02:孤独に似た 泣き崩れ闇雲に手を伸ばしたくなる想い 人殺しをした夜は寝付けない。 酷使した身体が疲労を訴えているものの、興奮しているせいか眠気はやってこない。いくらアルコールを飲んだとしても、不思議と酔いは回らない。 山本はドン・ボンゴレの私邸の庭を明かりも持たずに目的もなくうろついていた。唇の端にひっかかっている茶色のフィルターの煙草には火はついていない。うすく千切れた雲の合間に満月がぼんやりと光っているおかげで、視界には困らない。 腕のいい庭師によって整えられた庭園の合間を一人で歩く。すでに十五分以上、歩き続けているが、広大すぎる庭園すべてを巡ることはできていない。まだ三分の一にも満たないだろう。いま山本が歩いているのは主に薔薇が植えられている領域で、夜ということもあり開花していなくても、薔薇の濃厚な香りがうっすらと鼻先に香っている。薔薇庭園の他にも、木々を様々なモチーフに刈った庭園や、ボスが日本人ということもあり、無理矢理に作り上げた日本庭園もどきの場所もあったりする。屋敷の裏手にはビニールハウスがあるようなことをクロームが言っていたことをふいに思い出す。彼女は暇さえあれば庭園で庭師と共に花や植物を愛でているので、庭園のことならばクロームに聞いたら詳しく説明をしてくれるかも知れない。ゆっくりと庭園を歩いたことがないため、山本は広大なボンゴレの庭園のすべてを知らなかった。 どうせ朝まで眠ることができないのだから、庭園を一周してみようか。 そんなふうに考えながら、ゆっくりと歩を進めてはいても、いっこうに興奮は冷めることはない。右手は腰に帯剣している刀の柄に触れている。ボンゴレの庭園内に敵が現れることなど厳重な警備を考えればありえないことだったが、山本の心はどこかでまだ敵を探しているようだった。 倒すべき敵。 敵と斬り合っている間は何も考える必要はない。 現実もしがらみも関係も斬り合う理由もなにもかも忘れて刀を振るう。 自らが選び取った未来を後悔したことはない。だが、やはり人を殺した後の不快感や罪悪感から目を背けることはできなかった。命をいくつ奪ったのか。山本は心に刻んで忘れないようにしていた。 背後に微弱な気配を感じ、山本は刀の柄を持つ手に力を込める。敵とは考えにくいが、後ろから音をたてないように近づいてくる人間がいることは確かだ。呼吸を抑え、タイミングを見計らう。 刹那、くわえていた煙草を吐き捨て。 山本は鞘に入ったままの刀を素早く抜いて振り返った。 「――っ」 鞘の先で引きつった悲鳴をあげたのは綱吉だった。黒地に細い銀のストライプが入ったスーツの上下にスタイリッシュな藍色のネクタイをしている。肩の辺りまで持ち上げていた両手で山本の背中を叩いて驚かそうとしていたようだが、逆にいまは山本に対して降伏しているように見える。山本は脱力して鞘の先を下ろした。 「なんだよー、ツナかよー。後ろから近づいてくっから、誰かと思ったろ?」 「あ、はは……。ごめん」 苦笑いを浮かべて綱吉は両手を下げる。 「――振り返った仕草、リボーンみたいだったよ。ちょっと、うん、驚いた」 「ダメだって、ツナ。俺、これでも殺し屋なんだからさ。殺し屋の背後になんか、立っちゃいけねぇだろ?」 山本の言葉に綱吉の表情が強ばった。山本には彼が『殺し屋』という単語に反応したのが予 想できたが、あえて何も言わずに微笑んだままでいた。 「どうかしたん? おまえがこんな時間にふらふらしてるなんて」 「山本が庭園の方に歩いていくの執務室の窓から見えたから、リボーンにちょっと息抜きだって行って抜け出してきたんだ」 「こんな夜中まで仕事の途中だったのか? ってか、小僧、許したの?」 「あー……実はさ、トイレに行って来るって言ってきたんだけど」 「あのさあ、ツナ」 「え、うん?」 「おまえ、窓から俺が見えたんだよな?」 「うん」 「じゃあ、おまえが庭に出たのも、リボーンから丸見えなんじゃないのか?」 みるみるうちに綱吉の顔から表情が消えていく。執務室で静かに怒っているであろう家庭教師を想像したのか、彼はその場に座り込んで長々と溜息をついた。やわらかい髪がふわりと風に揺れる。山本は手にしていた刀を腰のホルダーに掛け直し、自由になった手で綱吉の頭を撫でた。 「まー、ばれちまったのはしょうがねぇさ。一緒に怒られてやんよ」 「や。いいって。オレが勝手に脱走してきた訳だしさ。――っていうか、山本こそ、なんでこんな時間に庭になんていたの? オレ、もうとっくに休んでると思ってたよ」 「……散歩」 「散歩?」 