04:焦燥に似た 何かをしなくてはいけないのに何も出来ない想い





 倉庫街の路地裏に設置された暗く狭いダストボックスの中へランボを押し込み、綱吉は微笑んだ。


「ここにいるんだよ」
「い、や、です」
「じっとしてるんだ」
「いやです」

 ランボは激しく首を振った。足下に折り重なっている段ボールがこすれあって乾いた音をたてた。段ボール専用のダストボックスらしく、生ゴミ特有のこもったような嫌な臭いはしていない。

「いや、です!」

 頭を左右に振ると、殴られて怪我をした側頭部から血液が流れ、シャツを湿らせ汚していった。涙で視線がぼやける。体中が痛んでいるようで、どこが痛いのかも分からない。興奮しているせいか呼吸がやけに早い。眩暈のせいで頭がくらくらとしている。ランボは泣きじゃくりながら、泥と血で汚れた両手の指先を綱吉にのばしたが、彼はランボの手を片手で押し返した。

「その怪我じゃおまえは戦えない。ここにいるんだよ。じっとしてて。もう怖くないからね、泣かなくても大丈夫だよ、ランボ」

 綱吉は笑い、震えるランボの額にキスを落とす。

「声をたてずに動かないでいるんだよ? わかったね? ランボ」
「つ、な……!」

 無情にも扉は閉じられ、ダストボックスの中は真っ暗になる。綱吉に向かってのばしたはずの指先は冷たい鉄の扉に当たった。


「つな、つな、つな、つな、つな……!」


 両手を組んで額に押しつけて伏せるようにして、ランボは震えていた。
 己の浅はかさを呪いながら目を閉じる。

 今から数日前。ランボは単独で敵対ファミリィの男達とやりあって勝利した。それは偶然や運にも助けられた結果だったが、ランボが初めて一人でやり遂げた戦いだった。

 勝利を手にしたランボは自分の能力を過信して油断していた。ランボの強さはまだ不確定なもので、リボーンや綱吉のように確固たる意志のもとで戦っている訳ではない。報復ということを考えなかったのも、ランボの考えが浅い証拠だった。夕暮れの町中を一人で歩いているところを拉致され、廃墟に連れて行かれた。廃墟にはランボが倒したはずの敵対ファミリィの男達がいた。目を覚ましたランボの手には角がなかった。角がなくてはランボはほとんど一般人と変わりない身体能力しかない。彼等は容赦なくランボの身体を殴ったり蹴ったりした。謝罪の言葉を言う気力も、抵抗する気力も費えたころ、颯爽と綱吉が現れた。彼は目くらましのように炎を辺りにまき散らし、男達がひるんだ隙にランボを抱えて脱出し――。


 暗がりのなか、ランボは歯を噛みしめる。
 隠れていていいはずがない。
 ランボはボンゴレの守護者だ。
 綱吉をランボが守らねばならない。
 ランボを綱吉が守るのはおかしい。
 怖い。
 でも、怖い。
 角は廃墟に置いてきてしまった。
 いまのランボに出来ることはない。
 痛いのは嫌だし、怖いのはもっと嫌だ。
 ランボは暗がりで伏せたまま低く唸る。
 頭の傷からの出血で髪も手も赤黒い。
 呼吸はまだ整わず、絶えず震えているようだ。
 冷たい鉄の扉に指先で触れる。
 触れるだけ。
 動かすことはしない、出来ない。
 怖かった。
 痛いのは嫌だった。




 突然、複数の足音が乱雑に近づいてくる。ランボはダストボックスの中で伏せたまま、両手を口元にあてて息を殺す。「探せ!」という男の声にランボの心臓は縮み上がる。


「さあ、名を上げたい者はオレの炎を消してみせろ!」


 綱吉の威勢のよい叫び声がした。男達は引き寄せられるかのように罵声をあげながら、ダストボックスの周辺から走り出す。綱吉が標的になり、敵を引きつけているのだと、いくら馬鹿なランボにも理解できた。銃声と怒声、罵声に破壊音。恐ろしいほどの喧噪が鉄の板ごしにランボにも聞こえてくる。


