5:その醜さを愛せれば それはホンモノ 思えば、彼が笑いかける人物は無数にいた。そもそも彼は人を拒むことがうまくできないという性質をもっており、どちらかと言えば世界そのものに流されるようにして生きている人間でもある。 僕は非常に心が狭いので、彼が争いを避けるために笑いかけるすべての人間を抹殺してしまいたい気持ちになったりもするが、それでは彼が悲しむのできっと僕は実行することはできない。 彼はいま、倍以上も離れた年かさの人間たちを相手に熱弁をふるっている。貧困地域をいかにして救うか、それは皆の協力が必要だと、若さにあふれる演説を行っている。聞いている人間たちも頷くものもいれば、表情だけはそれとなく作ってはいるものの上辺だけで聞いているものもいる。彼は声を張り上げて周囲の人々をよりよい世界へと導こうとしている。きっと実現することは無理だろうけれども、僕はそれを後押しするだろう。全身全霊をかけて彼の命令を実行するだろう。彼は僕の神であり、宗教であり、悪魔でもあり、救世主でもあり、そして僕の運命の人なのだから。 演説が終わると拍手が巻き起こる。彼は日本人らしく深く一礼をして僕の隣の席に戻ってくる。僕も拍手をして隣の席に座った彼に笑いかける。 「お上手でしたよ」 「ありがとう、骸」 僕の言葉に微笑みを返した可愛らしい人は、壇上の上で会合の締めの言葉を言う老齢の他のファミリィのボスへと視線を向ける。出会った頃から比べて多少伸びた髪がやわらかく彼の首筋と肩に流れている。身長も伸びただろうが、周囲の人間に比べればまだ幾分か彼は低かった。その小柄ともいえる身体のどこに守護者の誰も敵わない戦闘能力が秘められているのか。僕には分からない。僕よりも一回りも小さい手に宿りし炎は、いつ見ても荘厳で美しく、死ぬときは彼の炎に焼かれて死んでみたいとさえ思う。 退屈な会合は幕をおろす。会合に参加したすべての人間が、席を立ち上がった彼に挨拶にやってくる。当たり前だ。この会合に参加したマフィアを事実上、統率しているのは他でもない彼なのだから。僕は彼から数歩ほど離れ――それでも誰かが彼に危害をくわえる恐れはないか観察しながら――すべての人間の挨拶がすむまで黙って見守った。 会合が終わってから二十分程度、十三人のボスたちと挨拶をすませた彼は、骸と視線をあわせ、少しくたびれたふうに弱々しく笑う。確かに年上の面々の誇りや体裁を気にしながらの会話は、まだ年若い彼には気苦労以外のなにものでもないのだろう。 「さあ、帰ろうか」 「ええ」 半歩ほど後ろに僕を従え、彼は歩き出す。廊下にたむろっていた他のファミリィのボスやその参謀たちが彼に向かって会釈をする。綱吉はそれにもかるく頭をさげつつ、ホテルのエレベーターへ向かう。エレベーターの前にいたスーツの面々は、彼がエレベーターの前までくると、先に乗るように勧めた。僕は遠慮をする彼の背中を押してエレベーターに乗る。結局エレベーターに乗り込んだのは彼と僕だけだった。ロビーのある一階のボタンを押すとエレベーターは下降を始める。 「まったくもう。順番くらい守ってよ」 「いいじゃないですか。お先にどうぞって勧められたんですから」 あきれ顔で彼は息をつく。 「だからって、それに甘えなくとも……」 「それに綱吉くん、疲れていらっしゃるんでしょう。さっさと屋敷に戻りましょう。数分で終わることをまあ、長々とよくお喋りしてましたよね、いや、綱吉くんの演説はとっても素敵だったんですけどね、ほかがクズ過ぎました。ああ、退屈な会合でしたねえ!」 「あのね、おまえね、ちょっとはさ、労って欲しいんですけど」 「ああ、そうでした。――おつかれさまです、ボス」 「……どうも」 半笑いの彼は短く息をついて前を向く。額から鼻筋にかけてのライン、ほんのり色づいた唇――日本人特有の年齢が分かりづらいベイビーフェイスは、年齢を重ねてもほとんど変わりない。 甲高いベルが短く鳴り、エレベーターのドアが開く。僕はホールの安全を確認したあとで彼に出るように促す。彼の左側に立ち、きらびやかなホテルのホールを出入り口に向かって歩いていく。