「いい月夜だったからなァ」 「ふぅん?」 相づちをうって、綱吉は空を見上げた。山本も同じように空を見上げる。視線の先には満月が見えた。雲は千切れた綿のように、夜空の所々に点在している。 「山本」 ふいに真剣な声音で呼ばれ、山本は綱吉に視線を戻した。 綱吉は案じるような視線で山本を見上げていた。彼との身長差は、成人した今でも、中学のころと大差ないくらいひらいたままだ。 「どーした? ん?」 笑顔を浮かべ背中を丸めて綱吉に詰め寄る。 彼は眉をわずかに八の字にしてあごをひく。 「――もしかして、眠れないの?」 山本が請け負っていた仕事の内容を綱吉は把握しているはずだ。 どこの人間を何人、どんな理由で殺したか。 綱吉は、どこでいつ、山本が何人の人間を殺すか知っている。 ひどく荒んだ思いがうずまいて、山本は自分でも驚くような卑屈な笑みを浮かべてしまう。 「それって……、直感?」 綱吉は山本の顔から視線を動かさずに頷いた。 山本は取り繕うように張り付かせている笑みを保つよう努めた。 「いまの山本、いつもの山本となんか、違うよ」 「そうか?」 綱吉の手が山本の腕に触れる。 「あのとき、みたいだ。――学校の屋上にいた時みたいな顔してるよ。山本」 山本は何かを言い返そうとしたが、言葉は声にならなかった。人殺しのあとのせいで、精神的に高揚し興奮状態のままだ。何かの拍子に錯乱してもおかしくないのかもしれない。綱吉が触れている腕の指先が刀の柄を探すように震える。目の前にいる綱吉を切り捨てたい訳ではないのに破壊衝動だけが沸き上がってくる。 山本はとっさに二、三歩後退して、綱吉から離れた。顔を片手で覆ってそむけ、視界に綱吉をいれないようにする。そうでもしなければ、勢いに任せてなにをするかわからなかった。 「すまん。ツナ。ちょっと、一人にしてくれ」 「嫌だ」 きっぱりとした声で綱吉は言う。 「いまの山本を一人には出来ない」 「ほっといてくれって」 「一人になって、どうするっていうんだよ?」 「頭を冷やしてぇの」 「違う。今の山本に必要なのは頭を冷やすとかじゃないよ。山本、絶対に人に弱音吐かないから、一人になって、一人でぐるぐる考えて、またあの日みたいに、屋上から――」 「ばーか。あれから何年経ってっと思ってんの? もう俺達大人だろ? あんなことしねぇって」 「わかんないだろ!」 叫んだと同時に綱吉が山本との間合いを詰める。彼の両手が山本のスーツを掴んで、振り回すように揺さぶる。刹那、薔薇の垣根に押さえ付けられる。棘がきちんと処理されているおかげで痛みはなかったが、むせ返るような薔薇の香りがつよくなる。 「山本の馬鹿!」 「おわっ、ストップ、ストップ!」 「オレってそんなに頼りないの!? なんで山本は、いつだって弱音吐いてくれないの? オレばっか山本のこと頼って利用してるみたいじゃないか!」 「あのな、ツナ。わりぃけどさ、弱音吐くのって、オレ、性格的に無理なんだって――」 乱雑に山本を揺さぶっていた綱吉が顔を上げる。頬でも打たれたかのように彼は顔をしかめた。 「どうして、笑ってられんの?」 「そうだなァ。ツナにも笑って欲しいからかな」 「ふざけんなよ」 「ぶさいくな顔になってっぞ」 態度を変えない山本に業を煮やしたのか、綱吉は胸ぐらを掴んでいた手をゆるめた。山本のすぐ前に立った彼は、両の手のひらを上向けるようにして差し出す。 「手。触らせて」 「なんで?」 「山本の手、触らせて?」 山本はとっさに横へ移動しようとしたが、その動きを抑制するように、綱吉がさらに間合いを詰めてきた。薔薇の垣根と綱吉に阻まれ、山本は逃げ道をなくす。 伸ばされてきた彼の両手が、山本の右手を掴んだ。緊張していたせいか、山本の手はひどく冷たくなっていた。綱吉の温かいと言うより熱いくらいの手が包み込むように山本の手を握る。 「オレは山本の手が好きだよ」 祈るように山本の手を握りしめて綱吉は言う。 「オレの手も、山本の手も、同じだからな。一緒なんだからな。――分かるよな、この意味……」 綱吉と目を合わせることが出来ず、山本は綱吉の手元を見下ろしていた。 マフィアとなってもう十年以上が経過している。山本の手も綱吉の手もすでに何度も赤く染まっている。血で汚れたスーツをゴミ箱に投げ捨て、シャワーで返り血を洗い流した夜が幾度もあった。 山本は綱吉の手を握り返す。温かな手だ。繋いだ手のひらの部分から何かが浄化されていくかのように、山本の高揚していた気分は落ち着いてきていた。 綱吉の理想を理想で終わらせないために、山本は刀を振るっている。