4:抱きしめても消えなければ それはホンモノ





 綱吉は走った。誰もいない暗い廊下を。一人で。走った。背後から誰かの声がしたが走った。非常口の緑色のランプ。それと夜間用の簡易照明。リノウムの床。革靴で駆ける。緊急病棟の矢印。点灯していない手術室の明かり。消毒薬の匂い。要人用の一番奥まった個室のドア。

 飛びつくようにドアの取っ手を掴む。そこで、綱吉の動きは停止した。開けない。腕に力を込めて引けばドアはスライドする。けど、開けない。恐ろしくて開けない。取っ手を掴む手が無様に震えている。荒くなった自分の息づかいだけがやけに大きく聞こえる。扉は開けない。怖い。中を見るのが怖い。



「ツナ」



 低く静かな声が病院の廊下に響く。

「リ、ボーン」

 黒いスーツに身を包んだ、まだ十代半ばほどの少年が綱吉から少し離れた場所に立っていた。その背後からもう一人、近づいてくる人物がいる。小さな明かりに照らしだされたのは獄寺だった。彼はは無表情のまま歩いてくると、綱吉の側まで来た。彼は綱吉の背に触れただけで、何も言わなかった。綱吉は取っ手を掴んでいる自身の両手に視線を戻す。

「開けねーのか?」

 リボーンは言った。

「雲雀は中にいる」

「リボーンさん」

 たしなめるように獄寺が声をあげる。リボーンは冷徹な表情で獄寺を睨み、そして綱吉を見た。

「事実は変わらねーだろ」
「しかし、十代目と雲雀の関係を思えば――」
「だったら余計にそのドアを開けるべきだ。迷っている時間が無駄だ」

 獄寺が舌打ちした。リボーンは帽子のつばに触れて、ぐいっと視線を隠すように深くかぶりなおし、廊下の壁に背中で寄りかかる。

「十代目」

 気遣うような優しい声音で獄寺が言う。

「大丈夫です。雲雀は生きていますから。何も恐ろしいことはありません」

 それでも綱吉は動けなかった。取っ手に手が癒着してしまったかのように動かない。一枚の扉を隔てた先に雲雀がいるというのに開けることが出来ない。

「ツナ。開けろ。雲雀が待ってるぞ」

 リボーンの声が背後から突き刺さる。

 綱吉は何度も何度も深呼吸をした。何を目の当たりにするのか想像はついている。現実を受け入れるだけの用意はまだ出来ていない。でも確かにリボーンの言うとおり、迷っている時間は惜しい。こうして病院に来ている間にも、雲雀をこんな目にあわせた国外のファミリィたちは方々へ逃げおおせてしまう。綱吉の護衛として動いている獄寺とリボーン
以外の守護者たちは、今回の襲撃を行ったメンバーの確保を最優先事項として動いている。ボスである綱吉もボンゴレの屋敷に戻り、采配を震わねばならない。

「ツナ」

 綱吉は顔をあげてリボーンを見た。彼はスーツの袖から細い手首に巻かれた腕時計をしめす。

「あと十分だけだぞ」
「リボーンさんっ」
「それ以上は認めねーぞ」

 再び帽子をさげ、リボーンは何も言わなくなる。獄寺は取っ手を掴んでいる綱吉の手に触れた。彼は笑おうとしながらも泣きそうな顔でうなずく。

「大丈夫です。開けましょう。ね?」


 綱吉の手のうえから取っ手を掴んだ獄寺が、ドアをわずかにスライドさせた。綱吉は音もなく開いたドアの先にかいま見えたベッド、そして周囲に配置された医療器具の多さにかるい目眩を感じた。こわばっていた手からも力がぬける。ゆっくりとドアをスライドさせた獄寺は、綱吉に病室に入るように目線でうながした。綱吉はふらふらとよろめくように病室に足を踏み入れる。その背後でドアがしまっていく気配がした。

 病室の明かりはベッドの頭の上にある照明が点灯しているだけだ。様々な器具を身体につないだ雲雀の顔は、赤紫や青く変色し、頭やあごの方まで包帯が巻かれていた。首や鎖骨のあたりも白い包帯がのぞいている。雲雀の口元を覆っている酸素マスクが彼の呼吸にあわせて白く曇っていた。布団に隠された部分は恐ろしくて見ることはできない。綱吉は雲雀のベッドサイドに立ち尽くすしかなかった。触れることも声をかけることも出来ない。雲雀が呼吸をしていることだけで綱吉は涙がこみ上げてくるのを感じた。息をしている。生きている。彼が死なずにすんだことを誰に感謝すればいいのか、綱吉はこぼれ落ちる涙をぬぐいもせずに考えた。

