りこぼすことなく、守れるのだろうか。



 胸をつかれた想いが、綱吉がかろうじて被っていたドン・ボンゴレとしての仮面にヒビを入れていく。感情の制御がうまくきかない。ロウランドの母親も妻も綱吉を責めなかった。嘆きもしなかった。恨みもしなかった。
 彼女たちは言った。
「彼の死を忘れないでください」
 綱吉は「私が墓に入るまで忘れることはありません」と答えた。
 忘れることはない。
 ボンゴレのために命を落とした者も。
 ボンゴレのために障害をおった者を。
 綱吉は忘れない。
 忘れられるはずもない。


 ドンとしての仮面を保ちきれず、綱吉は下を向いた。


 声をかけようと近寄ってくる者達を、リボーンが適当にあしらう声を聞きながら、綱吉はボンゴレのために死んでいった者達の名前を改めて刻むように思い出す。忘れない。忘れない。忘れない。彼等のことを忘れたとき、きっと綱吉は綱吉でいられなくなる。人の死を忘却してしまえるようになったらそれは――。


「沢田」


 顔をあげると、了平が目の前に立っていた。彼は精悍な面構えのなかにほんの少しの悲壮さを混じらせながら、綱吉を見つめている。

「了平さん」

 了平は綱吉の呼びかけに深く頷きを返し、口元だけで笑った。そしてファミリィの一人と口早に会話をしていたリボーンへと視線を移す。

「沢田と話がしたいんだが、いいか?」

「――そんなもの、屋敷に戻ってからでも出来るだろう」

「沢田のためを思うなら、いま、時間をくれ」

 綱吉は了平の言葉の意味がくみ取れず、思わず彼をじぃっと見つめてしまった。了平は綱吉の視線を受けると、大きく無骨な手のひらを綱吉の肩に置いた。心地の良い重みと温もりがもたらす安心感で、自然と瞼を伏せてしまう。

 舌打ちのあとで、リボーンが浅く息を吐いた。

「仕方がねーな。分かった。――だが、警護の奴らは残していくぞ」

「いいや。警護も引き上げさせてくれ」

 リボーンは顔をしかめて了平を睨んだ。

「今ここで、こいつに何かがあったらヤバイってこと、いくら脳天気なおまえだっていくらなんでも分かるだろ?」

 了平は右の拳を胸に添えて、背筋を伸ばす。

「俺が側にいるんだぞ。何かが起こったとしても、すべてこの拳で打ち砕いてやるさ。それに、ロウランドを殺したメンバーはすでにうちの連中が追撃中だ。わざわざロウランドの葬式をぶちこわしに来る余裕なんてないはずだぞ」

「ああん? 馬鹿か、おまえ。ボンゴレを狙う奴らがこのイタリアにどれだけいると思ってんだ。今回の狙撃、狙われたのはツナだ。ロウランドはツナを守って死んだ。ロウランドはおまえに似て、野生の勘みてーなもんが強かったからな。三百メートル離れた場所からの狙撃を察知するなんて真似、ふつうはできねーはずだ。あいつがいなきゃツナは死んでただろう……」

 そこで初めて、リボーンはロウランドに畏敬の念を込めるように目を伏せた。
 しかし、すぐに彼は厳しい表情を浮かべて目元を細めた。

「ロウランドを殺した奴らを捕らえて報復を与えたところで、また違う奴らがわいて出てくるぞ」

「暗殺者達がどれだけ出現しようとも沢田のことは俺が守る。それはもう、とうの昔にこの拳に誓ったことだ」

 凄みをみせるリボーンに動じることもなく、了平はきっぱりと言い切った。
 少々の沈黙のあとで、リボーンはボルサリーノを脱いで――それは周辺に潜んでいる人間達への警護の解除を命じる動作だった――、綱吉達に背を向けた。


「車で待ってるぞ。時間は十五分だ」

「恩にきる。すまない」

「チャオ」


 小さく呟いたリボーンは、他の参列者と共に規則正しく並ぶ無数の墓標に挟まれた小道を歩いていく。老若男女、様々な年齢の人間が喪服に身を包み、列をなして墓地をあとにする。

「沢田」

 了平の手が綱吉の頭をわしわしと撫でる。ぼさぼさの頭のままで了平を見つめ返すと、彼は安堵を誘うかのようににっこりと笑った。心が苦しくなるような笑顔だった。

「少し、待っていてくれ」

 了平はそう言うと、墓標の前からようやく移動をしようとしていたロウランドの母親と妻の元へ駆けて行った。二言、三言ほど言葉を交わした了平は、母親と妻と一度ずつ抱き合った。