その気持ちは学生時代の頃となんら変わりはしない。屋上から飛び降りようとした山本を綱吉は助けてくれた。世界なんて終わればいいと思っていた山本を生かし、未来を与え直してくれたのは綱吉だった。彼と出会い、彼と過ごし、彼と歩んだ年月を思い、山本は微笑む。 「どうして、笑えるの?」 綱吉の声は震えている。 「――ねぇ、山本。笑うのやめてくれよ、もっと怒ったり、泣いたりしてよ。じゃないと、オレ、なんだか不安でたまらないんだよ……!」 涙を目の縁に溜め、綱吉は頭を振る。 「辛かったら言ってよ。オレのこと責めたって構わないから言ってよ!」 「お前を責める理由なんてないよ」 「あるよ。いま思いついただけでも十個以上ある」 「ははっ、そんなにあんのか。考えたらもっと増えたりすんの?」 興奮状態のせいか、笑うべきでないと分かっていても思わず声を上げて笑ってしまう。 綱吉はつよく山本を睨んだ。 「泣き言、言えって」 「ないよ」 「うそつき!」 「うん。嘘だな。――あるよ、泣き言くらい」 「だったら」 「でも、その泣き言はさ、ツナと同じだと思うけどな」 「……同じ……?」 「そ。同じだから、あえてお前に言う必要ないじゃん。な?」 問いかけても綱吉は納得していないのか、不信の目で山本を睨む。 「どこが、同じだって言うんだよ」 「――こんなに思い知ってんのに、あらためて口に出して言いたくねーよ。ツナ……、なぁ、ツナ。俺はいつだってお前の存在に助けられてんだよ。おまえは俺がどこにいようとも、迷ったり躊躇したりしねーで、真っ先に俺に手を伸ばして、どろどろした場所から引き上げてくれるんだ。それだけで俺は救われてんの」 「……それのどこが泣き言なわけ?」 「だからさ、ツナは俺の浮き輪なの。溺れそうになったら助けてくれんの。そーゆーこと!」 「……意味、わかんないんだけど」 怪訝そうに顔をしかめる綱吉に山本は手を伸ばす。数時間前まで血塗れだった手でも、ためらいはもうなかった。薔薇の垣根に背を預けたまま、綱吉の腕を掴んでつよく引き寄せる。よろめいた彼は山本の胸に顔をぶつけ、短く呻いた。まだ状態が分かっていない綱吉の身体を抱きしめて、山本は柔らかい髪質の綱吉の頭にあごを寄せる。腕の中の温かい存在に安らぎを感じて微笑むだけで、心が癒されていくのを感じた。 「ちょ?! なにこれ! なにこれ?!」 「大人しくしてろって」 「なにしてんのー!?」 「抱きしめてんだよー」 「なんで!?」 「俺、いま溺れそうなんだよね」 「は!?」 「だから助けて。ツナ」 「はあ!?」 素っ頓狂な声をあげて綱吉は山本の胸を両手で押し返そうとしたが、山本の腕の力に敵うはずもない。四苦八苦している綱吉の額に鼻先をすりよせ、あらわになった額に唇を寄せる。ますますぎょっとした綱吉が、本気で動揺した顔で山本を見上げた。 「――なに、してんの!?」 「ツナが好きだからちゅーしてんの」 「可愛く言ったって駄目! 離せ!」 「えー、俺、いま弱いとこ見せてんだぞ。ツナにすがりついて慰めてもらってんの」 「なんかそれ、おかしくない?」 「おかしくなくない」 「……ふざけてんの?」 「愛してんの」 「えぇ?」 「もうしばらく、大人しくしててくんね? 充電中だから」 「充電って、なんの?」 「ツナを充電してんの」 「意味、わかんないんだけど」 「その台詞、さっきからだと二回目だな」 「やまもとぉ」 情けない声で綱吉が山本の名を呼ぶ。それだけで身体の奥から澄んだ水が沸いてくるような感覚が全身に広がっていく。山本は腕をゆるめずに、綱吉の頭に頭を寄せる。わずかに彼が使っているシャンプーの香りがした。 「山本?」 「うん?」 「――もうちょっとだけ、だからね?」 半ば呆れたような声音で言って、綱吉の腕が山本の首に回った。密着した部分から、彼の心臓が早く鼓動しているのが伝わってくる。視界の端に見える綱吉の頬が赤く染まっていた。 「うん。ありがとな、ツナ」 山本の腕のなかで綱吉は呼吸している。 肩にかかる確かな重みと体温に、ふいに泣きだしたい衝動がこみ上げてくる。 山本は静かに目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。 涙は流れてこなかった。 もしも涙がこぼれたとしても。 それは悲しい涙ではなく。 きっと優しい涙だったかもしれない。 腕の中の幸福を味わいながら山本は、人知れず微笑んだ。 |
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『End』 | |