07:疚しさに似た いたたまれない背徳心を抱く想い





 横殴りに降り続いている雨が窓ガラスを叩いている。分厚い雲によって遮られているため、空模様で時刻を判断はできそうにない。

 左手首の腕時計を確認してみれば、夜の九時を回りそうな時間だった。

「よし。――行くか」

 愛用の刀を特注品で作ったベルトの金具にはめ込んで、山本は私室を出た。廊下に待たせていた二人の部下が、山本に対してわずかに頭を下げる。山本は二人に笑みを返し、「じゃー行こうか」と気楽に言った。彼らは緊張した面もちで頷く。

 山本が歩き出すと、彼らは少し遅れて後をついてくる。背後で会話が交わされる様子はない。

 これから向かうのは交渉相手ではない。
 交渉は三日前に決裂している。
 結果、残された道は一つしかない。

 後ろを歩いている部下二人を肩越しにちらりと見てみると、二人とも顔をしかめて思い詰めたような顔をしている。

 何度、経験しようとも、人が人を殺す作業は後味が悪く、罪悪感にとり殺されそうになる。

余裕ぶった面の皮をしていようとも、山本も同じだ。だが、それを顔に出すことだけはしたくはなかった。もしも顔に出してしまえば、大事な友であり、ファミリィのボスである彼が大いに傷つくだろうと予測がつくからだ。

 肩越しに部下達を振り返り、顔の片側だけで笑む。

「あんま、緊張すんなよな。こっちは人数そろえてんだから、油断さえしなきゃー楽勝だ」

 部下達は「はい」と声をそろえて答え、山本の笑みにわずかな笑みを返した。
 山本と行動をするAグループの他に、すでに配置済みのグループが五十人ほどいた。相手は二十人ほど、多くても三十人にはならないだろう。本来ならば山本一人でも片づけられるかもしれなかったが、ファミリィとして活動することも守護者としての勤めだった。

 屋敷の玄関ホールまで来ると、勢いよくドアが開いて、オフホワイトのスーツ姿の綱吉が駆け込んできた。すぐ後からリボーンも歩いてくる。

 山本は二人の様子を見て驚く。

 彼らは全身がびしょ濡れだった。
 今は冬、雨が雪にならないとはいえ、夜なので気温はすこぶる低い。吐く息も白く濁りそうなくらいだ。

「あちゃー……、どーしたんだ、二人とも」

 二人は午後から、ボンゴレ系列のホテルの経営に関する会議に参加するために『車』で屋敷を昼頃に出ていったはずだ。玄関のターミナルまで車は入ってこられる。スーツの色が変わるほどぐっしょりと濡れるはずはない。

 髪やスーツの裾から滴をしたたらせながら、綱吉は苦い顔で頬に張り付いている髪を指先ではらう。指先が寒さからかわずかに震えている。

「もう最悪だよ……、ガンツィんとこの若い人達に見つかっちゃって、途中でちょっとカーチェイスしてね……、逃げ切ってきたのはいいんだけど、屋敷の二キロ手前でガス欠になちゃってさ――」
「今日に限って携帯電話忘れやがったんだ、このダメツナが」

 不機嫌そうにリボーンはかぶっていたボルサリーノを頭から外す。肌の色が悪く、彼の唇も赤みがうすれている。

 現在、本拠地にしている屋敷は、郊外に配置されており、周囲に民家もないような場所にある。マフィアの屋敷があるという噂からか、道を行く車も少ないため、ヒッチハイクすら――マフィアのボスを乗せる車なんて現れるはずがないにせよ――できなかったのだろう。
 リボーンは通常、携帯電話を持ち歩かない。ヒットマンたるもの、いつ物音をたてるか分からない物体を身につけていられない――というのが彼の言い分である。

 リボーンに睨まれ、綱吉はバツが悪そうに顔をしかめた。

「ごめん、って。……急いでて忘れちゃったんだよ」
「ダメツナが」
「まーまー、そう怒んなよ、な?」

 冷酷な声音で言い捨て、リボーンは舌打ちする。
 山本はリボーンをなだめるように片手を上下させながら苦笑する。

「真冬に雨に濡れるなんて具合悪くすっぞ。――ああ、ちょっと――」

 騒がしい玄関の様子に気が付いたメイドたちが三人ほどあちこちから駆けつけてくる。山本は彼女たちにバスルームの用意をするように伝えた。メイドたちは深々と一礼すると、素早くバスルームがある屋敷奥へ姿を消していった。