 彼が強いことはよく知っている。
 でも彼はボスでランボは守護者だ。
 守られるべきは彼だ。
 守るべきはランボだ。
 ランボは両手の拳を握って涙が出てくる目をつよく閉じる。
 呼吸を止めて。
 一瞬の思考。



『――泣かなくても大丈夫だよ、ランボ』



 綱吉の顔を思い出す。



 ランボは息を止めて歯を食いしばり、両手で重い鉄の扉を押し上げた。大きな音を立ててと扉は外側へ開いた。誰かが周囲にいるかと思ったが誰もいない。ダストボックスをよじ登って地面に飛び降りる。出血のせいか足下がおぼつかずに転んでしまう。口に入った砂を吐き捨てて立ち上がる。大きく息を吸い込むと、何かが焼け焦げた匂い――と拳銃の硝煙の匂いが胸に入り込んでくる。先ほどまで続いてた騒音が嘘のようにやんでいる。


 ランボはもつれる足を動かして、倉庫と倉庫の間の狭い通路を匂いの強い方へよろめきながらも走っていく。血を流しすぎたせいなのか、気持ち悪さに視界の色から精彩さが失われていくように見えた。ぐらぐらと世界が揺れているようで思うように進んでいけず、何度も壁にぶつかり、地面に転びながらも、立ち上がって進んでいく。


 しばらく進んでいくと、通路に男が一人倒れていた。


 その数メートル先に、ひらけた場所が見えた。トラックなどが入ってこられるように幅がとられた場所だ。倒れ伏した男達の中央に色素のうすい髪をした彼が立っていた。怪我らしい怪我はしていないようだった。美しい炎がゆらゆらと麗しく彼の額に灯っている。



「あぁ……、つな……」




 安心したせいで、ランボは膝から地面にくずれた。


「――ランボ!」


 ランボに気がついた綱吉は、男達の合間をぬうように素早く走り抜け近づいてくる。地面に両手をついているランボの脇に膝をついて、彼は顔をのぞき込んでくる。額の炎はすでに消えていて、彼は案じるように眉を寄せている。ランボは綱吉の顔に手を伸ばしかけたが、泥と血に汚れた指先が視界に入り、力無く手を下ろす。綱吉の手がランボの背中に優しく触れる。



「隠れてろって言ったのに」
「だって、つなが――」
「オレが強いの、ランボだって知ってるじゃない。よかったよ、おまえが無事で。拉致されたって聞いたときには相当焦ったんだからな。みんなと手分けして探してたんだ」
「み、んな」
「そう。みんなでね。――さあ、家へ帰ろう。ランボ」
「ツナ!」


 抱き上げられそうになり、ランボは身を引いた。不思議そうに彼は瞬きをする。


「どうかした?」
「――おれ、……おれ……!」


 言葉は出てこない変わりに、無様なくらいに目から涙があふれてくる。嗚咽で息がつまりそうになるのをこらえながら、ランボは泥だらけの手で目をぬぐおうとした――、が、その手は綱吉によって遮られる。


「そんな手でぬぐったら目が痛むよ」


 優しく言った彼は、泣きじゃくるランボを両腕で抱きしめた。淡く香る彼の香水の匂いがランボの涙腺を刺激する。泥と血に汚れた指や身体だということも忘れ、ランボは綱吉の背中に腕を回してしがみつき、肩に顔をおしつけて声を上げて泣いた。自分への不甲斐なさも情けなさも苛立ちも怒りも、なにもかもすべてをめちゃくちゃに混ぜ込んで泣いた。


「ツナ、ツナ、ツナ……!」
「――ランボ、ランボ……。怖くない、もう怖くないから。オレがいるから、な。泣くんじゃないよ、ランボ」


 あやすように名を繰り返す綱吉の声に刺激されるように、ランボは子供のように泣いた。
×××××
 館の二階の廊下で了平と立ち話をしていた綱吉は、聞き覚えのあるバイクのエンジン音がしたような気がして、話の途中だったというのに、黙り込んで耳を澄ました。