 母親と妻は、墓標から離れた場所に立っていた綱吉に向かって深くお辞儀をした。綱吉も深く頭を下げる。心の中で「ごめんなさい」と何度も謝った。

 彼女たちは互いを支えるかのように寄り添い合ったまま、他の参列者が通った小道を通って墓地の外へと向かっていく。


 綱吉は大木の幹に背中を預けて立っていた。そうでもしないと座り込んでしまいそうだった。いまにも決壊しそうな激しい悲しみを抑えることに必死になっていて、自分がどんな顔をしているのかさえ分からなかった。

 深呼吸をして。
 青すぎる空を、青々しく茂る木々の葉ごしに見上げる。

 生きている。
 生きていることを自覚しながら呼吸をする。

 ロウランド。
 ロウランド・ヴィッテオ。
 享年三十四歳。
 母親の名前はミラ・ヴィッテオ。
 妻の名前はマデリーン・ヴィッテオ。
 生まれてくる子は女の子で、名前はアイリーンと決まっていた。


 忘れない。忘れない。忘れない。


「待たせたな」

 了平は大股で綱吉に近づいてきた。
 綱吉は了平を見ることが出来ず――了平の補佐を務めていたロウランドが綱吉をかばって狙撃された、了平に責められてもおかしくはない――、視線を泳がせる。すでに周囲に残っている人間はおらず、ざわりざわりと木々の葉がこすれあう音だけがやけに大きく聞こえてくる。

 了平の両手が綱吉の肩にのせられる。
 大きな手のひら、そして安堵を誘う温もり――。

 綱吉は逸らしていた視線を了平に向けた。
 了平は真っ直ぐに綱吉を見つめていた。その瞳は憎しみも叱責もない。暖かな日差しのような、眼差しに綱吉の心はいまにも崩れてしまいそうになる。


「沢田」


「はい……」


 肩に置かれていた了平の手のひらが、綱吉の顔をはさむように包んだ。拳で戦う了平の手のひらは大きくごつごつとしていて、他の人間とは違う。親指のはらで頬を優しくなでられて、思わず目を閉じる。彼の手のひらは温かい。とても温かい。血が通っているから温かい。 生きているから、温かい。


「うっ、う……」


 こらえきれなくなった。
 唇を引き結んでも、目をつよく瞑っても――。
 涙も嗚咽もこらえきれなかった。

「……良く、我慢したな」

 優しい声音とともに、了平がそっと綱吉の身体に身体を寄せる。綱吉は了平の肩に額をおしつけて、彼の逞しい背中に両腕を回した。了平は綱吉の背中に片腕をまわし、もう一方の手で優しく髪をすいてくれる。


「――ごめんなさい、了平さん……、オレ、――オレ……」

 了平のあごが綱吉の頭に寄せられる。綱吉は目を閉じて両手で了平のスーツを握りしめる。風がざわりざわりと大木の枝を揺らす。重なりあう葉音がまるで人のさざめきのように聞こえた。「どうして彼が」「仕事を全うしただけだ」「彼はドンを守った英雄だ」「惜しい人を亡くした」「奴を殺した奴へ報復しねえとな」「殺してやる」「可哀想に」「奥さん、来月出産予定だったんだろ」「子供の顔が見たかっただろうな」葬儀が始まる前、集まったファミリィの面々が交わしていた言葉の端々が思い出された。

 ロウランド。
 ライフル弾で頭蓋骨を撃ち抜かれて死亡。
 その弾丸は本来、綱吉の頭蓋骨を貫通するはずだったものだ。

「りょ、……へ……さ、ん……ッ」

 了平の大きな手のひらが綱吉の後頭部を包み込む。
 綱吉は涙でぐしゃぐしゃの顔のままで了平を見上げた。
 彼は真剣な眼差しで綱吉のことを見下ろしている。綺麗に澄んだ色の薄い瞳を見つめかえす。

「謝らなくていい。――泣くだけ、泣けばいい。おまえの涙は俺が全部、受け止めてやる。泣いて、泣くだけ泣いたら、おまえはまたあの場所へ戻らないとならないんだからな。――俺はいつだって、おまえの浮き輪になってやるからな。安心していいぞ」

 綱吉はたまらない気持ちになって、了平の首に両腕を回し、彼の顔を引き寄せた。了平は綱吉の腕に導かれるままに背中を丸めてくれる。綱吉は引き寄せた了平の顔に顔を寄せ、唇に唇で触れる。浅い口付けは次第に深いものに変わってゆく。綱吉はうまく鼻で呼吸をしながら了平のとのキスを貪った。何もかも忘れたい。しかし忘れることなど絶対に出来ない。もう何百という人間の死を心に刻んできていた。これらか綱吉が死ぬまでにあと何百、何千の死を胸に刻むのだろうか。綱吉は了平の顔から顔を離し、こらえきれなくなった嗚咽で身体を震わせる。了平は武骨な両手で綱吉の涙を拭ってくれる。泣きすぎて熱くなった綱吉の頬に触れる了平の指先は少しだけつめたい。それが気持ちよかった。