「風呂の用意してくれるってよ、二人でいっぺんに入っちまえよな。俺は、これから掃除に行って来っからさ」

「あ、そっか。あれ、今日だったんだ。いってらっしゃい。みんな、気をつけて。怪我をしないようにね」

 凍えた手を胸の辺りまで持ち上げて、綱吉は笑った。

「「はいっ」」

 部下達は深々と綱吉に一礼する。気さくでおおらか、そして優しいボスを悪く思っている人間もいることはいるが、慕っている部下のほうが遙かに多い。特に山本の部下達は、綱吉を信仰している人間が多いようだった。そのことが誇らしい反面、くすぐったいような気もする。

「じゃーな。風邪ひくんじゃねーぞ、ボス!」

「うん。いってらっしゃい、山本」

 手を振る綱吉にうなずいたあと、向きを変えた山本は部下が開けた玄関をくぐって、土砂降りの雨のなか停車している車を目指して歩を進めた。



×××××



 バスルームの支度を整えたメイド達と入れ違いに、綱吉とリボーンは脱衣スペースである小部屋に入った。
 暖房のおかげか、脱衣室は他の場所よりも温かい。ほっと息をついて綱吉はスーツを脱ぎ始める。かじかんだ指はなかなか思うように動かない。もたもたとスーツやシャツのボタンを外していた綱吉は、リボーンが壁際に突っ立ったままでいるのを不思議に思い、手を動かしながら口を開く。

「脱がないの?」
「おまえが先に入れ」
「え、いいよ。二人で入っちゃおう、うちの浴場、わざわざ日本風に広く作ってあるんだしさ」
「いいから先に――」
「なに? 照れてんの?」

 リボーンは綱吉を睨み付ける。
 綱吉はボタンをはずしたシャツを脱いで、かごのなかに丸めて放った。

「まだ、携帯電話のことで怒ってるの? ……ごめん、って言ってるじゃない……」
「――違う」
「じゃあ、何にイライラしてるの?」

 リボーンは沈黙している。

「ほら、そのままじゃあ風邪ひくだろ! 脱いだ方がいいって――」

 綱吉はリボーンに近づいていって、彼のスーツに手を伸ばそうとした。
 リボーンは綱吉の手から逃れるように半歩横へ移動する。視線は綱吉を見ていない。

「触るな」
「オレだけ先に入るなんてしないからな。入るんだったら、おまえも一緒」
「……分かった……」

 短い舌打ちのあと、リボーンは乱雑にスーツを脱ぎ始める。
 綱吉はベルトをはずし、ズボンを脱ぎ捨てながら口を開く。

「リボーン、なに怒ってんの?」

 リボーンは沈黙している。
 彼が不機嫌そうにしている場面に遭遇することは今までにも数多くあったが、いま漂っている彼の苛立ちは、綱吉が今まで感じたことのない雰囲気をまとっている気がして、ひどく落ち着かない気分になる。特に恥じる気持ちもなく、トランクスを脱いで、用意されていたタオルを腰に巻く。
 リボーンは音を立てながらベルトを外しているところだった。
 元々彼の肌の色は黄色人種である綱吉よりも白人種に近い。いまは凍えているせいか、よりいっそう赤みがなく、なめらかな白い肌が石膏像のようだった。

 綱吉の視線に気がついてリボーンの手が止まる。

 綱吉は肩をすくめて顔の片側だけで笑む。

「大きくなったよね、リボーン」
「なんだ、それは。セクハラか?」
「え、違う違う! なに言ってんの」

 狼狽した綱吉を鼻で笑い、リボーンはスラックスと下着を脱いで、タオルを手にとって腰に巻く。

 ふと、リボーンの冷たい視線が綱吉の身体に注がれていることに気がつく。リボーンへ視線を向けると、彼はわざとらしいほどに綱吉から視線を外した。いつもならば考えられない彼の行動に綱吉は違和感を強めていく。良い意味でも悪い意味でも自分に正直なリボーンとは思えない行動だ。視線を自分から外すことなど無いに等しい。

「なに? オレの身体、なんかおかしい?」
「全然、筋肉がついてねー」
「……ま、仕方ないんじゃないなか。おれ、筋肉つかない体質なんじゃないの? リボーンだって、細いじゃない」
「オレは鍛えってから無駄な肉がないだけだ」
「あ、そうですか」
「入るんだろ、行け」