ある者はあからさまに、ある者はひそやかに、歩いている彼へと視線を向ける。二十代も半ばの日本人が、イタリアでも名を轟かせるマフィアの十代目ボスとして就任したことは、当時は新聞に掲載されるほどの騒ぎようだった。しかも見るからに小柄で人の良さそうな彼の容姿をみて、鼻で笑う輩も少なくはなかった。 だが、しかし、次第に小さいながらも丁寧な仕事――ここらへんは日本人じみていると皮肉な噂も絶えないのだが――を行い、結果を出していく姿に、一般市民といえど関心を集めるまでになっていた。 ふいに彼の前に飛び出してくる人影を察し、僕は人影と彼との間に割って入る。驚いて倒れた相手はまだ十歳にもならないような少女だった。着飾ったドレスから考えて、家族とホテルにディナーをしに来たのかもしれない。 「もう、骸ってば何してるの」 「僕は触れてません。彼女が勝手に転びました」 非難がましい彼の視線に僕は首を左右に振る。 「ごめんね。怪我はない?」 少女と視線をあわせるようにしゃがみ込んで彼が微笑めば、少女はにっこりと笑って首を振る。 「お兄ちゃん、いい人なんだよね?」 「うん?」 「お父さんが言ってた。あの人はイタリアを良くしてくれる人だよって」 少女が振り返った先で、スーツ姿の男があわてたように頭を下げた。おそらくは父親だろう。少女は右手に握っていたもの――可愛らしいミニブーケを綱吉の前に差し出す。 「わたしのお誕生日にもらったお花だけど、お兄ちゃんにあげる。だから、がんばってね」 「ありがとう。頑張るよ」 少女の手からブーケを受け取ってそれを僕に渡した後、彼は少女の脇に手をいれ、若者らしく少女の身体を持ち上げて、ロビーの床に立たせた。 「お父さんが待ってるよ。さあ、行って」 「ありがとう。――さようなら、バンビーノ」 「ばん、びー、の?」 奇妙な発音で言った彼は、少女が言っていた言葉を脳裏のイタリア語辞書でひいているかのように黙り込んだあと、くすりと吹き出す。 「若造って、ね。あはは、その通り」 「なめてますね、あの父親。ちょっとこらしめてやりましょうか」 「やったらオレがおまえをこらしめるからね」 降伏するように両手を顔の横にあげると、綱吉はふぅ、と息をついて背筋をのばす。 「それ、ちょうだい」 ブーケを渡すと、彼は鼻先にブーケを近づけ花の匂いを嗅いだ。 「んー、花の匂いなんて久しぶり……、あれ?」 「どうかしましたか?」 「花ってこんなに匂いだったっけなあ?」 「匂いがわからないなんて、疲れてる証拠じゃないんですか?」 「そうなのかなー……、うーん。最近、ちょっと気になることがあって、調べものしてたからなぁ」 ブーケを持つ右手をぶらぶらとさせながら、彼は大きく口をひらいてあくびをした。 「あー……、はやくかえってバスルームにとびこみたい」 「ご一緒しますよ、ボス」 「やめてください」 「疲れたあなたを癒そうとする部下の心をむげにするのですか」 「下心しかないじゃないですか」 「じゃあ、のぞくとしましょう」 「やめてください。おまえがそんなだから、獄寺くんが僕がお風呂入るときに、バスルームの前に立ってお守りします!なんて言い出すんだからね、やめてよ、ほんと!」 「スモーキンボムものぞいてるかもしれませんよ?」 「………………」 「あ、いま、ちょっと、え、もしかして?とか思いましたね。くふふ。かわいそうなスモーキンボム!」 「うっ、獄寺くんには変なこと言わないでよね」 「さあ、どうしましょう」 「むくろー、ほんと、やめて、やめてね、お願いだからね?」 他愛のない会話をしながら、ホテルのホールをぬける。重厚な縁取りに飾られた扉の前に立っていたドアボーイが、深々と一礼をして、彼と僕のためにドアを開いた。夜気は冷たく、頬や首筋をなでてくる。日本ほど季節がはっきりと分かれているわけではなかったが、太陽のない夜はやはり寒々しい。 「遅い」 地面を這うような低い声が前方の階段下のアプローチからかかり、僕も彼も声の主へと視線を動かす。 「雲雀さん!」 僕が舌打ちして。 彼が微笑んだ刹那。 