 綱吉の耳に入った第一報だけで判断をするのならば、綱吉は雲雀の生存を期待できなかった。彼は死んだ。それもまともな死体など残らないほど完璧に死んだと思った。

 雲雀をリーダーとした小隊は、麻薬の密売を計画しているバイヤーたちの密会現場をおさえ、捕縛することが任務だった。相手はどちらも中小マフィアのまた下という小物同士の密会だ。雲雀だけでも十分だと思われた任務だったが、それは撒き餌だった。バイヤーたちは国外のファミリィによって騙され、ボンゴレの幹部を誘き出すための餌として利用されたのだ。バイヤーたちは何も知らされておらず、雲雀たちが姿を現した時点で撃ち殺されてしまった。雲雀以外の兵隊達も奮闘したが、圧倒的に人数の差があったため、また一人、また一人と命を落としていく。たった一人になった雲雀は、拳銃やそのほかの武器をたっぷりと用意していた相手――数十人を相手にし、異変を知った山本や骸、ボンゴレの援軍が駆けつけるまで満身創痍で戦っていたというのだ。山本から聞いた話では、密会場所であった廃ビルの床も壁も、天上すらも赤い血が飛び散り、辺り一面に銃痕が刻まれ、むせ返るほどの血肉の臭いが充満するなかで、雲雀は髪から服まで真っ赤で――もはや相手の血か雲雀の血か分からないほどに真っ赤で――打ち抜かれた右腕にはネクタイでトンファーの柄を縛り付け、びちゃりびちゃりと血だまりの中を駆け、戦神のように武器を振るい、戦っていたらしい。何度撃たれても戦う雲雀の姿勢に相手方の戦意は弱まりつつあった。そこを骸と山本が波状するように攻撃した。相手方は二人の強襲がきっかけになったかのように、はじめから計算されていたの各々どこかへ逃亡し、現在に至る。雲雀は山本が近づいた時もトンファーを振り上げたらしい。もはやどうして戦っているのか、相手が誰だったかなどという概念は雲雀にはなかったのだろう。山本が必死に名前を呼び続けると、彼は目が覚めたかのように山本の名を呼び、そして意識を失った。

 雲雀が運び込まれた病院に綱吉はすぐに駆けつける事は出来なかった。ボンゴレのボスである綱吉の安全が確保されるまでは館から出ていくことはできない。年若くとも綱吉もひとつの組織のトップである。恋人である雲雀が死にかけていても、ボスである綱吉が不用意に動くことは組織にとっては自殺行為だ。各守護者たちが一通りの諜報や探索を終えたのは、襲撃が行われた日から日付がかわる午前二時すぎだった。それまでに一度、病院から電話があった。雲雀の治療を担当した医者からの電話で、容態を聞いたのはリボーンだった。綱吉もリボーンから聞いたかもしれなかったが、あまりに多くの怪我の箇所と種類に、途中で泣き出してしまったので覚えていない。全治するまでは相当かかる。リハビリも必要だと言っていた。綱吉が雲雀と出会ってから、雲雀がこんなにも怪我をするのは初めてだった。

 綱吉が病院に向かう車に乗ることができたのは朝の五時を過ぎてからだった。すでに日が昇りつつある空は明るく、雲も少なく良い天気になりそうな空模様だった。車の窓ガラスごしに空を見上げながら、綱吉はどうやって雲雀に会えばいいのか考えていた。山本から聞かされた惨状を想像しては薄ら寒くなり、不安とも絶望とも怒りともいえない仄暗い感情が脳裏を横切っていく。怖かった。雲雀がもしも息をしていなかったらと思うと背筋が震えた。確かめたい。けど、確かめてはっきりとしてしまうのも恐ろしい。病院に到着して車から降りると無意識に走り出していた。獄寺が止める声も聞こえないふりをした。近くに行きたい。でもこわい。ドアをあけて雲雀が冷たくなっていたらどうしたらいいのか。そればかりを考えていたせいで、いざドアの前に立っても、一人でドアを開くことはできず、獄寺の手を借りて開けるしかなかった。

 綱吉は決心をして、右手を雲雀の頬に伸ばした。指先が触れた頬は腫れているのか熱っぽく、わずかにこわばっている。温かい血のかよった頬だ。


 死なないで、よかった。


 綱吉は声を押し殺して泣く。


「雲雀さん……、雲雀さん、生きていてくれて、ほんとうにありがとう。オレ、すごい、嬉しいです、ありがとう、ございます……」


 つぶやきながら、雲雀の額にかかる黒髪をかきわける。血に染まっていたであろう髪も、拭ってもらったのか、さらさらとしていた。黒髪のあいまからのぞいた雲雀の額に唇をよせる。雲雀の髪からわずかに血の匂いがした。