 リボーンにあごで浴室を示され、綱吉は頷いた。

 引き戸を引いて浴室に入ると、温かな湯気が肌に触れる。
 綱吉が十代目となったころに、浴室は日本的なものに改装されている。ジャグジー付きの白い円形のバスタブに、銀色の取っ手とシャワーヘッド――身体を洗う場所も広々としていて圧迫感は一切ない。オフホワイトと金と銀を基調としたバスルームは、ちょっとしたお洒落なホテルの浴室のようだ。

 シャワーを浴びたあと、バスタブに身を沈める。初めは体中がジンと痺れたが、次第に熱に慣れて暖まってくる。リボーンもシャワーで肌の表面の汚れをおとしたあとで、綱吉と向かい側のバスタブに身を沈めた。綱吉が両足を伸ばすと、ようやくリボーンの足に触れるくらいの広さがある。
 綱吉の足がリボーンの足先に触れる。彼は眉をしかめて、膝を抱えるようにたたんだ。やけに避けられているような気がして、綱吉は悲しい気持ちになった。

 視線を伏せて、身体が暖まってくるのを感じる。リボーンに怒られることや酷いことを言われることには慣れてはいたが、彼が訳も言わずにおかしい態度をすることは今までになかった。携帯電話を忘れたことを怒っている訳ではないと言っていた。では、何に対して怒っているのだろうか。ぼんやりと最近のリボーンとの会話を思い出していると、急に近くに気配がして、綱吉は顔をあげた。

 向かい側にいたはずのリボーンが、のばされた綱吉の両足を避けるように移動し、すぐ近くにまで来ていた。ぎょっとして言葉をなくす綱吉の左肩に、リボーンは触れようと手を伸ばす。指先が触れる前に彼の手の動きは止まった。

「おまえ、この傷――」
「ああ、これ?」

 綱吉は左肩を見下ろす。青黒く変色した肌は、自らの肉体であれど、痛々しいと思った。

「この前、ほら、おまえと出かけた先でオレが十代目だってばれて、一悶着あっただろ? あの時、おまえがほとんどの敵を片づけてくれたじゃん。見事だなぁって思って、それにオレが見とれてるうちにさ、背後から近寄ってきてた奴がいてさ、うっかり鉄パイプが当たって打ち身になっちゃったんだよね」
「あの時、怪我、してたのか……」
「骨に異常もなさそうだったし……、ま、こんなのもう怪我のうちにも入らないでしょ。相手もぶっ飛ばしておいたしね」

 リボーンの華奢な指先が綱吉のアザに触れる。彼の手はまだ冷たかった。指の腹でアザをなぞるだけで彼は何も言わない。表情もない。ふいに彼の身体が前のめりになり、リボーンの前髪が綱吉の肩に触れそうになる。

「リボー、ン?」

 綱吉の声に、ぴたりとリボーンの動きが止まる。
 細長く息をついたあと、リボーンは綱吉の肌から手を引いて、また一番遠い向かい側の位置へ移動して、あごまでお湯につかった。

「いったい、なんなの?」

 綱吉の問いかけが聞こえないはずはないのに、彼は黙ったまま何も答えなかった。



×××××



 バスルームから出て、用意されていた寝間着に着替える。濡れた髪を乾かすのに綱吉もリボーンも肩からタオルをさげたまま、脱衣スペースを後にした。
 入浴中から今まで、二人の間に会話らしい会話はない。いい加減、綱吉は、言い知れぬ圧迫感と緊張感に耐えきれなくなってきていた。

「じゃーな」

 綱吉の私室の隣がリボーンの私室だった。彼は綱吉の方を見ずに片手をあげて自室に入ろうとする。

「待って」

 綱吉はリボーンの肩に触れる。彼は片目を細めて綱吉を見た。

「リボーン。なにかオレに言いたいことあるでしょう?」
「そんなものねーよ」
「――嘘だ。今のリボーン、いつものリボーンらしくないよ。今まで言いたいこと、黙ってたことなんてないじゃない? リボーンが黙ってるなんて、よっぽどのことでしょう? オレ、何かしたの? だったら言ってよ、なんだか、こんなの気持ち悪いよ、はっきりさせてよ」
「超直感か?」
「そうじゃないよ。長年つきあってきた経験から言ってんの!」
「残念だが、何もねーよ」

