2:この涙が止まらなければ それはホンモノ







「ごめんなさい」


 綱吉は謝った。
 謝って、謝って、謝って。
 泣いた。

 指輪をした僕の手を両手で握って、膝をついて、祈るような姿勢で言い続けた。


「ごめんなさい」


 僕はそんな言葉はいらないと何度も言ったけれど、彼はまるで聞く耳をもたない。僕よりも痩せて細い腕だ。振り払えるだろう。しかし、それは出来ない。僕は僕の手を握る手の温かさをずっとずっと感じていたいのだから。

 夜の応接室は静かだ。綱吉の泣き声だけが空気を震わせている。


「綱吉」


 すすり泣く彼の頬に手を伸ばす。彼はまつげを濡らし、涙でぐしゃぐしゃの顔を上向かせる。涙が頬を滑り落ちていく。

「泣かないで」

「でも、雲雀さん、――オレのせいで、オレの、せいで」

「綱吉」

「オレが巻き込んだ、巻き込んで、繋いでしまった……自由だった雲雀さんをたったひとつの指輪で、繋いで」

「綱吉」

「そんな指輪ひとつで雲雀さんの未来をめちゃくちゃにしちゃう――いや、そんなの、いやだ……っ」

 彼は震える唇を引き結んで嗚咽を飲み込んだ。僕は彼と視線をあわせるために床に膝をつく。泣きはらして赤くなった目元に唇を寄せる。塩辛い味が唇に触れる。彼は目を閉じ、鼻をすする。びくりびくりと跳ね上がる肩に肩で触れる。

「選んだのは僕だよ。君が後悔することはない」

 いやがるように綱吉は首を振る。

「オレは雲雀さんに、そんなこと、望んでないっ」

「じゃあ、誰に望むつもり?」

「それ、はっ」

「この指輪を誰か他の人間に? そんなの許さないよ」

 綱吉に握られていた左手の人差し指にはめられた指輪を口元に引き寄せる。肌で温まっている指輪に唇をよせる、冷たくはない。綱吉は僕の左手を掴み、己の額に寄せて顔を伏せる。

「雲雀さん、雲雀さん、雲雀さん――」

「うん」

「ごめんなさい……」

「謝るのはもうよして。聞き飽きた」

「だって」

「もっと違うことを言って」

 綱吉は黙り込む。僕の手を握ったまま、顔を伏せている。ふわふわのやわらかい髪が彼の呼吸のリズムでゆれている。泣き疲れたのか、それとも会話をしているうちに落ち着いてきたのか、綱吉は左腕の袖で顔をぬぐい、喉にからんでいた嗚咽を振り払うように大きく深呼吸をした。

「顔、あげて」

 僕の言葉に従って綱吉は顔をあげる。まだこらえ切れていないのか、右目の端から一筋の涙がきれいな透明な線を描いて滑り落ちていった。


「雲雀さん」

「うん」

 じっと僕の顔を見ていた綱吉の顔が途端に涙にゆがむ。僕は仕方なく彼を抱きしめた。小さいすすり泣きを耳元で聞きながら、綱吉の背中をあやすように叩く。この僕がそんな仕草で他人を慰める日が来るなんて生まれたときから一度も考えたことはなかった。綱吉に泣かれるのは苦手だったし、今回の指輪の件にしても、綱吉自身が指輪を与える人物を決めた訳ではない。偶然でも運命でも構わなかった。理由が出来た。そう思った。綱吉との絆が明確なそして目に見える形となり、これから一生、綱吉の側にいても構わない理由となったのだと。

 綱吉のすすり泣きが小さくなる。やわらかい髪を指先でなでながら、僕は彼の耳もとと頬に口づけ、額をあわせるように綱吉の顔を見た。まるで幼い子供のような泣き顔は、ともすれば呆れてもおかしくなかったが、僕のために泣いた涙となれば、それは尊い涙だった。