雲雀は吠えた。 「花を捨てろ!!」 パンッパンッ、パンパンパンパンパン! 銃声音が左右から立て続けに巻き起こる。僕はとっさにステップを踏んで背後へ立ち位置をずらし、彼の腕を掴んで背後へ引き倒す。倒れる彼の手から放り出されたブーケが空中をくるくると回っている。ブーケは目にも痛いクロムイエローに鈍く光っている。夜光塗料。いくつかの銃弾が僕の身体をかすり、または貫通していった。僕は右目に意識を集中させる。右手に現れた三つ又の槍を手に、地獄道を発動させようとしたとき「幻覚は駄目だ!」彼の声がかかる。確かに不特定多数の一般人がいる以上、身体に負担のかかる地獄道は使用しないほうがいいかもしれない。あとで彼に非難されたくはない。 発砲と同時に雲雀と共に連れ添っていたボンゴレの兵隊たちが綱吉へ駆け寄って囲んだ。彼に心酔し、命を落としても悔いることのない肉の壁が彼を守ってくれる。すでに銃撃が始まった時点で、一般市民は散り散りに逃げだし始めている。雲雀は手にしたトンファーで銃撃を行った男たちと戦闘を開始していた。再び始まる拳銃の発砲音を聞きながら、僕は男たちに囲まれて守られている彼の横顔をちらりと見る。彼は青白い顔で唇を引き結んでいた。おそらくは己の無防備さを呪っているのだろう。彼を守って怪我をした僕を、きっと彼はねぎらい、大切にしてくれる。それを思うだけでも僕は歓喜し、そこら中を走り回りたい気分になる。彼のために流す血など彼を縛るためだけのものなのだから。いまにも泣き出しそうな彼の目が僕をとらえる。 「怪我は?」 「かすり傷」 「うそつき」 微笑む僕を彼は睨んだ。 「オレも戦う」 「よしなさい。ボスが簡単に手のうちをみせてはいけませんよ」 返事は聞かなかった。 一撃必殺で彼を殺害できなかったと知ると、拳銃を撃った人間たちはばらばらに逃げ出そうとしていた。が、僕も奴もそれを許すはずはない。瞬時に修羅道を発動させ、逃げおおせようとする男の足に向かって槍を突き下ろす。手応えを感じる間もなく僕は低い体勢のまま地面を蹴って銃を構える男に向かう。致命傷にならないように注意を払いながらも、叩き、突き、切り裂き、薙ぎ払う。銃を撃つ人間の腕を突き刺し、足の関節に武器を打ち下ろす。だいたいの人間は腕と足をうち砕けば激痛によって戦意を喪失する。彼は相手を殺すことを望んではないので、不本意ながらも相手を死なない程度に痛めつけなければいけないのがひどく面倒だった。しかし僕は、彼に嫌われたくはないので、面倒でも殺さない程度にしなくてはならなかった。悲鳴と怒号はよいリズムで続く。身体を動かすたびに足と脇腹が痛んだが構うことはない。彼を脅かす者を殺し尽くすまでは動きをやめるつもりはない。――と思ったのだが、僕は戦意を喪失した男の腕から槍を引き抜いて、その場に立った。 もう銃声はやんでいる。しかし打撃音だけがやまない。音源は奴が振り下ろす武器と血まみれの男。男が絶命しているかどうかは分からないが、すでに意識がないことは明白だ。その近くにまだ息のある男を発見した奴は、髪から顔から首筋から手から何から何まで生臭い血に染めたまま、地面を這う男の頭上に血肉がこびりついたトンファーを振り下ろす。めしゃりと嫌な音を立てて男の頭にトンファーが沈む。野次馬の辺りからひきつけのような悲鳴がいくつも上がる。いくらマフィアの抗争といえど、圧倒的な力の差は蹂躙を思い起こさせる。それはまずい。ボンゴレにとってはよろしくない。奴は息のある人間を見つけては、動かなくなるまで殴った。殴り殺した。別段、僕は相手に同情することはなかったけれど、あまり見ていて気分の良い光景ではない。 僕は槍を持ったままで彼の側へよる。彼は男達に囲まれたまま、呆然と奴の様子を見ていた。撃たれた時よりも色をなくした顔色に表情らしい表情はない。 「ひばりさん」 押し出すような声で言う。奴は止まらない。振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。圧倒的破壊衝動のままに振り下ろす。不本意だけどその感情を僕は理解できる。