 綱吉の手を振り払って、リボーンはドアノブに手をかける。その動作が綱吉の苛立ちを刺激した。まだ綱吉の肩口にも届かない身長のリボーンの胸ぐらを掴んで、綱吉は吠える。

「何かあるんだろ!? 言えよ! さっきからおかしいんだよ、おまえ!」
「離せ」

 あくまで冷静な態度を崩さないリボーンの態度に、綱吉は苛立ちを煽られた。一切の抵抗を許さない強引さでリボーンの身体を引きずって、綱吉はリボーンの部屋のドアを開けてその中へ彼を突き飛ばした。リボーンは倒れはしなかったもののよろめいて立ち止まる。後ろ手にドアに鍵をかけ、綱吉は仁王立ちのままで彼を睨んだ。

「言えよ、なに抱えてんの?」

「ダメツナが……」

 リボーンは舌打ちして眉間にしわを寄せ、右手で顔を覆う。濡れた黒髪が彼の表情に影を落とす。
 綱吉はドアを背にしたまま、彼の些細な変化も見逃さないように、じっと睨んでいた。

 やがて観念したかのように、リボーンはゆるく息を吐いた。

「確かに、いまのオレはおかしいかもしれない。……でも、一時的なもんだから気にすんな」
「そんな訳にはいかないよ。何か悩んでるんだったら、オレ、なんでも協力するよ?」
「それで解決するわけじゃねーんだ」
「……オレってそんなに頼りないの?」

 リボーンは首を振る。

「違う。そういう問題じゃねーんだ。放っておいてくれればいい。きっと血迷ってるだけだ」

 血迷ってる?
 疑問が口に出る前にリボーンの方が先に口を開く。

「放っておいてくれ。しばらく経てばこんなの、忘れるに決まってる」

 独り言のようにリボーンは呟いて首を振った。
 綱吉には意味が分からない。
 リボーンは何かを考えるように少しうつむいている。
 赤ん坊のときとは違い、少年となったリボーンのほうが表情にのる感情が読みとりやすい。いまにも泣き出してもおかしくないような危うさが、リボーンの目元や口元に見られた。

「り、リボーン、ねえ――」

 綱吉は彼の名を呼びながら彼に近づいた。刹那、焦ったせいか、足がもつれて前のめりに転びかける。

「この、馬鹿――」

 とっさにリボーンが両腕を広げる。赤ん坊のころから重い銃を軽々と持っていた彼の腕は綱吉の身体を受け止めた。痛みではなく温もりが肌に触れて、綱吉は長々と息を吐き出す。抱きしめたリボーンの身体にもたれて、その首筋に顔をうずめる。

「はー……、びっくりした」



×××××



「り、リボーン、ねえ――」

 名を呼ばれ、出口のない思案を繰り返していたリボーンは視線を持ち上げ――ぎょっとした。

「この、馬鹿――」

 自分自身の足につまづいて転びかけている綱吉の前に飛び出して両腕を広げる。幸い、彼の体重は標準よりも軽い。赤ん坊のころから銃火気を軽々と扱っていたリボーンの腕には軽いくらいだった。

 肩口に頭をすりよせ、両腕に力を込めて綱吉がつぶやく。

「はー……、びっくりした」

 リボーンにはその声はほとんど届いていなかった。

 腕のなかの温もり。
 鼻先に匂う綱吉のムスクの香り。
 うすい布越しに伝わってくる綱吉の肌の感触。

 口にし難い感情が沸きあがってリボーンは体を震わせる。

 とっさに綱吉の胸を押し返そうとしたが、手のひらが彼の胸に触れると、そこで抵抗する意志が拡散していく。脈打つ肌が薄い布越しに感じられる。これほどに彼の身体を身近に感じたことはない。心拍はあがり思考が停止していっこうに動く気配はない。

「なあ、リボーン」

 リボーンを抱きしている腕をゆるめ、間近に顔と顔をあわせ、彼は言う。

「オレは、いままでおまえに何度も助けられてきたんだ。そのことはすごい感謝してる。だから、おまえが何かに悩んでいるんだったら、オレは力になりたいよ。一人で悩まないでよ、ねえ?」