「……沢田?」


 了平が不思議そうに顔をしかめる。綱吉は窓越しに広い庭園を眺めてみたが、車庫がある場所はもっと離れた場所にあるのと、車の往来に使用している私道も遠いため、バイクを目にすることは出来なかった。

「どうかしたのか、沢田?」

「あ、ごめんなさい。話の途中で……。いま、ランボのミニバイクのエンジン音がしたような気がして――」

「ああ、ランボならば三十分ほど前にコックに言われて、なくなってしまっいた食材の買い出しに行っていたはずだぞ。ちょうど俺が遅い昼食を食べていたときだから覚えている」

「え! あいつ、まだ入院中だったんじゃ!?」

「む、そうなのか? さっき、会ったときは包帯はしていたが、元気そうにしていたから、てっきり退院したものかと――」

「あーあ……、これで三度目か……。脱走が発覚しないなんて、今度はいったいどんな手で抜けだしてきたんだか……」

「ははは、ランボは頭がいいな」

「そんなところで頭の良さを発揮されても困ります」

「仕方がない。あの年代は無茶をする年頃だろう?」

「なんだか実感があるみたいな台詞ですね」

「あのころは毎日が極限だった気がするぞ」

「ええ。ほんとに。あのころは毎日が大騒ぎでしたね……」

 拳を握って笑う了平につられて綱吉も笑った。おそらく、綱吉同様、了平も学生時代を思い返しているのだろう。平凡とはほど遠い日常を生きてきた末に、非凡な現実を生きることになった実感が目眩のように浮かんで消える。

「よし!」

 ふいに了平が拳と手のひらを胸の前で打ち付けたので、綱吉は驚いて一瞬だけ息をのむ。

「ランボを執務室に連れてきてやるから、おまえは部屋で待っていろ」

「え、いいですよ。オレが行きますから」

「いいや。ボスはボスらしくどんと構えていろ。そもそもランボはボスであるおまえが療養しろというのに命令違反をしているのだし、叱ってやらねばならんだろう。叱ることも優しさのうちだ」

 右の拳を身体の前に掲げ、了平は明るく笑った。

 彼にならば、ランボも怯えたり逃げたりせずに、執務室に足を向けてくれるかもしれない。どうしてか、ランボが拉致されたあの事件以来、綱吉は彼に避けられているような気がしていた。綱吉と目を合わせないし、なによりも一緒にいることを嫌がるかのように、すぐに去ってしまう。原因は綱吉には分からなかった。三度目の脱走のこともある。そろそろランボに理由を聞かなくてはならない時期がきたのかもしれない。ボスとして部下の不平不満を聞く心構えはもう準備してある。ランボにとって良い選択を綱吉は選びたかった。

「――じゃあ、お願いします。了平さん」

 手を振って螺旋階段のある方向へ廊下を歩いていく了平の背中を見送ったあと、綱吉は彼が歩いていった方向に背を向けて、執務室へと向かった。


×××××

 コックに頼まれて買ってきたバターと強力粉をキッチンに届けると、お礼に小瓶に入った飴をもらうことができた。ランボの飴好きは屋敷に仕えている人間達の間でも有名らしい。色とりどりの飴を硝子瓶ごしに眺めたあとで、ジャケットのポケットに小瓶をしまう。

 ランボはぎこちなく両足を前に出して歩きながら、館の一角にもうけられている蔵書室に向かった。ランボの私室もあるのだが、病院から抜け出していることがばれてしまう可能性がある。普段なら絶対に足が向かない蔵書室に向かう理由は一つだ。少しでも綱吉の役に立つために、様々な情報を頭のなかにいれておく必要がある。身体はまだ完治にはほど遠く、無様に負傷したランボが彼の警護に就かせてもらう事はしばらくないだろう。そうなってしまっては、知識を蓄えることしかやれることがない。


 螺旋階段のてすりに掴まりながら二階へ向かっていると、

「おい、アホ牛」

 気配がなかった背後から突然に声をかけられる。驚いて息をつめると、音もなくリボーンがランボの隣に立った。


「てめえ、誰の許可で病院から出てきてんだ? え?」


「う、うぅ……」

「言ったよな。今度、脱走したら足を撃ち抜くってな。お望み通りにしてやろうか」

「や、やめて!」


 早業で銃を引き抜いたリボーンの態度に、ランボは恐れおののいて階段上へ逃げようとした。が、足がもつれてしまい、階段に両手をついてしまった。急な衝撃に体中の打撲跡が痛んで悲鳴が喉の奥にからまる。