僕も同じようにしたい衝動が身のうちにある。けれど、目の前で先に行われてしまうと、人間というものは理性が働くのか、狂気は熱を帯びずに冷えていくものだ。 「雲雀さん」 彼はまた奴の名を呼ぶ。聞こえていない奴は殴打を繰り返すだけ。哀しみとも怒りとも区別のつかない目をして、彼は両の拳を握って歯を噛みしめた。 「もう、やめてください!! 終わりです!!!」 ありったけの声で彼が叫ぶ。 撲殺に没頭していた奴の動きが止まる。右手に掴んでいた男の襟元を離す。もはや顔の形が分からないほどに変形した男の死体は、どちゃりと湿った音をたてて地面に横たわる。ホテル前は血だまりと化し、まるでそこだけが切り取られたかのように戦場として存在していた。 奴は血まみれの武器を両手に持ったまま、彼が立つホテルの入り口へと視線を向ける。奴のまわりには人間としての輪郭を失った死体がごろごろと転がっていた。返り血によってべったりと張り付いた黒髪の合間で、瞳だけが爛々と輝いている。その姿は血肉を貪る悪鬼のごとく醜悪だった。人が人を殺す場面というものが美しかった試しなどない。鉄さびのような血の臭い、生物的恐怖からもよおされた糞尿の臭い、裂けた皮膚からのぞく肉や骨の断面、飛び散った脳髄、割れた頭――誰かが嘔吐したのか、吐瀉物の臭いすら混じっている。 上品なはずのホテルのアプローチが混沌とした地獄絵図と化している。 奴は彼と視線があうと狂喜的に微笑んだ。細いあごから滴る返り血に構うこともなく、辺りの異様な視線をものともせず、ただまっすぐに彼を見ている。 君を傷つける人間は殺してあげたからね。 その気持ちは分かるが、彼の気持ちはなにひとつ考えていない。優しく、誰よりも優しい彼が、いくら自分に銃を向けた相手を殺してよしとするはずがなかった。もしも彼が非情さを持ち合わせているのなら、僕はいまこの場に立っていないだろう。馬鹿な奴だ。僕は内心でせせら笑った。彼はきっと怒るだろう。なぜ殺したと。期待をして隣を見て僕は愕然とした。 彼は泣いていた。 怒りもせず、声もたてず、肩を震わせながら。 彼は嗚咽がもれそうになった口元を手で覆ってうつむく。両目から涙があふれた。 「綱吉くん」 僕の問いかけにかるく首を左右に振る。何を否定したのか分からなかった。どうして泣いているのだろう。死んでしまった相手に対しての涙だろうか。死んでいった彼らに彼の涙を受ける資格はないはずだ。ここまで悲しげに泣く姿は、彼がマフィアとなって一年くらいの間は何度も見かけてきたが、これほどに涙をすることは最近ではなかった。 僕には彼が泣いている理由がわからない。 彼は男達の間から抜け出そうと踏み出す。僕は慌てて彼の肩を掴んだ。 「まだ安全かどうか分かりませんから、じっとしていてください」 彼は涙を流した赤い目で僕を見た。 はなして。 赤い目が僕を見つめている。 僕は手を離すしかなかった。 彼はふらりと歩き出す。血だまりに立つ奴の元へと近寄っていく。僕は彼が心配で少し離れて後を追う。累々と倒れている男達と男達の身体から流れている血を革靴の底で踏みながら僕と彼は進んでいく。 彼は悪い夢の中に立っている悪魔のごとき奴の前で立ち止まる。きれいな彼の手が、雲雀の頬に触れる。指先が血で汚れた。僕は舌打ちした。本当ならば彼を連れて車に乗ってこの場をすぐに立ち去りたかった。が、彼はそれを望んでいない。彼が望んでいないことはなるべくしたくはない。どうしてこんなにも僕は弱い人間に成り下がってしまったのか。ふつふつと湧いてくる苛立ちにも怒りにも分別しにくい感情をガムのように噛みしめる。 「――どうして、こんなことを」 彼は弱々しく言う。 「どうして殺したんですか? 殺すことはないはずです。骸は殺さなかったのに。雲雀さんだって相手を殺さずに制することができるのに、なんで、今日は、こんなに」 奴は彼の手に血まみれの手の甲で触れ、至福を感じているかのように目を閉じる。 「褒めてよ」 「え」 「君を守った僕を褒めて」 「雲雀さん……ッ」 彼は痛みをこらえるように涙を流す。 