 そういって彼はリボーンの肩に両手をおいたまま笑う。

 ああ。
 もう。
 こらえきれない。

 逡巡は一瞬だった。

 微笑んでいる綱吉の顔に顔を近づけ。

 唇に触れた。

 触れた唇がこわばり、綱吉が息をつめたのが唇を通して感じられる。
 バネ仕掛けのようにとっさに身を離した綱吉は、右手で口元を覆って後方へよろめいた。

「え、り、……りぼ……、え……?」

 動揺する綱吉を目にして、リボーンの中で何かの堰が壊れた。はじけた感情は空しく霧散し両手をすり抜けていく。顔から血の気が引いて一切の思考が停止する。

「――リボーン?」

 おそるおそる綱吉が声を掛けてくる。
 耳は聞こえている。
 しかし脳内にまで届かない。
 綱吉が近づいてくる気配にリボーンは恐れを感じた。
 恐れ。
 今まで感じたことのないような恐れだ。

「来るな」

 唸るように言うと、綱吉は動きを止める。
 彼の表情は戸惑ったように固まっている。

 訳が分からない。
 とは、言えない。

 訳は分かっている。

 ここ最近、
 いや、
 ささいな感情の揺れすらカウントするのであれば、ここ数年――。

 綱吉に対して、リボーンは妙な思いを抱き続けていた。

 触れたい、から始まった感情は、
 抱きしめたいに変わり、
 やがて肌を舐めたいとすら思うようになってきた。

 白いシャツからのぞく細い手首。
 スーツの襟元からみえる首筋。
 ゆるめられたネクタイの合間から見える鎖骨。
 ふとした瞬間、唇を舐める舌先。
 開いた唇からのぞく白い前歯。

 フラッシュバックするようにバスルームでの出来事がよみがえる。

 彼のなめらかな肌に浮かぶ青紫色のアザ。
 お湯でほんのりと色づいた彼の裸体。
 筋肉があまりついていない細い肉体。
 幼いころから綱吉の裸など見てきたものだったが、成人男性となった彼の裸体を見るのは初めてといっていい。

 視界にいれないようにしようとしても、気が付けば視線を向けてしまう。
 
 綱吉の裸体を見てリボーンは確信した。
 かつての教え子に。
 年上の男に対して。
 過去に愛した女を相手にしているときと同じように、はっきりと欲情していることを。

 否定しても、否定しても、否定しても――。
 閉じこめていた感情が爆発しそうで、口を開きたくなかった。
 そのことで綱吉が不機嫌になっていく事が分かっていたが沈黙しているしかなかった。

 綱吉はドアを背にして立っている。
 形のよい目がリボーンを見ている。
 否定の言葉が彼の口から紡がれる前に視線を外す。

 指先が震えている。
 綱吉の視界から隠すように、リボーンは両手を下履きのポケットにひっかける。

 無様だと思った。
 笑おうと思ったが、うまく表情が動かなかった。

 触れた唇の感触だけが異様なほど残っている。 

 綱吉が無言で近づいてきた。
 逃げるようにリボーンは後退する。
 伝説の殺し屋がなんと無様な!
 乾いた自嘲がとっさに唇に浮かぶ。

 伸ばされた腕を片手で薙ぎ払う。舌打ちした綱吉は絨毯を蹴って一瞬で間合いを詰めた。腕を掴まれ、そのままもつれるように壁に押しつけられる。

「リボーン、なに、どうしたの? いまの、なに?」

「うるさい」

 腕を振り払おうとしたが、綱吉はそれを許さない。両腕でリボーンを壁際に押さえ付け、逃げ場を失わせた彼は、戸惑ったままの顔でリボーンを見下ろしている。その瞳をリボーンは見返せない。目線は綱吉の胸元に向けるだけで精いっぱいだった。

「ふざけてる訳じゃないでしょ? 冗談ならそんな顔しないはずだもの」

「冗談だ、ふざけたんだ、驚いただろ?」
「リボーン!」

 語調を強め、綱吉は顔をしかめる。

「落ち着けって。いつものおまえらしくないよ!」

 何もかもぶち壊しちまえ。
 頭のどこかでもう一人の自分が絶叫する。
 どうせ壊れるのなら完膚無きまでに壊し尽くして残骸を足蹴にすればいい。

「……ははっ、あははははははははははは」

 こんなにも狼狽している自分がおかしくて、笑い声が口からもれだした。
 壊れたように笑って身体を揺する。

 もう触れてしまった。
 彼の唇の感触を知ってしまった。
 リボーンはどこまでも貪欲な自分をよく知っている。
 一度知ってしまった味を忘れることなど出来はしない。
 気持ちを押し隠して彼の隣で笑っていられるほど、リボーンは弱くもないし、強くもない。
 今までも良く口にせずに耐えてきたものだと思っているくらいだ。
 それに、リボーンの異常を察知した綱吉が、そのことを放置することはありえない。
 はぐらかしても、後々まで追求されて平気な顔で笑い続けるくらいなら――。