「何度言ったら分かるんだ? おまえはあと二週間は入院してなきゃなんねー身体なんだ。そんな状態でうろつかれちゃ、またおまえのために余計な仕事しなきゃなんなくなるだろ? あ? 前回のことで思い知ったんじゃねーのか、アホ牛さんよ?」

「だ、だって」

「そんな状態で何ができんだ? そんなにオレに殺されてーのか?」


 呟いたリボーンの足が無慈悲にランボの脇を押した。蹴られた訳でもないのに、涙が出るほどに痛い。悲鳴だけはこらえ、ランボは這うようにしてリボーンから離れ、階段のうえにへたり込んだ。リボーンは銃を片手に握ったまま、闇色の瞳をランボに向けている。幼い頃から変わりのない冷徹な瞳だ。そして絶大なる強さを秘めた瞳でもある。

「り、リボーン」
「あん?」
「おれは、どうしたら強くなれる?」
「――ハア?」

 奇妙な声をあげ、リボーンはわずかに片眉をはねさせた。

「頭まで打ってんのか? おまえがオレに教えを乞うだなんてとうとう狂ったのか?」
「……だって……」

 ランボの反論は口の中で溶けて消えてしまう。

 苦手だし嫌いだし気に入らないが、リボーンは強い。綱吉の隣に立ち、彼を完璧に敵から守り、持ち前の素晴らしい頭脳で彼の仕事の手助けも出来る。認めたくはないが、リボーンはランボが欲しいものをすべて持っている。ランボよりも小柄で年齢も下の彼が心底うらやましかった。