奴はそれを満足そうに眺めている。 不本意を通り過ぎて、自己嫌悪にもなりそうだったが、僕には奴の感情のゆらぎが理解できていた。 彼を脅かすものすべて殺しても足りない。 彼の邪魔になる人間も彼の未来に影をおとす人間もすべて殺してもまだ足りない。 彼と自分以外すべてどうでもいいのだ。 生きようが死のうが殺そうが関係がない。 彼が生きていて幸せであればそれでいい。 それ以外はすべてどうでもいい。 彼はスーツの袖で涙をぬぐい、何度か深呼吸を繰り返した。そうしているうちに嗚咽は小さくなっていき、涙も止まったようだった。彼は狂ったように微笑む奴の首に両腕を絡めた。再び僕は舌打ちをする。あれでは彼のスーツにも血が染みてしまう。引き剥がしたい衝動をおさえるのに僕は両手を握った。 「――雲雀さん」 「なに」 「ごめんなさい」 「なにそれ」 「オレ、あなたを非道いところへ巻き込んでしまいました」 「何をいっているの? 君のいないところへなんか行くつもりはないよ」 くすくすと奴は笑う。乾き始めた頬の血が醜く笑みの形に歪む。 「君を守って僕は幸せだ」 奴は彼の頭に頬をよせる。胸くそが悪い。殴りかかり、彼と奴を引き離したい衝動がさらに強まる。が、僕は動けなかった。 彼は泣きはらした目で奴を見た。 怒りとも哀しみともつかない顔が、その刹那、ほんのりと微笑んだ。 僕は眩暈を感じた。 ああ。 もう。 手遅れなんですね。 本来の彼ならば絶対に許すはずのないことを許してしまうほどに、彼は奴を愛しているとでもいうのか。 あんな醜悪な血塗れの獣を愛おしそうに腕に抱いて、微笑むなんてどうかしている。 僕は複雑な思いで彼らを眺めた。彼が奴を愛していることは依然から知っている。奴が彼に並々ならぬ感情を持っていることも知っていた。しかし、僕には関係のないことだ。僕は彼に奴がいようとも特に構わない。独り占めしたいとは思うがそれが実行できるとしたら、彼を誰の目にも触れぬように監禁しなくてはならない。それは彼の魅力である笑顔を消してしまうだろう。だから監禁はできない。そもそも色恋ほどうつろいやすいものはない。そんないつ途切れてしまうかもしれない絆よりも僕は確かな絆が欲しい。家族――ファミリィとしてならば彼と生涯を共に出来る。そこに不満がないと言えば嘘になるし、奴の立場が羨ましくないとは言えない。いつ我慢の限界が訪れるか分からないけれど、それまではいまの立ち位置で満足するほかはない。不変こそ、僕が彼に望む唯一の関係だ。 遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。目撃者が多数いることもあるし、逃げ出しても意味はない。保釈金はいくらかかるのかを計算すると、ファミリィの財政面を取り仕切っているランチアの苦い顔がよぎったが、とりあえず考えることは放棄する。僕には関係のないことだ。 サイレンの音が彼の耳にも入ったのか、彼は奴との抱擁をやめた。身体を離した彼は、辺りの死体を見回す。彼の表情は暗く沈んで悲惨を物語り、いまにもまた泣き出しそうになる。 彼は、真っ赤なペンキをかぶったかのような奴の隣に立ち、ぐっしょりと返り血が染みこんだスーツ姿で僕に向き直った。彼は僕と目があうと、気丈そうに微笑んだ。 「あーあ。残念。お風呂、入れそうにないね」 「そうですね。僕や綱吉くんよりも、そこの人のほうが必要だとは思いますがね」 奴の鋭い視線を真っ向から受け止める。いつまでもそうしていられると思っていればいい。やがてその場所に立つのは僕なのだから。などと内心で呟く。 僕は奴から視線を外して、わずかに視線を下げる。最悪のブーケを渡した娘と娘の父親の顔を忘れないように記憶に刻み込む。おそらく少女とあの男に関係は親子ではないだろう。少女は金で雇われていただろうし、もしくは男も同じかもしれない。が、今回の襲撃のきっかけはあの親子である。黒幕をつきとめるにはいい材料だ。十数分前の場面を思い出し、何度も頭のなかで再生する。転んだ少女、微笑みかける彼、少女が振り返った先にいた男の顔、声、仕草、服装、すべてを脳裏に刻み込む。 