 断罪されるなら早いほうがいい。

 いますぐに。
 首をつってもいいくらいだった。

「リボーン?」

 狂ったように笑うリボーンを綱吉は息をひそめて見ていた。
 琥珀色の瞳に無様な少年が映っている。

「リボーン……」

 綱吉は悲しげに息を吐き、両腕でリボーンを抱きしめた。

「どうしたって言うんだよ、おまえがこんなふうになるなんて、いったい、なんで――」


 頬に触れている綱吉の胸板をとおして、彼の声がリボーンの身体に直接響いてくる。

 リボーンは目を閉じて、一瞬だけ彼の体温に身をゆだねる。


 ずっと思い描いていた幸福を味わったあとで、覚悟を決めた。


 リボーンは両手を綱吉の寝間着の裾からさしいれ、素手で彼の腹部に触れる。驚いた綱吉が身を離し、目を瞬かせる。

「ちょ、冷たっ、っていうか、くすぐったいんだけど、何――? 今度はなんの悪ふざけだよ?」
「どうして?って聞いてたな」
「え、あ、うん」

 リボーンに腰を掴まれたまま、綱吉は間抜けな具合に頷く。危機感など感じていないし、リボーンがこれから口にする言葉を予想もしていないのだろう。くくく、と喉のあたりでまた笑い声がでかかる。笑っていないと、本当におかしくなってしまいそうだった。

「オレはおまえに欲情してるんだよ、ツナ」

「浴場? ……あ、欲情? へ、え、……」

 複雑な顔で綱吉は首をかしげる。
 
「おまえが、オレに?」

 リボーンは答えずに、右手をさらに服の中に差し入れ、彼の胸へと伸ばす。ようやく危機を感じた綱吉は服の中からリボーンの手を追い出し、距離をとって叫ぶ。

「いきなり何するんだよ!!」

「知りたかったんだろ」

「……本気?」

「冗談にしてぇなら、しとけ。オレも冗談にしておくから」

 リボーンが自嘲気味に笑うと、綱吉は真剣な面差しで思案するように視線を絨毯に落とす。

「冗談では、ないんだね?」

「――ああ」

「女の愛人が溢れんばかりにいるくせに、オレのこと愛してるなんて……」

 言ってから、綱吉はパッと視線を持ち上げてリボーンを見た。

 彼も気が付いたのだろう。

 ここ数年、リボーンが新しい女の愛人を作ったこともなく、なおかつ数多くいた愛人からの誘い出されて外出することがなくなっていた。
 愛人との時間を持つくらいなら、綱吉の側にいた方がよかった。何もせず、彼の仕事場のソファで眠っているだけでもよかった。
 自分がこんなにもロマンチストだったのかと、リボーンは自分自身に呆れる。

 綱吉は黙って考え込んでいる。

 リボーンは短く息を吸って、射抜くように綱吉を睨んだ。

「ツナ」

 名を呼ばれ、綱吉はリボーンを見た。琥珀色の瞳は瞬きすら忘れたかのようにリボーンを見ている。
 好きな男の顔を見ながら、リボーンは息を吸って終わりを口にする。

「なんでもいい。おまえの言葉をくれ。オレはそれで納得する。気分が悪ぃならボンゴレを出るし、どうだっていいんだったら忘れてくれ、オレも思考を切り替えて自分の役目を果たす。――だがな、オレを傷つけるのが嫌だからといって受け入れたりしたら殺してやる……。よく、考えろ」