 綱吉の嗚咽が収まるまで、了平は抱いていてくれた。
 小さく咳き込んだあとで、綱吉は意識を切り替える。すでに十分近く経過しているだろう。リボーンが約束したのは十五分だけだ。もう泣きやまなくてはならない。


「ごめんなさい、了平さんだって、辛いのに……」

「人の死というものは、誰にとっても辛いものだ」

 了平はわずかに頷いた。

「誰が誰より辛いかなんてことは比べられん」

「……彼のお子さん、来月でしたよね? あの、オレがお祝いの品とか贈ったら、不愉快に思われますかね?」

「不愉快になることはないだろう。おふくろさんも、奥さんも、ロウランドがどんな仕事をしているか、きちんと受け入れてる人達だからな。こういう死に方をするかもしれないと覚悟していたそうだ。――彼女たちは沢田に対して、一言だって恨み言をこぼさなかったぞ」

「……強いなぁ……」

「彼女たちは母親だからな。母とは強いものだ」

 了平は笑顔を浮かべて、乱れてしまった綱吉の髪の毛を片手ですいて整え始める。
 再びもれそうになる嗚咽を深呼吸することでおさえながら、綱吉は了平を見上げた。


「オレばっかり泣いてて、すみません……」

「俺にはもっと格好悪いところを見せてくれて構わんぞ」

「うーん、……ずるいなあ。了平さんの格好悪いところなんて、オレ、見た事がないですよ」

「そりゃあ当たり前だ」

「なんでです?」

 了平は微笑んで、綱吉の額に額を寄せる。触れあった部分が熱を伝え合い、間近に見つめ合う。

「俺は愛するおまえの前で格好悪いところなんて見せたくはない。――だが、沢田が気にすることはないぞ。もっと格好悪いところを見せてくれていい。俺はどんなおまえだって愛している、受け止めてやる」

 綱吉は額同士を触れあわせたままで了平の顔を眺める。先ほどまで死を受け止めていた凛々しい瞳に優しい色が浮かんでいる。綱吉は少しだけ顔を傾けて彼の顔へ近づける。意図を察した了平も同じように顔を寄せて二人は口づけをした。


 了平の両腕が綱吉の背中をゆるやかに抱く。綱吉は逞しい了平の肩のあたりに頭を寄せた。了平の身体から暖かな太陽の匂いがしたような気がして、綱吉は目を閉じる。


「おまえが悲しみを忘れない限り。きっとボンゴレは良い組織でありつづけるだろう」


「……マフィアなのに、ですか?」


 了平の腕に抱かれたままで綱吉は彼を見上げた。
 了平はゆっくりと頷く。


「おまえが苦しんで、悲しんで、泣きながら選択するというのならば、それが最善の策なんだろう。――俺はおまえの選択を信じている。だから俺にも、おまえの覚悟を背負わせてくれていいんだ……」


 綱吉は両手を伸ばして了平の頬をはさんだ。彼の頬をてのひらで包んで、彼の澄んだ瞳を見上げて、綱吉は泣き出したい衝動をおさえて精一杯に微笑んだ。


「了平さんがいてくれるんなら、オレ、どこまでだって歩けそうですよ」


 泣き笑いのままで声を震わせると、了平は頬に触れている綱吉の手に片手を重ねる。


「一緒にいこう。どこまでも」

「はい、……はい、一緒に」


 綱吉は頷いた。
 何度も頷いた。


「そろそろ約束の時間だな。行くか」


 抱擁をといた了平は、自然な動作で右手を差し出した。

 二十歳も半ばを越えた男二人が――マフィアのドンとその守護者が――、白昼堂々手を繋ぐ光景は周囲を驚かせるだろうと思ったが、綱吉は了平の右手を左手で握りしめた。

 了平にぎゅっと強く手を握られるだけで、砕けそうになっていた綱吉の心が少しずつ修復されていくようだった。

「行こうか。沢田」

 ざわり、ざわりと。
 木々の葉がこすれ合う音は変わらずに続いていたが、綱吉はそれがもう、人のざわめきには聞こえなかった。

「はい。了平さん」


 歩き出す了平に手を引かれながら綱吉は一歩を踏み出す。
















悲しい喧噪を背後に置き去りにして、再び生と死が荒れ狂う戦場へ。








 二人は手をとりあって、歩き出す。




 








                                      
           
   【end】