「てめえがそういう態度でいるから何もかも自分で腐らせてんのに気がつかねーんだよ」


 吐き捨てるように言って、リボーンが踏み出してきた。ランボは彼の手に銃が握られたままなのに気がついて、とっさに両手を突き出す。


「やめて!」
「――こら、なにしてる!」


 よく通る声がして、リボーンの視線がランボを通り越して上を見た。リボーンは息をつくように肩を落として皮肉っぽく口元だけで笑った。

「まだ何もしてねーさ」

 階段に座り込んでいるランボのすぐ隣に立ち、了平は真剣な顔で言う。

「仲間に対して銃は必要ないぞ」

「言ったって分からねー悪ガキにはお仕置きが必要だろ?」

 幼いころから幾度となく見てきた悪魔的な笑みをうかべ、リボーンは了平をにらみ返す。了平はリボーンの視線を受けても臆する様子なく、真っ直ぐに彼に視線を向ける。

「沢田に言われてランボを迎えに来たんだ、執務室に連れて行く」

「そりゃ賢明だぜ。馬鹿な部下を叱んのもボスの役目だよな。たっぷり叱られてくんだな、アホ牛」

 艶やかに嘲笑したリボーンは銃を懐にしまい直し、さっさとランボたちに背を向けた。

 ランボは震えるように息を吐き出して背中を丸める。激しく緊張していたせいか、指先は驚くほど冷えていた。両手を合わせてかじかむ指をこすりあわせて深呼吸をする。

「大丈夫か?」

 いつまにかしゃがみ込んでいた了平が心配そうにランボの顔を覗き込んでいる。ランボは首を左右に振った。

「平気です。……つ、……ボンゴレがおれのこと呼んでる、って」

「そうだ。おまえ、まだ退院してないそうじゃないか」

「あー……ばれましたか。やっぱり、了平さんと会ったからまずかったとは思ってたんですけど……誤魔化せませんでしたね」

「あやうくおまえの言葉を信じてしまうところだった」

 了平は怒る様子もなく、明るく笑う。

「無理はいかんぞ。怪我が治る前に動いては、きれいに治らない場合がある。後々、困るのはおまえなんだぞ」

「……心配かけてすみません」

「心配ならいくらでもしてやる。だが、心配をさせたことは忘れるな」

 力強い手がランボの頭を撫でくり回す。首や背中が痛んだが、ランボは了平の笑顔に何も言うことが出来ずに笑い返すしかなかった。

「沢田が待っているぞ」

「――行かないと駄目ですよね」

「逃げ回っていても仕方がないだろう。当たって砕けろ!」

 にっこりと笑った了平はランボに向かって右手を差し出した。

「く、砕けたくはないです……」

 小さな声で訴えたあと、ランボは立ち上がるために了平の大きな手に掴まった。


×××××

 綱吉は片手間に眺めていたブランド品のカタログを閉じて机の端に置いた。

「どうぞ」

 声をかけたが、扉に反応はない。綱吉は苦笑して椅子から立ち上がって、少し離れた場所にあるソファに座り直す。

「ランボだろ? 入っておいで」

 数秒の間をあけて扉が開いた。頭に包帯を巻き、頬や手の甲に湿布を貼ったランボが顔をのぞかせる。彼は綱吉と目が合うと、すぐに頭を下げて視線をそらす。

「――失礼します」
「さっそくだけど――、ここにかけて」

 綱吉は座っている隣の部分を手で指し示した。ランボはびくっと肩を振るわせた後、躊躇いがちに近寄ってきて、綱吉が示した場所からもう一人分ほど感覚を開けて座った。少しだけ悲しい気持ちを感じながら、綱吉はうつむているランボの横顔を眺める。十五歳とは思えない成長した体躯でも、中身はまだまだ子供だ。大人になってしまった綱吉から見ると何を考え、何を抱えているのかさっぱり分からない。

「オレがどうして怒ってるか、分かる?」
「――はい」

 消え入りそうな声でランボが答える。

「すみません」

「謝って欲しい訳じゃないんだ。そんなに入院しているのが嫌なら、屋敷で静養していてもいいけれど、不用意に邸宅の外に行くのだけはしばらく控えて欲しい。おまえが負傷している情報はすでに辺りに出回ってるんだ。ボンゴレの守護者の命を奪って名をあげようとしている輩も少なくないのは、ランボも分かってるだろう?」

「はい」

 ランボは膝のうえにおいた両手を強く握りしめる。うつむいている瞳から涙が溢れ、いまにもこぼれ落ちていきそうになっている。

 泣き虫なところは十五になった今でも変わらない。そんな面を見てしまうと、綱吉はどうしてもランボを他の守護者達に対するように、厳しい態度に出ることが出来ない。共に育ってきたせいか、無意識に甘やかしてしまいがちになる。

「つ、……ボンゴレ――」
「いいよ。二人のときはツナで」

 優しく笑いかけると、彼は泣き笑いのような顔で綱吉を見た。

「ツナ。すみませんでした」

「この前のことなら、もういいって言っただろ。気にしすぎだぞ、ランボ」

「怒ってませんか?」

「オレがいま怒ってるのはね、無理して病院を脱走してきたことだからね。勘違いするなよ」

「おれを嫌いになったり、しませんか?」

「え?」

「守護者なのにあなたのこと守れないし、全然強くないし、馬鹿だし……。いいとこなんて何にもないし」

「いきなり、どうしたの?」


 ランボは首を左右に振る。ふわふわと柔らかそうな黒髪が揺れる。


「いきなりじゃ、ないです。ずっと分かってたことです。他の守護者のみんなは実力があるのに、おれはまだ未熟で、なのに守護者を名乗ってて、この前だって、ツナに助けてもらってるし、おれ、情けなくて、悔しくて……っ」