 綱吉が身体を引いて雲雀の顔をのぞき込もうとすると、わずかに雲雀の瞼が震える。


「雲雀さん?」


 痙攣するように動いていた瞼が、戸惑うようにゆっくりと持ち上がっていく。綱吉は雲雀の顔に顔を近づけ、彼の頬を左手で包み込む。


「雲雀さん、雲雀さん?」


 辺りをたゆたっていた雲雀の視線が綱吉の顔を見た。雲雀は何かを言おうと口を動かしたが、酸素マスクのせいで声が聞き取れない。眉間にしわを寄せ、雲雀はマスクをとるように目線で訴えてくる。

「え、駄目ですよ。安静にしてなきゃ――」

 雲雀は右腕を動かそうとして、ぎくりと動きを止めた。当たり前だ。彼の腕は固定され、動かすことは出来ない。それでも歯を食いしばり、動かそうとするのを見て、綱吉は根負けして、彼の酸素マスクをあごの下へとずらした。

 ふ、と雲雀はわずかに笑う。その顔には少し汗が滲んでいる。

「つなよし」

 ずっと声を出していなかったかのように、か細くかすれた声だった。

「ここ、病院です」
「泣いて、たの?」

 綱吉は無理矢理に笑う。

「雲雀さんが生きてくれてて嬉しくて泣いてました」

 そう、と雲雀は息をつくのと同じようなリズムで言った。

「僕は生きているのか……、無様な姿をさらしたね」

「そんな! オレはっ、オレがどんな思いで、ここにきたのか!」

「綱吉。キスして」

 汗の滲む頬にえくぼをつくるように雲雀が笑う。綱吉は言いたかった言葉のすべてを飲み込んで、雲雀にキスをした。酸素マスクのせいで湿っていた唇は熱く、彼の体温が上昇していることが感じられた。

 雲雀は苦しげに呼吸しながら綱吉を見上げる。まだらに色を変えた彼の顔を綱吉は見下ろす。


「ああ、僕は、生きて、いるね」

 綱吉がキスをした唇で彼は言う。

「君のために、死ぬのも、悪くないと思ったけど、やっぱり、生きていて、君に触れていたいね」

「雲雀さん」

 綱吉はじんわりと温かいものがこみ上げてくるのを感じて微笑む。

「は、ああ。……これは、治るまで時間がかかるね」
「ええ……。リハビリもしなきゃだめみたいですよ」
「そう。――はやく、君の隣に帰りたいね」

 普段の雲雀なら絶対に口にしない台詞に、綱吉は嬉しさよりも先に切なさに胸を締め付けられ、言葉を失った。ベッドに横になっている雲雀の頭を両腕でそっと抱えるようにして、綱吉はその額に頬をよせる。

「つ、な、よし?」
「一人で死ぬのなんて許しませんよ。死ぬときは二人一緒ですからね」
「約束できない」
「どうしてですかっ?」
「だって僕は、綱吉を、守って逝くんだから。一緒は無理」
「それでも、それでも、オレは置いていかれたくないんです」
「………………」
「ねえ、綱吉」
「はい」
「僕を抱きしめてるよね?」
「はい」
「僕は生きているよね?」
「はい」
「未来がどうなるかは、分からないけど、君がいま、抱きしめている僕は、生きている。死んでない。いまはそれで、いいでしょ?」
「………………」
「約束は、しないからね」
「雲雀さんは、ずるい」

 ふふふ、と綱吉の腕の中で小さな笑い声がこもる。綱吉は腕をゆるめて、前髪が雲雀の額に触れるほど近い場所で雲雀の顔を見下ろす。
 こんこん。と、ドアをノックする音がして、


「十代目、時間です」


 獄寺の控えめな声が聞こえた。

 綱吉は雲雀の唇にもう一度キスをおとし、彼の頭を抱きしめた。酸素マスクを元の通りに雲雀の口元へ戻す。

「雲雀さんをそんなふうにした人達をいま捜しています。きっと制裁をしますから。報告を楽しみにしていてください。またすぐに時間を作って会いにきますから」

 雲雀は小さく首を縦に動かす。

 綱吉は名残惜しく思いながらも雲雀に背を向ける。ドアを開ける前に振り返ると、雲雀は顔をわずかにドア側へ向け、綱吉を見ていた。彼は視線があうと、一度だけゆっくりと頷いた。綱吉もしっかりと頷く。背を向けてドアをスライドさせる。


 帽子をかぶりなおしたリボーンと神妙な顔つきの獄寺が立っている。


「十代目」

「行くぞ、ツナ」


 二人に対して頷きを返す。

「まずは屋敷に戻る。みんなの報告を聞いて今後の方針を決める」


 沢田綱吉としての個人の時間が終了し、ボンゴレ十代目としての時間が始まり出す。歩き出した二人の間へと移動し、右側には獄寺を、左側にはリボーンを従え、綱吉は病院の廊下を歩いていく。




 もう後ろは振り返らなかった。