 綱吉はリボーンから視線をはずし、斜め下あたりを見てあごをひいた。





 数分間の沈黙のあと、綱吉は再び視線を持ち上げてリボーンを見た。

 迷いや同情のない瞳に見つめられ、リボーンは微かに絶望から救われた気がした。



「おまえ、オレが消えろっていったらいなくなるつもりなの?」

「ああ」

「それで終わりにするの?」

「後腐れ無くていいだろ」

「それだけの想いってこと? オレに言われて諦めるだけの」


 綱吉の引っかかるような言い方に、いささかリボーンも苛立ちを刺激される。


「何が言いてーんだ、おまえは」

「あのさ、ひとつ言うけどさ――、オレ、おまえに口説かれたことないよな?」

「……ハア?」

 一瞬の間のあと、リボーンは間抜けな奇声をあげてしまった。
 呆けるリボーンに構わず、綱吉は両腕を広げるような仕草をして続ける。

「ないよな? いま、オレはおまえがオレのこと好きだって、分かった訳だろ? それってスタート地点にようやくオレも立ったってことだよね? 結果出すの、早くない?」

「……おまえ、なに、ふざけたこと――」

「オレ、女の子が可愛くって大好きだけど、おまえのことだってちゃんと好きだよ? まあ、好きの種類が違うかもしれないけどさ。百戦錬磨のおまえに本気で口説かれたら、オレだって間違い犯すかもよ?」

「ハン! 随分と言うじゃねーか」

「誰かさんに昔から鍛えられてたしね。それにさ、おれ、自分のこと好きだっていう人間、側においておきたいし」

「最悪だ」

「だって、オレ強欲だもん。教育の仕方、間違ったのかもよ? オレは大事なもん、なにひとつ諦めるつもりないし、手放すつもりないもの。だからリボーン、頑張らないとね。オレ、なんてったって可愛くて華奢な女の子が大好きなんだもの」

「おまえは、オレが可愛くて華奢な女に見えんのか?」

「リボーンがそんなふうに見えてたら、オレ、精神科に行かなきゃならないじゃん」

 そう言って彼は笑う。

 リボーンは眩しいものでも見るかのように双眸を細める。
 彼はいつだって鮮やかな閃光のようだ。黒い影のようなリボーンのすべてを色濃く映し出し、まざまざと見せつけてくる。

「オレを側におくつもりか?」

「いて欲しいね。オレ、おまえのこと嫌いじゃないし……。まあ、いきなりセックスさせろって言われても出来ないけどさ、ちゅーくらいならしてもいいよ」

「なんだそりゃ、……阿呆か」

「あのねえ。オレ、今年で二十七だよ? キスだセックスだって、いちいちはじらってたら笑っちゃうよ、どこの乙女だよ! いくらリボーンといえど、オレにそんな気持ち悪い幻想抱いてるわけじゃないよね?」

「……テンション高ぇ……」

「ははは。だって機嫌も良くなるって。なんたって、あの、あのリボーンが! オレのことが好きだって、オレに欲情してるって! ああ、嘘みたい! オレのどこがいいの?」

「知るか」

「でも、好きなんだ」

 忍び笑いをもらしたあと、綱吉はリボーンに近づいてくる。彼の大きな手のひらがリボーンの顔に伸ばされる。節くれ立った男の指――体格差が目眩がしそうなくらいに苛立たしい――がリボーンのあごに触れる。


「オレのことが好きなら口説いてご覧よ。オレの可愛いバンビちゃん」


 あごに触れた手を乱雑に右手で払って、リボーンは思い切り手を伸ばして綱吉の胸ぐらを掴む。彼は怯える様子もなく、にやにやと笑っている。

「人のことおちょくってんのか?」

「いたって真剣だよ。一度、おまえがどうやって女性を口説くのか聞いてみたかったんだけど、自分が口説かれる側になるなんて、ね……。ちょっと楽しみな感じ」

「人のこと馬鹿にしてんのか?」

「馬鹿にはしてないよ。たださ、おまえが本気でオレのこと欲しいのなら、オレも真剣に考えないとって思っただけだ。……確かに面白がってないとは、言い難い、けれども」

「くそったれ……ッ」

 低く吠えると綱吉は片目を細めて魅力的に微笑む。


「お手並み拝見させていただきますよ、――センセ」


 強引に彼の襟元を引き寄せ、噛みつくように綱吉の唇を塞ぐ。間近で綱吉の目が笑みの形に歪んだあとで閉じられる。

 唾液が混じらんばかりにキスを交わしたあと、唇を触れ合わせたまま、すぐ間近の琥珀色の瞳を射抜いてリボーンは囁く。


「覚悟しろよ、ダーリン」


 おどけるように片目をとじて、綱吉は言う。


「せいぜい頑張ってね、ハニィ」





『End』