 言葉はそこまでだった。ランボの両目から涙が溢れて頬に張られた湿布に染みこんでいく。唇を引き結んで嗚咽をこらえながら、ランボは右腕で目元を覆う。



「悔しい、どうして、オレは、こんな、なんだろっ……!」



 苦しげに呟いて、ランボは背中を丸める。その姿に昔の自分を見た気がして、綱吉は胸中を横切っていった苦い切なさに苦笑する。

 わずかに腰を浮かせて、綱吉はランボのすぐ隣に腰を下ろし直す。驚いて身をすくませたランボの肩に腕を回して、彼の黒髪に頬を寄せる。

「つ、な?」

「おまえがそんなだから、オレは結局、おまえを放ってなんておけないんだよなあ」

「どういう意味ですか?」

「自分に似てる奴って放っておけないじゃない?」

「似てる?」

 驚いたせいなのか、ランボの涙は止まっていた。スーツの袖でランボの涙を拭ってやりながら綱吉は続ける。

「ランボは駄目な奴じゃないよ」

 ランボは頭を左右に振る。

「そんなこと――」

「駄目な奴じゃないよ。怪我をしてるってのにわざわざ病院を脱走してまで、蔵書室で勉強してるんでしょう?」

「え、それ――」

「本好きな執事さんがいてね、蔵書室の管理をしてもらってるんだけど、彼が嬉しそうに報告してくれたんだよ。おまえが熱心にボンゴレの歴史とかの資料や本を読んでいるって……。駄目な奴はね、そんなことはしない。頑張ってくれてるじゃないか。偉いよ、ランボ」

「……おれ、偉いですか?」

「偉いよ。泣き虫な奴だとは思ってるけどね」

「……ツナァ……」

 情けない声をあげるランボの頭を綱吉は優しく撫でた。

「よしよし。泣かない、泣かない。ランボはいい子だよ、オレはちゃんと分かってるから、そんなに気負う必要はないんだからな」

 頭を撫でていた綱吉の手をランボが片手で掴んだ。どうかしたのかと思い、綱吉がランボの方へ顔を寄せた刹那、どきりとするほど間近にランボの顔があって綱吉は息をのむ。涙で濡れたまつげがはっきりと分かる距離で、ランボは綱吉を見つめている。改めてじっくりとランボの顔を眺めていると、どこかの映画の男優に似ているような気がした。ようは美形と言っても過言にならない顔立ちだ。


「ツナ」


 ランボの真剣な表情と声音に綱吉は心音が跳ね上がった気がした。


「おれのこと、どう思ってます?」

「え、……うーん」

 わざとらしく唸りながら、綱吉はそっとランボと間合いを置こうとしたが、彼の肩に回した手を掴まれているせいか、思ったよりも離れることができなかった。むしろ、綱吉が身体を引こうとしたため、ランボはさらに間合いを詰めるように身を寄せてきた。

「子供の頃からランボとはずっと一緒にいたし、おまえってオレに似てるとこもたくさんあるし……。それにオレ、一人っ子だったから、『弟』がいたらランボみたいなのかなあってずっと思ってたよ」

「――おれはそれが嫌だなって思うようになりました」

「それ、って?」

「おれはあなたの弟になりたいわけじゃないんです」

「じゃあ、何になりたいっていうんだ?」


 綱吉が不可解そうに首をかしげると、ランボはもう一方の手を綱吉の耳の辺りにのばしてた。彼の指先が綱吉の髪にからめられる。なんとなく二人の間に流れ出した雰囲気に違和感があるような気がして、綱吉はぎこちなく笑う。ランボはじっと綱吉を見ている。綺麗な色の瞳に引きこまれるように綱吉は何も言えない。言葉はなく、心臓の音が胸ではなく、鼓膜のすぐ横で響いているかのように大きい気がした。ランボの身体が綱吉の方へ傾く。顔と顔が近づいていく。身構えた綱吉はあごを引いて片手でランボの胸を押そうとし――。


「逃げないで」


 今にも泣きそうな顔でランボは囁く。


「お願いです、逃げないで」


 ずるい。
 綱吉は内心で舌打ちする。


 彼のそんな顔を見てしまえば、胸に触れた手に力を入れることは出来なかった。さらにランボの顔が綱吉に近寄る。覚悟を決めて綱吉は目を閉じた。やわらかい感触が唇に触れ、すぐに離れていた。ふざけあってるかのように触れるだけのキスが一度だけ――猫になめられたのと似た戯れのようなキスだ。拍子抜けしてしまった気持ちが落胆と似ていて――もっと濃厚なキスをされると思っていた自分を恥じて――綱吉は焦ったように目を開いた。