「骸」 伏せていた顔をあげると、すぐ近くに彼が立っていた。僕の身体の傷を見て、心配げに眉尻をさげる。 「怪我、大丈夫?」 「ええ。ご心配なく。どうせ警察病院で治療してくれますよ」 「ほんとに撃たれてるの? 演技じゃなくて?」 侮蔑の視線をよこす奴をきれいに無視して、僕は彼の泣きはらした目元に指先で触れる。 「すぐに泣くところは昔と変わりませんね」 「触らないでくれない」 誰かの毛髪がからんだ赤いトンファーの先が僕の眼前に突き出される。彼が「やめてください」と言ってもトンファーは引き下がらない。 「泣かせた本人はもっと責任を感じればいいんじゃありませんか?」 「は? どうして君にそんなこと言われないといけないの? だいたい綱吉はもっと泣けばいいよ」 「は?」 「えぇ?」 「泣いるときは僕だけのこと考えてるからね。泣けばいいよ、もっと。それでもっと僕のことだけ考えてればいいんだ、君なんか」 僕は本日三度めの舌打ちをした。本当に苛々する男だ。僕の思考に似ているからよけいに苛々する。自分の醜悪な部分が具現化して目の前にいるようですこぶる気分が悪くなる。 「馬鹿じゃないんですか、あなた!」 「――やるの?」 「だいたい泣かせておいて反省もしないなんて男として最低なんですよ。日本男児は大和撫子を泣かせてもいいんですか?」 「勝手に綱吉が泣いてるんだから、僕が反省することはなにもないね」 奴がトンファーを身構え、僕が槍を右手に取り出したところで、二人の間に彼が割り込んで両腕を広げた。 「ストップ! っていうか、ねえ、骸、大和撫子ってなに? そもそもオレ、女じゃないでしょ。雲雀さんもやめてください。もうすぐ警察がくるんですから、聞き分けて大人しくしていてください」 「分かりましたよ、綱吉くん」 「………………」 「雲雀さんも大人しく」 彼に言われ、僕はすぐに武器をしまう。奴は武器こそしまうことはなかったが、彼に睨まれて身をひいた。 パトカーの点滅するランプが車の行き交う道路の向こうに見えるようになる。救急車のサイレンも近づいてくる気配がした。僕は改めて横たわっている死体たちを眺めた。僕も奴と同様に殺してしまえばよかったという思いがこみ上げてくる。もしもそうしたら、彼は僕も抱擁してくれただろうか。怒り、そして泣きながらも、仕方のない人だと抱きしめてくれるだろうか。そんな想像を五秒ほどしてやめた。きっと奴と同じふうにはしてくれないだろう。僕と奴はやっぱり違う人間で、彼に捧げる想いも、彼からもらう想いも違うのだから。 「……それだけ醜くても愛されてよかったですね……」 小さく口のなかで呟く。 奴はめざとく反応し、横目で僕を睨んだが、内容までは聞き取れなかったのか、追求はしてこなかった。 パトカーがホテルの前に何台も到着し、中から制服警官やスーツを着た警部が何人も降りてくる。 僕も、彼も、奴も、否応なしにこういう事態には慣れている。現れた警部たちのなかに見知った顔をみつけ、僕は妙齢の彼に笑いかけた。警部はまたお前らかと苦い顔をして舌打ちをする。 僕は笑う。 きっと警部と僕の舌打ちの理由は一緒。 世界に向かって理不尽だと叫ぶかわり。もしくは思い通りにいかない人生への抵抗。 彼の前に警部が立った。 「ボンゴレさん、とりあえず署でお話をお聞きしますよ」 「はい。分かりました。ご足労かけました。お願いします」 彼は真摯な態度で警部に一礼をして、両側を制服警官に挟まれたままパトカーに連行されていく。 マフィアらしからぬ彼の対応に警部はますます苦い顔をする。 「また数日、お世話になりますね。よろしく」 僕は警部にかるく会釈をして通りすぎパトカーへ向かい、 「取調室に行く前に、シャワー、かしてもらえるよね?」 奴は悪びれもせずにしれっと言って、同じくパトカーへ向かう。 「――ああ、くそがっ……!」 警部がまた大きく舌打ちをするのを僕は背中できいた。 |
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