「雲雀さん」

 舌っ足らずに小さく呼びかけ、綱吉は赤い目で僕を見る。


「謝るの禁止」
「………………」
「君から聞きたいのはそんな言葉じゃない」
「………………」
「君は僕がいらないの? それとも必要なの? どっち?」


 綱吉は濡れたまつげに縁取られた目を見開く。


「それだけ聞いてあげる。答えがどうであれ、僕は勝手にするけど。で、どっち?」

「……雲雀さん」

 綱吉が泣き顔のままで、無理矢理ひきつれるように笑った

「必要です。オレには雲雀さんが、必要です。」

「あ、そう。じゃあ仕方ないから守護者になってあげる」

 一度、強く抱擁したあと、唇を重ねる。深くないお互いの唇を寄せ合うだけのキス。綱吉はそれでもまだ涙をこぼしながら顔をくしゃくしゃにする。

「――ありがとう、ございます」

「……まったく。そんなに泣いたら頭とか目とか痛くなるよ」

「心なしか、もう痛いです」

 泣きながら、綱吉は空気を震わせるように笑う。

「弱ったな、こんなに泣いたの、久しぶりだからかな」

「どうしてそんなに泣くの?」

「――そんなこともわかりませんか?」

 綱吉は指輪がはめられた僕の左手を愛しそうに掴み、鈍くひかる銀色のリングに口づける。

「オレは臆病だからあなたを失うことになんて耐えられないんです」

「なめないでくれない? 僕が死ぬとでも?」

「死ぬことはなくとも、血を流すことはあるでしょう。それもいや。いやなんです」

 綱吉は首をふる。耐えるように引き結ばれた唇の横を透明な滴がつたっていく。小さな身体のどこにそんな大量の水分があるかのように、綱吉は泣く。まるで泣けない僕の分まで泣いているような有様だった。僕は綱吉の顔を両手ではさみこみ、左目から流れてきた涙を舌ですくいとり、飲み込む。しおからい味が舌にひろがる。


「ばかだね」

「……いやなものは、いやです……」

「それは僕も同じでしょ? 君が血を流すことなど許さないよ」

「………………」

「そう。同じなんだ。不思議だね、僕等は全然違う人間なのに、こうして同じ感情を寄せ合っている……」

「好きです」

 綱吉のか細い声が告げる。

「好きです。好きです。好きです。雲雀さんのことが好きです。だから、お願いですから、死なないでください、あなたが死んだら、オレは、いったい、オレはどうしたらいいか、わかんないんです……っ」

 泣きじゃくり、雲雀の服をかきむしるように掴み、綱吉は頭を振る。

 愛おしかった。

 同じ性だとしてもそんなことは些細なこと。

 大切なのは沢田綱吉という存在。

 ただそれだけ。
 それだけが僕の世界のすべてだ。


 綱吉が顔を持ち上げ、そして目を見開く。驚いたように僕の顔を凝視し、泣くことすら忘れたかのように、ぴたりと止まっている。


「ひばり、さん?」


 僕は綱吉の瞳をのぞき込む。彼の瞳のなかに僕の顔が映っている。そこで僕は気がついた。左の頬からあごへ伝う生ぬるい一筋の滴が、僕を見上げている綱吉の頬に落ちていく。



 僕は泣いていた。
 泣くことなんて出来ないと思っていたのに。
 どうしてか泣いていた。

 左目と右目。量は綱吉に負けるかもしれないが、一筋、また一筋と涙がこぼれてくる。

 綱吉はまだ驚いたままでいる。

 僕は笑う。
 涙など僕に必要なかったはずだ。


 両目からあふれる液体。これはきっと綱吉の影響だ。彼があまりにも、あまりにも僕のために泣き叫ぶから、僕の中で何かが呼び起こされたのだ。僕が流す涙はすべて彼へのものだけ。これけは確信できる。彼が手を伸ばさなくとも、手を伸ばしても、どちらとて同じことだ。僕の心は決まっていて僕の意志も決まっている。