 目の前にランボの顔がある。彼は泣いていた。


「なんで泣いてるの?」

「……どうしてでしょう……」

「分かんないの?」

 少しだけうつむいてランボは考えているようだった。石膏像のような整った横顔を綱吉は黙って眺め、彼の答えを待った。

「――あなたにキスができて、おれは幸せです」

 砂糖菓子で出来たような台詞と照れたようにはにかんだ微笑に、綱吉は思わず吹き出してしまった。途端、ランボが悲しそうに目を伏せる。綱吉は慌てて口元を手で押さえた。

「……ご、ごめん」

 ランボは唇を引き結んでうつむいてしまった。彼の目の縁にまた涙がもりあがってくる。

「泣くなよ。笑ってごめん」

「おれはあなたを愛したいんです。守られるよりも守りたいんです。今回のことで思い知ったんです。あなたを守れる男になるためならどんな辛いことも恐れません」

「そう」

「……そう、って――。酷いです、おれの一大決心を」

 ランボは綱吉を睨んで唇を噛む。

 綱吉は微苦笑をうかべて肩をすくめる。

「ひどいのはおまえだろう。無理矢理キスしておいて」

「それは――」

 口ごもってランボは眉を寄せる。

「すみませんでした。どうしてもキスをして、あなたにおれの決意を知って欲しくて」

「ランボ、怒らないで聞いてくれよ? おまえのオレに対する愛はね、家族愛だと思うよ」

「――違いますっ」

「違わないよ。あのキスだって、恋人にするっていうより、家族にするみたいな優しいキスだったじゃないか」

 彼の肩に回している右腕をもちあげ、ふわふわとしたくせっ毛に差し入れる。幼いころから触れて慣れ親しんできたランボの髪を撫でながら、綱吉は言う。

「もしも家族愛でないって言うんなら、この前、恐ろしい目にあったときに、オレと一緒にいたせいで、オレに対してどきどきしているだけだよ。ほら、吊り橋のうえで男女が出会うと恋に落ちる確率が高いってやつがあるだろ? 錯覚で愛してるだけだ」

「錯覚でもいいんです」

「……何言ってるだよ、ランボ」

「あなたのことだけを考えて、あなたのことだけを想っていられるのなら、錯覚でもすり込みでも何でも構いません」

「こら。持っているものを投げ捨てすぎだぞ、ランボ」


 ランボの両手が綱吉のスーツの胸元を握りしめた。しわが残るな、とすぐに考えついたが、綱吉はランボのしたいようにさせた。


「おれ、強くなりますから。――だから、おれのことを一人の人間として見てください。あなたの『弟』ではなく、一人の人間として」

「あのなぁ、ランボ。――たとえオレがおまえへの見方を変えたとしても、オレはおまえを選ばないかもしれない。オレは女の子のが大好きだから、男のおまえを初めからそういう対象では見てない。限りなく低いよ、おまえの勝率ってのは」

「いいんです。そのときはおれの魅力がなかっただけですから」

「――分かったよ。子供扱いはもうしない。約束する」

「本当ですか!」

「そのかわり、泣き癖を直せよ? オレはさ、おまえの泣き顔にそうとう弱いんだから。甘やかされたくないなら泣かないこと、分かった?」

「分かりました」

 自信たっぷりに笑って、ランボは首を少し右へ傾ける。

「必ず、あなたが見惚れるような男になって見せます」

「だから、オレは女の子のが好きだって言ってるのに」


 呆れるように綱吉が呟くと、ランボが微笑したまま身体を密着させてくる。慌てて肩に回している腕をといて綱吉は身を引こうとしたが、逆にランボが綱吉の肩と腕を掴んでソファに押さえ付けてくる。突き飛ばすことは容易だったが、拒否をして号泣される場面を想像するとどうしても出来ない。その時点で、綱吉はランボに負けているようなものだった。