 涙はとまらない。あとからあとから静かに湧いてくる感情と同じく、ゆっくりとあふれてくる。愛しいのも守りたいのも綱吉だけだ。そのためにいくら血を流そうと、傷跡が残ろうともかまわない。僕は彼を守る至福を知ってしまったのだからもう後戻りできない。


「雲雀さん、えっと……」

「――つなよし」

「え、はい」

 姿勢を正した彼の額に口づけ、頬と頬をこすりつける。互いの涙に濡れた頬は熱く火照っていた。

 愛しい気持ちだけが優しく腹のあたりをたゆたっている。今まで感じたことのない感情は温かく、綱吉に触れているときに感じるものと非常によく似ていた。


「この涙だけがホンモノだよ」


 綱吉は意味がわからないといった風に、かるく首をかしげる。

 僕らは見つめ合った。

 泣き顔のままで、何も未来に確かなものなんて約束できないのをよく知っている心を抱いたままで、見つめ合った。


「覚えていて。たとえどんな未来が待っていようとも、今日、いま、流した僕の涙はホンモノだったって」


 ふ、と呼吸がもれるように脱力して微笑み、綱吉は僕の手を握った。

「よく、わからない、です」

「いいよ。わからなくても。きっと、そのうち分かるようになる」

「雲雀さんの言うことは、ときどき、むずかしいです」

 ようやく涙もつきたのか、それとも、僕が泣いたことで本当に驚いて涙が止まってしまったのか、綱吉は長い長い息をついて、顔をごしごしと両手でぬぐった。はれぼったくなった瞼のしたに充血した目がある。これでは明日、学校に来られるかどうか分からない。


「目、帰ったら冷やしておいたほうがいいよ」

「あ、はい。そうします」

 照れくさそうに言い、頭をかく。小さく幼い体を僕は抱きしめた。一回りも小さいこの体にはマフィアの血が流れ、そしてその血脈が彼を戦いへと誘っている。血の宿命は生まれてから死ぬまで続く。綱吉は血の業から逃れられない。ならばいっそ、綱吉の側で血にまみれるのも悪くない生き方だった。


 いつのまにか僕の涙も止まっていた。


 綱吉の手を引いて立ち上がる。彼は雲雀の左手を見下ろし、じっと指輪を見ていた。ふと視線が持ち上がり、僕と目があう。彼はほんのわずかばかり笑って雲雀の左手を右手で掴んだ。


「雲雀さんがいるのならばオレ、頑張れます」

「あそう。なら頑張れば?」

「はい」

 明るく声を出した綱吉が雲雀の手を強く握る。

 ゆるみそうになった右目の涙腺をごまかすように、僕は綱吉から視線をはずし、壁にかかっている時計を見た。時刻はすでに夜の九時を回っている。


「家まで送るよ。鞄を持って」

「え、いいですよ。オレ、男だし、一人でも」

「送るから」

「……はい」

 多少、押され気味に頷いた綱吉が僕の手を放し、ソファに投げ置かれたままの鞄を掴んで僕に向き直る。僕は左手を差し出す。何を思ったか綱吉は握手をするように左手を差し出す。僕はその手を無視し、彼の右腕を掴んだ。指を絡めるようにして握りなおして歩き出すと、背後で言葉にならない声を綱吉が上げるのが聞こえた。


「文句ある?」


 余裕たっぷりにささやきかけると、綱吉はひきつったように笑って、首を振る。

「いいえ」

 そして再び、僕の左手に視線をおとす。指輪を見る目線はまだ寂しげであり、悔いる思いが滲んでいる。指輪をした左手で強く綱吉の手を握りしめ、僕は歩き出す。



 指輪はにぶく僕の左手の人差し指でひかる。
 僕が綱吉の騎士であり奴隷であり協力者であり生涯下僕である証。



 僕は綱吉の手を掴んでいる左手を。
 指輪をしている左手を見下ろして笑む。



 後悔などない。
 この温かい手を振り払うすべを。
 僕は持たないのだから。