「甘えないんだろ? 腕、といて」


 少々の危機感に声が引きつってしまう。


「ねえ、マイ・ボス」


 ランボは均整のとれた美しい顔に麗しい微笑を浮かべて、わざとらしいほど甘く囁く。


「家族同士じゃない、恋人同士のキスってやつを教えてくれませんか?」


「――馬鹿やろ」

「おれ、まだ子供なんでわからないんですもん」

「可愛くすねてみせたって駄目だ!」


 ランボの顔を抑えて押し返そうとした綱吉の左手を彼は掴み、自らの口元に引き寄せる。綱吉は手を引こうとしたがランボは強く手を掴んでそれを許さない。形のよい唇が指先の前で開かれる。

 くわえられる。
 と思って綱吉は身構える。

 ランボはクスっと笑って、ふ、と綱吉の手の甲に息を吹きかける。びくりと反射的に肩が震えた。文句を言おうと口を開く前に、ランボの唇が左の薬指に触れる。音を立てたキスのあと生暖かい舌が綱吉の指を手の甲から指先に向かってゆっくりと嘗め上げてくる。うすく開かれた唇のなかに綱吉の薬指が埋没していく。やわらかく生暖かい舌が味わうように綱吉の指を嘗め上げる。ぞわりと背筋に欲望の滴が落ち、身体の中心がうずくように震える。

 くわえていた指を焦らすように離し、ランボは自らの唾液で濡れた綱吉の左手を手にとって低く囁いた。


「ねえ、ツナ。お願いです。教えてください」

「どこでこんなこと覚えたんだ、おまえはっ! ひ、ひわいすぎる!」

 先ほどまでべそをかいていた少年とは思えないほど、いやらしい顔をしてランボは唇を嘗めた。

「教えてくれないんですか?」

「お、教えるわけないだろ!」

「残念です。あなたの手ほどきでキスが上達すれば、このうえなく幸福だったのに」

「――うああぁあ、なにそのあっまい台詞! ランボ、やっぱり頭の怪我でおかしくなったんじゃないのか!?」

「もうあなたへの欲求を隠すのはやめにします。もう告白はすんだんですし、これからはどんどんアピールしていきますよ。それに、いま思ったんですが……。こんなに密着して、おれに指をくわえられたって、おれのこと突き飛ばさないなんて、さてはあなた、おれのことを好きなんじゃないんですか?」

「……ぅ、その台詞、骸みたいだぞっ」

「話、そらしましたね。――可愛らしい人」

 再びランボに手をさらわれ、手の甲にキスを落とされる。一連の動作に無駄な動きがない。イタリア男の本領発揮を前に、綱吉は頭にのぼった血が急激に冷えていくのを感じた。彼は何も綱吉を恥ずかしがらせるためにしているわけではなく、真実、綱吉を口説いているだけなのだ。甘ったるい台詞も気障な動作も嫌らしい仕草もすべて綱吉に愛を知らせるための行為なのだ。

 綱吉は細長く息を吐き出して、ソファに背中を預ける。

 顔が良くて、性格は少しうざいかもしれないが、思いやりがあるし、可愛げもある。きっと綱吉の嫌がることはしないだろうし、よく笑ってよく泣くけれど、それはとても人間らしいことだ。一緒に過ごす日々は心地のよいものかもしれない。年がすこし離れているかもしれないけれど、人種の違いかあと数年もたてば年の差など分からなくなってしまいそうな雰囲気が彼にはある。


 彼は男だ。
 これで女の子だったらいいのに。
 と思うだけ思って、口には絶対に出さない。

 口にすれば、せっかく笑っているランボがまた泣きだしてしまうだろう。

 彼が泣くのは苦手だ。できれば笑っていて欲しい。とはいえ、簡単に落とされるわけにはいかない。綱吉にも守るべきちゃちなプライドがある。


「つな」


 幸せそうに綱吉の名を呼んで微笑み、ランボは綱吉の首に腕を回して愛しそうに抱擁してくる。まだ成長途中の華奢な身体を身体で受け止めながら、綱吉はぼんやりと思う。

 この腕を振り払えない時点で、もう彼に降伏しているんじゃないだろうか。

 思いついた事を胸の奥へしまい込むように、綱吉はランボの体温を感じながら目を閉じた。

【End】